始まり終わりの7題
【抱きしめたい/抱きしめてほしい】
躊躇っていた時間は長かったのに、あっという間だ。
三橋はあまりのあっけなさに呆然としながら、それらをゴミ袋に放り込む。
三橋がこだわり続けたそれらは、ゴミ袋1杯分の量にもならなかった。
これからどうしたらいいんだろう?
学校を休んで、三橋はずっと考えていた。
今まではつらくても、投げていればそれでよかった。
悪口を言われても、仲間の輪に入れなくても。
ボールを投げてさえいれば、どんなことでも我慢できた。
だが今はその野球が出来ない。
ボールを投げようとするだけで呼吸が苦しくなる。
唯一の救いである野球が出来なくなってしまった。
何よりもつらいのは、今の野球部の部員たちだった。
彼らは三橋のことをすごく心配してくれている。
10人しかいない野球部で、ただ1人の投手だからとはわかっている。
だがやはり申し訳なかった。
彼らの親切に三橋が返せるのは、野球しかないのに。
今の三橋はその野球さえも出来ないのだから。
やはり自分が野球をすると、みんなが不幸になる。
心配してくれる西浦の部員たち、後悔している三星の部員たち。
わざわざ三星に戻れと言ってくれた祖父、つらそうにしている両親。
そしてバッテリーだからと、三橋に献身的につくしてくれる阿部。
もう自分のせいで、周りを振り回すのは嫌だ。
三橋は今度こそきっぱり、野球をやめようと決意した。
まず庭にある手製の投球練習場を片付けよう。
三橋はゴミ袋を手に、庭に出た。
そして金網に貼られたガムテープや的の前で、ぼんやりと立ち尽くす。
最後にもう何球か投げたい。
三橋は切実にそう思った。
三橋にとってこれを片付けることは、野球をやめると宣言することだ。
最後に10球、いやせめて5球。
だか三橋はブンブンと首を振った。
投げればきっと、もっと投げたいと思うに決まっている。きりがない。
こうしてズルズルとやめられずにいたから、みんなを傷つけたじゃないか。
三橋は真ん中に貼られている的に手をかけ、力任せに引っ張った。
ビリ、と音を立てて、ドクロのイラストが2つにちぎれる。
その瞬間、三橋は終わったんだと思った。
ドクロと一緒に三橋の野球も、ちぎれてしまったと。
三橋はドクロの的を力任せに、グシャリと握りつぶした。
そして金網に貼られたガムテープも、次々と剥ぎ取って丸める。
躊躇っていた時間は長かったのに、あっという間だ。
三橋はあまりのあっけなさに呆然としながら、それらをゴミ袋に放り込む。
三橋がこだわり続けたそれらは、ゴミ袋1杯分の量にもならなかった。
金網は粗大ゴミだろうから、母に聞いてみなくては。
数十個あるボールは、さすがに捨てるのが躊躇われた。
野球部に持っていけば、もらってくれるだろうか?
それとも三橋の思いがこもったボールなんて、気持ち悪いと思われるかも。
「三橋!」
「うぇぇ??」
その時不意に背後から名前を呼ばれて、三橋は飛び上がった。
いつの間にかやって来たのか。
三橋のすぐ後ろに、息を切らしながら仁王立ちする阿部がいた。
阿部は自転車を飛ばして、三橋の家に来た。
三橋が野球はおろか学校も辞めると言い出したことを聞いたからだ。
このまま三橋がいなくなってしまうなど、何としても嫌だった。
三橋の家に足を踏み入れるまでは、静かに話そうと思っていた。
いろいろなことがあって、三橋は傷ついている。
それに何より今の三橋には記憶がないのだから。
追い詰めるようなことはせず、優しくしてやりたい。
全てを受け止めて、抱きしめたい。
だけど三橋の姿を見てしまっては、もう無理だった。
三橋は庭で、あの投球練習場を片付けていた。
金網に貼られた的やガムテープを剥がして、丸めて、ゴミ袋に入れている。
三橋が野球部や阿部から離れていく。
そのことがまぎれもない現実となって、目の前に突きつけられた気がした。
阿部は自転車を停めると、そのまま三橋へと歩み寄る。
別に足音を殺しているわけでもないのに、三橋は阿部に気づかない。
的とガムテープを全部ゴミ袋にまとめた三橋は、ある1点をじっと見ている。
三橋の視線を追って、それを見た阿部は胸が締め付けられる気がした。
そこにあったのは、バケツ1杯のボールだ。
まだまだ野球をやりたいくせに。未練たっぷりなくせに。
阿部は三橋のすぐ後ろで足を止め「三橋!」と叫んだ。
三橋は「うぇぇ??」と声を上げて、こちらを振り向く。
怒鳴りつけてやろうと身を乗り出した阿部は、言葉を失った。
三橋の大きな瞳から、涙が頬を伝っていたからだ。
「お前、学校辞めるの?」
「わからない、けど、多分。」
三橋家のリビングに場所を移した阿部と三橋は、ソファに並んで座っていた。
三橋の両親は不在だった。
三橋と阿部がじっくりと話が出来るように、わざと外出している。
阿部が三橋家に向かうことを、百枝が連絡していたからだ。
「オレは、辞めたい、って、言ったけど。」
「うん」
「お父、さん、お母さん、も、高校、くらい、出ろ、って。」
「うん」
「野球部、が、なくて、今から、入れる、学校、捜し、て、もらって、て。」
「西浦じゃダメなのか?」
三橋の言葉は、いつも以上にたどたどしい。
辛抱強く聞いていた阿部は、静かに口を開いた。
「西浦なら、オレや野球部のメンバーがいろいろ助けてやれるし。」
「でも、オレ、もう、野球、できない。」
「もう、じゃねぇだろ?今は、だ。記憶が戻れば、また出来るだろ?」
「いつ、戻るか、わからない。」
「焦らずに待てばいいじゃん。」
阿部はそっと腕を回して、三橋の肩を抱き寄せた。
三橋は驚いたようで、身体をビクリと震わせる。
だが拒むことはなかった。
三橋は真剣な表情で、何かを考えているようだ。
記憶を失う前から、三橋はよくこんな表情をしていた。
何かを阿部に伝えようとして、言葉を選んでいるときの顔だ。
阿部は黙って、三橋が言葉をつむぐのを待った。
「オレ、みんなを、巻き、込んで、傷つけ、た。」
沈黙の後、三橋は静かに口を開いた。
それは違うと言いたかったが、阿部は黙っていた。
三橋に思いをすべて話させるためだ。
「考えた、んだ。オレに、出来ること。」
つらい話をしているのに、三橋の心は妙に落ち着いていた。
阿部に肩を抱かれているのが、不思議と心地よかったからだ。
この人が好きなんだ。
ずっと抱きしめてほしいと思っていた。
三橋は今さらのように、そのことを感じていた。
「でも、わかんなくて。一生懸命、考えたけど、オレ、頭、悪くて」
三橋は、殊更ゆっくりと喋っていた。
野球を辞める、西浦を辞める。
そうしたら阿部にこんな風に肩を抱かれることなんかないだろう。
この時間が、少しでも長く続いてほしい。
「オレが、いなく、なれば。みんな、楽しく、野球、できる、から。」
西浦の野球部のメンバーの顔が、次々と頭に浮かんだ。
三橋のことを気にかけてくれる、優しい人たち。
これ以上野球を続ければ、彼らに迷惑をかけるのは間違いない。
野球はもう絶対にしないと誓えば、三星のみんなは許してくれるだろうか?
「せめて、もう、メーワク、かけたく、ない、から。」
話すべきことは、少なかった。
ずっと下を向いていた三橋は、顔を上げて阿部を見て。。。固まった。
阿部の表情は、誰が見てもわかるほど、はっきりと怒っていたからだ。
「それで終わりか?」
阿部が低い声でそう言ったので、三橋はコクコクと頷く。
次の瞬間、阿部は「このバカ!」と大声で怒鳴った。
「迷惑かけたくないだぁ?お前、オレらを何だと思ってるんだ?」
阿部はそう叫ぶと、三橋を抱いていた腕を離した。
ああ、もっと抱かれていたかったと三橋は密かに内心、ため息をついた。
だが次の瞬間、阿部は三橋の両肩を掴んで、阿部の方を向かせた。
そしてそのまま三橋の身体を引き寄せた。
普段の阿部だったら、三橋の-投手の肩をこんなに乱暴に掴んだりしない。
実は後で思い出して青くなるのだが、この時は思い至らなかった。
そのくらい阿部は怒っていた。
「オレたちがこんなにお前のことを心配してる理由は、何だと思ってるんだ?」
「西浦、投手、オレだけ、だから?」
訳がわからない三橋は、真剣にそう答えている。
そのことが阿部にとっては、ますます腹立たしい。
「違う!って、いやそれもあるけど。一番大きな理由はそれじゃない!」
「ちが、うの?」
三橋はいよいよ頭を抱えて、考え込んでしまっていた。
どうしてわからないんだろう?と阿部は思う。
三橋はこんな目に合っても、誰も恨まず、自分だけを責めている。
こんなに優しい三橋を、嫌うわけないのに。
ちょっと記憶をなくしたぐらいで迷惑だなんて、思うわけないのに。
言わなきゃわかんないからな。
かつて阿部自身が三橋に言ったことを思い出す。
そうだ、どうしてわからないんだろう?じゃない。
口に出して、伝えなくては。
阿部は手を伸ばして、三橋の右手を握った。
「お前はいい投手だよ!」
「うそ、だぁ」
阿部はかつて三星との練習試合の前にしたことをした。
阿部が初めて三橋を共に戦う相手として、認めたあの時のように。
三橋の努力の結晶であるゴツゴツした右手。
その手に触りながら、ありのままの気持ちを吐き出す。
三橋の反応も見事にあの時と同じだった。
唯一違うのは泣きじゃくっていないことだけだ。
「投手としてじゃなくても、オレはお前がスキだよ!」
阿部はあの時のことを思い出しながら、同じ言葉を選んだ。
逃げようとして、蹲ってしまった三橋をマウンドに向かわせたあの時の言葉。
もう一度三橋に届いてほしい。
三橋がもう一度野球に向き合うことが出来るように。
「だってお前、頑張ってるんだもん!」
最後にとどめとばかりに叫ぶ。
あの時はここで三橋は、阿部の話に耳を傾け始めた。
だが三橋はキョトンとした表情で、目の焦点があっていないようだ。
これでもまだ通じないのか?
「お前に恋してるんだよ。部活引退したら告白するつもりだった。だからオレの前から消えるな!」
絶望的な気分になった阿部は、ついに心の奥底にあった本音をぶちまけた。
驚いた三橋は大きな瞳をこれでもかというほど見開いて、阿部を見た。
気持ち悪いと思われただろうか?
だが三橋は無言のまま、そのまま阿部の腕の中に倒れこんできた。
「三橋っ?三橋っ!」
慌てて三橋の顔を覗きこんだ阿部は、うろたえた。
三橋は意識を失っており、眉根を寄せて苦しそうな表情をしていたからだ。
またあの発作を起こしたのか?オレのせいで?
阿部は腕の中の三橋を抱きしめながら、混乱していた。
頭が痛い。
三橋はまるで逆巻く水流の中にいるような気分だった。
阿部が来て、リビングで話をしていたはずなのに。
いろいろな情景が、頭の中に浮かんでは消える。
バス事故。
三星の遠征試合の後、バスの中で倒れた三橋の腕を畠が掴んだ。
いや違う。路線バスだ。
あのときのことを思い出しながら、阿部の横顔を見ていた。
阿部隆也。捕手。三星じゃなくて、西浦の---!
三橋の頭の中で、一気にいろいろな記憶がよみがえり、渦を巻いていて流れた。
「---三橋が、また意識を失って---!」
誰かの声がする。
三橋はゆっくりと目を開けた。
どうやら眠ってしまっていたらしい。
気がつくと三橋は自宅のリビングのソファに横たわっていた。
「阿部、く?」
三橋は目の前で携帯電話に向かって、叫んでいる阿部に声をかけた。
阿部は「すみません!かけ直します!」と叫んで携帯電話を閉じる。
「三橋、大丈夫か?」
「オレ、バスの中で、転んだ後、どうした、んだ?」
「え?」
「オレ、どうやって、帰った?」
三橋はわからないという表情で辺りをキョロキョロと見回している。
「三橋、お前、この前の練習試合の結果、言えるか?」
「3、対、1。うち、勝った。」
「お前、記憶が!」
阿部は慌てて、もう一度携帯電話を開くと「記憶が戻った」と叫んでいる。
三橋は目の前に起きていることがわからず、呆然と阿部を見ていた。
【続く】
躊躇っていた時間は長かったのに、あっという間だ。
三橋はあまりのあっけなさに呆然としながら、それらをゴミ袋に放り込む。
三橋がこだわり続けたそれらは、ゴミ袋1杯分の量にもならなかった。
これからどうしたらいいんだろう?
学校を休んで、三橋はずっと考えていた。
今まではつらくても、投げていればそれでよかった。
悪口を言われても、仲間の輪に入れなくても。
ボールを投げてさえいれば、どんなことでも我慢できた。
だが今はその野球が出来ない。
ボールを投げようとするだけで呼吸が苦しくなる。
唯一の救いである野球が出来なくなってしまった。
何よりもつらいのは、今の野球部の部員たちだった。
彼らは三橋のことをすごく心配してくれている。
10人しかいない野球部で、ただ1人の投手だからとはわかっている。
だがやはり申し訳なかった。
彼らの親切に三橋が返せるのは、野球しかないのに。
今の三橋はその野球さえも出来ないのだから。
やはり自分が野球をすると、みんなが不幸になる。
心配してくれる西浦の部員たち、後悔している三星の部員たち。
わざわざ三星に戻れと言ってくれた祖父、つらそうにしている両親。
そしてバッテリーだからと、三橋に献身的につくしてくれる阿部。
もう自分のせいで、周りを振り回すのは嫌だ。
三橋は今度こそきっぱり、野球をやめようと決意した。
まず庭にある手製の投球練習場を片付けよう。
三橋はゴミ袋を手に、庭に出た。
そして金網に貼られたガムテープや的の前で、ぼんやりと立ち尽くす。
最後にもう何球か投げたい。
三橋は切実にそう思った。
三橋にとってこれを片付けることは、野球をやめると宣言することだ。
最後に10球、いやせめて5球。
だか三橋はブンブンと首を振った。
投げればきっと、もっと投げたいと思うに決まっている。きりがない。
こうしてズルズルとやめられずにいたから、みんなを傷つけたじゃないか。
三橋は真ん中に貼られている的に手をかけ、力任せに引っ張った。
ビリ、と音を立てて、ドクロのイラストが2つにちぎれる。
その瞬間、三橋は終わったんだと思った。
ドクロと一緒に三橋の野球も、ちぎれてしまったと。
三橋はドクロの的を力任せに、グシャリと握りつぶした。
そして金網に貼られたガムテープも、次々と剥ぎ取って丸める。
躊躇っていた時間は長かったのに、あっという間だ。
三橋はあまりのあっけなさに呆然としながら、それらをゴミ袋に放り込む。
三橋がこだわり続けたそれらは、ゴミ袋1杯分の量にもならなかった。
金網は粗大ゴミだろうから、母に聞いてみなくては。
数十個あるボールは、さすがに捨てるのが躊躇われた。
野球部に持っていけば、もらってくれるだろうか?
それとも三橋の思いがこもったボールなんて、気持ち悪いと思われるかも。
「三橋!」
「うぇぇ??」
その時不意に背後から名前を呼ばれて、三橋は飛び上がった。
いつの間にかやって来たのか。
三橋のすぐ後ろに、息を切らしながら仁王立ちする阿部がいた。
阿部は自転車を飛ばして、三橋の家に来た。
三橋が野球はおろか学校も辞めると言い出したことを聞いたからだ。
このまま三橋がいなくなってしまうなど、何としても嫌だった。
三橋の家に足を踏み入れるまでは、静かに話そうと思っていた。
いろいろなことがあって、三橋は傷ついている。
それに何より今の三橋には記憶がないのだから。
追い詰めるようなことはせず、優しくしてやりたい。
全てを受け止めて、抱きしめたい。
だけど三橋の姿を見てしまっては、もう無理だった。
三橋は庭で、あの投球練習場を片付けていた。
金網に貼られた的やガムテープを剥がして、丸めて、ゴミ袋に入れている。
三橋が野球部や阿部から離れていく。
そのことがまぎれもない現実となって、目の前に突きつけられた気がした。
阿部は自転車を停めると、そのまま三橋へと歩み寄る。
別に足音を殺しているわけでもないのに、三橋は阿部に気づかない。
的とガムテープを全部ゴミ袋にまとめた三橋は、ある1点をじっと見ている。
三橋の視線を追って、それを見た阿部は胸が締め付けられる気がした。
そこにあったのは、バケツ1杯のボールだ。
まだまだ野球をやりたいくせに。未練たっぷりなくせに。
阿部は三橋のすぐ後ろで足を止め「三橋!」と叫んだ。
三橋は「うぇぇ??」と声を上げて、こちらを振り向く。
怒鳴りつけてやろうと身を乗り出した阿部は、言葉を失った。
三橋の大きな瞳から、涙が頬を伝っていたからだ。
「お前、学校辞めるの?」
「わからない、けど、多分。」
三橋家のリビングに場所を移した阿部と三橋は、ソファに並んで座っていた。
三橋の両親は不在だった。
三橋と阿部がじっくりと話が出来るように、わざと外出している。
阿部が三橋家に向かうことを、百枝が連絡していたからだ。
「オレは、辞めたい、って、言ったけど。」
「うん」
「お父、さん、お母さん、も、高校、くらい、出ろ、って。」
「うん」
「野球部、が、なくて、今から、入れる、学校、捜し、て、もらって、て。」
「西浦じゃダメなのか?」
三橋の言葉は、いつも以上にたどたどしい。
辛抱強く聞いていた阿部は、静かに口を開いた。
「西浦なら、オレや野球部のメンバーがいろいろ助けてやれるし。」
「でも、オレ、もう、野球、できない。」
「もう、じゃねぇだろ?今は、だ。記憶が戻れば、また出来るだろ?」
「いつ、戻るか、わからない。」
「焦らずに待てばいいじゃん。」
阿部はそっと腕を回して、三橋の肩を抱き寄せた。
三橋は驚いたようで、身体をビクリと震わせる。
だが拒むことはなかった。
三橋は真剣な表情で、何かを考えているようだ。
記憶を失う前から、三橋はよくこんな表情をしていた。
何かを阿部に伝えようとして、言葉を選んでいるときの顔だ。
阿部は黙って、三橋が言葉をつむぐのを待った。
「オレ、みんなを、巻き、込んで、傷つけ、た。」
沈黙の後、三橋は静かに口を開いた。
それは違うと言いたかったが、阿部は黙っていた。
三橋に思いをすべて話させるためだ。
「考えた、んだ。オレに、出来ること。」
つらい話をしているのに、三橋の心は妙に落ち着いていた。
阿部に肩を抱かれているのが、不思議と心地よかったからだ。
この人が好きなんだ。
ずっと抱きしめてほしいと思っていた。
三橋は今さらのように、そのことを感じていた。
「でも、わかんなくて。一生懸命、考えたけど、オレ、頭、悪くて」
三橋は、殊更ゆっくりと喋っていた。
野球を辞める、西浦を辞める。
そうしたら阿部にこんな風に肩を抱かれることなんかないだろう。
この時間が、少しでも長く続いてほしい。
「オレが、いなく、なれば。みんな、楽しく、野球、できる、から。」
西浦の野球部のメンバーの顔が、次々と頭に浮かんだ。
三橋のことを気にかけてくれる、優しい人たち。
これ以上野球を続ければ、彼らに迷惑をかけるのは間違いない。
野球はもう絶対にしないと誓えば、三星のみんなは許してくれるだろうか?
「せめて、もう、メーワク、かけたく、ない、から。」
話すべきことは、少なかった。
ずっと下を向いていた三橋は、顔を上げて阿部を見て。。。固まった。
阿部の表情は、誰が見てもわかるほど、はっきりと怒っていたからだ。
「それで終わりか?」
阿部が低い声でそう言ったので、三橋はコクコクと頷く。
次の瞬間、阿部は「このバカ!」と大声で怒鳴った。
「迷惑かけたくないだぁ?お前、オレらを何だと思ってるんだ?」
阿部はそう叫ぶと、三橋を抱いていた腕を離した。
ああ、もっと抱かれていたかったと三橋は密かに内心、ため息をついた。
だが次の瞬間、阿部は三橋の両肩を掴んで、阿部の方を向かせた。
そしてそのまま三橋の身体を引き寄せた。
普段の阿部だったら、三橋の-投手の肩をこんなに乱暴に掴んだりしない。
実は後で思い出して青くなるのだが、この時は思い至らなかった。
そのくらい阿部は怒っていた。
「オレたちがこんなにお前のことを心配してる理由は、何だと思ってるんだ?」
「西浦、投手、オレだけ、だから?」
訳がわからない三橋は、真剣にそう答えている。
そのことが阿部にとっては、ますます腹立たしい。
「違う!って、いやそれもあるけど。一番大きな理由はそれじゃない!」
「ちが、うの?」
三橋はいよいよ頭を抱えて、考え込んでしまっていた。
どうしてわからないんだろう?と阿部は思う。
三橋はこんな目に合っても、誰も恨まず、自分だけを責めている。
こんなに優しい三橋を、嫌うわけないのに。
ちょっと記憶をなくしたぐらいで迷惑だなんて、思うわけないのに。
言わなきゃわかんないからな。
かつて阿部自身が三橋に言ったことを思い出す。
そうだ、どうしてわからないんだろう?じゃない。
口に出して、伝えなくては。
阿部は手を伸ばして、三橋の右手を握った。
「お前はいい投手だよ!」
「うそ、だぁ」
阿部はかつて三星との練習試合の前にしたことをした。
阿部が初めて三橋を共に戦う相手として、認めたあの時のように。
三橋の努力の結晶であるゴツゴツした右手。
その手に触りながら、ありのままの気持ちを吐き出す。
三橋の反応も見事にあの時と同じだった。
唯一違うのは泣きじゃくっていないことだけだ。
「投手としてじゃなくても、オレはお前がスキだよ!」
阿部はあの時のことを思い出しながら、同じ言葉を選んだ。
逃げようとして、蹲ってしまった三橋をマウンドに向かわせたあの時の言葉。
もう一度三橋に届いてほしい。
三橋がもう一度野球に向き合うことが出来るように。
「だってお前、頑張ってるんだもん!」
最後にとどめとばかりに叫ぶ。
あの時はここで三橋は、阿部の話に耳を傾け始めた。
だが三橋はキョトンとした表情で、目の焦点があっていないようだ。
これでもまだ通じないのか?
「お前に恋してるんだよ。部活引退したら告白するつもりだった。だからオレの前から消えるな!」
絶望的な気分になった阿部は、ついに心の奥底にあった本音をぶちまけた。
驚いた三橋は大きな瞳をこれでもかというほど見開いて、阿部を見た。
気持ち悪いと思われただろうか?
だが三橋は無言のまま、そのまま阿部の腕の中に倒れこんできた。
「三橋っ?三橋っ!」
慌てて三橋の顔を覗きこんだ阿部は、うろたえた。
三橋は意識を失っており、眉根を寄せて苦しそうな表情をしていたからだ。
またあの発作を起こしたのか?オレのせいで?
阿部は腕の中の三橋を抱きしめながら、混乱していた。
頭が痛い。
三橋はまるで逆巻く水流の中にいるような気分だった。
阿部が来て、リビングで話をしていたはずなのに。
いろいろな情景が、頭の中に浮かんでは消える。
バス事故。
三星の遠征試合の後、バスの中で倒れた三橋の腕を畠が掴んだ。
いや違う。路線バスだ。
あのときのことを思い出しながら、阿部の横顔を見ていた。
阿部隆也。捕手。三星じゃなくて、西浦の---!
三橋の頭の中で、一気にいろいろな記憶がよみがえり、渦を巻いていて流れた。
「---三橋が、また意識を失って---!」
誰かの声がする。
三橋はゆっくりと目を開けた。
どうやら眠ってしまっていたらしい。
気がつくと三橋は自宅のリビングのソファに横たわっていた。
「阿部、く?」
三橋は目の前で携帯電話に向かって、叫んでいる阿部に声をかけた。
阿部は「すみません!かけ直します!」と叫んで携帯電話を閉じる。
「三橋、大丈夫か?」
「オレ、バスの中で、転んだ後、どうした、んだ?」
「え?」
「オレ、どうやって、帰った?」
三橋はわからないという表情で辺りをキョロキョロと見回している。
「三橋、お前、この前の練習試合の結果、言えるか?」
「3、対、1。うち、勝った。」
「お前、記憶が!」
阿部は慌てて、もう一度携帯電話を開くと「記憶が戻った」と叫んでいる。
三橋は目の前に起きていることがわからず、呆然と阿部を見ていた。
【続く】