切ない5題
【不安不安孤独】
「三橋、行こう」
三橋は不安げな表情で、今出たばかりの寮の玄関を振り返った。
阿部はその肩に腕を回して抱き寄せ、安心させるようにポンと肩を叩いた。
あの晩、阿部は三橋の部屋が見渡せる通路でひっそりと張り込んでいた。
大きな柱の影。ここなら三橋の部屋も、あの正捕手だった男の部屋も見渡せる。
どちらかが部屋を出ればわかるし、柱で身を隠しやすい。
先に動いたのは男の方だった。
廊下に出て、辺りをキョロキョロと見回した。
周囲に誰もいないことを確認しているのだろう。
そして三橋の隣の部屋に入っていく。
なぜ三橋の部屋ではなくて、隣の部屋に?
三橋の部屋の隣は確か空室だったはずだ。
不可思議な男の行動を訝しく思った阿部は、後を追った。
壁の一部を外して、男は三橋の部屋に侵入した。
阿部は隣室に身を沈めて、デジタルカメラを取り出した。
男が何か三橋に不埒なことをするようなら、それを押さえてやろうと持参したものだ。
本当はすぐに男から引き離して、抱きしめてやりたい。
だがこのことで何か言い立てても、男の部内での人気と信頼は絶大なものだ。
どうなるかはわからないが、証拠を押さえておいた方がいいだろう。
三橋と男のやりとりを、ジリジリする思いで撮影した。
男を部屋から追い払った後、三橋は阿部に身体を預けるようにして意識を失った。
緊張と疲労のせいなのだろう。
阿部は慌てて三橋を抱きとめて、その顔を見た。
辛そうに眉を寄せて、歯を食いしばり、目尻には涙が溜まっていた。
高校時代から三橋の寝顔を見慣れていた阿部は、愕然とした。
子供のようにあどけないと思っていた三橋の寝顔は、今や憔悴しきっていた。
阿部はくったりと力が抜けた三橋の身体をベットに寝かせて、布団をかけた。
そしてその横に腰掛けて、髪を撫でる。
ほんの数日触れていなかっただけなのに、その感触は酷く懐かしい。
そうしながら、阿部はもう片方の手でポケットを押さえた。
そこには、先程使用したデジタルカメラが突っ込んである。
当初、阿部は撮影した画像をどうこうする気はなかった。
三橋にこれ以上近づかないように、危害を加えないように。
そのための駆け引きの道具にするだけのつもりだった。
だが今は違う。
三橋は阿部の想像以上に追い詰められている。
あの男が三橋に手を出さないようにするだけではダメだ。
三橋の視界に入らない場所に追いやってしまわなくてはならない。
そのために自分は悪者になる。
阿部は三橋の寝顔を見ながら、阿部は決意を固めた。
「あの人をこのまま部に置くなら、これを公表します。」
阿部ははっきりとした声で、そう告げた。
翌日、阿部は監督とコーチをミーティング室に呼び出して話をした。
正捕手であった男が三橋に何をしたか。
そして撮影した動画を見せた。
監督とコーチは顔を見合わせて渋い表情だった。
こんな大それたことをした男に対して、怒りを見せると思っていたのに。
2人はヒソヒソと何かを話していたが、次の瞬間には阿部に信じられないことを言った。
このことは内密にして欲しい。忘れて欲しいと。
これが名門大学の野球部か。
阿部は怒りで握り締めた拳を振るわせた。
確かに彼はプロ入り確実の逸材と言われる捕手なのだ。
今後のこの大学の戦績にも大いに影響するだろう。
もしかしてプロ入りに際しては、何か監督らに金銭的な見返りもあるのかもしれない。
そういうものはもちろん違法だが、どこの大学でもあるという話だし。
だから阿部は一番取りたくない手段を取らざるを得なかった。
野球部から彼を追い出すのだ。
後は監督、コーチと彼で話をすればいい。
事が世間に明らかになれば、彼は犯罪者だ。
それに監督、コーチも管理責任を問われて、解任ということすらありえる。
それならば表向き「自主退部」という形が、一番円満だ。
「阿部、おまえはそこまでして正捕手になりたいのか」
ミーティング室を出ようとした阿部に、監督が言う。
違う。そこまでして守りたいものは正捕手の座ではなく、三橋だ。
だが阿部は何も答えずに、ミーティング室を出た。
しばらくして、件の男は去った。
退部届を提出して、大学も中退したのだ。
野球推薦で入学したのに退部などすると、大学にも何となくいづらくなるらしい。
何とも後味が悪いのに、毎日阿部に投げることができて嬉しい気持ちもある。
三橋はそんな自分の気持ちを持て余していた。
阿部が何かをしたらしい。
程なくしてそういう噂が立った。
男は復帰まで時間がかかるものの、2度と野球ができないような怪我ではなかった。
そして怪我の翌日、阿部は監督とコーチを呼び出して、長いこと話をしていた。
たまたまその時にミーティング室の前を通った部員が、言い争うような声が聞いたと言い出した。
だから阿部が何か策を弄して、彼を追い出して、正捕手の座を奪ったのではないか。
そんな噂が、学生寮内を飛び交っていた。
三橋はその噂を居たたまれない気持ちで聞いていた。
何かをした、というのはあながち間違いではない。
阿部が監督とコーチにあの夜の撮影した動画を見せたのは、三橋のためだ。
三橋を守るために、阿部は悪者になったのだ。
「あの日、何が、起きたのか。皆に、話そう」
三橋はそう言ったが、阿部は首を振った。
「言いたいヤツには何でも言わせておけばいいよ」
彼が去った日の夜、阿部は三橋の部屋にいた。
「オレは三橋がそばにいてくれて、三橋の球が捕れればいいんだ」
阿部はそう言って、並んでベットに座る三橋の肩を抱き寄せた。
寮というこの空間がもどかしいと阿部は思う。
三橋さえいればいいという言葉は決して嘘ではない。
でも監督やコーチとの信頼関係は、完全に失われた。
阿部はこの先正捕手でいる限り、実力ではなく真相を暴露されたくないからではないかと疑い続ける。
いつまで続くかわからないが、噂のせいで部員たちからも浮いている。
不安で不安で孤独な心。
三橋と抱き合って、身体を繋げて、癒されたいと思う。
でも顔見知りばかりで、音がまる聞こえの寮の部屋では無理だ。
「ね、阿部君。寮を、出ない?」
阿部の肩に頭を乗せたまま、三橋がそっと言った。
驚いて三橋を見ると、阿部が大好きな茶色の大きな瞳がじっとこちらを見上げている。
それもいいかもしれない。
阿部は三橋の肩を抱く手に、力を込めた。
「三橋、行こう」
阿部が寮の玄関を振り返って見ている三橋に声を掛けた。
今日三橋と阿部は、寮を出る。
あの事件の日から、すでに数ヶ月が経っている。
まず双方の親に了解を得るだけで、時間がかかった。
金がかかる話であるので、親の援助は必要不可欠だった。
そして休みの合間をぬって、部屋探しだ。
広さ、家賃、大学からの距離。
それらを全てクリアする物件探しはなかなか大変だった。
その間に、部を去ったあの男と三橋や阿部の噂はもうすっかりなくなっていた。
彼が社会人野球の名門である企業に就職したのだという話を聞いて、2人は少し安心した。
それでもやはり、三橋も阿部も寮を出ようという意思は変わらなかった。
そしてようやく決まった2人だけの部屋に向かって、足を踏み出した。
不安で不安で孤独な夜は、恋人のぬくもりで傷ついた心を癒したい。
そんなささやかな願いを、かなえたいからだ。
【終】お付き合いいただきありがとうございました。
「三橋、行こう」
三橋は不安げな表情で、今出たばかりの寮の玄関を振り返った。
阿部はその肩に腕を回して抱き寄せ、安心させるようにポンと肩を叩いた。
あの晩、阿部は三橋の部屋が見渡せる通路でひっそりと張り込んでいた。
大きな柱の影。ここなら三橋の部屋も、あの正捕手だった男の部屋も見渡せる。
どちらかが部屋を出ればわかるし、柱で身を隠しやすい。
先に動いたのは男の方だった。
廊下に出て、辺りをキョロキョロと見回した。
周囲に誰もいないことを確認しているのだろう。
そして三橋の隣の部屋に入っていく。
なぜ三橋の部屋ではなくて、隣の部屋に?
三橋の部屋の隣は確か空室だったはずだ。
不可思議な男の行動を訝しく思った阿部は、後を追った。
壁の一部を外して、男は三橋の部屋に侵入した。
阿部は隣室に身を沈めて、デジタルカメラを取り出した。
男が何か三橋に不埒なことをするようなら、それを押さえてやろうと持参したものだ。
本当はすぐに男から引き離して、抱きしめてやりたい。
だがこのことで何か言い立てても、男の部内での人気と信頼は絶大なものだ。
どうなるかはわからないが、証拠を押さえておいた方がいいだろう。
三橋と男のやりとりを、ジリジリする思いで撮影した。
男を部屋から追い払った後、三橋は阿部に身体を預けるようにして意識を失った。
緊張と疲労のせいなのだろう。
阿部は慌てて三橋を抱きとめて、その顔を見た。
辛そうに眉を寄せて、歯を食いしばり、目尻には涙が溜まっていた。
高校時代から三橋の寝顔を見慣れていた阿部は、愕然とした。
子供のようにあどけないと思っていた三橋の寝顔は、今や憔悴しきっていた。
阿部はくったりと力が抜けた三橋の身体をベットに寝かせて、布団をかけた。
そしてその横に腰掛けて、髪を撫でる。
ほんの数日触れていなかっただけなのに、その感触は酷く懐かしい。
そうしながら、阿部はもう片方の手でポケットを押さえた。
そこには、先程使用したデジタルカメラが突っ込んである。
当初、阿部は撮影した画像をどうこうする気はなかった。
三橋にこれ以上近づかないように、危害を加えないように。
そのための駆け引きの道具にするだけのつもりだった。
だが今は違う。
三橋は阿部の想像以上に追い詰められている。
あの男が三橋に手を出さないようにするだけではダメだ。
三橋の視界に入らない場所に追いやってしまわなくてはならない。
そのために自分は悪者になる。
阿部は三橋の寝顔を見ながら、阿部は決意を固めた。
「あの人をこのまま部に置くなら、これを公表します。」
阿部ははっきりとした声で、そう告げた。
翌日、阿部は監督とコーチをミーティング室に呼び出して話をした。
正捕手であった男が三橋に何をしたか。
そして撮影した動画を見せた。
監督とコーチは顔を見合わせて渋い表情だった。
こんな大それたことをした男に対して、怒りを見せると思っていたのに。
2人はヒソヒソと何かを話していたが、次の瞬間には阿部に信じられないことを言った。
このことは内密にして欲しい。忘れて欲しいと。
これが名門大学の野球部か。
阿部は怒りで握り締めた拳を振るわせた。
確かに彼はプロ入り確実の逸材と言われる捕手なのだ。
今後のこの大学の戦績にも大いに影響するだろう。
もしかしてプロ入りに際しては、何か監督らに金銭的な見返りもあるのかもしれない。
そういうものはもちろん違法だが、どこの大学でもあるという話だし。
だから阿部は一番取りたくない手段を取らざるを得なかった。
野球部から彼を追い出すのだ。
後は監督、コーチと彼で話をすればいい。
事が世間に明らかになれば、彼は犯罪者だ。
それに監督、コーチも管理責任を問われて、解任ということすらありえる。
それならば表向き「自主退部」という形が、一番円満だ。
「阿部、おまえはそこまでして正捕手になりたいのか」
ミーティング室を出ようとした阿部に、監督が言う。
違う。そこまでして守りたいものは正捕手の座ではなく、三橋だ。
だが阿部は何も答えずに、ミーティング室を出た。
しばらくして、件の男は去った。
退部届を提出して、大学も中退したのだ。
野球推薦で入学したのに退部などすると、大学にも何となくいづらくなるらしい。
何とも後味が悪いのに、毎日阿部に投げることができて嬉しい気持ちもある。
三橋はそんな自分の気持ちを持て余していた。
阿部が何かをしたらしい。
程なくしてそういう噂が立った。
男は復帰まで時間がかかるものの、2度と野球ができないような怪我ではなかった。
そして怪我の翌日、阿部は監督とコーチを呼び出して、長いこと話をしていた。
たまたまその時にミーティング室の前を通った部員が、言い争うような声が聞いたと言い出した。
だから阿部が何か策を弄して、彼を追い出して、正捕手の座を奪ったのではないか。
そんな噂が、学生寮内を飛び交っていた。
三橋はその噂を居たたまれない気持ちで聞いていた。
何かをした、というのはあながち間違いではない。
阿部が監督とコーチにあの夜の撮影した動画を見せたのは、三橋のためだ。
三橋を守るために、阿部は悪者になったのだ。
「あの日、何が、起きたのか。皆に、話そう」
三橋はそう言ったが、阿部は首を振った。
「言いたいヤツには何でも言わせておけばいいよ」
彼が去った日の夜、阿部は三橋の部屋にいた。
「オレは三橋がそばにいてくれて、三橋の球が捕れればいいんだ」
阿部はそう言って、並んでベットに座る三橋の肩を抱き寄せた。
寮というこの空間がもどかしいと阿部は思う。
三橋さえいればいいという言葉は決して嘘ではない。
でも監督やコーチとの信頼関係は、完全に失われた。
阿部はこの先正捕手でいる限り、実力ではなく真相を暴露されたくないからではないかと疑い続ける。
いつまで続くかわからないが、噂のせいで部員たちからも浮いている。
不安で不安で孤独な心。
三橋と抱き合って、身体を繋げて、癒されたいと思う。
でも顔見知りばかりで、音がまる聞こえの寮の部屋では無理だ。
「ね、阿部君。寮を、出ない?」
阿部の肩に頭を乗せたまま、三橋がそっと言った。
驚いて三橋を見ると、阿部が大好きな茶色の大きな瞳がじっとこちらを見上げている。
それもいいかもしれない。
阿部は三橋の肩を抱く手に、力を込めた。
「三橋、行こう」
阿部が寮の玄関を振り返って見ている三橋に声を掛けた。
今日三橋と阿部は、寮を出る。
あの事件の日から、すでに数ヶ月が経っている。
まず双方の親に了解を得るだけで、時間がかかった。
金がかかる話であるので、親の援助は必要不可欠だった。
そして休みの合間をぬって、部屋探しだ。
広さ、家賃、大学からの距離。
それらを全てクリアする物件探しはなかなか大変だった。
その間に、部を去ったあの男と三橋や阿部の噂はもうすっかりなくなっていた。
彼が社会人野球の名門である企業に就職したのだという話を聞いて、2人は少し安心した。
それでもやはり、三橋も阿部も寮を出ようという意思は変わらなかった。
そしてようやく決まった2人だけの部屋に向かって、足を踏み出した。
不安で不安で孤独な夜は、恋人のぬくもりで傷ついた心を癒したい。
そんなささやかな願いを、かなえたいからだ。
【終】お付き合いいただきありがとうございました。
5/5ページ