空10題-夜空編

【スピカ】

野球っていうのは、本当にむずかしいスポーツだと思う。
奥が深いとか、そういう意味じゃない。
単にルールがむずかしいって意味だ。

例えばピッチャー対バッターだけで考えただけでも、いろいろな状況があるだろ?
三振とがフォアボール、デットボール。
ボークなんていうのもある。
出塁すれば、ランナーも絡んでくる。
盗塁、進塁、フライならばタッチアップとか。
とにかく覚えなければならないことが多い。

して見れば、サッカーのルールって簡単だよな。
とりあえず枠にボールを入れれば1点だし。
あ、誤解がないように言っておくと、決してサッカーが楽なスポーツだって言ってるわけじゃないぜ。
もちろんボール回しなんかは素晴らしい技だと思ってるし、サッカーが上手いヤツは単純に尊敬する。
いい意味で、ルールが野球よりも明快だって言ってるんだ。
サッカーが世界中で流行っているのに野球がそうでもないのは、ルールの複雑さも原因の1つだと思う。

そんな野球のわかりにくいルールの1つに、アピールプレイっていうのがある。
守備側が攻撃側のルール違反などを指摘して、審判にアウトを主張して承認を求める、だったかな?
テレビで見ていれば、解説してくれるから何とかまぁわかる。
ただ球場で見ていると、ものすごくわかりにくいんだ。

西浦高校の記念すべき甲子園での初試合は、このアピールプレイが明暗を分けた。
ルールをきちんと頭に入れておくことの大切さを思い知った試合だった。


試合は、三橋先輩の先発で始まった。
相手チームは強豪校で、初出場の県立高校に負けるはずがないと思っているのがありありとわかった。
しかも三橋先輩の球はあまり速くない。
はっきりと「遅!」と口に出す選手までいた。

だがこれはモモカンの作戦だった。
最初の一巡は、三橋先輩の変化球主体のピッチングで切り抜ける。
強豪校は早い球には慣れていて、逆に遅い球は案外打ちにくかったりする。
案の定、3回まで0対0の緊迫した投手戦が繰り広げられた。

4回にオレと同じ2年の投手がマウンドに立った。
三橋先輩の球に目が慣れたせいで、球は数倍速く見える。
次の一巡はこれで何とか乗り切った。
多分同地区で何度も練習試合や公式戦で当たっているチームには、今さら通用しない戦法だ。
だけどデータだけでほぼ初見のチームには有効だった。
2年生投手は2点取られたけど、甲子園常連相手なら充分すごいだろ?

7回の途中から、もう1度三橋先輩がマウンドに上がった。
三橋先輩はベンチに下がったわけではなく、ファーストについてたんだ。
速い球に慣れたところで、もう1度三橋先輩が投げる。
しかも今度は「まっすぐ」が主体の配球だ。

三橋先輩は再びマウンドに上がった後も、相手に得点を許さなかった。
この人のコントロールって、本当にどんな場面でも正確だよな。
2年生投手の失点が少なかったのだって、後に三橋先輩がいるからだ。
ピンチの時にはエースが守ってくれる。
そんな風に思ったから、気楽に投げられたんだと思う。

オレは三橋先輩に言われた通り、ずっと阿部先輩を見ていた。
阿部先輩はどういう捕手なのか、オレとはどう違うのか。
今までの先入観を捨てて、1から見直そうとした。


まず気が付いたのは、阿部先輩は2人の投手に対して構え方を変えている。
簡単に言うと三橋先輩には背中を丸め気味にやや小さく、2年生投手には逆に背を伸ばして大きく。
本当によくよく見ないと気づかないけどな。

試合後に2年生の投手陣に聞いたところによると、三橋先輩は小さ目の構えの方が投げやすいらしい。
的が絞りやすいんだと言っていたらしい。
コントロールが生命線の三橋先輩なら、そうかもしれない。
対して他の投手は大きく構えた方が、投げやすいという。
投手によってリードを変えるまでは誰でもするけど、構えまで変えるなんて発想はオレにはなかった。

次に気づくのは、阿部先輩は相手チームをよく見ていることだ。
これも後で2年の控え捕手に聞いたら、阿部先輩はとにかく相手を観察するようにしているという。
どういう打者かという分析は、もちろん事前にデータをチェックしている。
それ以外の言動や挙動を見て、性格や考えてることやその日の体調まで読もうとするんだって。
オレなんて、データを覚えるだけでもう脳の許容量いっぱいなのに。

タレ目なのに、目つきが悪いな。
相手チームを眼光鋭く観察する阿部先輩を見ながら、そんなことを思ってしまった。
まぁ半分負け惜しみもあるけどな。
ちょっと見ただけでも阿部先輩って確かにすごい捕手だ。
今まで応援しかできないことに腐ってたオレは、そんな大事なことを見過ごしていた。

ちなみにこれは応援団の浜田先輩が教えてくれたんだけど。
阿部先輩と三橋先輩はお揃いのキーホルダーを持っているらしい。
稲穂を持った女の子が象ったもので、稲穂の先の部分ににガラスだかビーズが光っている。
女の子は乙女座の女神で、稲穂の先のキラキラはスピカっていう五連星だって。

これは阿部先輩のお父さんが2人にプレゼントしたものだそうだ。
1年生の頃、阿部先輩と三橋先輩は意思の疎通がうまくいかなかったそうだ。
それを心配した阿部先輩のお父さんが、少しでも仲良くなるようにって2人にお揃いで贈ったんだって。
何で乙女座かというと、阿部先輩のお父さんが乙女座だから。
言われてみれば、三橋先輩がそんなの持ってたのは見覚えがあるような気がする。

いろいろ驚くよな。
阿部先輩と三橋先輩は意思の疎通がうまくいかなかったって?
まるで夫婦かっていうくらい気持ちが通じ合っているように見えるのに。
それに三橋先輩ならともかく、阿部先輩がキラキラのスピカのキーホルダーを持ってるのも。
ついでにあのゴツい身体とデカイ声で有名な阿部先輩のお父さんが乙女座だなんて。


さて話を試合に戻そう。
2点リードされた西浦高校は7回に同点に追いついた。
4番の田島先輩がヒットで出塁した後、花井先輩が2ランホームランを打ったのだ。
西浦の記念すべき甲子園初ホームランは、我らが主将、花井先輩だった。
田島先輩はこれをずっと悔しがることになるんだけど、それはまた別の話だ。

そして2対2で迎えた8回裏。
ワンナウトで、ランナーは3塁に8番の阿部先輩、1塁に9番の三橋先輩。
そして打順は1番に戻って、泉先輩だった。

泉先輩が打った打球はショートへのライナー。
強烈な当たりだったけど捕球された。
相手チームのファインプレーで、ツーアウトだ。

このとき、阿部先輩も三橋先輩も大きくスタートを切っていた。
特に三橋先輩の飛び出しは大きすぎた。
相手チームのショートは1塁に送球して、三橋先輩もアウト。
一気に併殺、チェンジだ。
それなのに、スコアボードには「1」と得点が入った。

問題は三橋先輩がアウトになる前に、阿部先輩が本塁を踏んでいたということだ。
阿部先輩が主審にそれを主張して、認められた。
相手校は3塁にボールを送って、三橋先輩とアウトと阿部先輩のアウトを置き換えるべきだった。
アピールプレイをすれば、点は入らなかった。
それをせずにベンチに戻ったことで、3点目が入った。
この試合が決勝点になり、西浦高校は勝った。
世間の大方の評価を覆して、大番狂わせを起こしたのだ。

ちなみにこのプレーはマニアの間では「ドカベンプレー」って呼ばれてる。
あの有名な漫画「ドカベン」で出てくるんだ。
いわゆるルールブックの盲点ってやつで、かの明訓高校がこれで勝利している。
実際の高校野球でも、地区大会でたまにあった。


その日のニュースのスポーツコーナーはこの話題を大きく取り上げていた。
報道陣に囲まれた阿部先輩は「たまたまルールを知ってたんで」と短く答えていた。
モモカンも「ラッキーな決勝点でした」と控え目なコメントだ。

だけどずっと阿部先輩を見ていたオレは気付いていた。
監督や3年生の部員たちも気付いていただろう。
少なくても阿部先輩はショートにライナーが飛んだ時点で、もうこのプレーを想定していた。
それですかさず三橋先輩に目で合図を送ったんだ。

阿部先輩の意図をすかさず読んだ三橋先輩は、1塁から大きく飛び出した。
そしてショートの目をひきつけるように、慌てた様子で1塁に戻った。
ギリギリで間に合わないようにタイミングを計ったんだ。
ここまではまぁ予想の範囲内。

でも阿部先輩は相手校の地区大会の全試合のスコアに目を通した。
それで彼らは地区大会でも同じようなプレーをしていたのを見つけたんだ。
そのときは相手チームが得点を訴えなかったために、得点が入らなかった。
相手チームは強豪校だけど、ルールをちゃんと勉強していない。
阿部先輩はそれをスコアから読み取ったんだ。

試合後の球場の外でそれを聞いたオレたちは、驚いた。
栄口先輩がボソリと「阿部は性格がワルイぜ」と呟き、他の3年生が頷いている。
オレはただただ感心するしかなかった。
三橋先輩の言う通り、阿部先輩ってやっぱりすごい。

三橋先輩が「うまく、いって、よかった!」と笑った。
阿部先輩が「そうだな」と、三橋先輩の頭をガシガシと乱暴に撫でる。
その瞬間、オレは見つけた。
阿部先輩が肩にかけているエナメルバックに提げられたキーホルダー。
乙女座の女神が揺れて、五連のスピカが太陽の光を反射して煌めいている。

【続く】
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