空10題-曇・雨編

【この雲から降るのは】

勝った。
試合終了のコールを聞いた三橋は、天を仰いだ。
雨粒が顔に当たり、頬を濡らして落ちるのが心地よかった。

西浦高校は何とか勝ち進んでいる。
この秋は天候が不安定で、今日もまた雨の試合だった。
だが三橋は以前ほど異様にテンションが上がることはなかった。
コントロールの精度は上がるが、今日はいつもより調子がいいという程度だ。

多分自分の体質は、精神的な部分にすごく影響されているのだろう。
いろいろな問題がいい方向に向かっているから、今は調子がいい。
三橋は今の自分の状態をそんな風に分析している。

三橋は両親に今の自分のことを正直に話した。
学校で時折、力が「暴発」していること。
野球部の部員たちとトレーニングをして、力を制御しようとしていること。
そして「先生」が自分の名誉のために、三橋を論文の実験対象として狙っていること。
その場には阿部が同席してくれて、三橋の言葉を裏付けてくれた。

両親はそれを受けて、群馬の祖父と話をした。
三橋はその詳細を知らないが、前向きな話し合いだったのだろう。
程なくして「先生」は主治医から外された。
それだけでなく、三橋の家からは主治医という制度がなくなった。

それ以来、三橋の周辺ではこの能力がタブーではなくなった。
野球部では相変わらずトレーニングをする。
家でも当たり前にそれを話せるようになった。
もう隠す必要がない。
だから身構えずに、雨の日でも自然体でいられる。

「勝った、勝った!」
野球部員たちが全員が笑顔でマウンドに駆け寄ってくる。
三橋もまた笑顔だったが、ふとベンチからの視線を感じて眉を寄せた。
マネージャーの篠岡、そして今日は控えの水谷。
彼らとの関係だけが、三橋の心に影を落としている。

「今日もいい調子だったな、三橋!」
耳元で阿部の大声が響き、三橋は我に返る。
すぐに笑顔に戻り「勝った、ね!」と身体を寄せた。

この雲から降るのは勝利の雨だ。
三橋は阿部に抱き寄せられながら、肩越しにまたベンチを見た。
ベンチの2人の表情は、心なしか強張って見えた。


「今日もいい調子だったな、三橋!」
阿部はごく自然に三橋の身体を抱き寄せた。
もちろん変な意味などない、ただのバッテリーのコミュニケーションだ。
だが今日は妙に意識してしまっている。

「勝った、ね!」
三橋は無邪気な笑顔で、勝利を喜んでいる。
他のチームメイトたちだって、別に怪しむようなこともない。
それなのに腕に抱いたぬくもりを愛しいと思う。
この気持ちはいったい何だろうと、阿部は困惑する。

きっと一緒に普通ありえないような危機を乗り越えたせいだ。
阿部は少々強引にそう結論付けた。
三橋は雨の日に発動する特殊能力の持ち主。
そしてそれを手に入れようとする「先生」との攻防。
高校球児にとっては、本当に稀な経験だ。

「阿部君、ありがと!雨だけど、普通に、投げ、れた!」
懸命に動揺を鎮めた阿部だったが、三橋の笑顔にまた胸が高鳴った。
そんな阿部の一瞬の沈黙の隙をつくように、別の部員が三橋の身体をひったくった。
三橋の兄貴分を自称する田島だ。

「オレらも協力したぜ!」
今度は田島が三橋に抱きつくと、三橋が「うんうん」と頷いた。
他の部員たちも口々に三橋に声をかけている。
三橋を取られた格好になった阿部は、ここに至ってようやく「あれ?」と思った。

このハートマークが飛び交うような状況は何だ?
確かに全員で危機を乗り越えたばかりの状況だ。
それにしても三橋を中心に、結束しすぎているような気がしないでもない。

「阿部君、整列、だよ」
声をかけられた阿部は「おお」と答えて、三橋の隣に並んだ。
まったく馬鹿馬鹿しい。
結束しすぎて悪いことなんて、あるわけがない。

この雲から降るのは予感の雨だ。
勝利の喜びに、三橋への想いが甘く溶けていく。
このまま三橋に恋をしそうな気がするのは、きっと思い過ごしじゃない。


何だかどんどん蚊帳の外に出て行くような気がする。
篠岡千代は勝利に喜ぶ部員たちを、じっとベンチから見守っていた。

篠岡は最初からずっと一連の出来事について、聞かされていなかった。
最初は他の部員同様、三橋の様子が変だと思った。
そのうちに部員たちが一致団結して何かをしているように見えた。
そして知らないうちに問題は解決したようだ。

「篠岡は巻き込まない方がいいと思ったんだ。」
すべてが終わった後、そんな説明をしてくれたのは水谷だった。
三橋の力の暴発の何回かは、篠岡に向けられた。
それは篠岡が阿部に近づいた時に起きている。
それに気付いた部員たちは、篠岡の安全を考えて遠ざけていたのだった。
篠岡の身を案じてくれたみんなの心遣いは嬉しい。
だがどうしても疎外感は否めない。

「本当に終わったのかな?」
篠岡はポツリとひとりごちた。
自分の恋心は隠して、部員のために力を尽くしたつもりだった。
だが部活中、ふとした瞬間に阿部を目で追ったり、阿部のことを考えてしまう。
三橋は普段用がない限りは、自分から篠岡に話しかけてくることはない。
だが阿部のことを考えてる時に限って、用もないのに呼び止められたりした。

ボールが落下したとき、そして自転車が倒れたときも。
篠岡はいつもより胸をときめかせて、阿部を想った瞬間、衝撃があったのだ。
バチリとまるで電気に撃たれたような、小さなショック。
その直後に、ボールや自転車が三橋の念で動いた。

篠岡はそれらの怖い体験を、過ぎたことと思えずにいた。
もう三橋に不自然に話しかけられることも、物が飛んでくることもない。
だけど少しもホッとした気分になれない。
そしてその理由もよくわからないのだ。
とにかくいつも居心地が悪くて、落ち着かない。
それに部員の輪から外されたような疎外感も、まだ心に残っている。

この雲から降るのは不安の雨だ。
勝利した西浦ナインがマウンドで喜び合っており、三橋がこちらに笑顔を向けている。
その笑顔がどうして不気味に見えるのか、篠岡にはわからなかった。


オレ、結局何をやってたんだろう?
水谷は呆然と、グラウンドで勝利を喜ぶチームメイトたちを見ていた。

「次の試合から、しばらくレフトは西広君で行くからね!」
百枝がそう宣言した時、水谷はため息をつくしかなかった。
理由は自分でもわかっている。
ここのところ三橋や篠岡のことに気を取られて、部活に身が入らなかった。
練習にフライを落としたり、連係でミスをしたり、ひどいものだったのだ。

「水谷、君!ありがと!」
あの日「先生」という男のことを話して、三橋の窮地を救った。
それを知った三橋は笑顔で、礼を言ってくれた。
そのときの三橋は入部したばかりの頃によく見た無防備な表情だった。

「水谷、よくやった!」
部員たちも、三橋の危機を知らせた水谷の活躍を褒め称えた。
そのときは有頂天になった。
全てが元に戻り、三橋とも他の部員たちとも友好な関係を築ける。
そう信じていた。

だけど1つだけ変わってしまったものがある。
それは篠岡との関係だ。
篠岡が阿部を好きなことは。今や部員たちの公然の秘密となった。
そのことに気付いていないのは、きっと当の阿部だけだろう。
そして同じくらい公然の秘密だった水谷の篠岡への想いはなくなっていた。

どうしてあれほど恋焦がれていたのか、わからない。
それくらい篠岡への恋心は、水谷の中から綺麗さっぱり消えていた。
そしてその代わりに、水谷の心の中にいるのは三橋だった。
気付けば目で追っている。
レギュラーを外されればなおの事、試合の間中、ずっと三橋を見ている。

この雲から降るのは困惑の雨だ。
三橋のことばかり考えてしまっている。
同じ男相手に、まるで恋をしているようだ。


「勝ったぁぁ!」
三橋の母、尚江はスタンドで、はしゃいでいた。
息子がまた完投勝利を果たしたのだ。

「すごいねぇ、三橋君!」
「どんどん調子が上がってるって、聞いたよ!」
他の母親たちに声をかけられて、尚江は一気に舞い上がってしまう。
いろいろあったが、乗り越えて頑張る息子の活躍が嬉しくないはずがない。

「大丈夫、よね。」
尚江は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
三橋本人から「力」の話を聞き、それを群馬の義父に伝えに言った時。
尚江は気になることを言われたのだ。

三橋家の代々の当主は、雨を司る者とされていた。
隔世遺伝で伝わる不思議な能力、その中でも稀に特に強い力を持つ者が現れる。
そういう者たちは例外なく2つに分類されるのだという。
聡明な名君になるか、恐るべき暴君になるか。
前者は人々に崇められ、後者は忌み嫌われる。
三橋家に伝わる文献には、そう記されているのだという。

「名君、暴君。どっちも廉のイメージじゃないわねぇ。」
それが尚江の率直な感想だった。
家での三橋は、今までとまったく変わらない。
投げることと食べることが大好きで、まだまだ子供。
よくも悪くも名君にも暴君にもなりそうにない。

それでもマウンドに立つ三橋を見ると、満更でもないような気になる。
エースとしてチームを支える息子の姿は、凛としている。
今はまだ何者でもないだろう。
だが名君にも暴君にも変わる可能性がありそうに見えるから不思議だ。

「きっと名君の方よね。」
尚江はマウンドでチームメイトに次々と声をかけられる息子を見て、そう呟く。
そして親バカ過ぎると、苦笑した。

この雲から降るのは期待の雨だ。
きっと西浦高校野球部の未来を祝福している。
そして息子はずっとその中心にいるのだと、尚江は思った。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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