空10題-曇・雨編

【雨の奏でる音楽】

「俺を嫌ってて、俺も嫌い。そういう人にしか、力、出さない。」
「はぁ?何を馬鹿なこと」
「先生、俺、嫌いでしょ?俺も、嫌い。だから、投げた。」
「心も読めるのか。」

紺色の生地に、大輪の赤い花が描かれた綺麗な図柄の傘の下。
水谷文貴は三橋と「先生」なる人物のやり取りを聞いていた。
この傘は想いを寄せる彼女のものだ。
ちょうど学校を出るとき雨が降り出し、傘を忘れて困っていた。
すると彼女が傘を2本持っていると言って、貸してくれたのだ。

男としては、この派手な傘は少々恥ずかしい。
だけど彼女-篠岡千代の傘だと思うだけで、胸がときめいた。
次第に雨足は強くなり、雨粒が傘に当たる音も大きくなる。
そんな雨の奏でる音楽にさえ、篠岡の笑い声のようにさえ思える。

三橋や他の部員たちの、篠岡の扱いに納得いかなかった。
だからたまたま呼び止められた「先生」に、話してしまったのだ。
三橋の能力のトレーニングのことなど、部員だけの秘密を。
だが頭が冷えると、さすがにまずいことをしたという後悔が押し寄せてきた。
今日、三橋の家は両親とも帰りが遅い。
もし三橋と接触するとしたら、絶好のタイミングだ。
不安に駆られて三橋の家に来た水谷は、三橋と「先生」が対峙しているのを見つけた。

それにしても信じられない。
三橋を嫌っていて、三橋の方でも嫌っているときしか「力」は暴発しない。
その言葉を信じるなら、篠岡も三橋を嫌っていることになる。
篠岡が三橋を嫌うとしたら、理由は1つしか考え付かない。

まさか、そんな。
水谷は動揺しなから、ポケットの中で携帯電話を握り締めていた。
三橋と話をしている「先生」は、以前水谷を呼び止めたときとは様子が違う。
目が異常にギラギラしており、このままでは三橋が危険に見える。
誰か助けを呼ばなくては。
だが混乱する水谷は動くこともできずに、その場所で固まっていた。


「一緒に来てもらうよ」
「先生」と呼ばれた男は、三橋に向けてまた1歩距離を詰める。
自分を睨みつける三橋の目に、少しの怯えが含まれているのが愉快だった。

三橋家はおよそ21世紀とは思えないほど、古い慣習に囚われた家だと思う。
雨を司る神の末裔と言い伝えられ、知る人ぞ知る地元の名士。
だがそれでも陽の当たる場所にいられるのだからいい。
自分の家はその三橋家の影に隠れた一族だった。

長男は必ず医者になり、三橋家の主治医になる。
それが「先生」の家系に課せられた義務だった。
医者になることはともかく、三橋家の主治医は苦痛だ。
医大で同期だった友人たちの活躍を聞くたびに、腹立たしい。
なぜ自分が群馬の田舎で、くすぶっていなければならないのだろう。

だからこそ、三橋廉の存在は気に入らなかった。
三橋家の子供の中でも両親の駆け落ちなどあって、群馬に閉じ込められずにいた。
しかも3年過ごしただけで、また群馬を出て行ったのだ。
そんな好き勝手をしているくせに、瑠里や琉よりも「能力」が高い。

それならば三橋廉を踏み台にしてやろうと思うのに、時間はかからなかった。
三橋の能力を開花させて論文を書き、有名になる。
三橋家は廉だけでなく、全員が晒し者になるが、知ったことではない。
だからこそ野球部のトレーニングごときで勝手に能力を磨かれては困るのだ。

「さぁ車に乗って」
「先生」は三橋の腕を掴んで、そう言った。
自宅に連れ込んで、後は急に具合が悪くなったから入院させるとでも言おう。
「先生」はとにかく三橋の身柄を押さえようと、必死だった。


「右手、に、さわるな!」
「先生」に腕を掴まれた三橋は、思い切りそう叫んだ。
どうやら「先生」は三橋を車に押し込もうとしている。
冗談じゃない。
だが右腕を捕まえられてしまえば、抵抗できなかった。

この人が本当に嫌いだ。
三橋家の主治医でいることが嫌で嫌で仕方ないくせに。
三橋家の人間、特に三橋を全部見下してるくせに。
だったら主治医なんか辞めて勝手にすればいい。
論文なんかに協力してやるつもりなどない。

一瞬、自転車が宙を飛び「先生」の頭上から落下するイメージが浮かんだ。
まずい。勝手に「力」が暴走してしまう。
三橋は大きく深呼吸を繰り返しながら、懸命に怒りを静めようとした。
せっかく野球部のみんなとトレーニングして、制御できるようになりかけている。
こんなことで暴走したら、申し訳ない。

三橋は自分が絶体絶命の危機に瀕していることに気付いた。
このまま「力」を使わなければ、車に乗せられてしまう。
だが「力」を使うのは、部員たちへのを裏切りと同じだ。
そして忌々しい「先生」の論文とやらのデータになってしまう。

「先生」はおそらくそんな三橋の気持ちも読んでいる。
今の三橋が何とか「力」を制御しようとしているとわかっている。
だからこんな無茶なやり方で、三橋を連れ去ろうとしているのだ。

「三橋から、手を離せ!」
どうしようと焦る三橋の背後から、聞き覚えのある声が響いた。
驚き、振り向くと、数台の自転車がこちらへと疾走してくるのが見えた。
花井、栄口、田島と泉、そして阿部。
そして派手な花柄の傘を差している水谷も見える。

あの傘、篠岡さんじゃなかった。
緊張から解き放たれた三橋は、ぼんやりとそう思った。


「三橋から、手を離せ!」
阿部は自転車を漕ぎながら、声を張り上げていた。
主治医だか「先生」だか知らないが、大事なエースの利き腕を掴むなんて許せない。

阿部が自宅へ帰る途中、携帯電話が鳴った。
自転車を止めて、画面を見る。
発信者の名は「水谷」と表示され、阿部は出ようかどうしようかと迷った。
普段ならきっと出なかっただろう。
どうせノートを写させてとか、その程度のくだらない用事だと思っただろう。

だが今は違う。
ここ最近、水谷は普段と様子が違っていた。
元気がないというだけではない。
何だか時々、敵意に満ちた目で三橋を睨んでいる気がした。

「お前が三橋以外のことに目が行くこともあるんだな。」
「違うよ。三橋絡みだから気付いたんでしょ?」
花井と栄口に水谷のことを言ったら、そんな風に返された。
随分な言われようだ。
だが他の部員たちも水谷の異変に気がついていることがわかった。

『三橋ん家に来てくれ!三橋が危ない!』
電話に出るなり、水谷が叫んでいる。
阿部は返事もせずに電話を切ると、三橋家にと自転車を走らせた。
何だかよくわからないが、水谷の口調で判断するなら相当ヤバい。
途中で同じように電話を受けた部員と出会いながら、阿部は三橋の家に急いだ。

「右手、に、さわるな!」
三橋の叫びを聞いたときには、血の気が引いた。
男が三橋の腕を掴んでいるのを見たときには、怒りで呼吸が止まりそうだった。
だが何とか間に合ったらしい。

「痛いトコ、ないか?」
阿部は三橋から「先生」の手を振り解くと、そう聞いた。
三橋は阿部を見ると、ホッとした様子で「だい、じょぶ」と笑った。


「水谷、君。ありがと!」
ずぶ濡れの三橋が、ニコニコと笑顔で礼を言う。
水谷は返す言葉がわからず、ただ「うん」と頷いた。

野球部の面々が駆けつけたことで状況は一気に変わった。
形勢逆転を悟った「先生」はさっさと車に乗り込むと、逃げるように走り去る。
ホッとしてその場に座り込みそうになった三橋を、阿部がそっと支えた。

「水谷君、みんな、呼んで、くれた。でしょ?」
三橋がさらにそう聞くと、水谷がまた頷く。
主将、副主将、そして三橋と同じクラスの2人。
水谷は思いつく限りの部員に電話をしたのだ。

「ごめん、三橋。オレ、トレーニングのこと、あの人に喋った。」
水谷はついに白状した。
三橋も他の部員たちも表情を変えない。
全員ここ最近の水谷の異変には気付いており、予想できる話だった。
一同はみな口を噤み、雨の奏でる音楽だけが聞こえてくる。

「助けて、くれた。だから、チャラ!」
雨音を破るように、三橋が元気よく宣言した。
そこで一気に重苦しい空気が破れて、全員が笑顔になった。

「三橋の家に寄らせてくれよ。んでもって、タオル貸して!」
「いい、よ。カレー、食べて、く?」
「食べる!」
9組の面々が「カレーだ!」と声をあげながら、先に立って自転車を押していく。
主将トリオと水谷はその剣幕に呆れながら、後に続いた。

三橋家のカレーって何か久しぶりだ。
阿部は三橋の後ろ姿を見ながら、穏やかな時間が戻りつつあることを感じていた。

【続く】
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