空10題-曇・雨編

【まるで夜のよう】

「どうして言わなかったの!」
百枝が両手の拳を握り、それを震わせながら怒っている。
今にもその万力のような腕力で「ウメボシ」を繰り出されるのではないか。
その恐怖に怯えながら、三橋は恨みがましい目で阿部を見た。

オレのせいかよ。
阿部は内心悪態をついた。
だが三橋の視線をまともに受け止めるほど、冷淡にもなれない。
いかに三橋を心配したゆえの行動とはいえ、阿部は三橋との約束を破ったのだ。
三橋の雨の日の体調の変化を、百枝と志賀に相談した。

阿部だって悩んだのだ。
三橋は誰にも知られたくないようだったし、みんなに気を使わせたくないという気持ちも理解できる。
だが先日の試合のあのテンションの上がり方は異常だ。
桐青戦なら初の公式戦だったと納得できるが、2回目となれば見逃せない。

考えた末に、三橋の中学時代の戦績をチェックなどもした。
公式戦の結果はインターネットで調べられる。
三橋は1年からずっと試合で投げているが、勝ったのはほとんどない。
そして数少ない勝ち試合の日は、全て雨だった。

これはやはり三橋の意思に反しても、言うべきだ。
阿部はそう判断した。
そして試合翌日、阿部は百枝と志賀にそのことを話した。


「ホントに、へーき、なんです。」
三橋は百枝の剣幕に押されながら、なおも果敢に挑んでいる。
阿部はそこまでして隠そうとする三橋の執念に、もはや感動さえしていた。

三橋は桐青戦と同様に発熱し、試合の翌日は学校を休んだ。
その次の日、朝練に現れた三橋は、百枝に止められた。
かくして他の部員たちは練習をしている中、阿部と三橋、百枝と志賀が部室に残る。
そして百枝に怒られているというわけだ。

「もう、それじゃ話が進まないでしょう?」
「で、でも」
「認めないなら、もう投げさせないからね!」

業を煮やした百枝が、詰め寄る。
確かに三橋が頑なに「へーき」と言い張れば、話が進まない。
すると今まで黙っていた志賀が、おもむろに口を開いた。

「三橋。この先準決勝、決勝と連続で試合がある可能性もある。その2日とも雨だったらどうする?」
「投げ、ます。」
「でも熱が出てたら、いつもの調子は出ない。三橋のせいで負けてしまうかもしれない。」
「うう。。。」
「意地を張ってみんなに迷惑をかけるのは、三橋も嫌だろう?」

三橋がコクコクと首を縦に振るのを見て、阿部はさすがと思う。
怒った後に、静かに説得。
もしかして取調室で、刑事が犯人に自白させる手法ってこんな感じではないか?
阿部はそんなことを思いながら「自白」する三橋を眺めていた。


「でもさぁ、三橋の親も全然そのことを言わなかったよな?」
その日の帰り、放課後の部活の後のこと。
コンビニで肉まんを頬張りながら、そう言ったのは田島だ。

放課後の部活の前に、百枝と志賀から部員たちに三橋の体調の話があった。
深刻に考える必要もないが、知っておくに越したことはない。
雨天練習時は三橋に無理をさせないこと。
試合で雨の時は基本的には、花井か沖が先発して三橋はリリーフ登板にすること。
そして言外に全員注意しろという意図がこもっていた。
三橋はすっかり恐縮したようで、話の間ずっとキョドキョドと落ち着かない様子だった。

田島と泉は2人で秘かに、特に注意しようと話し合っていた。
何しろ同じクラスで、一番三橋と一緒にいる時間が長いのだ。
かわいい弟分を守ってやることに、燃えないはずはない。
その2人が話しているうちに抱いた疑問だった。
大したことはないと言いながら、三橋は発熱で学校を休んでいる。
日常生活に支障をきたすほどの持病を、どうして親は監督なり教師に言わないのだろう。

「か、かくせー、いでん?」
「何、それ?」
「じーちゃん、オレ、オレの孫。1つ飛ばしの遺伝。だから」
「へぇ、そうなのか!」

田島は無邪気に感心している。
だがそれを聞いた阿部は、やはり変だと思う。
隔世遺伝の病気というのは、あってもおかしくない。
だがいくらなんでも間の世代、つまりこの場合は三橋の親が無頓着過ぎではないだろうか。
阿部よりも先に、三橋の両親が百枝や志賀に言うのが本当のような気がする。

どうやら三橋の体調は部員全員の関心事のようだ。
田島と三橋の話に全員が聞き耳を立てている。
阿部と同じ感想を持っている者もいるようだ。


「そ、それに、全員が、なる、じゃなくて。じーちゃん、ないし。」
「1つ飛ばしの病気だけど、何ともない人もいるのか。」
「そう。それ!」

全員が注目していることに気付いた三橋が、オロオロと支離滅裂になった。
すかさずスーパー通訳、田島が活躍する。
どうやら隔世遺伝の病気だが、病状が出ない者もいるということらしい。
だとしたら三橋はかなり貧乏くじを引いたことになるのではないか。

「それに、ちから、出るのは、もっと少ない、から。」
「ちから?あのハイテンションのこと?か」
「・・・・・・」

田島が聞き返しても、三橋は答えなかった。
そして自分の分の肉まんを食べ終わると俯いてしまう。
夏場ならばまだ明るい時間帯だが、今はまるで夜のように暗い。
コンビニの明かりから顔を背けた三橋の表情は見えなくなった。

それにしても何て不可解な病気なのだろう。
病状も三橋の言い回しも、ひどく微妙で曖昧でわからないことばかり。
それにそもそも正式な病名すら明かされていない。
だが阿部はイラつきそうになる心を懸命に抑えた。
一番辛いのは三橋本人なのだから、自分が怒っている場合ではない。
支えてやらなくてはいけないのだ。


それからしばらくは平和な日が続いた。
試合は勝ち進んでいたし、雨も降らなかった。
三橋は何事もなかったように投げ、阿部も他の部員たちも普通に過ごしていた。

そしてついに雨の日が来た。
天気予報によると、関東は夕方から降り出して、次第に激しい雨になるらしい。
三橋の体調以前に、練習をするような天候ではない。
幸い試合はまだ先だ。
放課後、部員たちは部室に集まったものの、短いミーティングだけで帰宅することになった。

「雨、降り出したよ!」
ミーティングの資料をコピーをしに出たマネージャーの篠岡が、戻ってくるなりそう言った。
コピーしてきた資料も、篠岡の髪も少しだけ濡れている。
百枝が篠岡に「ありがとう」と礼を言い「早くやっちゃおう!」と部員たちの顔を見渡す。
だが部員たちに資料を配ろうとした篠岡が「きゃ!」と声を上げた。
降り出した雨のせいで靴も濡れており、床で足を滑らせたのだ。

転びかけた篠岡は、たまたまそこにいた阿部に抱き付くような格好になった。
阿部と篠岡はポカンとしたまま、静止する。
資料が篠岡の手から滑り落ちて、バサバサと床に落ちた。
すかさず田島が「ヒューヒュー」とはやし立て、水谷が「阿部、バカ!離れろ」と叫ぶ。

その瞬間、ロッカーの上に置かれていた大きなバスケットが床に落ちた。
コンビニの買い物籠より一回り大きいもので、中にはボールが入っている。
バスケットが落下する大きな音で、全員がそちらに注目する。
数十個のボールが床を叩く音がそれに重なった。

真っ先にボールを拾い始めたのは花井だった。
全員がハッと我に返り、ボール拾いに加わる。
口々に「誰だよ。片付けたヤツ」「ちゃんと置いてなかったのかよ」と文句を言う。
だが本気で犯人捜しをしているわけではない。
次からちゃんと確認しようという暗黙の了解だ。

この時、阿部は気付かなかった。
百枝も志賀も、他の部員たちも気付かなかった。
外はにわかに雨の勢いが強くなっている。
三橋は今の空同様、まるで夜のように暗い表情で、口元だけ微かに歪めて嗤っていた。

【続く】
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