始まり終わりの7題

【ダイスキ】

やっぱあん時、腕 折っときゃよかったか?

三橋はガバっと跳ね起き、身体を震わせた。
久しぶりに見た夢。中学の時の忌まわしい記憶。
捕手である畠に言われた「あん時」の記憶が、悪夢となって現れた。

練習試合の為に、隣の県に遠征した西浦高校野球部の面々。
試合も終り、帰郷のために路線バスに乗っていた。
最後尾の席でウトウトと船を漕いでいた三橋は、昔の夢を見た。
中学時代、正捕手であった畠に腕を折られそうになった「あん時」のこと。

恐怖のあまり、飛び起きた三橋は辺りを見回した。
路線バスは他に乗客もなく、野球部メンバーの貸切状態だった。
皆は散らばって座っており、三橋同様眠っていたり、ボソボソと喋っていたりしている。
さすがに試合後であるため、皆静かに身体を休めている。
三橋の異変に気付いた者はいないようだ。
三橋はホッとため息をついて、再び目を閉じた。

夏大会は結局、甲子園に行けずに終わった。
負けたのは自分の責任が大きいと思う。
それでも次の大会に向けて、練習の日々。
前向きに進んでいるつもりだったのに。
なぜ今になって過去の暗い出来事を夢に見るんだろう。

そうか、あの時もバスに乗っていたからだ。
三橋は今、この瞬間が「あん時」と似た状況だったのだと思い至った。


「あん時」は中学時代、やはり練習試合の帰り道。
三星学園が試合用に用意した送迎用のバスの中でのことだった。
送迎バスと路線バス。それ以外の状況は酷似していたのだ。
試合が終わって帰るために、皆でバスに乗っていること。
三橋が、最後尾にポツンと1人でいること。
夕陽で車内がオレンジ色に染まっていることも。

何だろう。それでも「あん時」と今は全然違う筈なのに。
三橋は不吉な予感のようなものを感じて、動揺していた。
身体の震えが止まらず、自分で自分の肩を抱きしめながら奥歯を噛みしめる。
助けを求めるように車内を見回した三橋の目が阿部の後姿で止まった。
斜め前の2人掛けのシートに1人で座り、窓の外を見ている。

ダイスキ。
三橋は心の中でこっそりと阿部に呼びかけた。
いつの頃からか、阿部に対して抱いてしまった感情。
捕手ではなく、チームメイトではなく。
恋愛の対象として好きになっていた。
男にそんな気持ちを持たれても、迷惑に決まっている。
夜な夜なこっそり涙を零しながら、三橋は自分の心を押し隠していた。

三橋はもう少し阿部の近くへ行こうと立ち上がった。
特に何かを考えていたわけではない。
隣に座るわけでも、声をかけるわけでもない。
ただ不安で、もう少し阿部の傍に行きたくなっただけだった。
でもその瞬間、事件は起こった。
立ち上がった瞬間にバスは大きく揺れて、三橋の身体は床に叩きつけられていた。


阿部は窓の外を流れる景色を、ただ見ていた。
今日の練習試合はまぁ悪くない結果だった。
三橋の調子もよく、リードも上手くいったと思う。打撃もよかった。
充実感に満たされた阿部は、気分よくバスに揺られていた。

そんな穏やかな気分が、不意に破られた。
車体に衝撃を感じたと思った途端、バスは車線を外れて横滑りした。
対向車線から外れたトラックが頭からバスに突っ込んできたのだった。
側面から衝撃を受けたバスは、逆側に振られて、道路わきの電柱に接触して停止した。
全ては一瞬の出来事だった。

「皆、大丈夫?」
バスが完全に停止した途端、事態を把握した監督の百枝が声を張り上げた。
あちこちから「大丈夫です」「オレも平気」などと声が上がる。
一瞬固まっていた阿部は、慌てて車内を見回した。
大事なエースである三橋の姿を捜す。
監督の百枝、引率教師の志賀、マネージャーの篠岡。
その他の部員の数を数えると、自分も含めて9人だ。
そしてその中に、あのフワフワした茶色の髪は見当たらない。

「三橋!どこだ?」
阿部は大声で三橋を呼ばわった。
切羽詰った声に全員が状況を理解し、キョロキョロと辺りを見回す。
「阿部!一番後ろだ」
いち早く見つけた主将、花井の声に全員の視線がバスの最後尾に向かう。
座席の隙間の通路、誰かが倒れている。
通路から見えるのは華奢な足だけだった。
消去法で考えれば、それは西浦のエースに他ならない。


「三橋、返事しろ!」
阿部は叫びながら、駆け寄った。
そして倒れている三橋の顔を覗きこみ、言葉を失う。
三橋は気を失っているようで、目を閉じたままピクリとも動かない。
しかも横向きに倒れている三橋は、左の手のひらで右ヒジを抱えるようにしている。
どう見ても、右ヒジを痛めたように見えるポーズだった。

「大丈夫か、おい、三橋ぃ!」
立ちすくむ阿部の横をすり抜けるようにして、田島が三橋に飛びついた。
「頭を打ってるかもしれない。揺すっては駄目だ!」
田島が三橋の肩に手をかけて揺すろうとしているのを見て、志賀が叫んだ。
その大声に、田島の動きが止まる。
百枝が携帯電話で救急車を呼んでいるのを聞きながら、部員たちは呆然としていた。

なぜこんなことになった?
阿部はガクガクと震える膝を叱咤しながら、懸命に立っていた。
西浦の、そして阿部の大事なエース。
なぜその三橋がこんな目に遭っているのだ。
もしも後に残るような深刻なダメージだったら。
もしもこのまま目覚めることがなかったら。
悪い想像ばかりが、心を過ぎる。

「三橋は大丈夫だよ」
不意に後ろから声をかけられて、阿部は振り返った。栄口だ。
「本当にそう思うか?」
阿部は栄口に言い返す。みっともないほど声が震えていると思う。
「思うよ。三橋はオレたちのエースだもん。」
まったく論理的ではない栄口の言葉だが、妙な説得力を持っていた。
その言葉に阿部が少しだけ落ち着いたころ、救急車のサイレンが近づいてきた。


「あれ?」
三橋が目を覚ましたとき、最初に目に入ったのは心配そうな母親の顔だった。
ここはどこだろう。いったい何が。
「ここは病院よ。試合の帰りのバスで事故に遭ったの」
三橋の顔色を読んだ母親が、三橋の心の問いに答える。

試合。そうだ。事故があったんだ。
三橋は慌てて跳ね起き、自分の右腕を恐る恐る動かした。
折れてはいない。そのことに安堵する。
「野球部のみんなが心配して、廉が起きるの待っててくれてるの」
三橋の剣幕に驚いた母親は、それでも優しい口調で告げる。
「今、呼んで来るから。」
野球部のみんな。
それを聞いて、三橋はガタガタと震えだした。

「や、だ。。。」
病室をいったん出ようと三橋に背を向けた母親が、その声に振り返った。
「廉?」
「イヤ、だ。イヤだぁぁぁ!」
大声で叫びながら、三橋はベットから転がり落ちた。
裸足のまま立ち上がり、そのまま母親に体当たりする勢いで病室のドアへと向かう。
「廉!」
三橋は母親の制止も聞かず、病室のドアを開けた。

「三橋?」
そのまま走り出そうとして、前に立ちはだかった少年に両肩を掴まれた。
三橋より数センチほど背が高い短い黒髪の少年。
向こうは三橋を知っているようだったが、三橋は彼を知らない。
「誰、です、か?」
三橋は少年を見上げると、怯えた様子でポツリと言った。


「記憶障害~~~?」
翌日の部室で。西浦高校野球部の面々は驚きの声を上げた。

事故の後、三橋は救急車で病院に運ばれた。
その他のメンバーはタクシーで同じ病院に向かい、診察を受けた。
三橋以外は皆、せいぜい軽い擦り傷程度の軽症だった。
診察の後、三橋の病室に向かい、三橋の容態を聞いた。

三橋は頭を打って、脳震盪を起こしていた。
だが命に別状はなく、後遺症の心配もまずないということだった。
阿部は三橋が腕を押さえていたのが気になっていたが、右腕はまったく無傷。
何か解せない気はしたが、大したことはないと言われて安堵した。

阿部が三橋が意識を取り戻すまで待つと言うと、全員がそれに倣った。
いくつもの試合、長い練習時間。
同じ瞬間を幾度も共有した我らがエースは、今や全員の弟分的存在だった。
みんな三橋が心配で、大事で、可愛いのだ。
これで三橋が意識を取り戻すのを見届けて、労わって励ましてやればいい。
それでこの事故は終りになるはずだった。

だが三橋の病室の前で待機していた部員たちが聞いたのは、三橋の悲鳴。
イヤだぁという叫ぶ声の後、酷く取り乱した三橋が飛び出してきた。
慌てて肩を掴んで止めた阿部を見た三橋は、あろうことか「誰?」と聞いてきた。

三橋は取り押さえられ、ベットに戻され、病室に医師が駆けつけてきた。
再び病室の前で待機した部員たちは、またしてもひどく取り乱した三橋の悲鳴を聞いた。
何が起きたかよくわからなかったが、その後三橋に会うことは出来ずに皆帰宅した。


そして一夜明けた今日。三橋本人は学校に来ていなかった。
三橋の母親から連絡を受けた百枝によって、部員たちは三橋の身に起こった事実を知らされた。

三橋は記憶を失っていた。
でも全てを忘れてしまっているわけではない。
ここ2年分くらいの記憶が抜け落ちてしまっているという。

三橋が中学2年の頃、やはり練習試合の帰りのバスが事故にあったことがあるという。
そのときは脳震盪どころか、どこかを擦りむいた程度のかすり傷だったらしい。
ほとんど無傷であったから、当時別れて住んでいた家族は駆けつけることもなかったという。
事故の数日後に電話で聞いただけだったと、三橋の母は百枝に語った。
どうやら三橋はその事故以降の記憶がなくなっている。
つまり西浦高校に入学してからの記憶はまったくないということだ。

「オレたちのことはまったく覚えてないってことか」
阿部はため息とともに呟いた。
初めて三橋が野球部のグラウンドに現れたときのことを思い出す。
ウジウジと悩み、恐る恐る球を投げ、無理だ嫌だと泣く三橋。
その後、ハードな練習と試合をこなし、少しずつ成長した。
でもほんの少しだけついた自信も、記憶とともに消えてしまったのだ。

「また一緒に頑張ればいいじゃん!」
部員たちの間に流れた重い雰囲気は、田島の明るい口調で破られた。
「お前、そんな簡単に」
主将である花井が慌てたように口を挟む。
でも田島はいつもの笑顔で元気よく続ける。
「三橋の記憶が戻るように、一緒に頑張るしかねぇじゃん。」


確かに田島の言うとおりだった。
記憶障害というのは実にデリケートなものらしい。
思い出すのは今日なのか、1年後か、一生ないのかわからない。
何がきっかけで思い出すのかもわからない。
無理矢理過去にあったことを詰め込むように話をしても駄目らしい。
気長にゆっくりと、今までと同じ日々を過させてやるしかない。
温かく見守ってやるしかない。

「阿部、あんまり三橋をビビらせたらダメだよ~」
水谷がからかうような口調で阿部の肩に手をかける。
馴れ馴れしいぞ、クソレ!と心の中で悪態をつきながら、その手を払いのける。
「阿部、三橋をイジメるんじゃねぇぞ」
田島が兄ちゃんよろしく阿部の前に立って、宣言する。
「頼むよ、阿部」と花井。
「責任重大だからね」と栄口。
次々と部員たちが畳み掛けてくる。

阿部はハァァ、と大きくため息をついた。
確かに阿部の役割は重要なのだ。
何しろバッテリーの相方なのだから。
仕方ねぇか、と諦めたようにポツリと呟く阿部に全員が頷いた。

だがこの時、まだ部員たちは知らなかった。
三橋は単に入学したばかりのあの状態に戻ったのだと思っていた。
でも三橋は「事故」の影響で中学時代の中でも一番最悪な時期に戻っていたのだった。

そして三橋と阿部と西浦高校野球部の新たな試練が始まることになる。

【続く】
1/7ページ