空10題-夜空編
【望月】
「甲子園」って言葉には、何か特別って感じがあるよな。
もちろん高校球児にとっては、大きな目標。
野球好きにとっても、心惹かれるワードだ。
その中でも甲子園ウォッチャーなんてマニアもいる。
もう夏も春も全試合を必ず見続けているオールドファンも多い。
中にはもう何年も、春も夏も全試合バックネット裏の同じ席で見ているなんてツワモノもいる。
ちなみにこの人は雑誌の取材なんかも来て、マニアの間じゃ有名人だ。
野球に詳しくない人でも「甲子園」って言葉は知っている。
そしてそれが高校球児にとって、どれだけ名誉であるかということも。
それをオレが身をもって実感したのは、西浦が甲子園で敗退した後だった。
もうとにかく色々なヤツが話しかけてくるんだ。
クラスメイトからはやたらメールが来た。
いつもつるんでいるヤツらはともかく、ほとんど話したこともないヤツまで。
小学校や中学の時の同級生も同様。
挨拶しかしたことがない近所のおばちゃんが、やたらと話しかけてきたり。
生まれてから数回しかあったことのない親戚から、電話がかかってきたりした。
ちなみにオレの妹は、中学でソフトボール部に入っている。
一応レギュラーで、県大会でベスト8に入ったんだぜ。
それなのに試合に出てないオレばっかり「おめでとう」攻撃だ。
居心地が悪いことこの上ない。
オレはベンチにも入っていないのだと言うと、返って来る言葉もほぼ同じ。
次はキミの番だね、って言われるんだ。
そんなに簡単に言わないでほしい。
これってある意味イジメに近いと思うんだけどな。
西浦高校野球部で初めての引退式が行われたのは、8月中旬だった。
場所は夏休みの空いている教室、偶然だけどここはオレのクラスだ。
だけど教室にある椅子だけでは席が足りない。
隣の教室から椅子をいくつか借りてきて、少々窮屈がなんとか全員が入りきった。
昔は教室に集まると、余ってる席の方が多かったんだよな。
感慨深そうにそう言ったのは、栄口先輩だ。
言われてみれば、そうだろうなと思う。
10名しかいないミーティングで、教室は広すぎる。
引退式はやはりいつになく厳かな雰囲気だった。
まずモモカンが3年生に労いの言葉をかける。
そして3年生が1人ずつ、挨拶をした。
そこには先輩たちの、3年分の思いもあった。
つらいこともあったけど、充実した3年間だったこと。
甲子園優勝という目標に手が届かなくて、悔しいということ。
それでも甲子園という場所に行けたのは、これからの人生の誇りであるということ。
楽しく野球ができたのは1、2年生のおかげだと言われて、オレも嬉しかった。
最後に花井先輩から新主将に部室の鍵を渡した。
この後、3年生は部室のロッカーを片付けて、明け渡す。
オレたちは次の大会を目指して、練習だ。
だがそれで終わりじゃない。
練習が終わった後この教室で、オレは三橋先輩と話をする約束をしていた。
正直言って、三橋先輩から何を言われるのか見当もつかない。
だけどオレが言いたいことは決まっていた。
オレは部室荒らしをしようとしていて、偶然現れた三橋先輩に止めてもらった。
今にして思えば、止めてもらって本当によかった。
それを感謝していることを伝えて、お礼を言いたい。
よぉ。お疲れ。
練習の後、教室で待っていたオレは驚き、固まった。
三橋先輩を待っていたのに、そこに現れたのは阿部先輩だった。
ここは2年生の教室、他の学年の生徒が偶然来るような場所じゃない。
つまり阿部先輩はオレと話をするためにここへ来たんだろう。
誰にも言わないって三橋先輩は阿部先輩だけには、オレのことを話したんだ。
オレは咄嗟にそう思った。
いくら誰にも言わないって言ったって、誰かに喋りたくなるのは仕方ない。
しかも三橋先輩と阿部先輩の絆の強さは、よく知っている。
阿部先輩にだけは話していても仕方がない。
だけど阿部先輩の次の言葉は、意外なものだった。
三橋にお前と話せって言われたんだ。何かよくわかんないけど。
阿部先輩は言葉通り、本当によくわからないって顔をしていた。
つまり三橋先輩は、本当に誰にも話していないってことだ。
お前と話すって言ったら、やっぱり捕手ってことだよな?
そう確認されてオレは曖昧に頷くことしかできなかった。
三橋先輩、もしかして本当にただ「話せ」としか言ってないのか?
いくら何でもそれは丸投げしすぎだと思うけど。
どうしてお前がベンチ入りできなかったのか。
オレが思う理由を話すけど、それでいいか?
阿部先輩は三橋先輩とオレのやりとりは知らないのに、三橋先輩の意図はわかっているみたいだ。
オレは今度はしっかりと「お願いします」と答えた。
夏の甲子園で阿部先輩を見ながら、ずっと考えてきたこと。
期せずしてその答えに近づける話が聞けそうな予感がした。
お前を見てると、三橋が中学時代に組んでた捕手を思い出すよ。
阿部先輩とオレは窓際に並んで立って、校庭を見下ろしながら話していた。
野球部同様、どの部ももう練習を終えている。
もう日も暮れて、そろそろボールが見えなくなる時間だからだろう。
三橋先輩、中学時代は部で孤立してたんでしたね。
オレがそう答えると、阿部先輩は意外そうな顔をした。
三橋先輩の中学時代をオレが知っているとは思わなかったんだろう。
そう。捕手は最後には三橋にサインも出さなかったらしい。
捕手は球を捕ってるだけじゃない。
投手が投げるボールは、投手と捕手、2人の責任なのにな。
阿部先輩は何だか悔しそうにそう言った。
オレがその捕手を見たのは1年生の春で、オレたちの初めての試合。
対戦相手は中高一貫校で、三橋の出身の中学だった。
相手の投手はフォークが決め球なんで、ストレートで2ストライク取って、最後にフォーク。
見事にそれ一辺倒のリードだったよ。
つまり投手の能力に頼りきってたんだ。
阿部先輩は思い出すように空を見ながら、そう言った。
オレは「そう、すかね」と曖昧な返事をした。
そんなに単純な捕手じゃないと言ってやりたかったが、納得する部分もある。
多分オレもフォークが決め球の投手だったら、きっとそういうリードをするだろう。
データをきちんと分析して、頭を使ってリードするの面倒だと思ってるだろ?
キャッチングとかフィールディング能力はお前の方が上なのに、すげぇもったいない。
多分モモカンもそう思ってると思うぜ。
すげぇもったいない?意外な言葉だ。
阿部先輩の言っている意味に、オレは身体が震えるのを抑えられなかった。
つまりオレはレギュラーと比べて絶望的に差があるってことじゃないよな?
まだ正捕手のチャンスがあるってことだよな?
じゃあな。頑張れよ。
阿部先輩がオレの肩を叩くと、教室を出て行こうとした。
オレはその背中に向かって「オレ、どうしたらいいですか?」と叫んでいた。
正捕手を目指すなら、データ分析の勉強しろ。
うちの過去の試合のデータなんて、いい材料だぜ。
相手校の打者のデータと三橋が実際に投げた球をつき合わせて考えてみろ。
阿部先輩は立ち止まって振り返ると、こう言った。
ありがとうございました!
オレは今度こそ教室を出て行く阿部先輩に、深く頭を下げた。
そして見送った後に、困ってしまう。
そもそも会う約束の相手は三橋先輩だ。
三橋先輩は来るのか?待ってた方がいいのかな。
そんなオレの疑問に答えるように、ポケットの中で携帯電話が鳴った。
メールの着信、発信者は三橋先輩だった。
急いでメールを開いたオレは、目頭が熱くなるのを止められなかった。
次はキミの番だね
がんばってください
こんどはオレがおうえんします
あれだけ言われ続けてウンザリしていた「次はキミの番だね」が初めて嬉しかった。
本当にきっかけは偶然だったけど。
だけど三橋先輩や阿部先輩とこんな風に話すことができて、本当によかった。
オレは両手で涙を拭うと、教室を出た。
学校を出ると、もうすっかり夜になっていた。
だけど空に浮かんだ月がオレを照らしてくれている。
満月。オレの望みを照らす望月だ。
【続く】
「甲子園」って言葉には、何か特別って感じがあるよな。
もちろん高校球児にとっては、大きな目標。
野球好きにとっても、心惹かれるワードだ。
その中でも甲子園ウォッチャーなんてマニアもいる。
もう夏も春も全試合を必ず見続けているオールドファンも多い。
中にはもう何年も、春も夏も全試合バックネット裏の同じ席で見ているなんてツワモノもいる。
ちなみにこの人は雑誌の取材なんかも来て、マニアの間じゃ有名人だ。
野球に詳しくない人でも「甲子園」って言葉は知っている。
そしてそれが高校球児にとって、どれだけ名誉であるかということも。
それをオレが身をもって実感したのは、西浦が甲子園で敗退した後だった。
もうとにかく色々なヤツが話しかけてくるんだ。
クラスメイトからはやたらメールが来た。
いつもつるんでいるヤツらはともかく、ほとんど話したこともないヤツまで。
小学校や中学の時の同級生も同様。
挨拶しかしたことがない近所のおばちゃんが、やたらと話しかけてきたり。
生まれてから数回しかあったことのない親戚から、電話がかかってきたりした。
ちなみにオレの妹は、中学でソフトボール部に入っている。
一応レギュラーで、県大会でベスト8に入ったんだぜ。
それなのに試合に出てないオレばっかり「おめでとう」攻撃だ。
居心地が悪いことこの上ない。
オレはベンチにも入っていないのだと言うと、返って来る言葉もほぼ同じ。
次はキミの番だね、って言われるんだ。
そんなに簡単に言わないでほしい。
これってある意味イジメに近いと思うんだけどな。
西浦高校野球部で初めての引退式が行われたのは、8月中旬だった。
場所は夏休みの空いている教室、偶然だけどここはオレのクラスだ。
だけど教室にある椅子だけでは席が足りない。
隣の教室から椅子をいくつか借りてきて、少々窮屈がなんとか全員が入りきった。
昔は教室に集まると、余ってる席の方が多かったんだよな。
感慨深そうにそう言ったのは、栄口先輩だ。
言われてみれば、そうだろうなと思う。
10名しかいないミーティングで、教室は広すぎる。
引退式はやはりいつになく厳かな雰囲気だった。
まずモモカンが3年生に労いの言葉をかける。
そして3年生が1人ずつ、挨拶をした。
そこには先輩たちの、3年分の思いもあった。
つらいこともあったけど、充実した3年間だったこと。
甲子園優勝という目標に手が届かなくて、悔しいということ。
それでも甲子園という場所に行けたのは、これからの人生の誇りであるということ。
楽しく野球ができたのは1、2年生のおかげだと言われて、オレも嬉しかった。
最後に花井先輩から新主将に部室の鍵を渡した。
この後、3年生は部室のロッカーを片付けて、明け渡す。
オレたちは次の大会を目指して、練習だ。
だがそれで終わりじゃない。
練習が終わった後この教室で、オレは三橋先輩と話をする約束をしていた。
正直言って、三橋先輩から何を言われるのか見当もつかない。
だけどオレが言いたいことは決まっていた。
オレは部室荒らしをしようとしていて、偶然現れた三橋先輩に止めてもらった。
今にして思えば、止めてもらって本当によかった。
それを感謝していることを伝えて、お礼を言いたい。
よぉ。お疲れ。
練習の後、教室で待っていたオレは驚き、固まった。
三橋先輩を待っていたのに、そこに現れたのは阿部先輩だった。
ここは2年生の教室、他の学年の生徒が偶然来るような場所じゃない。
つまり阿部先輩はオレと話をするためにここへ来たんだろう。
誰にも言わないって三橋先輩は阿部先輩だけには、オレのことを話したんだ。
オレは咄嗟にそう思った。
いくら誰にも言わないって言ったって、誰かに喋りたくなるのは仕方ない。
しかも三橋先輩と阿部先輩の絆の強さは、よく知っている。
阿部先輩にだけは話していても仕方がない。
だけど阿部先輩の次の言葉は、意外なものだった。
三橋にお前と話せって言われたんだ。何かよくわかんないけど。
阿部先輩は言葉通り、本当によくわからないって顔をしていた。
つまり三橋先輩は、本当に誰にも話していないってことだ。
お前と話すって言ったら、やっぱり捕手ってことだよな?
そう確認されてオレは曖昧に頷くことしかできなかった。
三橋先輩、もしかして本当にただ「話せ」としか言ってないのか?
いくら何でもそれは丸投げしすぎだと思うけど。
どうしてお前がベンチ入りできなかったのか。
オレが思う理由を話すけど、それでいいか?
阿部先輩は三橋先輩とオレのやりとりは知らないのに、三橋先輩の意図はわかっているみたいだ。
オレは今度はしっかりと「お願いします」と答えた。
夏の甲子園で阿部先輩を見ながら、ずっと考えてきたこと。
期せずしてその答えに近づける話が聞けそうな予感がした。
お前を見てると、三橋が中学時代に組んでた捕手を思い出すよ。
阿部先輩とオレは窓際に並んで立って、校庭を見下ろしながら話していた。
野球部同様、どの部ももう練習を終えている。
もう日も暮れて、そろそろボールが見えなくなる時間だからだろう。
三橋先輩、中学時代は部で孤立してたんでしたね。
オレがそう答えると、阿部先輩は意外そうな顔をした。
三橋先輩の中学時代をオレが知っているとは思わなかったんだろう。
そう。捕手は最後には三橋にサインも出さなかったらしい。
捕手は球を捕ってるだけじゃない。
投手が投げるボールは、投手と捕手、2人の責任なのにな。
阿部先輩は何だか悔しそうにそう言った。
オレがその捕手を見たのは1年生の春で、オレたちの初めての試合。
対戦相手は中高一貫校で、三橋の出身の中学だった。
相手の投手はフォークが決め球なんで、ストレートで2ストライク取って、最後にフォーク。
見事にそれ一辺倒のリードだったよ。
つまり投手の能力に頼りきってたんだ。
阿部先輩は思い出すように空を見ながら、そう言った。
オレは「そう、すかね」と曖昧な返事をした。
そんなに単純な捕手じゃないと言ってやりたかったが、納得する部分もある。
多分オレもフォークが決め球の投手だったら、きっとそういうリードをするだろう。
データをきちんと分析して、頭を使ってリードするの面倒だと思ってるだろ?
キャッチングとかフィールディング能力はお前の方が上なのに、すげぇもったいない。
多分モモカンもそう思ってると思うぜ。
すげぇもったいない?意外な言葉だ。
阿部先輩の言っている意味に、オレは身体が震えるのを抑えられなかった。
つまりオレはレギュラーと比べて絶望的に差があるってことじゃないよな?
まだ正捕手のチャンスがあるってことだよな?
じゃあな。頑張れよ。
阿部先輩がオレの肩を叩くと、教室を出て行こうとした。
オレはその背中に向かって「オレ、どうしたらいいですか?」と叫んでいた。
正捕手を目指すなら、データ分析の勉強しろ。
うちの過去の試合のデータなんて、いい材料だぜ。
相手校の打者のデータと三橋が実際に投げた球をつき合わせて考えてみろ。
阿部先輩は立ち止まって振り返ると、こう言った。
ありがとうございました!
オレは今度こそ教室を出て行く阿部先輩に、深く頭を下げた。
そして見送った後に、困ってしまう。
そもそも会う約束の相手は三橋先輩だ。
三橋先輩は来るのか?待ってた方がいいのかな。
そんなオレの疑問に答えるように、ポケットの中で携帯電話が鳴った。
メールの着信、発信者は三橋先輩だった。
急いでメールを開いたオレは、目頭が熱くなるのを止められなかった。
次はキミの番だね
がんばってください
こんどはオレがおうえんします
あれだけ言われ続けてウンザリしていた「次はキミの番だね」が初めて嬉しかった。
本当にきっかけは偶然だったけど。
だけど三橋先輩や阿部先輩とこんな風に話すことができて、本当によかった。
オレは両手で涙を拭うと、教室を出た。
学校を出ると、もうすっかり夜になっていた。
だけど空に浮かんだ月がオレを照らしてくれている。
満月。オレの望みを照らす望月だ。
【続く】