始まり終わりの7題

【真っ白なキオク】

オレは高校で、どんな風に過していたんだろう。
三橋は自宅の庭の投球練習場で、ボールを投げ込みながら考えている。

部活ではブルペンで阿部という捕手を見ただけで、倒れてしまった。
気がつくと三橋は保健室で寝かされていたのだ。
結局三橋はその日はそのまま帰宅することになり、母親が車で迎えに来た。

翌日は三橋と同じクラスだという田島というもう1人の捕手が、ブルペンに入った。
だが結果は同じで、三橋はやはり呼吸困難に陥り、その場に倒れてしまった。
過呼吸。過換気症候群。パニック発作。
なにやらそんな病名が付けられて、三橋はまた保健室から自宅へ直行することになった。

個人を認識しているのではなく「捕手」に反応しているのではないか?
三橋のいないところで、そんな話がなされたらしい。
またその翌日のブルペンでは、阿部がヘルメット以外の防具は付けないで構えた。
そのときには三橋の状態は、多少緊張はしたものの極々普通だった。

監督の百枝が防具をつけない阿部を「危険だ」と言って、止めようとしていた。
だが阿部は「こいつの球なら、平気ですよ」と答えていた。
そして三橋は3日目にして初めて、ブルペンでの投球練習が出来たのだった。


高校生活を思い出そうと、三橋は必死だった。
早く自分を取り戻したい。
こんな不安な気持ちから開放されたい。

家や学校にある、高校生の自分の断片。
例えば投球練習場が板でなく金網とガムテープになっていることとか。
教室の自分の席には、自分の手で名前が書かれた教科書が入っているとか。
そんなものを見ながら、懸命に記憶を辿ろうとした。
だがいくら考えても、記憶の中のここ2年の自分は真っ白で、何もなかった。

今の自分が、親や野球部員たちにすごく迷惑をかけていることはわかっている。
教室では「スイッチ」を切って、自分がいない状態にしているからいいけど。
部活ではどうしてもそうはいかない。
部員たちが三橋に気を使っている状態は、とても申し訳ないと思う。

それに一番申し訳ないのは、阿部に対してだ。
きっと三橋は、常日頃から阿部に不愉快な思いをさせているに違いない。
あれから毎日、阿部は防具を付けずに三橋の球を受けてくれている。
周りから危険だと止められても、阿部は「平気」と言って、毎日投球練習の相手をしてくれる。

こいつの球なら、平気ですよ。
阿部の言葉の意味は、三橋の遅い球なんか当ってもなんということもないということだろう。
でもやはり硬球なのだし、手元が狂って当ててしまったら申し訳ない。
だから今まで以上に制球力をつけなくてはいけないと思う。

だから身体の限界まで、投げなくてはいけない。
記憶を取り戻すために、そして制球力を磨くために。
三橋は帰宅した後、毎日自宅でフラフラになるまでボールを投げ込んでいた。


三橋の家の前まで自転車を漕いで来た阿部は、パシンパシンと響き渡る音に顔を顰めた。
聞き慣れたその音。
ボールが三橋の家の自作投球練習場の的に当たったときの音だ。
やっぱり投げていた。
阿部は自転車を投げ捨てるような勢いで降りると、三橋の家の敷地内に駆け込んだ。

三橋が記憶を失う前までは、朝も放課後も練習の前後に、三橋と手のひらを合わせていた。
それだけで三橋の体調や、集中度や、心の落ち着きなどがわかる。
だが記憶を失った後、それをするのは無理だった。
手を出させて重ねようとしただけで、三橋の右手はブルブルと震えてしまうのだ。
左手で右手首を掴んで、懸命に震えを止めようとする三橋は、あまりにも痛々しい。
だから手を重ねて、三橋の状態を量ることは諦めた。

では投球で判断しようと思うと、それはそれでまた難しかった。
今の三橋の状態は、調子の良い状態の時にははるかに及ばない。
だが事故があり、その後の療養期間もあり、しかも記憶の一部がないのだ。
無理もないといってしまえば、それまでだった。
この異常な状態で、投球だけで三橋の状態を推し量ることなどできない。

阿部も百枝も、家では投げないようにと三橋に指示している。
だが阿部は、三橋が家で投げているような気がしていた。
相変わらず教室では「抜け殻」であり、部活での投球にも満足はしていないはずだ。
今の三橋がさらに投げることに縋るだろうことは、容易に想像できる。


「三橋!」
案の定、薄闇の中で電灯の明かりに照らされて見えたのは、今まさに投げようとしている三橋だった。
三橋は阿部の呼ぶ声に、ビクリと身体を震わせた。
「あ、べく、ん?」
振り返った拍子に、三橋の身体がフラリと揺れた。
長い時間投げていたのだろう。
三橋はひどく消耗しているようだった。
これが普段だったら、怒鳴りつけて、ウメボシでも食らわせている。
だが阿部は、今の三橋にそれをする気にはなれなかった。

言いたいことは山ほどあった。
1人で苦しむな。他の部員を、阿部を頼れ、と。
だが今の三橋にとって、野球部員といえば三星の部員たちのことなのだろう。
阿部たち西浦高校の部員たちと、三星の部員たちを完全に混同している。
自分を嫌い、憎んでいると思う部員たちに頼るなど、できないことだと思う。

「三橋、大丈夫か?」
阿部はそう言うと、三橋に駆け寄った。
右腕に負担がかからないように、三橋の左側に回り、横から三橋の身体を支える。
阿部が触れた瞬間に、三橋の身体がまた震える。
だが阿部はそのまま三橋の肩に腕を回し、抱き寄せた。
小さい子供をあやすように、回した腕で軽くポンポンと叩いたが、三橋の震えは止まらなかった。

「少し話をしよう。」
阿部はそう言うと、三橋を家の中へと促した。


「おばさん、いないのか?」
「事故、の、後。無理、して、仕事、休んだ、みたいで。」
阿部の問いに、三橋はいつにも増した吃音でそう答えた。
三橋の両親はあの事故の直後、仕事を休んだ。
だから今は、その分多忙ということなのだろう。
三橋がこんな無茶な投球練習をしても、止める人間がいないのだ。

壁際に置かれた横長のソファに、阿部と三橋は並んで座っていた。
三橋はずっと俯いている。
阿部はその焦燥し、やつれた横顔を見つめている。
話をしようと言ったものの、何と切り出せばいい?
阿部は言葉を探して迷い、2人の間には気まずい沈黙が漂っていた。

「オレ、何で、高校でも、野球して、るんだ?」
不意に三橋が、沈黙を破ってそう呟いた。
「オレ、もう、野球したら、ダメ、だったのに。」
俯いて下を向いてしまった三橋は、泣いているのだろう。
弱々しい声は涙を含んでいたし、ギュッと膝の上に握り締めた拳にはポタポタと滴が落ちている。

「お前は自分の意思で三星を出て、西浦に来たんだ。練習試合で三星にも勝ったんだぞ?」
「三星、に?」
三橋が阿部の言葉に、弾かれたように顔を上げた。
そして涙で膨れた目で、阿部を凝視する。
「オレはお前とバッテリーが組めて嬉しいし、お前はうちの大事なエースだと思ってるよ。」
阿部は慎重に言葉を選びながら、一言一言噛んで含めるように話した。
きちんと伝えなくてはいけない。
三橋が中学時代の暗い過去を振り切って、懸命に前に進んでいるのだということを。


「何で、阿部、君。そんな、こと、言う?」
「思ったことを言っただけだぜ。」
「オレの、球、当っても、平気って。オレ、ヘロ球、しか、投げられ、ない。」
「あれはそういう意味じゃない。」
「嘘、だ。オレなんか、腕、折られても、仕方が、ない。ダメ、ピーで」
「バカなこと、言うな!」
今日は怒らないつもりだった。
だが最後の言葉だけは、どうにも聞き捨てならない。
阿部はついに声を荒げた。
そして両手で三橋の頬を包むように触れると、こちらを向かせて視線を合わせた。

「お前が信じないなら、何度でも言うぞ。お前はうちの、オレの大事なエースだ!」
荒げてしまった声の勢いは止まらない。
不覚にも阿部も涙ぐんでしまっていた。
阿部はそれを隠すように、頬に置いていた手を広げて、三橋を抱きしめた。

「お前の球なら平気って言うのは、コントロールがいいから。当る心配してないってことだ。」
阿部は口調を少し和らげながらそう言って、三橋の髪を撫でた。
高校球児らしからぬ綺麗な色の柔らかい髪。
阿部は普段から、何かに付けてはこの髪に触れるのが心地よかった。
それほどまでに大事に思っていることを、何とか三橋に伝えたいと思う。

「お前が混乱してるのわかるよ。俺だって中2からいきなり高校生になったら焦ると思うし。」
そう言う阿部の言葉も、少し涙声だった。
三橋は恐る恐ると言った風に、阿部の背中に腕を回した。

「阿部、君。オレなんか、の、ために、泣くの、ダメ、だ。」
「泣いてねぇ。それからオレなんかって言うなよ。。。」
三橋は阿部の肩に顔を押し付けて、まだ涙を零す。
阿部は手のひらで自分の涙を拭うと、もう一度三橋を深く抱きしめた。
三橋の涙が止まるまで、このまま腕の中で甘やかしてやろうと思った。


「お前さ、教室では抜け殻みたいになってるけど、何でなの?」
ようやく三橋が泣き止んだ後、阿部は冷たいタオルで三橋の目を冷やしてやりながら言った。
ひとしきり泣いたせいか、三橋は随分落ち着いた表情になっている。
そのことに少しだけ安堵した阿部は、気になっていたことを聞くことにしたのだった。

「スイッチ、を、切ってる、んだ。オレが、いると、みんな、楽しく、ない、から。」
「スイッチ?」
「心の、中で、切る。イメージ。そうすれば、見え、ないし、聞こえ、ない。」
阿部は一瞬、言葉を失った。
ピンチのときでも、ほとんどコントロールが乱れない三橋。その類まれなる集中力。
その根元は暗くて深い過去の闇だったのかと思うと、切なさを通り越して恐ろしい気さえする。

「わかった。でもそれは止めろ。同じクラスの田島や泉も心配しているから。」
「心配?オレ、なんか」
「だから!『なんか』って言うな。オレ以外のヤツらも、みんなお前を大事に思ってるぞ。」
阿部は言い聞かせるように、ゆっくりとそう言った。

本当は好きだと言いたかった。
記憶が失う前の三橋にも言ったことはなかったが、阿部もまた三橋が好きだった。
恋愛感情としての「好き」をずっと隠していたのだ。
だが記憶が欠落した三橋に、それを言うのはさすがに躊躇われた。
混乱させてしまうだろうし、弱いときに付けこむようなこともしたくない。
だから「大事に思っている」と言葉を選んで、伝えたのだ。

「阿部君、ありがと。オレ、頑張るよ。」
「バカ。頑張んなくていいよ。オレもみんなも気長に付き合ってやるから。」
阿部は泣き笑いの表情になった三橋の頬をつつき、髪をワシワシとかき回した。


三橋の母親が帰ってくるのを待って、阿部は三橋家を出た。
無理して投げていたから、気をつけてやって欲しいとこっそりと三橋の母に耳打ちした。
三橋の母親もまた目に涙を浮かべて、阿部に「ありがとう」と言った。
そして阿部は自宅へと自転車を漕ぎながら、考えを巡らせていた。

三橋はブルペンで投げるとき、防具をつけるとパニック発作を起こす。
最初は阿部を見てそうなったのかとひどく落ち込んだが、田島でも同じ反応だった。
そして防具を外してしまえば、阿部に投げることができる。
つまり三橋は「捕手」に怯えているのだ。

さらに三橋は先日の事故のとき、右腕を押さえていた。
さっきも「腕を折られても仕方がない」と言った。

「捕手」と「腕を折る」という2つのキーワード。
そして思い起こされるのは春の三星との練習試合だ。
試合前に三橋に詰め寄っていた三星の捕手、畠の言葉。

やっぱあん時、腕 折っときゃよかったか?

中学2年のとき、三橋と畠の間に何かがあったと考えるべきだろう。
単に嫌っていたとか、苛めていたとか、そんなことではない。
投手の腕を折るなどという、物騒な事件に発展するような何かが。

それを知ることが、三橋の記憶の欠落を埋める手がかりになるかどうかはわからない。
だが真っ白な記憶に苦しむ三橋のために、できることは何でもしたい。
阿部は静かな決意を胸に秘めながら、自転車を漕ぎ続けた。

【続く】
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