空10題-曇・雨編

【曇り空の下】

「最近、調子はどう?」
男の質問に、三橋は素っ気なく「別に」と答えた。
この男相手だと、吃音が出ないのは皮肉なことだと思った。

男の名前を、三橋は知らない。
多分聞いたのだろうけど、忘れてしまった。
だが知りたいとは思わなかった。
必要なときは「先生」とだけ呼べばいいし、そもそもこちらから話しかけることはない。

彼は祖父の主治医で、時々群馬の三橋家へ往診に来る。
群馬にいた中学時代は、三橋も何度か受診させられた。
だがそれは診察というより、何かの実験のようだった。
頭に器具を取り付けられて、様々な質問をされる。
男は三橋の表情と、機械のモニターを見比べながら、何かを書き留めるのだ。

従兄弟の瑠里と琉もこれを受けていたが、叔父夫婦は受けていない。
つまり三橋家に隔世遺伝する体質を看ているのだろう。
三橋はこの「診察」を受けるのが、すごく嫌だった。
まるで自分が人間ではなく、実験動物になったような気がするのだ。

そして今日は、三橋が埼玉に戻って初めての診察日。
「先生」が、わざわざ埼玉の三橋宅に往診に来たのだ。
よりによって日曜日に来なくてもいいのに、と思う。
親の前で、実験動物よろしく器具をつけられるのは苦痛以外の何者でもない。
父親が仕事でいないことだけが幸いだ。


「僕、本当に廉君に嫌われてるなぁ。」
「先生」は、いつものように質問と何かの計測をしながら、大げさにため息をついた。
三橋の母、尚江が「そんなこと、ないわよね」と取り成すように口を挟む。
だが三橋は否定も肯定もせず、ニコリともしなかった。

三橋はこの診察同様、「先生」も嫌いだった。
ほとんど人を嫌うことをしない三橋が、はっきりと嫌いと思うのは彼ぐらいだ。
彼は口調こそ親切ぶっているが、三橋のことを見下している。
普通の人間と区別し、それ以下の生き物として見ている気がしてならない。
彼といると、まるで自分が実験動物のような気になるのだ。

「それにしても、すごい機械ですね!」
尚江は、三橋が答えないことで気まずく沈黙した空気を払うように明るい声を出す。
だが三橋は冷めていた。
お母さんはどう思っているのかな、と思う。
息子に物々しい器具を付けられたこの状況。
単に物珍しいのか、それとも不愉快な気分を隠しているのか。

「前と数値が違うなぁ。最近、調子はどう?」
いつも通りの診察の後、「先生」は書き留めたデータを見ながら、そう聞いていた。
三橋は素っ気なく「別に」と答える。
この男相手だと、吃音が出ないのは皮肉なことだと思った。
どう思われてもいいと思っている相手なら、言葉はすんなり出るらしい。

「そう言えば最近調子がよくないんでしょ?阿部君から聞いたけど。」
尚江がまた口を挟む。
三橋は舌打ちしたくなるのを堪えて「そう?」と答えた。
そうだ、2人は会って話をしたんだったと、今さらのように思い出す。
口止めをしておくんだったと後悔しても、もう遅い。

「調子が悪いって、どんな風に?」
「先生」は舌なめずりしそうな勢いで、身を乗り出している。
三橋は「何でもないです」と答えたが、引いてくれる気配もない。

まったく余計なことを。母さんも阿部君も。
三橋はうんざりしながら、心の中で深いため息をついていた。


さて、どうしたものか。
阿部は三橋の横顔を覗き見ながら、思案していた。

三橋の母、尚江と会って、話をしたことは、三橋本人にすぐバレた。
メールでそのことを聞かれた阿部は、それを認めた。
翌日には顔を合わせて、勝手な真似をしたことを詫びた。
それに対して、三橋は「お願い、が、ある」と言った。

「4月、に、新しい、投手、来るまで。俺に、投げさせて。」
阿部にそう告げた三橋は、それ以上何も言わないし、聞かなかった。
そして日々淡々と部活を続けている。
バッテリーとしては今まで通り、配球や練習方法については話す。
だが自分の身体のことや「4月まで」の意味については、頑なに答えなかった。
その話題になると、三橋はするりと背を向けて、立ち去ってしまうのだ。

一時期はゲリラ豪雨が頻繁に続いていた。
だがどうやらそれを脱し、最近は曇りの日が多い。
そのせいだろう。
一時期の騒ぎが嘘のように、三橋は落ち着いている。
曇り空の下、淡々と投げ込む三橋は騒動の前とまったく同じに見えた。

4月。新しい投手が来るまで。
それはつまり2年になったら、部をやめるということなのか。
その言葉の重さと、以前通りの三橋とのギャップに、阿部は戸惑っていた。


「野球部の阿部君って、君かな?」
呼び止められた阿部は「はぁ」と曖昧な返事をしながら、相手の顔を見た。
父親くらいの年齢の男に見覚えがなく、自分に声をかける理由など見当もつかなかった。

三橋が「4月まで」と告げてから、数週間。
西浦高校は順調に勝ち進み、県大会の決勝まで進んだ。
惜しくも優勝は逃したものの、埼玉2位。
関東大会への出場も決定し、目下の目標は春のセンバツ出場だ。
表面的には何事もなかったように、過ぎつつあった。

1年生ばかりの県立高校の異例の快挙。
それはやはり投手である三橋の力によるところが大きかった。
コントロールがさえ、変化球のキレもよかった。
だがそれは本人曰く、雨が多かったから。
確かに西浦の試合日、降雨率は高かった。

めっきり秋も深まってきたある日。
天気予報によると夕方に雨で、部活は中止となった。
1人で帰ろうとしていた阿部は、校門の前で男に呼び止められた。
こういう者ですと渡された名刺に書かれた肩書きは「脳外科医」。
そして「三橋君の主治医です」と名乗った。
今にも雨が降りそうな曇り空の下、この天気のように不穏な雰囲気を纏っていた。


「学校での三橋君の様子を、教えてくれないかな?」
ベンチに腰掛けた男が、そう切り出す。
だが阿部としては、何をどう答えていいのか、戸惑っていた。

阿部と男は、校内の裏グラウンドにいた。
落ち着いた場所で話したいと言われて、ここに案内したのだ。
部活が休みで閑散としたグラウンドは、会談にもってこいだ。
男は「学校って懐かしい雰囲気だな」と笑う。
だが阿部には、何だか胡散臭く見えた。

「俺、クラスが違うんで。」
阿部は予防線を張るように、そう答えた。
だが男は引く様子はなく、さらに怪しい笑みを深くする。
その不気味さは、並んでベンチに座っていた阿部が思わず立ち上がってしまったほどだ。

「三橋君ってすごくコントロールいいでしょ。まるで超能力みたいに。」
「超能力?」
「念力だよ。彼にはそれができるんだから」
男もまた阿部を追う様に、立ち上がろうとした瞬間。
その身体がフワリと浮いた。
そして空中で一瞬、制止した後、腰からベンチに落下した。

「先生。4月まで、待ってほしいって。言いましたよね?」
不意にグラウンドの入口から、聞き慣れた声がする。
普段とは違って、少しもドモらない凛とした声。
男は腰を強打したらしく、蹲ったまま呻いている。
だが三橋はその様子を冷ややかに見下ろしていた。

今のは三橋の仕業なのか?
曇り空の下、呆然と立ち竦む阿部の頬を降り出した雨の滴が濡らしていた。

【続く】
5/10ページ