恋3題

【高鳴る胸】

三橋廉は自宅の敷地内にある手製の投球練習場で、ボールを投げ込んでいた。
バケツいっぱいのボールを投げて、終わると拾い集めてバケツに入れる。
それを何回も繰り返している。

3年の最後の大会が終り、三橋たちの学年は部を引退した。
それはまるでぽかりと胸に穴が開いたような喪失感だった。
三橋は、まだその現実に慣れることができない。
それまでの野球一色、練習漬けの日々。
ついこの間のようにも、遠い昔のようにも感じる。

監督の百枝は「気軽に顔を出して」と言っていた。
三橋はその言葉に喜んで、毎日投げに行こうと思った。
でもその後、同学年の部員たちで話をしているときに花井が言った。
部員も増えた上に、グラウンドは広くないから迷惑になる。
練習に参加するのは、なるべく控えた方がいいと。
確かにその通りだ。
三橋は自分の考えのなさを恥じて、自宅で投げようと思った。

本当は阿部に投げたいと思う。
3年間同じ夢を追いながら、いつも三橋を支えてくれた捕手。
「好き」だと思うのに時間はかからなかった。
友情や尊敬の「好き」ではなく、恋愛の「好き」。
でも同じ男でありながら、こんな気持ちはおかしいと思う。
だから三橋は、その気持ちを懸命に押し隠しながら投げ続けてきた。

部を引退してしまうと、クラスが違う阿部と会うことはほとんどない。
それは練習がなくなったと同じくらいの喪失感だ。
つらい。寂しい。胸が痛い。
だから三橋は今日も投げる。
疲れ果てて、何も考えずに倒れるように眠るために。


「おまえ、今日何球投げたんだ?」
不意に背後から声をかけられて、三橋は飛び上がった。
聞き慣れた声。ここにいるはずのない想い人の声。
恐る恐る振り返ると、阿部が腕組みをしながら立っていた。

「どうして」
三橋は呆然とした表情で、ポツリと呟いた。
残り少ない部のイベントで顔を合わせることや、学校で偶然すれ違うことはまだある。
そんなときに動揺しないようにする心の準備はしていた。
だがいきなり自宅に阿部がやって来るなどという事態は想定していなかった。
三橋は動揺して、キョドキョドと落ち着きなく身体を揺らした。

ふと辺りを見回すと、もうそろそろ日が暮れようとしている。
夕暮れの陽の中に立ち、真っ直ぐにこちらを見る阿部を三橋は美しいと思った。
大好きで、恋しくて、いつも会いたくて、でももうすぐ別れなくてはならない人。
三橋は切ないような、じれったいような心を持て余していた。

「何球、投げたんだよ?」
対する阿部の方は、平然としたものだった。
三橋の内心の葛藤など知らぬ素振りで、じっと三橋を見据えている。
どうしてここにいるのか、という三橋の問いには答えるつもりはないらしい。


「バケツ、に。1杯だけ」
三橋は阿部の視線を避けるように俯きながら、嘘を言った。
投げては拾い集めることを繰り返している。
その回数など数えていない。球数などわかるはずもなかった。
だがかなり長い時間、投げていたのは間違いない。
それを意識した途端、身体が疲労を訴える。
気がつかなかったが、かなり無理をしていたのだとわかった。

「嘘だな」
阿部が断言しながら、三橋に歩み寄ってきた。
眉間に不機嫌そうに皺を寄せた阿部が、三橋の顔をじっと見つめている。
三橋はその視線に動揺し、慌てて顔を逸らした。
心臓がドキドキと不穏な動きで、三橋を追い立てる。
この高鳴る胸の鼓動を知られてはならない。

「もう、終わるから」
三橋は足元にあったバケツに手を伸ばした。
まだ中には少し球が残っているけど、とりあえず今は終わりにしよう。
あとは阿部が帰ってからだ。
散乱している球を集めるために、バケツを持ち上げようとした瞬間。
三橋の足がもつれて、身体が大きくふらついた。


「っぶねぇ!」
一瞬の出来事だった。
阿部はとっさに倒れかけた三橋の腕をつかんで、引き寄せた。
三橋は阿部の腕の中にストンと落ちる。
抱き合うような姿勢になってしまった三橋は「うぇ?」と声を上げた。
そして慌てて身体を離そうとして、それが出来ないことに気がつく。
阿部はしっかりと三橋の背中に両腕を回して、三橋を抱きしめていた。

「あ、べく。。。」
「オレのいない場所で、無茶すんな」
耳元で聞こえる阿部の低い声に、三橋の鼓動の速度が上がる。
「離して。。。」
「やだね」
阿部がますます三橋を抱きしめる腕に力を込めた。

「オレ、もう、エースじゃない」
三橋はそう言って、なおも身体を離そうと身を捩る。
もうエースではないのだから、身体を気遣う必要なんてない。
懸命に諦めようとしているのに。
こんなことをされたら、想いが断ち切れなくなる。

「おまえはもう西浦のエースじゃないけど、オレにとっては大事なエースだよ」
その言葉に、三橋は弾かれたように顔を上げて阿部を見た。
三橋を見つめ返す阿部の瞳に、熱情のようなものを感じて三橋は戸惑う。


「おまえが好きだ。」
阿部はそう言うと、三橋は一瞬驚きで大きく目を見開いた。
だがすぐに諦めたように、大きくため息をつく。
それは多分、恋愛の「好き」ではないだろう。

「こういう意味の『好き』だよ。」
不意に阿部が三橋に顔を寄せ、自分の唇を三橋の唇に重ねた。
吐息を吸い取られ、舌先で味わわれて、心まで揺すぶられる。
そんな長い長いキスの後、阿部が三橋に囁いた。
阿部の手が三橋の頭を捉え、髪をかき回し、頬を撫でる。
まるで壊れ物を扱うように優しく。
身体の力が抜けてしまった三橋は、目を閉じて阿部に身体を預けていた。

これは現実のことなのか。
阿部の腕の中で、三橋は思う。
阿部が自分を好きだなんて。
キスまでしてしまうなんて。
こんなのは夢だ。夢に決まってる。
心臓が内側から叩きつけるように、激しく鼓動を刻む。
まるで三橋に警告でもするかのように。


「オレ、も。阿部、く、好きだ。」
それでも三橋は、阿部に想いを告げた。
夢でもいい。醒めるまでの間でいい。
三橋はいつの間にか阿部のシャツを掴んでしまっていた手を解いて、阿部の背中に腕を回していた。

「野球はちゃんとしたかったから、引退まで待ったんだ。」
阿部が三橋を抱きしめる手に力を込めながら、また囁く。
さらに深く抱きしめられて、潤んでいた三橋の瞳から涙が零れ落ちた。
夢ではない。阿部もまた三橋と同じ想いだったのだ。

「ずっと欲しかった。長かったよ。」
阿部が三橋の涙を唇でそっと吸い取った。
優しい仕草。怖いほどの幸せ。
三橋が擦り寄るようにさらに身体を寄せると、阿部の胸の鼓動が聞こえる。

「阿部君、心臓、ドキドキ」
「おまえもだろ」
お互いの高鳴る胸の鼓動が夕闇に融けていく。
それに導かれるように、三橋と阿部はもう一度ゆっくりと唇を重ねた。

【続く】
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