始まり終わりの7題
【誰もいない?】
多分、タイムスリップした人ってこんな感じなんだろうな。
三橋はどこか他人事のように感じていた。
確かに中学2年生の筈だった。
練習試合の帰り道のバス事故。
でも気を失って、意識を取り戻してみると高校生になっていた。
祖父の家に下宿していたはずなのに、実家に戻っていたし。
しかも三星ではなく、別の高校に通っていた。
両親からは、わからないことは何でも聞きなさいと言われた。
でもここまでわからないことだらけだと、最早聞く気も起きない。
記憶がない2年分の人生のアウトラインを、ただぼんやりと聞いていた。
そして今は緊張している。
事故から数日ほどは、家でのんびりと過ごしていた。
だが明日から登校することになっている。
野球部のみんなが面倒見てくれるから、と母親に聞かされて。
三橋は恐怖で、血の気が引いた。
高校になって三星を出てまで、野球をしていたのか。
新しい野球部でもやはり嫌われているんだろうな。
そう考えると、身体の震えが止まらず、呼吸が苦しい。
本当は新しい高校になど、行きたくない。
それでも三橋は、両親には何でもない素振りで本心を隠していた。
両親には三星時代の話をしたことがない。
嫌われて、憎まれて、それでも投げ続けた話などしたくなかった。
そして今日は、事故後初めての三橋の登校日だ。
部活の参加は午後の練習からで、朝錬には出ない。
その午後の練習も、百枝と阿部で相談して軽めなメニューを作ってある。
退院した後、ずっと自宅にいた三橋の体力を考慮してのことだ。
野球部は朝練を早めに切り上げて、三橋の登校を待った。
「ミハシ~♪」
母親の運転する車に送られて、現れた三橋をまず歓迎したのは田島だった。
車から降りた三橋に駆け寄り、抱きつく。
まるでそれが合図だったように、部員たちは三橋を取り囲む。
「大丈夫か?」
「思い出そうって焦んなくていいぞ」
「わかんないことは何でも聞けよ」
部員たちは言葉をかけていく。
それは全て三橋を心配して励ます言葉だった。
「三橋?」
阿部は何も答えない三橋を怪訝に思い、その顔を覗きこむ。
でも三橋は阿部の視線を避けるように下を向いてしまった。
「おい、どうした?」
阿部が右手を伸ばして、三橋の肩に触れた瞬間。
「ひっ!」
三橋は悲鳴のような声を発して、その場にペタンと座り込んでしまった。
そのまま自分の肩を抱き、ガタガタと震えている。
まるで極寒の場所にいるかのようだ。
「阿部の顔が怖かったんじゃない?」
場を和ませるつもりで言ったのだろう水谷の言葉は、残念ながら上滑りしていった。
異常な怯え方をする三橋を、野球部員たちは呆然と見守っていた。
誰もいない?
どうして。知っている人が誰もいない。
理性では答えはわかっている。高校生活の全てを忘れてしまったからだ。
ただ感覚がついていかない。
知らない人たちが、みんな自分を知っていて「三橋」と呼ぶ。
自分は好かれているはずはない。嫌われているはずだ。
怖い。どうしていいかわからない。
三橋は頭の中でパチンと「スイッチ」を切った。
いつのころからか、三橋は心の中で「スイッチ」をイメージするようになった。
映像的には自分の部屋の壁の、ありふれた電気照明の「スイッチ」だ。
心の中でそれを切る想像をすると、周りの音が聞こえなくなる。
周囲の会話や雑談はただの音になって、意味も理解しないまま耳から抜けていく。
それは三星時代に培った、あまり誇れない特技だった。
中学で最初のうちは懸命に会話の輪に入ろうとした三橋だったが、無理だった。
三橋を疎ましく思う野球部員たちは、三橋が会話に混ざろうとすると口を噤んで輪を解いてしまう。
ついには三橋がふと耳に入った会話に笑みをもらしたり、大声に驚くだけで顔を顰めるようになった。
だから関係ない会話が聞こえても、反応しないようにと努力した。
その努力の賜物が、この「スイッチ」だ。
三星を出て、西浦高校への入学を決めたとき。
三橋はもうこの「スイッチ」は使わないと決心していた。
でも今の三橋にその記憶はない。
幸か不幸か教師たちも三橋の記憶障害は聞いているから、授業中に三橋を当てたりしない。
だから三橋は放課後までのほとんどの時間を「スイッチ」を切った状態で、過ごしていた。
「三橋、なんか抜け殻みたいになっちゃったよ」
昼休みの終わり頃に7組の教室に顔を出した泉が、阿部たちにそう言った。
どちらかといえば冷静に物事に対処できるタイプと思われる泉の心底疲れたような声。
阿部と花井は思わず顔を見合わせた。
「何を言っても反応しないんだ。それに全然喋らない。反応したのは昼メシだけ」
それでも食事には反応するのか、と阿部も花井も笑う。
だが泉は笑い事じゃねぇよ、と声を荒げた。
「それだって自分から食おうとしねぇんだぜ?肩掴んで揺すぶって。メシ!って叫んだらようやく弁当出してさ」
「食ってた?」
「ああ。でも食欲はねぇみてぇ。昼休みいっぱいかけて食ってた。」
「あの三橋が、食欲ない?」
「ああ。で食い終わった後は、また抜け殻」
泉のいつにない真剣な口調が、ただ事ではないのだと伝えてくる。
「このままじゃ三橋はヤべぇ。記憶を取り戻すどころの話じゃねぇよ。おかしくなる」
泉がそう言ったとき、教室に予鈴が鳴り響いた。
「オレ、戻るわ」
「とりあえず、後で様子を見に行く」
教室から出て行く泉の後ろ姿に、阿部が声をかけた。
泉は振り返らずに、ヒラヒラと右手を振った。
午後の授業の合間の休み時間、阿部と花井と水谷が9組へやって来た。
教室の入口から中を覗いた阿部は、顔を顰めた。
席に座った三橋を囲むようにして、泉と田島と浜田。
3人は普通に話をしながら、身振り手振りも交えて話をしている。
だがその中心にいる三橋は、まったく会話に加わっていないことがわかった。
ぼんやりと窓の方へ視線を向けている。
田島が大声を出しても、泉が笑っても、三橋はまったく動くことがなかった。
阿部は教室に足を踏み入れ、つかつかと三橋の席まで歩いていく。
そして三橋の顔を覗きこんだ阿部は、その表情にゾクリと背筋を震わせた。
表情がない。
昼休みに泉が言った通り、これは三橋の抜け殻だ。
「三橋!」
恐怖に駆られた阿部は大声で呼びながら、三橋の顔を覗きこんだ。
三橋がぼんやりした目の焦点を、ゆっくりと阿部に合わせる。
そしてうわ言のように「なに?」と小さく呟く。
阿部は、三橋の異様な雰囲気に気圧されて「何でもねぇよ」と慌てて答えた。
すると三橋は、また窓の方に視線を戻してしまった。
泉が「こんな感じだよ」と阿部にため息をついた。
「三橋の中学時代って、こんなだったのかな。」
不意に水谷がポツリと呟いた。
その言葉に、阿部も花井も泉もハッとする。
「中学じゃ嫌われてた、って言ってたもんな。」
泉が、水谷の言葉に同意するように言った。
ここにいる三橋は、阿部の知っている三橋ではない。
何も見ず、何も聞かない抜け殻。
周囲から自分を切り離して、ひたすら気配を消している。
これが中学のころの三橋なのだ。
阿部は、どうしようもなく後悔していた。
一生懸命に皆に話しかけようとして、何かあったら涙を零す。
西浦へ来た三橋は中学のころの自分と決別するために、必死だった。
そんな三橋にイライラし、時に怒鳴ったりもしていた。
どうして理解してやれなかったんだろう。
そして、こみ上げて来る切ない気持ちに困惑する。
あのバスで、隣に座ってやっていればよかった。
そうすれば、三橋をこんな目に合わせずに済んだだろう。
どうしてそばにいて、守ってやれなかったのだろう
「投げりゃ、少しはよくなるんじゃね?」
田島が明るい声で言った。
「簡単に言うなよ」
「一緒に頑張るって決めたじゃん!」
花井の言葉に、田島はさらに明るく応じた。
でも確かにそうだ。
中学時代の三橋は、どうあってもマウンドを手放さなかった。
ならば投げさせれば、何かがわかるかもしれない。
阿部は祈るような気持ちで「スイッチ」を切ってしまった三橋を見ていた。
放課後、三橋は田島と泉に連れられて、部室へとやって来た。
記憶を失くしても、身体は覚えているのだろう。
三橋は淡々とした動作で、練習着に着替えていた。
「三橋、大丈夫?」
栄口が三橋に声をかけた。
三橋は準備運動でもう少し息が上がっていた。
ここ数日は自宅で療養しており、まったく身体を動かさなかったせいだろう。
三橋はひどく戸惑った様子で「ありがと」と答えた。
さすがに部活の最中は「スイッチ」を切らない。
変に気を抜けば怪我の元だし、そもそも三橋は部活のため、投げるために「スイッチ」を考えついたのだから。
「三橋、無理するなよ」
「三橋、キャッチボールはオレと組もうぜ」
泉と田島が三橋に声をかけた。
今日一日、さんざん抜け殻状態の三橋を見続けた2人だった。
おずおずぎこちないものの、三橋から反応が返ってくることが嬉しいのだ。
「三橋君はブルペンで投球練習。久しぶりだから様子を見ながら、無理しないでね。」
柔軟体操や肩慣らしのキャッチボールを終えた三橋は、百枝からそう指示された。
三橋は「はい」と小さく答えて、ブルペンに入る。
阿部はすでに防具を付け終えて、三橋が来るのを待っていた。
「三橋、まずは少し投げてみるか。」
阿部はそう言って、マスクをかぶり、腰を落として座る。
そしてバシっと拳でミットを叩くと、捕球の構えになった。
「ヒィ!」
三橋は阿部の姿を見て、小さく悲鳴を上げた。
顔は恐怖で歪み、全身が小刻みに震えている。
防具をつけて、マスクをかぶり、キャッチャーミットを構える姿。
それは三橋の中で、ある少年の姿と重なった。
三橋を睨みつけていた。
お前さえいなければと言った。
三橋の腕を折ろうとした。
彼は三橋の球を捕ってくれる捕手で---!
そう思った瞬間、三橋は急に自分の呼吸がままならないことに気がついた。
苦しい。いくら息を吸っても、息苦しさが取れない。
喉がヒュウと引き攣れたような音を立てる。
右手で喉を、グローブをつけた左手で胸を押さえた三橋は、ゲホゲホと咳き込んだ。
「三橋?どうした?」
阿部がマスクを外し、三橋に駆け寄ってくる。
だが防具を付けた阿部は、混乱した三橋の中ではもはや阿部ではなかった。
三橋はついに立っていられなくなり、その場にガクンと膝を折って崩れ落ちた。
「三橋!」
駆け寄った阿部が、慌てて倒れこむ三橋を受け止める。
三橋は意識を失っていた。
どうして。三橋に何が起きている?
阿部は三橋を抱き止めたまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。
【続く】
多分、タイムスリップした人ってこんな感じなんだろうな。
三橋はどこか他人事のように感じていた。
確かに中学2年生の筈だった。
練習試合の帰り道のバス事故。
でも気を失って、意識を取り戻してみると高校生になっていた。
祖父の家に下宿していたはずなのに、実家に戻っていたし。
しかも三星ではなく、別の高校に通っていた。
両親からは、わからないことは何でも聞きなさいと言われた。
でもここまでわからないことだらけだと、最早聞く気も起きない。
記憶がない2年分の人生のアウトラインを、ただぼんやりと聞いていた。
そして今は緊張している。
事故から数日ほどは、家でのんびりと過ごしていた。
だが明日から登校することになっている。
野球部のみんなが面倒見てくれるから、と母親に聞かされて。
三橋は恐怖で、血の気が引いた。
高校になって三星を出てまで、野球をしていたのか。
新しい野球部でもやはり嫌われているんだろうな。
そう考えると、身体の震えが止まらず、呼吸が苦しい。
本当は新しい高校になど、行きたくない。
それでも三橋は、両親には何でもない素振りで本心を隠していた。
両親には三星時代の話をしたことがない。
嫌われて、憎まれて、それでも投げ続けた話などしたくなかった。
そして今日は、事故後初めての三橋の登校日だ。
部活の参加は午後の練習からで、朝錬には出ない。
その午後の練習も、百枝と阿部で相談して軽めなメニューを作ってある。
退院した後、ずっと自宅にいた三橋の体力を考慮してのことだ。
野球部は朝練を早めに切り上げて、三橋の登校を待った。
「ミハシ~♪」
母親の運転する車に送られて、現れた三橋をまず歓迎したのは田島だった。
車から降りた三橋に駆け寄り、抱きつく。
まるでそれが合図だったように、部員たちは三橋を取り囲む。
「大丈夫か?」
「思い出そうって焦んなくていいぞ」
「わかんないことは何でも聞けよ」
部員たちは言葉をかけていく。
それは全て三橋を心配して励ます言葉だった。
「三橋?」
阿部は何も答えない三橋を怪訝に思い、その顔を覗きこむ。
でも三橋は阿部の視線を避けるように下を向いてしまった。
「おい、どうした?」
阿部が右手を伸ばして、三橋の肩に触れた瞬間。
「ひっ!」
三橋は悲鳴のような声を発して、その場にペタンと座り込んでしまった。
そのまま自分の肩を抱き、ガタガタと震えている。
まるで極寒の場所にいるかのようだ。
「阿部の顔が怖かったんじゃない?」
場を和ませるつもりで言ったのだろう水谷の言葉は、残念ながら上滑りしていった。
異常な怯え方をする三橋を、野球部員たちは呆然と見守っていた。
誰もいない?
どうして。知っている人が誰もいない。
理性では答えはわかっている。高校生活の全てを忘れてしまったからだ。
ただ感覚がついていかない。
知らない人たちが、みんな自分を知っていて「三橋」と呼ぶ。
自分は好かれているはずはない。嫌われているはずだ。
怖い。どうしていいかわからない。
三橋は頭の中でパチンと「スイッチ」を切った。
いつのころからか、三橋は心の中で「スイッチ」をイメージするようになった。
映像的には自分の部屋の壁の、ありふれた電気照明の「スイッチ」だ。
心の中でそれを切る想像をすると、周りの音が聞こえなくなる。
周囲の会話や雑談はただの音になって、意味も理解しないまま耳から抜けていく。
それは三星時代に培った、あまり誇れない特技だった。
中学で最初のうちは懸命に会話の輪に入ろうとした三橋だったが、無理だった。
三橋を疎ましく思う野球部員たちは、三橋が会話に混ざろうとすると口を噤んで輪を解いてしまう。
ついには三橋がふと耳に入った会話に笑みをもらしたり、大声に驚くだけで顔を顰めるようになった。
だから関係ない会話が聞こえても、反応しないようにと努力した。
その努力の賜物が、この「スイッチ」だ。
三星を出て、西浦高校への入学を決めたとき。
三橋はもうこの「スイッチ」は使わないと決心していた。
でも今の三橋にその記憶はない。
幸か不幸か教師たちも三橋の記憶障害は聞いているから、授業中に三橋を当てたりしない。
だから三橋は放課後までのほとんどの時間を「スイッチ」を切った状態で、過ごしていた。
「三橋、なんか抜け殻みたいになっちゃったよ」
昼休みの終わり頃に7組の教室に顔を出した泉が、阿部たちにそう言った。
どちらかといえば冷静に物事に対処できるタイプと思われる泉の心底疲れたような声。
阿部と花井は思わず顔を見合わせた。
「何を言っても反応しないんだ。それに全然喋らない。反応したのは昼メシだけ」
それでも食事には反応するのか、と阿部も花井も笑う。
だが泉は笑い事じゃねぇよ、と声を荒げた。
「それだって自分から食おうとしねぇんだぜ?肩掴んで揺すぶって。メシ!って叫んだらようやく弁当出してさ」
「食ってた?」
「ああ。でも食欲はねぇみてぇ。昼休みいっぱいかけて食ってた。」
「あの三橋が、食欲ない?」
「ああ。で食い終わった後は、また抜け殻」
泉のいつにない真剣な口調が、ただ事ではないのだと伝えてくる。
「このままじゃ三橋はヤべぇ。記憶を取り戻すどころの話じゃねぇよ。おかしくなる」
泉がそう言ったとき、教室に予鈴が鳴り響いた。
「オレ、戻るわ」
「とりあえず、後で様子を見に行く」
教室から出て行く泉の後ろ姿に、阿部が声をかけた。
泉は振り返らずに、ヒラヒラと右手を振った。
午後の授業の合間の休み時間、阿部と花井と水谷が9組へやって来た。
教室の入口から中を覗いた阿部は、顔を顰めた。
席に座った三橋を囲むようにして、泉と田島と浜田。
3人は普通に話をしながら、身振り手振りも交えて話をしている。
だがその中心にいる三橋は、まったく会話に加わっていないことがわかった。
ぼんやりと窓の方へ視線を向けている。
田島が大声を出しても、泉が笑っても、三橋はまったく動くことがなかった。
阿部は教室に足を踏み入れ、つかつかと三橋の席まで歩いていく。
そして三橋の顔を覗きこんだ阿部は、その表情にゾクリと背筋を震わせた。
表情がない。
昼休みに泉が言った通り、これは三橋の抜け殻だ。
「三橋!」
恐怖に駆られた阿部は大声で呼びながら、三橋の顔を覗きこんだ。
三橋がぼんやりした目の焦点を、ゆっくりと阿部に合わせる。
そしてうわ言のように「なに?」と小さく呟く。
阿部は、三橋の異様な雰囲気に気圧されて「何でもねぇよ」と慌てて答えた。
すると三橋は、また窓の方に視線を戻してしまった。
泉が「こんな感じだよ」と阿部にため息をついた。
「三橋の中学時代って、こんなだったのかな。」
不意に水谷がポツリと呟いた。
その言葉に、阿部も花井も泉もハッとする。
「中学じゃ嫌われてた、って言ってたもんな。」
泉が、水谷の言葉に同意するように言った。
ここにいる三橋は、阿部の知っている三橋ではない。
何も見ず、何も聞かない抜け殻。
周囲から自分を切り離して、ひたすら気配を消している。
これが中学のころの三橋なのだ。
阿部は、どうしようもなく後悔していた。
一生懸命に皆に話しかけようとして、何かあったら涙を零す。
西浦へ来た三橋は中学のころの自分と決別するために、必死だった。
そんな三橋にイライラし、時に怒鳴ったりもしていた。
どうして理解してやれなかったんだろう。
そして、こみ上げて来る切ない気持ちに困惑する。
あのバスで、隣に座ってやっていればよかった。
そうすれば、三橋をこんな目に合わせずに済んだだろう。
どうしてそばにいて、守ってやれなかったのだろう
「投げりゃ、少しはよくなるんじゃね?」
田島が明るい声で言った。
「簡単に言うなよ」
「一緒に頑張るって決めたじゃん!」
花井の言葉に、田島はさらに明るく応じた。
でも確かにそうだ。
中学時代の三橋は、どうあってもマウンドを手放さなかった。
ならば投げさせれば、何かがわかるかもしれない。
阿部は祈るような気持ちで「スイッチ」を切ってしまった三橋を見ていた。
放課後、三橋は田島と泉に連れられて、部室へとやって来た。
記憶を失くしても、身体は覚えているのだろう。
三橋は淡々とした動作で、練習着に着替えていた。
「三橋、大丈夫?」
栄口が三橋に声をかけた。
三橋は準備運動でもう少し息が上がっていた。
ここ数日は自宅で療養しており、まったく身体を動かさなかったせいだろう。
三橋はひどく戸惑った様子で「ありがと」と答えた。
さすがに部活の最中は「スイッチ」を切らない。
変に気を抜けば怪我の元だし、そもそも三橋は部活のため、投げるために「スイッチ」を考えついたのだから。
「三橋、無理するなよ」
「三橋、キャッチボールはオレと組もうぜ」
泉と田島が三橋に声をかけた。
今日一日、さんざん抜け殻状態の三橋を見続けた2人だった。
おずおずぎこちないものの、三橋から反応が返ってくることが嬉しいのだ。
「三橋君はブルペンで投球練習。久しぶりだから様子を見ながら、無理しないでね。」
柔軟体操や肩慣らしのキャッチボールを終えた三橋は、百枝からそう指示された。
三橋は「はい」と小さく答えて、ブルペンに入る。
阿部はすでに防具を付け終えて、三橋が来るのを待っていた。
「三橋、まずは少し投げてみるか。」
阿部はそう言って、マスクをかぶり、腰を落として座る。
そしてバシっと拳でミットを叩くと、捕球の構えになった。
「ヒィ!」
三橋は阿部の姿を見て、小さく悲鳴を上げた。
顔は恐怖で歪み、全身が小刻みに震えている。
防具をつけて、マスクをかぶり、キャッチャーミットを構える姿。
それは三橋の中で、ある少年の姿と重なった。
三橋を睨みつけていた。
お前さえいなければと言った。
三橋の腕を折ろうとした。
彼は三橋の球を捕ってくれる捕手で---!
そう思った瞬間、三橋は急に自分の呼吸がままならないことに気がついた。
苦しい。いくら息を吸っても、息苦しさが取れない。
喉がヒュウと引き攣れたような音を立てる。
右手で喉を、グローブをつけた左手で胸を押さえた三橋は、ゲホゲホと咳き込んだ。
「三橋?どうした?」
阿部がマスクを外し、三橋に駆け寄ってくる。
だが防具を付けた阿部は、混乱した三橋の中ではもはや阿部ではなかった。
三橋はついに立っていられなくなり、その場にガクンと膝を折って崩れ落ちた。
「三橋!」
駆け寄った阿部が、慌てて倒れこむ三橋を受け止める。
三橋は意識を失っていた。
どうして。三橋に何が起きている?
阿部は三橋を抱き止めたまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。
【続く】