痛3題

【傷口】

阿部は自転車を駆って、闇夜を疾走した。
迷子になったシュンを送り届けたという三橋を捜す。

なぜこんな必死になっているのだろう。
阿部は全力で自転車を漕ぎながら考える。
多分三橋は、何もない顔で明日の部活に現れるだろうに。
無理をして、体調を崩してしまうことが心配なのだろうか。
確かにそれもある。
こんな夜中に、しかもシュンの話では薄着だったようだ。
だがここまで気持ちが焦るのは、それだけではない。

三橋の笑顔が寂しそうで、夜に消えてしまいそうだった。
シュンは阿部にそう言った。
そして心がケガをして、血を流しているみたいだったとも。
とりとめのないシュンの言葉は、不思議な説得力があった。

三橋が誰もいない闇夜の中で、1人で彷徨っている。
早く見つけなくては、と阿部は走る。
夜に消える前に見つけて、この手に捕まえるのだ。
大事なエースを。たった1人の大切な存在を。


帰ってきたシュンは、最初は三橋のことなど言わなかった。
怒りにまかせて歩いているうちに、道に迷ってしまったと言っただけだった。
その言葉を疑ったわけではない。
シュンの足に巻かれたハンカチを見た瞬間、阿部の心臓は一気に跳ね上がった。

無地の水色のハンカチには、見覚えがあった。
それはバッテリーの相方であり、3年間尽くすと決めた三橋の持ち物だった。
ハンカチに限らず、三橋の持ち物は水色が多い。
最初は単に好きな色なのかと思っていた。
明るい茶色のフワフワした髪や、同じ色の大きな瞳と、華奢な身体。
淡いパステルカラーは三橋の雰囲気に合っていた。

三橋って水色が好きなの?
以前、部員の誰かが三橋に聞いていた。
三橋は意外なことに、その質問に首を振った。
じゃあ何で、水色のものが多いの?
当然のように投げられた2つめの問いに、三橋はポツリと答えた。
三星、の。チーム、カラー、なんだ。
確かに練習試合をしたとき、三星の選手は水色の練習着だった。

少しでもチームに溶け込めるように。
水色には、そんな思いが込められていたのだろう。
だから三橋の中学時代からの持ち物は、可能な限り水色なのだ。
あのときの三橋は、遠い目をしていたような気がする。
癒えたようでいて、まだ完全には治っていない三橋の傷。
それ以来、水色のハンカチを見るたびに阿部は切ない気持ちになった。


三橋---!
夜の闇の中に浮かび上がる頼りない後姿に向かって、阿部は叫んだ。
シュンを問い詰めて、白状させた三橋の奇行。
阿部の家までシュンを送り届けた三橋は、そのまま帰宅しなかった。
携帯電話にも応答がなくて、自宅にも戻っておらず。
捜し回って、ようやく見つけた三橋。

振り返った三橋の表情に、阿部は愕然とした。
微かに笑みを浮かべてはいるが、そこには何の感情も浮かんでいない。
まさに夜の闇に溶ける寸前に見えた。
まずい。このままでは。
阿部は大急ぎで、三橋の元まで走る。

何やってんだ、こんな夜中に!どうして。1人で歩いてんだよ。
阿部が詰め寄っても、三橋は何も答えなかった。
どこか呆けたようなポカンとした顔で、阿部を見ている。

どうして、阿部君、悲しそうな、顔、してるの。
三橋は切羽詰った阿部に、訳がわからないという様子だった。
いつものようにキョドるわけでもなく、慌てふためくでもない。

焦燥に駆られた阿部はそのまま三橋の前に立ち、その両肩に手をかけた。
荒々しく引き寄せて、深く抱きしめる。
その勢いで自転車がガシャンと大きな音を立てて倒れた。
三橋はその音に驚いて身じろいだが、阿部はまるで気に留めなかった。


何で言わねぇんだ。1人で寂しいって。
阿部は、三橋の寝顔を見ながら思った。

発見した三橋を自転車の後部座席に乗せて、三橋の家へと連れ帰った。
風呂に入らせて、着替えさせて、就寝させる。
水分を摂らせて、髪を乾かして、まるで小さな子供に接する母親のように世話を焼いた。
歩き回って疲れていたのだろう。
ベットに横になるや否や、三橋はすとんと眠りに落ちた。

最初は阿部の家に泊めようとしたが、三橋は頑強に拒んだ。
気を、使われる、のは。辛いんだ。優しく、されれば、よけいに。
そう言われて、阿部は言葉に詰まった。
親切にされて、でも気を使って、寂しい。
親元を離れて親戚宅で過した中学生の三橋はそうだったのだろうか。
中学時代に心に負った傷は、まだ癒えていないのか。

そういえば両親は駆け落ち夫婦でボロアパートに住んでいた頃もあったという。
三橋家は裕福な家庭だと思うが、どういう事情なのだろう。
そこにはまだ語られていない悲しい過去があるのか。
阿部が知らない傷があるのだろうか。

1人で家にいると、寂しくて不安で怖くて、叫びだしたくなるんだ。
この暴挙の原因を問い詰めたら、三橋はそう答えた。
最近は笑顔も増えてきたし、オドオドしたり泣いたりする回数も減ってきたと思っていたのに。
阿部はやるせない気持ちで、眠る三橋の顔を見ている。


どうしたら、三橋の傷を癒してやれるのだろう。
阿部は指を伸ばして、三橋のフワフワした髪に触れた。

その途端、三橋の寝顔がふにゃりと崩れた。
そして目を閉じたままフフッと笑う。
そして「阿部くん」と小さく一言、阿部を呼んだ。

呼ばれた阿部は、慌てて手を引っ込めた。
起こしてしまったのか?と三橋の顔を覗きこんだが、違うようだ。
三橋は未だ夢の中の住人のようで、スースーと寝息を立てている。

脅かすなよと心の中で密かに文句を言いながら、阿部はまた三橋の寝顔を見る。
眠っているから、あの大きな瞳を見ることはできない。
だが先程までの呆けたような表情ではない。
休み時間や、激しい試合後などに見せる見慣れてしまった寝顔。
あどけないといえば聞こえはいいが、阿部に言わせればしまりのない顔だ。


三橋が眠ったら帰るつもりで、合鍵を借りていた。
だが今日はこのまま三橋の横で眠ろう。
阿部がいることで安心してくれているのだと、勝手に思うことにする。

三橋の心には、未だに癒しきれない傷がある。
1人で闇夜を彷徨わなければいられないような傷。
その傷口はどこにあるのか、どれだけ深いのか。
わからないのなら、わかるまで付き合ってやればいい。
焦って無理に触れて悪化させないように、ゆっくりと治してやればいい。

この数年後、阿部と三橋が毎日同じベットで眠るようになって。
阿部は時々この夜のことを思い出す。
三橋廉が投手ではなく、1人の人間として大事だと自覚した初めての夜のことを。
寝起きが悪いくせに、寝付きがよくて、いつも阿部より先に眠ってしまう恋人。
しまりのない笑顔はあのときのままだと、その寝顔を堪能するのだ。

阿部はゆっくりとベットに上がり、三橋の横に寝転んだ。
明日の朝、目覚めたとき、三橋はどんな顔をするだろう。
飛び上がって驚き、キョドキョドと焦る姿を想像して、少し笑う。
そして阿部も目を閉じて、三橋と同じ眠りの世界に落ちていった。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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