切ない5題
【ホントウは何時だってココにある】
「正捕手は阿部でいく」
監督に力強くそう言われて、肩を叩かれた。
周りからは拍手が沸き起こる。
だが当の阿部は、素直に喜ぶことができなかった。
それは突然だった。
部の練習中、監督に呼ばれた。
未だ補欠の控え捕手である阿部にとっては、それは珍しいことだった。
呼ばれた先は、グラウンド。
レギュラーの選手たちが顔を揃えている。
その中には、ここ数日間くらい話をしていない三橋もいた。
そして阿部は監督から、三橋と噂があるあの正捕手の2年生が怪我をしたということを知った。
昨晩、寮の自室で転倒したという彼は、今日は病院で精密検査を受けていたという。
部のトレーナーがその前に看たところによると、腕を骨折している。
当面はプレーすることができないだろうということだった。
だから阿部を含めて、控え捕手が急遽集められたのだ。
この場で簡単なテストを行い、新しい正捕手を決めるのだ。
レギュラーの投手たちが正捕手候補の選手たちに投げる。
打席にはレギュラーの上位打線の選手たちが打席に立つ。
そうしてキャッチングや配球などを監督やコーチらが採点する。
結果は阿部の圧勝、独壇場だった。
他の捕手たちは今まで正捕手と圧倒的な力差があったため、すでに守備位置の変更などを試みていた。
本気で彼から正捕手を奪うと考えていたのは、阿部1人だったのだ。
日夜努力を重ね、データ分析等の作業を怠らなかった阿部に敵うはずもなかった。
阿部にしてみれば、大いに不満だった。
正捕手の怪我はまったくもって不測の事態だった。
しかも他のライバルはもう捕手を諦めてしまった状態。
まさしく「たなぼた」と言っていい。
それによりにもよって、何故今なのだろうと思う。
三橋との関係が最悪である時に。
だがそんな阿部の思惑などまるで置き去りにされ、トントンと話は進む。
だが考えようによっては、三橋との関係を修復するチャンスなのかもしれない。
三橋の首筋にその「印」を見つけたときには、何も考えられなかった。
他の誰かに奪われた、阿部を裏切ったのだと思った。
だが冷静に考えてみると、いろいろと疑問も湧いてくる。
三橋は話すことが得意な性質ではないが、決して不誠実な人間ではない。
例え阿部から心が離れたとしても、阿部に笑顔を見せながら裏で他の誰かと付き合うことなどしない。
よく言えば真面目、悪く言えば不器用な男なのだ。
キスマークなどつけられるような関係になる前に、きちんと阿部と向き合うだろう。
ではあの「印」はどういうことなのか。
阿部が思いつける結論はただ1つだった。
三橋の意思に反して、無理矢理刻まれた「印」なのだ。
「よし、いいぞ!」
そして阿部は久しぶりに三橋の球を受けていた。
キレのいい変化球と、見事なコントロールは健在だった。
阿部の構えた場所に寸分の狂いもなく投げ込まれる球。
高校時代よりも球威も増している。
阿部が愛したエースは、離れていた間にさらに成長していた。
不本意な正捕手への昇格も、ここしばらくの三橋とのすれ違いも忘れて、阿部は気分がよかった。
「三橋、悪かった。」
練習の後、三橋と並んでロッカールームへと向かいながら、阿部は言った。
三橋が歩きながら、阿部の顔を見上げてくる。
2人とも高校時代に比べて身長は伸びたが、身長差はほとんど変わらなかった。
「おまえの言うこと、ちゃんと聞こうとしなくて。オレ」
「もう、いいんだ。」
三橋が阿部の言葉を遮った。小さいが鋭い口調だ。
怪訝な気持ちで三橋の顔を覗きこんだ阿部は、驚いた。
三橋の大きな瞳には、涙が浮かんでいた。
「最後に、阿部、くん、に、投げられて。よかった。」
「最後?」
その言葉の意味がわからずに、阿部は困惑した。
だが三橋は、震える声で話し続けた。
「オレ、取り返しが、つかないこと、した。センパイに」
「え?」
先輩とは三橋と噂があった、昨日まで正捕手だった男のことだろう。
どういうことかと聞き返そうとした阿部は、三橋の手が震えているのを見て悟った。
この正捕手交代の原因となった怪我の事情を、三橋は知っているのだ。
阿部は自分の迂闊さを心底悔やんだ。
無理矢理首に「印」を刻まれた三橋を、突き放した。
三橋は阿部に助けを求めることすらできずに、何かの渦に巻き込まれたのだ。
そして阿部に投げるのは、これで最後だと言っている。
そこまで追い詰められるまで、阿部は三橋のことを見ようとさえしていなかった。
どうして。どうしてこんなことに。
阿部は三橋の両肩を掴み、自分の方を向かせた。
そして三橋の冷たい右手を掴んで、両手で暖めるように包んだ。
誰にも渡さない。大事にする。何からも守る。
同じ大学に進むと決まったあの日、阿部はそう思った筈なのに。
三橋が阿部から逃れるように右腕を引こうとしたが、阿部は離さなかった。
手から伝わってくる三橋の想い。
三橋は変わらずに阿部を好きだと思っていてくれるのがわかる。
阿部が三橋のことを好きなのだと、理解してくれているのがわかる。
ホントウは何時だってココにある。
こうして手を繋ぐことで、簡単に確認できる2人の絆が。
「まさか、そんな、酷い、怪我だなんて。オ、オレのせいだ」
「三橋、落ち着いて。ちゃんと話せ」
阿部は懸命に、三橋から話を聞きだそうとした。
だが三橋はそれを拒否するように首を振る。
三橋の動きに合わせて、涙の飛沫が散った。
「オレ、もう、阿部君に、投げる資格、ない。」
「何でだよ!ちゃんと理由を。。。」
「センパイと、話す。そしたら、阿部、く、にも、言うから」
三橋はそれだけ言うと、逃げるように小走りで遠ざかっていく。
阿部は呆然とその後姿を見送っていた。
あの朝とは逆だ。
三橋の首筋に「印」を見つけた朝。
何か言いたそうな三橋に背を向けて、阿部は立ち去った。
今はまさにその逆だった。
阿部を置き去りにして、三橋が遠ざかっていく。
このままでは終わらせない。
阿部は三橋の後ろ姿を見ながら、拳を握り締めた。
三橋をこれ以上傷つけるわけにはいかない。
取り戻して、守って、愛さなくてはいけない。
まずは事態を把握し、そして収拾しなくては。
阿部は愛するエースのために、その頭脳を駆使して、考えを巡らせた。
【続く】
「正捕手は阿部でいく」
監督に力強くそう言われて、肩を叩かれた。
周りからは拍手が沸き起こる。
だが当の阿部は、素直に喜ぶことができなかった。
それは突然だった。
部の練習中、監督に呼ばれた。
未だ補欠の控え捕手である阿部にとっては、それは珍しいことだった。
呼ばれた先は、グラウンド。
レギュラーの選手たちが顔を揃えている。
その中には、ここ数日間くらい話をしていない三橋もいた。
そして阿部は監督から、三橋と噂があるあの正捕手の2年生が怪我をしたということを知った。
昨晩、寮の自室で転倒したという彼は、今日は病院で精密検査を受けていたという。
部のトレーナーがその前に看たところによると、腕を骨折している。
当面はプレーすることができないだろうということだった。
だから阿部を含めて、控え捕手が急遽集められたのだ。
この場で簡単なテストを行い、新しい正捕手を決めるのだ。
レギュラーの投手たちが正捕手候補の選手たちに投げる。
打席にはレギュラーの上位打線の選手たちが打席に立つ。
そうしてキャッチングや配球などを監督やコーチらが採点する。
結果は阿部の圧勝、独壇場だった。
他の捕手たちは今まで正捕手と圧倒的な力差があったため、すでに守備位置の変更などを試みていた。
本気で彼から正捕手を奪うと考えていたのは、阿部1人だったのだ。
日夜努力を重ね、データ分析等の作業を怠らなかった阿部に敵うはずもなかった。
阿部にしてみれば、大いに不満だった。
正捕手の怪我はまったくもって不測の事態だった。
しかも他のライバルはもう捕手を諦めてしまった状態。
まさしく「たなぼた」と言っていい。
それによりにもよって、何故今なのだろうと思う。
三橋との関係が最悪である時に。
だがそんな阿部の思惑などまるで置き去りにされ、トントンと話は進む。
だが考えようによっては、三橋との関係を修復するチャンスなのかもしれない。
三橋の首筋にその「印」を見つけたときには、何も考えられなかった。
他の誰かに奪われた、阿部を裏切ったのだと思った。
だが冷静に考えてみると、いろいろと疑問も湧いてくる。
三橋は話すことが得意な性質ではないが、決して不誠実な人間ではない。
例え阿部から心が離れたとしても、阿部に笑顔を見せながら裏で他の誰かと付き合うことなどしない。
よく言えば真面目、悪く言えば不器用な男なのだ。
キスマークなどつけられるような関係になる前に、きちんと阿部と向き合うだろう。
ではあの「印」はどういうことなのか。
阿部が思いつける結論はただ1つだった。
三橋の意思に反して、無理矢理刻まれた「印」なのだ。
「よし、いいぞ!」
そして阿部は久しぶりに三橋の球を受けていた。
キレのいい変化球と、見事なコントロールは健在だった。
阿部の構えた場所に寸分の狂いもなく投げ込まれる球。
高校時代よりも球威も増している。
阿部が愛したエースは、離れていた間にさらに成長していた。
不本意な正捕手への昇格も、ここしばらくの三橋とのすれ違いも忘れて、阿部は気分がよかった。
「三橋、悪かった。」
練習の後、三橋と並んでロッカールームへと向かいながら、阿部は言った。
三橋が歩きながら、阿部の顔を見上げてくる。
2人とも高校時代に比べて身長は伸びたが、身長差はほとんど変わらなかった。
「おまえの言うこと、ちゃんと聞こうとしなくて。オレ」
「もう、いいんだ。」
三橋が阿部の言葉を遮った。小さいが鋭い口調だ。
怪訝な気持ちで三橋の顔を覗きこんだ阿部は、驚いた。
三橋の大きな瞳には、涙が浮かんでいた。
「最後に、阿部、くん、に、投げられて。よかった。」
「最後?」
その言葉の意味がわからずに、阿部は困惑した。
だが三橋は、震える声で話し続けた。
「オレ、取り返しが、つかないこと、した。センパイに」
「え?」
先輩とは三橋と噂があった、昨日まで正捕手だった男のことだろう。
どういうことかと聞き返そうとした阿部は、三橋の手が震えているのを見て悟った。
この正捕手交代の原因となった怪我の事情を、三橋は知っているのだ。
阿部は自分の迂闊さを心底悔やんだ。
無理矢理首に「印」を刻まれた三橋を、突き放した。
三橋は阿部に助けを求めることすらできずに、何かの渦に巻き込まれたのだ。
そして阿部に投げるのは、これで最後だと言っている。
そこまで追い詰められるまで、阿部は三橋のことを見ようとさえしていなかった。
どうして。どうしてこんなことに。
阿部は三橋の両肩を掴み、自分の方を向かせた。
そして三橋の冷たい右手を掴んで、両手で暖めるように包んだ。
誰にも渡さない。大事にする。何からも守る。
同じ大学に進むと決まったあの日、阿部はそう思った筈なのに。
三橋が阿部から逃れるように右腕を引こうとしたが、阿部は離さなかった。
手から伝わってくる三橋の想い。
三橋は変わらずに阿部を好きだと思っていてくれるのがわかる。
阿部が三橋のことを好きなのだと、理解してくれているのがわかる。
ホントウは何時だってココにある。
こうして手を繋ぐことで、簡単に確認できる2人の絆が。
「まさか、そんな、酷い、怪我だなんて。オ、オレのせいだ」
「三橋、落ち着いて。ちゃんと話せ」
阿部は懸命に、三橋から話を聞きだそうとした。
だが三橋はそれを拒否するように首を振る。
三橋の動きに合わせて、涙の飛沫が散った。
「オレ、もう、阿部君に、投げる資格、ない。」
「何でだよ!ちゃんと理由を。。。」
「センパイと、話す。そしたら、阿部、く、にも、言うから」
三橋はそれだけ言うと、逃げるように小走りで遠ざかっていく。
阿部は呆然とその後姿を見送っていた。
あの朝とは逆だ。
三橋の首筋に「印」を見つけた朝。
何か言いたそうな三橋に背を向けて、阿部は立ち去った。
今はまさにその逆だった。
阿部を置き去りにして、三橋が遠ざかっていく。
このままでは終わらせない。
阿部は三橋の後ろ姿を見ながら、拳を握り締めた。
三橋をこれ以上傷つけるわけにはいかない。
取り戻して、守って、愛さなくてはいけない。
まずは事態を把握し、そして収拾しなくては。
阿部は愛するエースのために、その頭脳を駆使して、考えを巡らせた。
【続く】