痛3題

【裸足の心】

おかしいな。
こっちの細いわき道から行けば、近いと思ったのに。。。
どうやら迷子になってしまった。
しかも家のド近所で。
自分がどこから来たのかさっぱりわからない。
シュンはキョロキョロとあたりを見回した。

どうしよう。
入り組んでいる細い道。広がる畑。そして住宅。
どこかで見たようであり、でもどこだかわからない。
力なく空を見上げると、月もない真っ暗な夜空が広がっている。
自分以外誰もいない闇夜は、寂しくて怖い。

つまらないことで、兄と喧嘩をした。
夕食の席で、所属するシニアチームの今日の練習の話をしたのだ。
チームメイトの気を抜いたプレーを説明し、それが腹立たしいのだと言った。
ちょっとした愚痴。そんな程度の気持ちだった。
すると兄はシュンを馬鹿にしたように言った。
チームメイトのちょっとしたミスを非難するのはよくないぞ、と。
さらに話しているうちにどんどん口調が激昂してしまった兄と弟。
すると父親も兄が正しいと言い、母親もチームメイトの悪口はよくないと言った。

父さんも母さんも、兄ちゃんの味方か!
不貞腐れてしまったシュンは、何も考えずに家を飛び出して、深夜の街を歩いた。
怒りの勢いのままに右に左にと、適当に角を曲がり続けた結果。
シュンは家の近所で迷子になるという何とも情けない事態になったのだった。


阿部、君の、弟、さんの、シュン、くん?
不意に背後から声をかけられたシュンは驚いた。
1語どころか2、3文字毎に言葉を切って喋る相手の声には覚えがある。
振り返って、予想通りの声の主を確認する。
兄のチームメイトで、兄とバッテリーを組んでいる投手の三橋だった。

どうしたの?
三橋はひょいと小首を傾げて、シュンを見た。
明るい茶色の柔らかい髪がフワリと揺れて、同じ色の屈託のない瞳がシュンを見つめる。
偶然だろうが、着ているシャツまで同じような明るい色。
まるで夜の闇に浮かんだ白い妖精のようだと思い、シュンは自分のその考えに呆れる。
妖精だって?兄ちゃんと同い年の男なのに!

道に、迷っちゃって。
シュンは正直に打ち明けた。早く帰りたい。
どのくらい歩いていたのかわからないが、もう疲れた。
そもそも家を出た原因の怒りさえ、どうでもよくなってしまうほどに。
携帯電話も家に忘れてしまったし、帰り道を聞きたくても歩いている人に全然行き会わない。
ここで知り合いに会えたのは幸運だ。

家、まで。送る、よ。
三橋がそう言ってくれたことに、シュンは素直に感謝した。
特に目印になるようなものも見えない真っ暗な夜。
しかもどうやら自分は方向オンチなのだとわかった。
道順を説明されても、うまく帰れる自信がなかった。
何よりもこの寂しさと怖さから解放されると思うと、ホッとした。


まったく兄ちゃんは酷いんですよ。父さんも母さんも兄ちゃんには何も言わないし。
シュンは並んで歩きながら、三橋に愚痴っていた。
三橋はふんわりとした笑顔を浮かべながら、シュンの話を聞いている。
ところどころで「ふうん」とか「そっか」などと言いながら。

思いのたけを全てぶちまけて、シュンはようやく何かがおかしいことに気がついた。
三橋は何でこんな真夜中に外にいるのだろう。
時計も携帯電話も持たないので、今の正確な時間はわからない。
だが一般的には寝静まっている時間だと思う。

オレは、阿部くん、みたいな、兄ちゃんがいるの、羨ましい。
三橋はポツリとそう呟いて、また笑う。
その笑顔がとても儚げで、今にも夜に消えそうに見えた。

三橋さんは、こんな夜になにしてたんですか?
シュンは、思い切って三橋に聞いてみた。
もしかしてこの三橋は物の怪か何かで、自分は化かされているのではなかろうか?
そんな馬鹿げた心配をしてしまうほど、今の三橋はどこか希薄な存在に見えた。
西浦高校の試合は、録画した映像を何回か見せてもらったことがある。
マウンドの三橋は、凛とした存在感があったと思う。
今目の前にいる三橋は、まるで別人だ。

今日は、仕事で、親が。2人とも、いないんだ。
そういう日は、夜中に、こうやって、散歩する。
1人っきりで、家にいるの、なんか、寂しくて。
そう言った三橋の横顔を見て、シュンは胸が締め付けられるような気がした。
以前、兄は三橋の家はすごくデカイと言っていた。
そのデカイ家に1人っきり。ケンカする兄弟もなく、両親も不在で。
寂しい気持ちを紛らわせるように、闇夜に歩き回るなんて。


足、ケガ、してる?
不意に三橋がシュンの足元に屈みこんだ。
実は随分前から靴擦れが痛かった。
口喧嘩の勢いで家を飛び出したから、素足にサンダル履きだった。
そんな状態で長時間歩いたから、右足の甲が擦りむけて血が滲んでいる。

オレに、つかまってて。
三橋はそう言うと、シュンの右足を持ち上げてサンダルを脱がせた。
片足立ちの不安定な状態のシュンが、屈んでいる三橋の肩に手をかけてバランスを取る。
三橋はポケットからハンカチを取り出して、シュンの足の甲に巻いた。
そして丁寧に、シュンの足に再びサンダルを履かせる。

これで、おうちまで。
そう言って、三橋はそっとシュンの足を地面に下ろした。
シュンは小さな声で「ありがとう」と礼を言う。
ケガをした足は、これで楽になった。

三橋の裸足の心もケガをしているのではないかと、シュンは思う。
誰もいない夜、家にいると寂しくて、と闇を彷徨う三橋。
擦りむけて血が滲んでも、誰も手当てをしてくれない。
そんな三橋に、兄や両親のことで愚痴を言うなんて。
申し訳ないと思うけど、謝るのも何か違う気がする。
多分謝れば、三橋はますます寂しくなってしまう気がするから。


タカ、シュンはいた?
いねぇよ。あいつどこ行ったんだよ!
三橋に連れられて、自宅の前まで戻ったシュンは母と兄の声を聞いた。
自分のことを捜してくれていたのだと思い、ホッとする。

早く、帰って、あげなよ。
三橋がシュンの肩を叩いて、またふんわりと笑った。
そして三橋は「じゃあね」と言い残して、踵を返す。

お礼を。うちに寄ってください。
シュンがそう言ったが、振り返った三橋はまた儚げに笑うと首を振った。
そしてそのまま夜の闇の中へと、三橋は歩き出す。
シュンはその後姿が闇に溶けて見えなくなるまで、見送っていた。

シュン!テメーどこ行ってたんだよ!
不意に背後から声をかけられて、シュンは慌てて振り返った。
怖い顔の兄が仁王立ちで、シュンを睨みつけている。
その声を聞きつけて、父親と母親が家から飛び出してきた。
ちょっと厳しい両親がいて、口うるさい兄がいて、夜でも全然寂しくない家。
そんな当たり前のことが嬉しいと、シュンは思った。

どうした?
シュンの様子を訝しく思ったのだろう。
兄がシュンの顔を覗きこんでいる。
兄ならば、三橋の裸足の心の傷を手当てできるだろうか。

オレに、会ったことは、ナイショにしてね。
三橋は別れ際にそう言っていた。
兄に言ってしまいたい。
でも親切にしてくれた三橋との約束は守らなくてはいけないだろう。
シュンは迷いを振り切るように「何でもないよ」と答えた。

【続く】
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