始まり終わりの7題

【バイバイ】

「で?実際のところ、三橋に何て言ったんだよ?」
「だから。三星との試合の前に言ったことをさ。」
「具体的な言葉が知りたいんだってば!」
花井の言葉に阿部は素っ気無くそう答えたが、さらに栄口が畳み掛けてきた。
主将トリオ3人の視線の先には、9組の3人。
三橋を真ん中にして、田島と泉が三橋を構い倒していた。

野球部も学校もやめるという三橋を説得に行った阿部だったが、三橋の頑なさにはてこずった。
もう半ばやけで、三星との試合の前に言った言葉を叫んだ。
それでもキョトンとした表情の三橋に、ついに恋心まで打ち明けてしまったのだ。
三橋の記憶が戻ったことは嬉しいのだが、細かいことは聞いてほしくない。

野球部はまるでお祭りかとでもと突っ込みたくなるような喧騒さだ。
昨日まではまるで誰かのお通夜のような沈んだ雰囲気だったのに、劇的な変化だ。
原因はやはり田島で、三橋の姿を見つけるなり勢いよく抱きついて、阿部の肝を冷やした。
柔軟もキャッチボールも、今日はオレとな!と言って、始終ご機嫌だ。
いつもならテンションが上がった田島の軌道修正は泉の役目だ。
だが今日ばかりはその泉も、田島と一緒にはしゃいでいる。
田島の言葉に「どっちかはオレとだろ?」と文句を言った。

三橋というと、もうすっかり以前の三橋だった。
田島と泉のやり取りを見ながら「ウヒ」とあの変な笑いをもらしている。
最初に練習に現れた三橋は、全員にあやまるつもりだったのだろう。
だが先に部員たちに「ごめんて言うな」「あやまるな」と釘を刺された。
そしてみんな一様に「よかった」と言って、三橋を笑顔で迎えた。
最初はオドオドと恐縮しきっていた三橋も、徐々に緊張が解けた。
次第にいつものペースを取り戻した三橋に、全員の笑顔が戻った。


いろいろあったけど、よかったんだよな。
阿部は団子状態でくっついてじゃれあっている9組の3人組の様子を見て、思う。

三橋が記憶を取り戻したのは、昨日の夕方のことだ。
取り戻した後は、もう嵐のようだった。
阿部はすぐに三橋の母親に連絡すると、両親揃ってすぐにとんできた。
実際に三橋の記憶が戻ったことを確認すると、2人とも涙ぐみながら笑った。
そして三橋を抱きしめたり、頭をなでたりして喜び合う。
自分だったら、両親にこんな風に触られまくったら、絶対に顔をしかめるだろう。
だが三橋はされるがままで、ニコニコと笑っていた。

その後すぐに病院で診察を受けることになり、阿部も同行することになった。
記憶を取り戻した状況などを説明するためだ。
そのときにも実際に言った言葉などを聞かれるのかと緊張したが、それはなかった。
昔試合前に緊張していた三橋にかけたのと同じ言葉をかけたと言っただけだ。
三橋の担当医師は「なるほど」と言って、それ以上深く聞いてこなかったのでホッとした。

三橋の両親に、何度も頭を下げられたのには正直言って参った。
阿部には大人の人にこんなに丁寧に礼を言われた経験なんてなかった。
それに何も特別なことをしたつもりなどない。
三橋が記憶を取り戻したのは、ほとんど偶然なのだから。

ようやく帰宅したのは深夜だった。
阿部は「三橋の記憶が戻った」と野球部員たちへ一斉メールを送った。
みんな気にしているだろうし、とにかく事実だけ知らせようと思ったのだ。
だがその後、阿部の携帯電話は鳴りっぱなしになった。
もっとちゃんと詳しい話を聞かせろというものだった。
田島などは「今から話を聞きに行く!」などと電話口で宣言する始末。
思い留まらせるのに、かなりの苦労を強いられた。
そうして阿部はヘトヘトになって、長い長い1日を終えたのだった。


「まず5球!具合が悪くなったら、すぐ言えよ!」
阿部は声を張り上げると、ミットを叩いて構えた。

阿部と三橋は久しぶりにブルペンにいた。
阿部は防具をつけて、三橋のボールを待つ。
阿部のミットをじっと見ていた三橋は、阿部の言葉に頷く。
その真剣な目は、いつもの澄んだ瞳。
この目が好きだと、阿部は思う。
そしてそのボールは、阿部の構えた場所に寸分の狂いもなくおさまった。

三橋は記憶を取り戻したのだが、今度は記憶を失っている間のことを忘れていた。
つまりあのバス事故の後、悩んで苦しんだことを忘れてしまったのだ。
記憶を取り戻した三橋の第一声は「オレの的が!」だった。
そして的とガムテープが外された金網とゴミ袋に放られたガムテープを見て、悲鳴を上げたのだ。
挙句には「阿部、君が、やった、のか?」と涙目で阿部を見る。
阿部は三橋が記憶を失っていたのだと説明するのに、これまた苦労した。
携帯電話で日付を確認させると、三橋は「うぇぇ!」と叫んで、グルグルと目を回す。
阿部はそれを見て、貧乏くじを引いたような気分になった。

だがホッとしたこともある。
阿部は三橋に恋心を告白してしまった。
実際に阿部は告白するなら部を引退した後だと思っており、そもそも告白するかどうかを迷っていた。
ほとんど勢いでしてしまった告白を、三橋は忘れてしまったのだ。

正直言って、理不尽だと思う気持ちもある。
あの決死の告白を、その相手が覚えていないなんて。
だがそれ以上に三橋にはもうつらい思いをさせたくないという気持ちが強い。
三橋のあの悩み苦しんだ日々は、記憶から消し去った方が幸せだろう。

「よし!ナイスボール!」
阿部はそう言って、三橋にボールを投げ返した。
今はただ三橋のそばにいて、見守ってやれればそれでいい。


「修、ちゃん。迷惑、かけ、た。ごめん、ね。」
『身体の方は、全然大丈夫なんだろ?』
「うん。オレ、元気!」
『そっか。お前が元気なら、それでいいよ。』
一日中熱烈な歓迎を受けて帰宅した三橋は、携帯電話で叶と話していた。
阿部から連絡を受けたという叶は、すでに三橋の記憶が戻ったことを知っていた。

『でも本当に、西浦のヤツらに言わなくていいのか』
「いい、んだ。」
電話の向こうの叶の声は、本当に三橋を心配している。
それだけで三橋は心が暖かくなっていくのを感じていた。

実は三橋は記憶が失っていたあの期間の記憶を失ったりはしていなかった。
正確に言えば、記憶が戻った瞬間には忘れていた。
その後、両親や阿部と共に病院に向かう車の中で、少しずつ思い出したのだ。
だが阿部は、記憶をなくしてから今までの記憶はないようだと両親に説明した。
すると両親は小さく「よかった」と言ったのだ。
だから三橋は、全てを思い出したことを隠すことにしたのだった。

これは意外と三橋には大変なことだった。
すごく迷惑をかけたのだから、あやまりたいと思ったのに。
別に迷惑がかかっていないから、あやまるな。気にするな。
西浦の野球部員たちは全員何でもないという軽い雰囲気でそう言った。
どうやら全員で口裏を合わせたようだ。
三橋は心の中で手を合わせながら、いい投手になってみんなの役に立とうと決意した。

だが三星の部員、特に叶と畠にはきちんと詫びる必要があると思った。
彼らはわざわざ埼玉まで、三橋にあやまりに来てくれたのに。
その彼らに、三橋は何も答えられずに倒れてしまったのだ。
何より叶と畠にはプレーで返すなどということはできないのだ。
三橋は電話口で、叶に全て覚えていることを知らせた。
阿部から記憶をなくしてからのことを三橋は覚えてないと聞いていた叶は、驚いていた。


『せめて阿部には言った方がいいんじゃないのか?』
「阿部、君に、は、いつか、話す。」
叶はなおも親身に、三橋に問いかける。
だが三橋には、固く心に決めたことがあった。

三橋が今唯一悩んでいることは、阿部の告白だった。
阿部は三橋に恋をしていると言った。
つまり恋愛の対象として、三橋を見ているのだ。
これは三橋にとって、まさに青天の霹靂だった。
阿部に恋をしているのは三橋もまさに同じで、いわゆる両思いというやつなのだ。
もちろんこのことは叶にもほかの誰にも話していない。

阿部の告白もなかったことになる。
三橋がそのことに気がついて青くなったのは、随分時間が経ってからだ。
大事なことを言ってくれた阿部の気持ちに、答えることができないのだ。

答える?何て?
そこまで考えて、三橋はまた思い悩む。
阿部の告白を受け入れたら、どうなるのだろう。
普通の恋人同士のように、デートをしたり、手をつないだり、キス。。。
そこまで考えて三橋は顔を赤くした。
頭からはシューと音を立てて、湯気でも出そうだ。
想像だけでこんなにドキドキするのに、恋愛なんて自信がない。
そう考えたときに、阿部の言葉を三橋はもう一度思い出した。

部活引退したら告白するつもりだった、と阿部は言った。
それはまず野球をちゃんとやろうという意味だ。
それならば、三橋もそのときに答えようと思った。
実は覚えていたことをあやまって、三橋の気持ちを伝える。
そのときには阿部はもう三橋を好きではないかもしれない。
でもやっぱりまず野球を、投手をきちんとやるべきだ。
阿部が好きだと言ってくれるのは、そういう三橋のはずなのだから。
だから今は忘れた振りをする。

「じゃあ、修ちゃん。また。」
『またな。頑張れよ!』
叶の元気のいい声は、耳に暖かく響いた。
三橋は穏やかな笑顔で、電話を切った。


「これ、で、よし!」
叶との電話を終えた三橋は庭に出た。
今日は記憶を取り戻して、初の登校日。
まだ身体も慣れないだろうと、三橋は他の部員より早く上がったのだ。
おかげで空もまだ明るいし、両親もまだ帰っていない。
せっかく時間があるのだし、三橋は庭の投球練習場を直すことにした。

もう一度金網に、ガムテープを貼り、的を貼る。
何度もやっている作業だし、効率のいい手順もわかっている。
さほど時間もかからず、新しい的が完成した。

「投げたい、かな。」
三橋は的の前で、じっと考える。
百枝は早く帰って、身体を休めろと言っていた。
でも投げたい。どうにも投げたい。
三橋はブンブンと首を振った。
今回の騒ぎで、百枝にも迷惑をかけたのだ。
その上言われたことを守らないなんて、許されない。

「三橋!」
三橋が諦めて家に入ろうと思ったとき、名前を呼ばれた。
振り返らなくてもわかるその声は阿部のものだ。
部活を終えて、自転車をとばしてきたのだろう。
阿部は息を切らせながら、勝手知ったる三橋家の庭に入ってきた。
ゆっくりとこちらに近づいてくる阿部の姿に、三橋の心臓が不穏に跳ねた。


「何だよ、一緒に的を直そうと思ったのに。」
阿部は口調とは裏腹に穏やかに笑いながら言う。
「ご、ごめ」
三橋はほとんど反射的にあやまってしまった。
以前の阿部なら、ここで眉根を寄せて不機嫌な顔をしたかもしれない。
だが今日の阿部には、そんな素振りは見られない。

「あのさ、せっかくの的だけど。」
阿部はそう言いながら、出来たばかりの新しい的を見る。
だけど、というのは否定形だ。
何かまずいことをしてしまったか?と身構える三橋に、阿部は苦笑する。

「今日はオレに投げない?モモカンにも許可取った。10球ならいいって。」
「で、でも、メーワク」
「じゃないって。オレもお前の球、捕りたいんだから。」
「オレ、阿部、君に、投げたい!」
阿部は三橋の言葉に頷くと、カバンからミットを取り出した。

ああ、今が夕方でよかった。
これなら顔が赤くても、夕陽のせいに見えるだろう。
三橋はそう思いながら、腰を落としてミットを構えた阿部を見た。
阿部もまた夕陽以外の理由で顔を赤くしていることなど、思いも寄らない。

育っていく恋心、でも今はバイバイ。
彼のエースになるために、もっともっと頑張る。

三橋は阿部のミットを見据えると、おおきく振りかぶる。
そして三橋の手を離れたボールは、綺麗に阿部のミットにおさまった。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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