切ない5題

【貴方が好きなのに】

三橋が手を伸ばしてきたのが見えた。
だが阿部は見えていないかのように無視した。
背を向けた阿部に、三橋の声が追いかけてくる。
それは小さな音量ではあったが、はっきりと阿部の耳に届いた。
だが阿部はそれすら聞こえない振りをした。

高校を卒業した阿部と三橋は、同じ大学に進学した。
阿部は推薦が来ていた大学を断って、三橋が推薦入学を決めた大学を受験したのだ。
高校の3年間、尽くした投手。
それは阿部の中ではもうバッテリーの信頼できる相方というだけではなくなっていた。
三橋に惚れてしまった。恋におちてしまった。
すべては引退した後、と勝手に自分で線引きをして、いささか強引な告白をして。
大事なエースは、最愛の恋人になった。

合格を決まってから、入学までは幸せな日々だった。
三橋もまた阿部のことがずっと好きだったのだと言われて、有頂天になった。
また2人でバッテリーを組んで、試合で勝とう。
そして恋人として、絆を育んでいこう。
未来は希望に満ちていたし、困難も2人で乗り越えていけると思っていた。
だが大学に入学してから起こった小さな誤算。
それは微妙なすれ違いとなって、2人の間に静かに降り積もっていった。


最初の誤算は、寮生活だった。
2人が進んだ大学は東京にあり、埼玉の自宅から通学するには、片道で約1時間半。
しかも野球部のグラウンドは、キャンパスとは離れた郊外にある。
無理すれば通学できない距離ではなかったが、毎日のこととなるとなかなかつらい。

野球部は自宅から通学できない生徒は、寮に入ることを勧められる。
それまで野球一筋だった高校生にとって、1人暮らしの大学生活は悪い誘惑に満ちている。
生活が不規則になったり、不摂生になったり、夜遊びを覚えたり。
そういうものから部員を守り、規律正しい生活を送らせる目的なのだろう。
必須ではなかったが、野球部員のほとんどの生徒が寮生活をしているという。

裕福な家庭なのであろう三橋家はその辺りは実に無頓着だった。
好きなようにすればいいと言われた三橋は、阿部にどうしようか?と聞いた。
阿部家は違った。
東京の家賃事情を考えると寮費は格安だったし、食事もつくので生活費も安く上がる。
ただでさえ野球を子供にさせるというのは、金がかかるのだ。
しかも阿部には、同じ道に進んでいる弟もいる。
はっきりとは言われなかったが、できれば寮に入った方がありがたいのは間違いない。
それに三橋と2人で暮らすというのも魅力的だが、部屋を借りるより寮の方が楽だ。
雑多な家事に振り回されることなく、野球に専念できる。
特に考えることもなく、寮生活を選択していた。

大学の入学式に先駆けて、三橋と共に入寮した阿部は愕然とした。
寮というものはこれほどプライバシーがないものなのかと。
基本的には全員個室なのだが、部屋はランダムに空いた部屋が割り当てられるという。
野球部だけではなく他の運動部員も入居している寮はいくつかの棟に別れており、三橋の部屋は別棟だった。
部屋の行き来は自由だったが、壁が薄く隣室の会話はまる聞こえだ。
寮内で恋愛をするなど、できることではなかった。


野球部の練習が始まると、ますます2人の距離は開いた。
三橋の脅威のコントロールが評価されて、入部早々レギュラー入りとなったのだ。
少ない人数と狭いグラウンドで練習していた高校時代とは違う。
広い練習場所で、ポジションごとの練習がしっかり組まれている大学の野球部。
推薦入学組のレギュラー投手と、一般入試で入学した補欠捕手が一緒に練習することはなかった。

この先どうなるのだろうと阿部の心は沈む。
投手は常に何人かがレギュラーで入っているが、正捕手は1人だ。
しかも現在2年の正捕手は、将来はプロ入り間違いなしと言われる大学野球でも屈指の捕手。
その選手が健在である限り、阿部のレギュラー入りは遠い。
その証拠に今年の1年生で捕手は阿部1人だけだったし、上級生の他の捕手でポジションを替えた者も多い。
最初から覚悟の上のことだったが、やはりつらい現実だった。

唯一の救いは、やはり三橋だった。
学部が違うがなるべく同じ授業を取るようにしていたし、食事は必ず一緒にするようにしていた。
教室や寮の食堂や学食。
完全に2人きりになることは難しかったが、それでも2人で過せる時間は楽しい。
さすが元バッテリーは仲がいいな。
部員たちにそんな風に言われながら、阿部は頑張ろうと思っていた。
今は確かに「元バッテリー」だが、いつかはまた「バッテリー」に戻る。
早く阿部君に投げたいよ、と少し寂しげに笑う三橋を見て。
いつまでも待たせたくない。早くその横に行かなくては、と思っていた。


阿部がその噂を聞いたのは、大学に入って1ヶ月程経過した頃だった。
2年生の正捕手と三橋が恋仲であるという。
この2人の部屋は寮で向かい合わせの部屋割りなので、夜を共に過ごしているのではないかとか。
いくら制球力がいいとはいえ、1年生がレギュラー入りしたのは正捕手の推挙があったからだとか。
悪意に満ちた噂は、どうやらかなり広まっているようだ。
三橋と仲がいいと思われている阿部の耳に入るくらいなのだから。

あり得ない。
同じ1年生部員から最初にその話を聞いたときには、笑い飛ばした。
だが上級生部員からもまことしやかに語られたし、部外の学生たちからも確認するように聞かれた。
そうしているうちに阿部は次第に不安な思いに囚われた。

そもそも三橋は周囲から「投球中毒」とさえ言わしめた投手なのだ。
確かに三橋は阿部のことを好きだと言ってくれた。
それは「阿部隆也」という男ではなく「サインをくれて球を捕ってくれる捕手」なのではないか。
正捕手になれない阿部などすでに眼中にはなく、正捕手の2年生に気を奪われているのではないか。
疑心暗鬼になりながら、三橋はそんなヤツじゃないと疑念を打ち消す。
三橋の恋の噂を聞くたびに、阿部の心は揺れた。

そしてある朝、阿部をあざ笑うかのように事件は起きた。


起床して、身支度を整えて、決められた時間に朝食を摂るために食堂に行く。
席に座って待っていると、程なくして三橋が現れた。
三橋は件の噂を知っているのかいないのか、阿部を見つけて小走りにこちらへやって来た。
屈託のない笑顔で「おはよう、阿部君」と笑う。

セルフサービスの朝食を取りに行こうと立ち上がった瞬間「それ」が見えた。
三橋の首筋、着ているシャツの隙間から見えた痣のようなもの。
まさか。阿部は驚愕に目を見開いた。
歩き出した三橋は、立ち止まってしまった阿部を怪訝に思ったのだろう。
立ち止まって、阿部の表情を見て、ハッとした表情になった。
そして慌てて首を押さえる。

「阿部、く、これは、ちがくて」
「違う?何が」
阿部の口調は静かな怒りに満ちていた。
三橋は自分の首筋にあるものを知っている。
それはどう見てもキスマークだ。

「俺は正捕手じゃねぇから、用なしか」
嘲るような口調に、三橋の顔色が変わった。
「ちが、う!オレ、は」
声を荒げた三橋に、周囲の視線が一斉にこちらを向いた。
朝の食堂は、野球部だけでなく寮にいるほとんどの学生が集まっている。


貴方が好きなのに。
三橋は小さな声でそう言った。
他の学生たちには聞こえなかっただろうが、阿部には聞こえた。
だが聞こえない振りをして、伸ばしてくる手を無視した。

「オレ、朝メシいらねぇ」
阿部はそのまま三橋に背を向け、食堂を出て行く。
その日は午前中同じ講義を受けるはずだったが、阿部は出なかった。
三橋から電話もメールも来たが、無視した。

阿部の大事なエース、最愛の恋人。
だがその首にあるのは、他人がつけた所有の印。
平静でなどいられない。

貴方が好きなのに。三橋はそう言った。
その後、なんと言うつもりだったのだろう。
もっと好きな人ができた、だろうか。
でも球を捕ってもらえないなら必要ない、だろうか。
悪い想像ばかりが、心を過ぎる。

貴方が好きなのに。それはまさに自分の気持ちだと阿部は思う。
好きなのに、信じられない。
嫉妬と絶望で、心が凍りつくように冷えている。
怒り狂いたいはずなのに、それすらできないほど呆然している。
阿部はそんな自分を持て余し、その日はついに授業も部活も出なかった。

【続く】
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