空10題-曇・雨編

【新しい傘】

「ほんとに、しつこい」
三橋は冷ややかにそう言った。
だが相手の男もまた冷ややかに三橋をジッと見ている。

三橋は最近は落ち着いた日々を過ごしていた。
試合はどうにかこうにか勝ち進んでいる。
何とか関東大会、そして春のセンバツ。
部員たちの士気は上がっている。

三橋の「病気」も暴走することはなかった。
野球部員の協力を得て、時間を見つけてはトレーニングをしている。
こちらは目に見える結果は、実に出にくい。
だが三橋本人は、徐々に思い通りになりつつあることを痛感していた。
遊び感覚でやっているので、三橋にも部員たちにもいい息抜きになっている。
三橋にはさらに集中力を高める効果もあるようだ。
このトレーニングを始めてから、投球も良くなっている。
ハッキリと数字には現れていないが、三橋だけでなく阿部も感じているようだ。

そんな良いこと尽くめの日々だが、三橋は予感していた。
この状況は楽しいし、いつまでも続いて欲しいと思う。
だけどそんなことはない、どこかで終わる。

そしてその予感は当たったらしい。
部活が終わり、自転車で帰宅した三橋は、家の前に見覚えのある車を見つけた。
運転席の男が三橋に気付き、車を降りる。
三橋も自転車を降りると、男を見た。
対決は避けられそうにない。


「先生、うちに、御用ですか?」
三橋は男と向き合うと、静かにそう聞いた。
挨拶もせずに質問するなど、失礼であることはわかっている。
だがこの男には別に構わない。
むしろ口も聞きたくない。

「用があるから来てるんだけど。家に入れてくれる?」
男は口元を歪めて、苦笑している。
この男は三橋家の主治医だ。
雨の日に体調を崩す三橋家の者たちを、代々診察する医師の家系に生まれ育った。

「お父さんと、お母さん、今日は、遅いです。」
「君に用なんだ。」
「だったら、ここで、聞きます。」
三橋は素っ気なく応じた。
両親に会いたいのなら仕方ない。
だが三橋だけに用事なら、家に入れたくなかった。

ここまで「先生」を嫌う理由を、三橋はうまく言えない。
強いて論理的な説明を捜すなら、見下したような態度だ。
三橋をまともな人間として見ていないのが、ありありとわかる。
だが祖父母も従兄弟たちも、両親や叔父夫婦もそんな風に思っていない。
「先生」の態度は、三橋限定だ。

だからみんな気付かないのだろう。
この男から発せられる禍々しい邪気のような悪意に。
まるで三橋を捕獲するために、狙いを定める獣のようだ。
本能的な恐怖が、三橋が「先生」を嫌悪する理由だった。


「家に入れてくれないなら、車で話さないか?」
「先生」は空を見上げると、手のひらを見るような仕草をした。
三橋もつられて、空を見上げる。
雨粒がポツポツと顔に当たる。
どうやら雨が降り出したようだ。

「いえ、ここで」
三橋が頑固にそう答えると「先生」は聞こえよがしにため息をついた。
そして運転席から傘を2本、取り出す。
1本は黒い傘で、もう1本は透明のビニール傘だ。
ビニール傘を三橋に差し出してきたが、三橋は受け取らなかった。

「コンビニで買った安物だけど、新しい傘だよ?」
「そんなことより、早く」
三橋の再三の拒否に「先生」の顔から、笑みが消えた。
というより、貼り付けていた笑みを剥がしたというのが正解だ。

「廉君、群馬に戻ったら?ここまで往診するのは大変なんだ。」
「往診は、もう、いりません。」
「そうはいかないよ。三橋家の主治医としては。。。」
「ほんとに、しつこい」

三橋は冷ややかにそう言った。
だが「先生」もまた冷ややかに三橋をジッと見ている。
何度も繰り返されたやりとり。
だか今日の「先生」には、いつもと違う迫力があった。
有無を言わせないという決意が見えたのだ。


「野球部の部員たちとトレーニングしてるって?」
「え?」
「能力も少しずつ覚醒してるって?」
「どうして、それ、を」

三橋は思わぬ質問に、狼狽した。
野球部員たちとしているトレーニングやその結果のこと。
それは部員たちだけの秘密、誰にも言わないと決めていた。
百枝や志賀にも伝えていない。
三橋も親に話しておらず、重要機密事項と言っても過言ではない。
それをなぜ「先生」が知っているのか。

「困るなぁ、廉君。勝手なことをして。君の能力は私が覚醒させる。」
「なん、で」
「君は大事な論文のテーマ、貴重な被験者なんだから」

身勝手な「先生」の主張など、三橋にはどうでもよかった。
今日、訪ねてきた理由も気になる。
両親とも帰りが遅い日は意外と少ない。
だがその日の自宅前で待ち伏せすれば、人目を憚らず三橋に近づける。
そして今日がその日であることを、三橋は部室で話している。

どうして「先生」は野球部員だけの秘密を知っているのか。
理由はただ1つ、部員の誰かと「先生」はつながっているのだ。
何の根拠もないが、心当たりはある。


「また投げるのか?」
「え?」
今まで強気だった「先生」が、微かに怯んだ様子を見せた。
どうやら三橋は相当怒った顔をしていたようだ。
また投げ飛ばされると警戒しているらしい。

「君は気に入らない人を投げ飛ばしたり、物を落としたりするんだろう?」
「それだけ、じゃない。」
三橋は深呼吸をして気持ちを抑えながら、そう答えた。
せっかくトレーニングに付き合ってくれた野球部のみんなのためにも暴走したくない。

「俺を嫌ってて、俺も嫌い。そういう人にしか、力、出さない。」
「はぁ?何を馬鹿なこと」
「先生、俺、嫌いでしょ?俺も、嫌い。だから、投げた。」

それは思い通りにならない力に振り回された結果、三橋が辿り着いた結論だった。
暴発はお互いに嫌だって思うときだけ。
つまり相手の悪意を感じ取る能力も、多少なりともあるのだ。
それは決して強力ではなく、むしろ微弱なものだ。
中学時代、野球部のほぼ全員から嫌われても暴発などなかった。
それなのにこの「先生」と彼女には反応した。

「心も読めるのか。ますます研究したくなる。」
目に微かに狂気の色が宿らせながら、「先生」は一歩間合いを詰めてきた。
反射的に身体を引いた三橋は、背後の人影に気付いた。
曲がり角に身を隠していて顔は見えないが、その傘に見覚えがある。
紺色の生地に、大輪の赤い花が描かれた綺麗な図柄。
確か彼女は新しい傘だと、嬉しそうに持っていた。

やっぱり「先生」に情報を漏らしたのは。
三橋は絶望的な気分になりながら、気を引き締めた。
前と後ろから迫ってくる悪意、そして雨。
この勝負は三橋にとって、かなり分が悪い。

【続く】
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