恋の歌10
【恋に落ちた瞬間】
「恋に落ちた瞬間は、やっぱりあの時かなぁ?」
目の前の男はのろける気まんまんのようで、緩みきった頬を引き締める様子は微塵もない。
阿部は止めてくれとばかりに、これ見よがしに大きくため息をついた。
だが三橋は「あの時?」と興味津々の様子で身を乗り出していた。
阿部は「コーヒー、もう1杯淹れる」と言いながら、席を立った。
とてもじゃないが、話し続ける男の「のろけ」をこれ以上、聞いてられない。
大学を卒業した阿部と三橋は、東京でカフェを切り盛りしながら生計を立てている。
元々は学生時代に、この店で住み込みでアルバイトをしていた。
同じ男同士でありながら、恋人同士である2人は、そのまま今もここに住んでいる
一緒に住んで、一緒に働き、一緒に眠る。
世間的には籍を入れることもできないが、2人はもうほとんど夫婦のようなものだった。
カフェのオーナーは、現在アメリカに住んでいる。
阿部と三橋が大学の卒業するに際して、彼は本格的に店をやらないかと提案したのだ。
高校、大学とずっとバッテリーを組んでいた阿部と三橋。
卒業時には、そこそこの実績を残す有名選手だった。
プロ野球も含めて、進路についてはいろいろ悩んだ。
だが最終的には、カフェで働く話をありがたく受けた。
阿部と三橋は開店当初のこのカフェの様子は知らない。
オーナーは仲間の溜まり場、昔話で盛り上がれる場所くらいのつもりで作ったらしい。
だからメニューはこれで儲けが出るのかと心配になるくらい、安価で提供している。
儲けなど二の次、赤字が出なければいいくらいにしか考えていなかったのだ。
皮肉なことにそのせいで、店は早い時期からグルメ雑誌やネットで取り上げられる人気店だった。
阿部と三橋のアルバイトのきっかけも、安くて量が多くて美味しい店だからという、安直なものだ。
カフェの外見は、蝙蝠をモチーフにした奇抜なデザインになっている。
内装は雑誌やネットには「アメリカンスタイル」などと書かれているが、まんまカジノだ。
壁にはダーツやスロットマシーン、ピンボール、中央には大きなルーレットテーブルが置かれている。
オーナーはそういうことは気にせず、好きにやっていいと言っている。
メニューも外見や内装も、やりやすいように変えて構わないと。
だが阿部も三橋も、オーナーの営業スタイルを変えるつもりはなかった。
第一に、味やサービスや人気を落としては申し訳ない。
次に大事に思うことは、思い出だ。
野球に恋愛に、夢中で打ち込み、時に悩み、時には傷ついた。
そんな学生時代の日々が感じられるこの店を、変えたくない。
だから阿部も三橋も、毎日懸命に働いている。
メニューも、新しい物を加えることはあっても減らすことはなく、値段も変えない。
ほとんど回すこともないルーレットも磨いて、油を差して、手入れを怠らない。
そして今日。
ランチタイムを終えたカフェに予告もなしにやってきたのは、高校時代のチームメイト。
有名洋菓子店の包装紙に包まれた箱を差し出して「何か食べさせて」と笑う水谷だ。
本来は客を入れず、夕方の営業に向けて掃除をしたり、仕込みをする時間。
だが阿部と三橋の知り合いはお構いなしにやって来て、一緒に残り物の賄い飯を食べたりする。
友人には惜しまずに振舞うのも、オーナーの方針の1つだ。
だから阿部も三橋も、彼を歓迎した。
「それでさ、ここでやらせてもらっていいかな?」
窓側のテーブル席で水谷と、阿部と三橋は向かい合っていた。
3人で遅いランチを食べて、食後のコーヒーを飲みながら、水谷がそう切り出す。
阿部と三橋は、顔を見合わせた。
「うちでいいのかよ?」
「千代がね、ここがいいって。もちろんオレもね。」
阿部の言葉に、水谷がそう答えた。
「篠岡さん、元気?」
「うん、すごく元気だよ~♪」
今度は三橋の問いに、水谷がまた答える。
大学に入学した頃から、水谷には愛すべき恋人がいる。
高校時代に一緒に甲子園を目指し、部員たちを支え続けたマネージャー篠岡千代だ。
それから数年に渡り、周りに見守られながら愛情を育んだ2人は、めでたく結婚することになった。
豪華な結婚式などいらない。
本当に祝福してくれる仲間たちに囲まれて、ささやかでも心のこもった結婚式がしたい。
水谷と篠岡は2人で相談して、そういう結論に達した。
そこで阿部と三橋のカフェを希望したのだ。
「で、いつ?何人?」
「3月25日。人数はね、オレの両親と姉貴と千代の親族でしょ。あと野球部、モモカンも」
「あー、人数は後でもいい。篠岡と相談してから教えてくれ。この店に入る人数にしろよ。」
どうやら人数については、思いつきで話しているのだろう。
指を折り始めた水谷に、阿部はため息をつく。
水谷は全然懲りていない様子で「エヘヘ」と笑った。
実は高校時代ごく短い期間ではあるが、阿部と篠岡は付き合っていた。
だが阿部は篠岡を振って、三橋を選んだ。
その結果、この4人の関係がギクシャクしたこともあった。
だがもうそれは過去の話、今は昔の友情を取り戻している。
「篠岡がマネジになるって、グラウンドに来たときかな。」
三橋が水谷に、恋に落ちた瞬間はいつだったかと聞く。
水谷はデレデレとしまりのない顔で、照れもせずに答えた。
三橋が「そっかー」と嬉しそうに相槌を打っている。
「じゃあさ、三橋は?」
阿部はキッチンからコーヒーポットを持って来て、空になった3つのカップにコーヒーを注ぎ足す。
そして三橋が答えを聞く前に、コーヒーポットを戻す振りで、慌ててキッチンへと戻った。
三橋が自分に恋に落ちた瞬間。
そんな照れくさい話を聞く顔を、水谷になど見られたくないからだ。
だから隠れるように逃げ込んだキッチンで、三橋が「憶えてない」と答える声を聞いて。
阿部はホッとしたような、物足りないような、微妙な気分だった。
「阿部君は、いつから、オレのこと?」
ひとしきりのろけた水谷が帰った後、三橋が阿部に聞いた。
「入部の日。お前が初めてオレに投げた球を捕ったとき。」
阿部は正直にそう答えた。
そして「どうせお前は憶えてないんだろ?」と拗ねたように付け加える。
「オレ、気がついたときには、もう阿部君のこと、すごく、好き、だったんだ。」
三橋が赤い顔でそう言うのを聞いて、阿部はそれ以上に真っ赤になった。
無自覚でいて、ものすごい殺し文句を言う。
天然な恋人の破壊力は、底が知れない。
【続く】
「恋に落ちた瞬間は、やっぱりあの時かなぁ?」
目の前の男はのろける気まんまんのようで、緩みきった頬を引き締める様子は微塵もない。
阿部は止めてくれとばかりに、これ見よがしに大きくため息をついた。
だが三橋は「あの時?」と興味津々の様子で身を乗り出していた。
阿部は「コーヒー、もう1杯淹れる」と言いながら、席を立った。
とてもじゃないが、話し続ける男の「のろけ」をこれ以上、聞いてられない。
大学を卒業した阿部と三橋は、東京でカフェを切り盛りしながら生計を立てている。
元々は学生時代に、この店で住み込みでアルバイトをしていた。
同じ男同士でありながら、恋人同士である2人は、そのまま今もここに住んでいる
一緒に住んで、一緒に働き、一緒に眠る。
世間的には籍を入れることもできないが、2人はもうほとんど夫婦のようなものだった。
カフェのオーナーは、現在アメリカに住んでいる。
阿部と三橋が大学の卒業するに際して、彼は本格的に店をやらないかと提案したのだ。
高校、大学とずっとバッテリーを組んでいた阿部と三橋。
卒業時には、そこそこの実績を残す有名選手だった。
プロ野球も含めて、進路についてはいろいろ悩んだ。
だが最終的には、カフェで働く話をありがたく受けた。
阿部と三橋は開店当初のこのカフェの様子は知らない。
オーナーは仲間の溜まり場、昔話で盛り上がれる場所くらいのつもりで作ったらしい。
だからメニューはこれで儲けが出るのかと心配になるくらい、安価で提供している。
儲けなど二の次、赤字が出なければいいくらいにしか考えていなかったのだ。
皮肉なことにそのせいで、店は早い時期からグルメ雑誌やネットで取り上げられる人気店だった。
阿部と三橋のアルバイトのきっかけも、安くて量が多くて美味しい店だからという、安直なものだ。
カフェの外見は、蝙蝠をモチーフにした奇抜なデザインになっている。
内装は雑誌やネットには「アメリカンスタイル」などと書かれているが、まんまカジノだ。
壁にはダーツやスロットマシーン、ピンボール、中央には大きなルーレットテーブルが置かれている。
オーナーはそういうことは気にせず、好きにやっていいと言っている。
メニューも外見や内装も、やりやすいように変えて構わないと。
だが阿部も三橋も、オーナーの営業スタイルを変えるつもりはなかった。
第一に、味やサービスや人気を落としては申し訳ない。
次に大事に思うことは、思い出だ。
野球に恋愛に、夢中で打ち込み、時に悩み、時には傷ついた。
そんな学生時代の日々が感じられるこの店を、変えたくない。
だから阿部も三橋も、毎日懸命に働いている。
メニューも、新しい物を加えることはあっても減らすことはなく、値段も変えない。
ほとんど回すこともないルーレットも磨いて、油を差して、手入れを怠らない。
そして今日。
ランチタイムを終えたカフェに予告もなしにやってきたのは、高校時代のチームメイト。
有名洋菓子店の包装紙に包まれた箱を差し出して「何か食べさせて」と笑う水谷だ。
本来は客を入れず、夕方の営業に向けて掃除をしたり、仕込みをする時間。
だが阿部と三橋の知り合いはお構いなしにやって来て、一緒に残り物の賄い飯を食べたりする。
友人には惜しまずに振舞うのも、オーナーの方針の1つだ。
だから阿部も三橋も、彼を歓迎した。
「それでさ、ここでやらせてもらっていいかな?」
窓側のテーブル席で水谷と、阿部と三橋は向かい合っていた。
3人で遅いランチを食べて、食後のコーヒーを飲みながら、水谷がそう切り出す。
阿部と三橋は、顔を見合わせた。
「うちでいいのかよ?」
「千代がね、ここがいいって。もちろんオレもね。」
阿部の言葉に、水谷がそう答えた。
「篠岡さん、元気?」
「うん、すごく元気だよ~♪」
今度は三橋の問いに、水谷がまた答える。
大学に入学した頃から、水谷には愛すべき恋人がいる。
高校時代に一緒に甲子園を目指し、部員たちを支え続けたマネージャー篠岡千代だ。
それから数年に渡り、周りに見守られながら愛情を育んだ2人は、めでたく結婚することになった。
豪華な結婚式などいらない。
本当に祝福してくれる仲間たちに囲まれて、ささやかでも心のこもった結婚式がしたい。
水谷と篠岡は2人で相談して、そういう結論に達した。
そこで阿部と三橋のカフェを希望したのだ。
「で、いつ?何人?」
「3月25日。人数はね、オレの両親と姉貴と千代の親族でしょ。あと野球部、モモカンも」
「あー、人数は後でもいい。篠岡と相談してから教えてくれ。この店に入る人数にしろよ。」
どうやら人数については、思いつきで話しているのだろう。
指を折り始めた水谷に、阿部はため息をつく。
水谷は全然懲りていない様子で「エヘヘ」と笑った。
実は高校時代ごく短い期間ではあるが、阿部と篠岡は付き合っていた。
だが阿部は篠岡を振って、三橋を選んだ。
その結果、この4人の関係がギクシャクしたこともあった。
だがもうそれは過去の話、今は昔の友情を取り戻している。
「篠岡がマネジになるって、グラウンドに来たときかな。」
三橋が水谷に、恋に落ちた瞬間はいつだったかと聞く。
水谷はデレデレとしまりのない顔で、照れもせずに答えた。
三橋が「そっかー」と嬉しそうに相槌を打っている。
「じゃあさ、三橋は?」
阿部はキッチンからコーヒーポットを持って来て、空になった3つのカップにコーヒーを注ぎ足す。
そして三橋が答えを聞く前に、コーヒーポットを戻す振りで、慌ててキッチンへと戻った。
三橋が自分に恋に落ちた瞬間。
そんな照れくさい話を聞く顔を、水谷になど見られたくないからだ。
だから隠れるように逃げ込んだキッチンで、三橋が「憶えてない」と答える声を聞いて。
阿部はホッとしたような、物足りないような、微妙な気分だった。
「阿部君は、いつから、オレのこと?」
ひとしきりのろけた水谷が帰った後、三橋が阿部に聞いた。
「入部の日。お前が初めてオレに投げた球を捕ったとき。」
阿部は正直にそう答えた。
そして「どうせお前は憶えてないんだろ?」と拗ねたように付け加える。
「オレ、気がついたときには、もう阿部君のこと、すごく、好き、だったんだ。」
三橋が赤い顔でそう言うのを聞いて、阿部はそれ以上に真っ赤になった。
無自覚でいて、ものすごい殺し文句を言う。
天然な恋人の破壊力は、底が知れない。
【続く】
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