切ない5題
【信じてもくれないの?】
伸ばした手は届かなかった。
大好きな人。自分を初めて認めてくれてここまで引き上げてくれた人。
三橋の声が聞こえたのかどうかはわからない。
だが阿部は振り返ることなく、三橋から離れていった。
三橋が今ここにいるのは、阿部という捕手に出逢えたおかげだと思っている。
甲子園という夢を追いかけた高校での日々。
そしてその後、野球の強豪といわれる大学でまた野球を続けている。
推薦入学できたのも、阿部が三橋の力を引き出してくれたからだ。
その結果、こうして設備が整った恵まれた環境で、野球漬けの日々を送っている。
同じ大学に進むために、阿部はわざわざ受験をしてくれた。
しかもこの大学は、1年上に名捕手がいるのに。
申し訳ないと涙ぐむ三橋に、阿部は気にするなと笑っていた。
三橋は入部早々ローテーションの一角を任されることになって、阿部には投げられなくなった。
それでも阿部は、落ち込む三橋を励ましてくれた。
オレも早くレギュラーになるから、待っててくれと言った。
三橋はその言葉を信じて、待つことにした。
寮は案外人目があるから、恋人として2人の時間を持つことは不可能だった。
それでも同じ講義や寮の食事時には、阿部と顔を合わせる。
わずかな逢瀬を楽しみにしながら、三橋は日々練習に没頭した。
2年生の正捕手である先輩は、阿部に似ている部分もあった。
三橋のコンディションに非常に気を使うところとか、スキンシップを取ろうとするところとか。
マッサージも勉強しているという彼は、三橋の手や腕に触れてチェックするようなことを練習後に必ずする。
どうやらその男から見ても、三橋は投手のくせに無頓着すぎるというのが感想らしい。
重いものを持つなとか、自主トレで投げすぎるなとか、小言を言う。
そして彼は三橋に、阿部に依存しすぎなのではないかと忠告した。
生活の全てに関して、阿部の意見にはほとんど逆らわずにいる三橋。
それはどうやらかなり奇異なことに見えたらしい。
阿部のことを信頼するのは決して悪いことではないが、依存はよくないと言った。
三橋にはそれは大いに身に染みる言葉だった。
高校1年の夏、三橋は配球を全て阿部任せにして、挙句に首を振るサインまで出された。
それは責任をすべて阿部に押し付けることなのだと、今なら判る。
少しでも阿部の負担を軽くしたい。
依存するのではなく、共に進んで行きたいと思う。
阿部が正捕手になったときには、自分は今より凄い投手になっていなくてはならない。
だから顔を合わせる時間が短くても、2人きりの時間がなくても。
三橋は寂しい気持ちを堪えて、懸命に笑った。
そんなある日、三橋は不可思議な現象に見舞われることになった。
三橋は酷く疲れており、眠かった。
いつもと同じ練習で、同じ授業。
その時に限って、なぜそんなにきつかったのかはわからない。
食堂で阿部や他の1年生と夕食を摂った後、恒例のバッテリーミーティングに参加した。
レギュラーの投手と捕手が行うこの打ち合わせは、時間は短いが、毎日行われる。
2人きりではなく他のレギュラーの投手も含めた数人で、正捕手の部屋で話し合いをする。
この打ち合わせの途中から、眠くてたまらなかった。
三橋の部屋は正捕手の部屋の向かいで、廊下の幅ほどの距離しか離れていない。
でもそのわずかな距離すらもどかしいほど、身体が重かった。
三橋は自分の部屋に入るなり、ベットに倒れこんで眠りに落ちた。
その晩、真夜中。
三橋は至近距離に他人の気配を感じた。
阿部君?
睡眠の中にドップリと浸かっていた三橋は、朦朧とする意識で阿部だと思った。
阿部の大学合格が決まって、入寮するまでの間に阿部と三橋は何度かそういうことをした。
親の目を盗んだ短い時間、つかの間の情事。
お互いに初めてだったこともあり、それは拙い行為で快楽を感じるところまではいかなかった。
それでも身体を繋げて1つになれたということが嬉しかった。
気配は明らかな目的を持って、三橋の身体を触っている。
三橋は阿部の名を呼んだのに、それが声になっていないことに気づいた。
そして目を開けても、何も見えない。身体も動かせない。
目と口を塞がれ、身体を拘束されているのだと気がついた。
一気に意識が覚醒する。瞬時に阿部ではないと確信した。
服の上から三橋の身体を触っていた相手が、着ているシャツを捲り上げて素肌に触れてくる。
恐怖と嫌悪感で悲鳴を上げたが、それはくぐもった呻きにしかならなかった。
そして朝、目を覚ましたときには何の痕跡も残っていなかった。
目も口も塞がれておらず、身体も特に拘束されてもいない。
昨晩あまりにも疲労していたために、着替えもしないで眠ってしまった。
寝巻きではないシャツが、しわくちゃになっている。
夢か。三橋はそう思った。
まずはホッとし、次の瞬間には猛烈に恥ずかしくなった。
寮に入って、阿部とそういうことをする機会がなくなった。
これはきっとそういう願望が見せている夢なのだと思ったのだ。
だが次の瞬間、三橋は自分の身体の異変に気がついて驚いた。
両方の手首を取り巻くように、痕がついていた。
まるで腕輪のように、うっすらと皮膚の色が変わっている。
三橋は慌てて、自室のドアを確認した。
鍵はダブルロックになっているが、2つともきちんと鍵がかかっている。
その上、チェーンロックもしっかりかかっている。
誰かが簡単に侵入することなどできないということだ。
三橋は一番手っ取り早い手段で、この場を回避した。
気のせいだと思い込むことにしたのだった。
シャツのまま寝てしまったから、袖の痕がついてしまったのだ。
阿部に会いたくて、少々淫らな夢を見てしまった日に起きた偶然。
だから忘れてしまおうと思った。
その後、頻繁に三橋はその「悪夢」を見るようになった。
誰ともしれない相手が三橋の視覚と声を奪い、身体を拘束して触ってくる。
そしてある朝、ついに三橋は自分の身体にその痕跡を見つけた。
あの「悪夢」の中で、相手は三橋の首筋を吸い上げていた。
鬱血した痣のようなものが、首元にくっきりと残っている。
もう気のせいではない。侵入者はいたのだ。
阿部に相談しよう。助けてもらおう。
三橋は不安な面持ちで、朝の食堂へと向かった。
「おはよう、阿部君」
阿部の顔を見ると、ホッとした。
高校時代からいつも自分を支えてくれた捕手。そして最愛の恋人。
阿部ならきっと助けてくれるだろう。
だがいつも通りの笑顔を見せた阿部はすぐに顔を強ばらせた。
阿部の視線が三橋の首に注がれている。
三橋は驚き、そして慌てて首元を押さえる。
「阿部、く、これは、ちがくて」
「違う?何が」
阿部の視線がまるで汚いものでも見るかのように変わった。
三橋はどうしていいかわからず、ただ縋るように阿部を見た。
「俺は正捕手じゃねぇから、用なしか」
「ちが、う!オレ、は」
だが阿部は、三橋から視線を外すとそのまま食堂を出て行ってしまった。
信じてもくれないの?
何度電話をかけても、メールをしても、阿部は答えてくれなかった。
その上、授業にも部活にも出てこない。
今の三橋は、阿部を説得する術を持たなかった。
夜寝ていると、知らない誰かがやって来て、身体を触る。
そんなことを誰がいったい信じるだろう。
仮に三橋が阿部の首にキスマークを発見した後に、そう言われたら。
もう好きでないから、そんな言い訳しないでくれと思うだけだろう。
三橋が誰よりも信頼する大事な捕手。最愛の恋人。
だが寮とはいえ1つ屋根の下で暮らしながら、他人に身体を自由にされた。
そして「気のせい」だと逃げていたのだ。
いくら2人の時間が短いとはいえ、相談する機会などいくらでもあった。
最初は突拍子もない話だと信じてもらえないかもしれないが、根気よく伝えるべきだった。
阿部に依存しすぎなのではないかと忠告されたことを、三橋は今更ながらに痛感した。
信じてもらうには、自分で解決するしかない。
自分に何が起きているのか、ちゃんと確認する。
その上で、好きなのは阿部だけなのだと伝えなくては。
三橋が好きなのは、ずっと阿部だけなのだと信じてもらう。
だがそれは、いつになるのだろう。
そのときまで、阿部は自分を好きでいてくれるのだろうか。
そもそも今、もう阿部は三橋のことなど切って捨てているかもしれない。
三橋は暗い想像に苛まれながら、それでも懸命に前に進もうとしていた。
【続く】
伸ばした手は届かなかった。
大好きな人。自分を初めて認めてくれてここまで引き上げてくれた人。
三橋の声が聞こえたのかどうかはわからない。
だが阿部は振り返ることなく、三橋から離れていった。
三橋が今ここにいるのは、阿部という捕手に出逢えたおかげだと思っている。
甲子園という夢を追いかけた高校での日々。
そしてその後、野球の強豪といわれる大学でまた野球を続けている。
推薦入学できたのも、阿部が三橋の力を引き出してくれたからだ。
その結果、こうして設備が整った恵まれた環境で、野球漬けの日々を送っている。
同じ大学に進むために、阿部はわざわざ受験をしてくれた。
しかもこの大学は、1年上に名捕手がいるのに。
申し訳ないと涙ぐむ三橋に、阿部は気にするなと笑っていた。
三橋は入部早々ローテーションの一角を任されることになって、阿部には投げられなくなった。
それでも阿部は、落ち込む三橋を励ましてくれた。
オレも早くレギュラーになるから、待っててくれと言った。
三橋はその言葉を信じて、待つことにした。
寮は案外人目があるから、恋人として2人の時間を持つことは不可能だった。
それでも同じ講義や寮の食事時には、阿部と顔を合わせる。
わずかな逢瀬を楽しみにしながら、三橋は日々練習に没頭した。
2年生の正捕手である先輩は、阿部に似ている部分もあった。
三橋のコンディションに非常に気を使うところとか、スキンシップを取ろうとするところとか。
マッサージも勉強しているという彼は、三橋の手や腕に触れてチェックするようなことを練習後に必ずする。
どうやらその男から見ても、三橋は投手のくせに無頓着すぎるというのが感想らしい。
重いものを持つなとか、自主トレで投げすぎるなとか、小言を言う。
そして彼は三橋に、阿部に依存しすぎなのではないかと忠告した。
生活の全てに関して、阿部の意見にはほとんど逆らわずにいる三橋。
それはどうやらかなり奇異なことに見えたらしい。
阿部のことを信頼するのは決して悪いことではないが、依存はよくないと言った。
三橋にはそれは大いに身に染みる言葉だった。
高校1年の夏、三橋は配球を全て阿部任せにして、挙句に首を振るサインまで出された。
それは責任をすべて阿部に押し付けることなのだと、今なら判る。
少しでも阿部の負担を軽くしたい。
依存するのではなく、共に進んで行きたいと思う。
阿部が正捕手になったときには、自分は今より凄い投手になっていなくてはならない。
だから顔を合わせる時間が短くても、2人きりの時間がなくても。
三橋は寂しい気持ちを堪えて、懸命に笑った。
そんなある日、三橋は不可思議な現象に見舞われることになった。
三橋は酷く疲れており、眠かった。
いつもと同じ練習で、同じ授業。
その時に限って、なぜそんなにきつかったのかはわからない。
食堂で阿部や他の1年生と夕食を摂った後、恒例のバッテリーミーティングに参加した。
レギュラーの投手と捕手が行うこの打ち合わせは、時間は短いが、毎日行われる。
2人きりではなく他のレギュラーの投手も含めた数人で、正捕手の部屋で話し合いをする。
この打ち合わせの途中から、眠くてたまらなかった。
三橋の部屋は正捕手の部屋の向かいで、廊下の幅ほどの距離しか離れていない。
でもそのわずかな距離すらもどかしいほど、身体が重かった。
三橋は自分の部屋に入るなり、ベットに倒れこんで眠りに落ちた。
その晩、真夜中。
三橋は至近距離に他人の気配を感じた。
阿部君?
睡眠の中にドップリと浸かっていた三橋は、朦朧とする意識で阿部だと思った。
阿部の大学合格が決まって、入寮するまでの間に阿部と三橋は何度かそういうことをした。
親の目を盗んだ短い時間、つかの間の情事。
お互いに初めてだったこともあり、それは拙い行為で快楽を感じるところまではいかなかった。
それでも身体を繋げて1つになれたということが嬉しかった。
気配は明らかな目的を持って、三橋の身体を触っている。
三橋は阿部の名を呼んだのに、それが声になっていないことに気づいた。
そして目を開けても、何も見えない。身体も動かせない。
目と口を塞がれ、身体を拘束されているのだと気がついた。
一気に意識が覚醒する。瞬時に阿部ではないと確信した。
服の上から三橋の身体を触っていた相手が、着ているシャツを捲り上げて素肌に触れてくる。
恐怖と嫌悪感で悲鳴を上げたが、それはくぐもった呻きにしかならなかった。
そして朝、目を覚ましたときには何の痕跡も残っていなかった。
目も口も塞がれておらず、身体も特に拘束されてもいない。
昨晩あまりにも疲労していたために、着替えもしないで眠ってしまった。
寝巻きではないシャツが、しわくちゃになっている。
夢か。三橋はそう思った。
まずはホッとし、次の瞬間には猛烈に恥ずかしくなった。
寮に入って、阿部とそういうことをする機会がなくなった。
これはきっとそういう願望が見せている夢なのだと思ったのだ。
だが次の瞬間、三橋は自分の身体の異変に気がついて驚いた。
両方の手首を取り巻くように、痕がついていた。
まるで腕輪のように、うっすらと皮膚の色が変わっている。
三橋は慌てて、自室のドアを確認した。
鍵はダブルロックになっているが、2つともきちんと鍵がかかっている。
その上、チェーンロックもしっかりかかっている。
誰かが簡単に侵入することなどできないということだ。
三橋は一番手っ取り早い手段で、この場を回避した。
気のせいだと思い込むことにしたのだった。
シャツのまま寝てしまったから、袖の痕がついてしまったのだ。
阿部に会いたくて、少々淫らな夢を見てしまった日に起きた偶然。
だから忘れてしまおうと思った。
その後、頻繁に三橋はその「悪夢」を見るようになった。
誰ともしれない相手が三橋の視覚と声を奪い、身体を拘束して触ってくる。
そしてある朝、ついに三橋は自分の身体にその痕跡を見つけた。
あの「悪夢」の中で、相手は三橋の首筋を吸い上げていた。
鬱血した痣のようなものが、首元にくっきりと残っている。
もう気のせいではない。侵入者はいたのだ。
阿部に相談しよう。助けてもらおう。
三橋は不安な面持ちで、朝の食堂へと向かった。
「おはよう、阿部君」
阿部の顔を見ると、ホッとした。
高校時代からいつも自分を支えてくれた捕手。そして最愛の恋人。
阿部ならきっと助けてくれるだろう。
だがいつも通りの笑顔を見せた阿部はすぐに顔を強ばらせた。
阿部の視線が三橋の首に注がれている。
三橋は驚き、そして慌てて首元を押さえる。
「阿部、く、これは、ちがくて」
「違う?何が」
阿部の視線がまるで汚いものでも見るかのように変わった。
三橋はどうしていいかわからず、ただ縋るように阿部を見た。
「俺は正捕手じゃねぇから、用なしか」
「ちが、う!オレ、は」
だが阿部は、三橋から視線を外すとそのまま食堂を出て行ってしまった。
信じてもくれないの?
何度電話をかけても、メールをしても、阿部は答えてくれなかった。
その上、授業にも部活にも出てこない。
今の三橋は、阿部を説得する術を持たなかった。
夜寝ていると、知らない誰かがやって来て、身体を触る。
そんなことを誰がいったい信じるだろう。
仮に三橋が阿部の首にキスマークを発見した後に、そう言われたら。
もう好きでないから、そんな言い訳しないでくれと思うだけだろう。
三橋が誰よりも信頼する大事な捕手。最愛の恋人。
だが寮とはいえ1つ屋根の下で暮らしながら、他人に身体を自由にされた。
そして「気のせい」だと逃げていたのだ。
いくら2人の時間が短いとはいえ、相談する機会などいくらでもあった。
最初は突拍子もない話だと信じてもらえないかもしれないが、根気よく伝えるべきだった。
阿部に依存しすぎなのではないかと忠告されたことを、三橋は今更ながらに痛感した。
信じてもらうには、自分で解決するしかない。
自分に何が起きているのか、ちゃんと確認する。
その上で、好きなのは阿部だけなのだと伝えなくては。
三橋が好きなのは、ずっと阿部だけなのだと信じてもらう。
だがそれは、いつになるのだろう。
そのときまで、阿部は自分を好きでいてくれるのだろうか。
そもそも今、もう阿部は三橋のことなど切って捨てているかもしれない。
三橋は暗い想像に苛まれながら、それでも懸命に前に進もうとしていた。
【続く】