恋3題

【その笑顔】

阿部は自転車を漕いでいた。
全力でペダルを蹴っているのに、速度が上がらない気がする。
野球部時代はもっと軽々と漕いでいたのに。
受験勉強でなまった身体が恨めしい。
傍目から見れば恐ろしいほどの高速なのだが、阿部にはもどかしかった。
それでも阿部は、懸命に自転車を漕ぐ。
ずっと心の中で恋し、想ってきた少年に会うためだ。

いつから三橋を好きだったか?と問われたら、阿部は明確に答えられない。
最初はウザいヤツだと感じていて、負の感情を持っていた。
でも初めて三橋の球を受けたときには、もう惹かれていたような気がする。
もしかしてまだ見ぬ投手を想像しながらマウンドに土を盛っていたとき、もう恋をしていたかもしれない。
とにかく気がついた時には、どうしようもなく惚れていた。
危なっかしいその挙動にやきもきしながら、その姿を常に目で追うようになった。

三橋に恋をしている。
阿部はその事実を、不思議なくらい冷静に受け止めた。
性別など問題ではない。三橋だから好きなのだ。
悩みは全然別のところに存在していた。

三橋が欲しい。
でもただでさえ、いつもいっぱいいっぱいの三橋だ。
投手として成長しながら、恋愛もこなせるとは思えなかった。
投手として、エースとして、歪めないように大事にしたい。
阿部は「投手の三橋」を自分から守らなくてはならないと思った。
だから油断すると溢れ出しそうな三橋への恋心を、懸命に隠してきた。


引退した阿部が選んだ進路は、三橋と同じ大学だった。
野球での実績が認められて、阿部にも推薦で入学できる大学はあった。
それらを捨てて、阿部は三橋が推薦で進むことになった大学を受験した。

引退したばかりの日、三橋に告白してキスをして。
それからもうしばらくして進路の話をして、またキスをした。
三橋と同じ大学に合格したら抱く、とまで言った。
三橋はまるで叩きつけるような阿部の熱情を、笑顔で受け入れてくれた。

三橋にしてみたら、唐突だっただろう。
だが阿部にとっては、我慢し続けた日々だった。
練習の日々。受験勉強の日々。三橋を思う日々。
辛かったそれらの日々を支えたのは、三橋への想い。
そして目を閉じれば心に浮かぶ、三橋の笑顔だった。

そして今日は大学の合格発表。
阿部は見事に合格を果たした。
推薦でいい大学に進めるのに、わざわざ受験する阿部に皆驚いていた。
阿部の成績は部の中でもいい方だが、合格ラインはその上にあった。
連日の猛勉強。三橋にも会えない日々が続いていた。

阿部は不安に駆られるように、自転車を漕ぐ。
電話でもメールでもなく、直接三橋に合格したのだと言いたい。
早く三橋に会いたい。


三橋の家まであと少し、という場所で。
阿部は前方に見慣れた人物の後姿を見つけた。
トレーニングウェア姿で走っている細身の身体。
動きに合わせて揺れるフワフワした明るい茶色の髪。
逢いたくて逢いたくてたまらなかった三橋だった。

「みはし-!」
阿部は自転車を停めて、大きな声で呼んだ。
三橋が驚いたように振り返り、阿部の姿を認めた。
阿部をまっすぐに見つめる薄い茶色の瞳。
光の加減によって緑がかっているようにも、灰色がかっているようにも見える。
阿部はこの瞳の色が、世界で一番美しいと思う。
その瞳が潤み、今にもこぼれそうに大きく涙が盛り上がっている。

「あべ、くん!」
三橋がこちらに走ってこようとして、大きくふらついた。
多分今までランニングをしていたので、足にきているのだろう。
阿部は慌てて自転車を押しながら、三橋に駆け寄った。

「合格したぞ。」
自転車を停めるのももどかしく、阿部は三橋に告げた。
「お、おめでとう!」
三橋が倒れこむように、阿部に縋り付いた。
阿部は胸の中に三橋を抱き込むようにしながら、その状態を見て驚く。
どうやらかなりの距離を走っていたらしい三橋は、膝がガクガクと震えていた。

「おまえ!どれだけ走ってんだ!」
ひどく体力を消耗しているらしい三橋を見て、阿部の「捕手モード」が入ってしまった。
その怒声を聞いた三橋が「だって」としゃくり上げるようにして泣き出した。


「阿部君、が受験。大変なのに。オレだけ楽してる。だからせめて」
「だから、走ってたのか!まさか毎日?」
「すごく会いたかった。けど、邪魔しちゃ、悪い。投げて、肩壊したら、ダメだし」
阿部は涙と共に溢れ出す三橋の言葉を聞いて、胸がつまった。

確かに阿部は三橋に言った。
合格するまではなかなか会えないけど、我慢してくれと。
阿部が目が届かないところで、投球練習は控えろと。
この時期、どうしても練習したければ下半身強化の方がいいと。
だけど、まさかこんなになるまで走っていたとは。

三橋はいつだって、切ないほど一生懸命なのだ。
阿部に会いたい想いを必死に我慢して、投げることも我慢して。
ひたすら祈るように走り続けたのだ。
そんな三橋を、阿部は本当に愛しいと思う。


大学の4年間。また三橋に尽くす。
投手の三橋をさらに成長させて、恋人の三橋を愛する。
誰にも渡さない。大事にする。何からも守る。
阿部はそんな想いを込めて、三橋の髪をくしゃくしゃとかき回した。

「合格したから、抱くよ。」
阿部が三橋の耳元でそっと囁いた。
腕の中の三橋は一瞬驚いた表情だったが、すぐに笑顔になった。

「オレは、阿部君の、ご褒美だね!」
三橋が涙の残った瞳で恥ずかしそうに笑いながら、そう答えた。
やられた。その笑顔に弱いのだ。

あどけないようで艶っぽい三橋の笑顔。
阿部は腕の中の三橋を、さらに強く抱きしめた。

【終】お付き合いいただきありがとうございました。
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