始まり終わりの7題

【声が聞きたい】

「三星に戻って来なさい。」
三橋に有無を言わせぬ口調でそう言ったのは、前触れもなく急に訪ねてきた祖父だ。
学園の理事という重責を担う祖父からの威圧感に、三橋は一瞬たじろいだ。
だが三橋はぐっと拳を握ると、祖父の目を真っ直ぐに見返した。

三橋は今、自宅で日々を過している。
叶と畠が西浦を訪れたとき、三橋はまた呼吸困難の発作を起こした。
記憶を失って以降、何度か同様の発作を起こしたが、発作のひどさは今までの非ではなかった。
今までは保健室で応急手当を受ければ、事なきを得ていた。
だがあの時だけはどうにもならず、ついに救急車で病院に運ばれる事態になったのだ。
そして心療内科の医師の判断で、しばらくは自宅療養ということになった。

三橋の記憶喪失と共に、三橋の中学時代のことは両親に知られることとなった。
だが両親の判断で、祖父にはその事実を知らせずにいた。
無視され、存在を主張するように投げ続け、その結果ますます無視された悪循環の3年間。
三橋本人がひた隠しにしていた暗い過去は、両親を驚かすには充分だった。
しかもその原因の一端は理事の孫であること。
それは祖父にとってもつらく、許しがたいことだろう。

だが祖父はその事実を聞きつけて、突然三橋の家にやって来たのだ。
阿部が叶と畠に話し、彼らが出来ることはないかと相談したのが瑠璃の耳に入り、瑠璃の親から祖父へと伝わった。
種を明かせばそういうことなのだが、三橋も両親も知る由がない。
ただただ突然現れた祖父に驚くしかなかった。


「帰ら、ない。絶対、に。」
三橋は向かい合って座る祖父に、強い決意を告げた。
祖父は微かに眉を寄せて、三橋の気持ちを読み取ろうとしている。
三橋の両脇に座る両親は困惑した様子で、2人のやりとりを聞いていた。

三橋は知っている。
両親は何も知らずに、中学生の三橋を群馬に預けっぱなしにしていた。
そのことを激しく後悔していることを。
夜中に両親の寝室から、母のすすり泣く声と父の宥める声を何度も聞いた。
朝、母親が泣き腫らした目をしていたことも何度かあった。
おそらく記憶がなくなる前の自分は、必死に中学時代の過去を隠したのだろう。
こんな風に両親や祖父を苦しめたくなかったからだ。

「野球部員たちには、もうイジメなどさせないようにさせる。心配はいらない。」
「そう、いう、ことじゃ、ない、んだ。」
力強い祖父の口調に、三橋は反論する。
どうしてと問う祖父の強い視線を、三橋は必死に見つめ返した。
ちゃんと受け止めて、答えなくてはいけない。

「祖父、ちゃん、言うと、みん、な、逆ら、えな、い、から。」
だから三星のみんなは苦しんだ。
三橋のことが嫌いで、三橋と野球なんかしたくなかった野球部員たち。
だが祖父の存在があって、それを表立って言えなかったのだ。


「オレ、もう、野球は、や、める。高校も、やめ、て、働き、たい。」
三橋は勇気を出して、ここ何日間かで考えてきたことを口にした。
祖父は驚いた表情で、三橋の両脇にいる父と母を交互に見た。
だが父も母も、初めて聞く三橋の思いに驚き、そして悲しんでいた。

三橋に野球はおろか、高校すら辞める決意をさせたのは、やはり叶と畠との再会だった。
三橋自身はすぐに意識を失ってしまって、言葉を交わすこともなかった。
だが2人の表情は、とても苦しそうに見えた。

そしてその後、病院で意識を取り戻したとき。
両親が駆けつけるまで付き添ってくれていた阿部に、告げられた。
畠は「あん時」のことを悔いて、三橋に詫びに来たのだと。
それを聞かされた三橋は、もう野球はできないのだと思ったのだ。

せめて畠が三橋のことを憎み倒してくれていれば、まだよかった。
結局叶も畠も、三橋がいなくなってもなお苦しんでいる。
そして逃げた先の西浦でも、阿部や他の部員たちに迷惑をかけている。
両親も祖父も、こうして心を痛めている。
その事実を理解したとき、もうどこにも逃げ場がないのだと諦めた。

今の三橋にできることは、野球から遠ざかることだと思う。
西浦に残ることはダメだ。
ましてや三星へ戻るなど、あってはならない。
また違う高校に行っても、またフラフラと野球に縋りたくなるかもしれない。
それならばいっそもう学校など行かなくていい。
義務教育は終えているのだし、勉強だって好きなわけじゃないのだから。


「廉にはできれば大学まで行って欲しい。せめて高校くらい」
「高校を辞めて、やりたいことはあるのか?」
母の言葉を遮るようにして、父が三橋に問いかける。
だが三橋は首を振った。
記憶の一部がなくなって、自分が何者かもよくわからないのだ。
未来のことなど、考えられない。

「だったら三星に戻れ。最初の場所に戻ってやり直すんだ。」
「それ、だけは!絶対に、イヤ、だ!」
祖父の諭すような言葉に、三橋は声を荒げた。
普段は声も小さくて、あまり主張をしない三橋の大声に、祖父も両親も驚いた様子だ。
そして祖父がほんの一瞬だけ傷ついたような表情になったのを、三橋は見逃さなかった。

「これから廉とよく話し合います。すぐには決められないし、廉の意見を大事にしたい。」
父が祖父にそう告げて「だから今日のところは」と話を打ち切った。
そしてどこか呆然とした表情で帰っていく祖父を、三橋は申し訳ない思いで見送った。

阿部に会いたい。声が聞きたい。
三橋は今、切にそう思っている。
散々迷惑をかけて、今さら合わす顔などないことなどよくわかっている。
だけど阿部は、三橋のことを大事に思っていると言ってくれた。
それは西浦でたった1人の投手だから。思い上がるつもりはない。
それでも最近は、気がつくといつも優しくしてくれた阿部のことを考えている。


「ったく、なんでいきなり来るんだよ。」
阿部は何度もそう思い、腹を立てていた。
こちらから連絡するから待てと言ったのに、なんの予告もなしに現れた叶と畠にだ。
その日にひどい発作を起こした三橋は、ずっと学校を休んでいる。

阿部は群馬に叶と畠を訪ねた後、そこで聞いた事実を三橋の両親に話した。
三橋の担当医師と両親で相談してもらった方がいいと判断したからだ。
少しでも、三橋の治療に役立ててもらいたいと思った。
叶も畠も三橋に直接会って詫びるつもりがあることも言い添えた。
もし必要であれば、また彼らに連絡を取ると請合った。
だがそれを待たず、半ば押しかけるような形で、叶と畠は来てしまったのだ。

わかっている。
三星の部員たちは、根っから悪いヤツではない。
三橋との過去の確執も、結局は野球が好きだから起こったことなのだ。
あの練習試合の後、三橋の実力も自分たちの非もきちんと認めた。
そんな彼らだ。
今の三橋の状態を知って黙っていられるほど、冷たい人間ではないのだ。

勝手に三橋には会うなと、もっと強く念をおせばよかったのか。
そもそも彼らに話を聞きに行ったことが間違いだったのか。
いやそもそもあのバスで、三橋を1人にしてしまったことこそ問題だ。
だとすれば責められるべきは、畠たちではなく自分なのか。
阿部もまた自分を責める日々を送っていた。


自分を責めているのは、阿部だけではなかった。
特に9組の2人-田島と泉の落ち込み方は、激しかった。
三橋とは部活以外でもずっと一緒に過しているのに、力になれなかった。
そんな思いが強いのだろう。
日頃から、野球部のムードメーカー的な役割を果たしている9組の面々。
その彼らが黙りがちになれば、野球部はさながら通夜のような雰囲気だ。

それでも彼らは、何とか部活を続けていた。
他に心の拠りどころもなかったせいだ。
三橋が戻ることを信じて、三橋の居場所を守ろう。
誰が言い出したわけでもないが、そんな共通する思いもあった。

だが心は乱れがちで、集中力が続かない。
今日の練習でついに田島が落球し、打撃投手を担当した花井が暴投した。
百枝はその日の練習を切り上げ、部員たちに「冷静になれ」と諭した。
そしてダウンの後、花井、栄口、阿部に残るようにと告げた。

「当面はサーキットをメインに、メニューを変更するね。」
他の部員たちが部室に引き上げた後のグラウンドで、百枝がそう言った。
今の部員たちが、硬球を使った練習をするのは危険。
だが練習自体を止めてしまっては、気持ちの持って行き場所がない。
だからボールを使わない基礎体力作りをメインにするのだろう。
阿部は、懸命な判断だと思った。


「三橋君のお母さんから、連絡があった。」
そう言われて、阿部は弾かれたように顔を上げた。
三橋の話が本題であることは、予想していた。
練習メニューの話だけで、わざわざこの3人を残す必要はないからだ。

「三橋君、野球も学校も辞めたいと言っているそうよ。」
「やめる、って。。。」
阿部は一瞬、何を言われたのか、わからなかった。
だが次の瞬間には、その意味を理解し、言葉を失った。
呆然とする阿部に代わるように、花井が「それで?」続きを促す。
栄口も興奮した表情で、身を乗り出すようにしていた。

「三橋君のお祖父様は、三星に戻るようにとおっしゃってるそうよ。ご両親は迷ってらしてね。」
「迷って、ですか。」
「三橋君の希望は聞きたいけど、このまま辞めさせていいのかってね。相談を受けたのよ。」
「そう、すか。」
花井が困惑しながらも、百枝の話に相槌を打つ。
栄口は話を聞きながら、チラチラと阿部に視線を投げてきた。
目で促されるまでもない。
やるべきことは1つしかないのだと、わかっている。

「オレに、話をさせて下さい。」
阿部は百枝に向かって、決然とした声で告げた。
やめる。三橋が。野球も。西浦も。
それをこのまま手をこまねいて見ているなど、許せるはずがない。

「わかった。私もそれがいいと思う。」
百枝はそう言うと、ニッコリと笑った。
多分阿部がそう言い出すことを、予想していたのだろう。

もう一度捕まえる。大事なエースを。大事な三橋を。
阿部は「連絡しておく」と言う百枝の言葉に頷くと、拳をギュッと握り締めた。

【続く】
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