空10題-朝・夕編

【涙が零れて】

「い、今から、行っても、いい、ですか?」
『うちに来んのか?』
三橋は携帯電話で、一生懸命喋っている。
元々喋るのは得意ではなく、電話ではなおさらだ。
相手の様子が見えないので、イライラさせていないかと不安になるのだ。

「あ、もし、ダメ、なら。明日、学校、でも。」
『来るのはいいけど、食い物とかは何もないぜ。親出かけてるから。』
電話の相手は阿部だった。
桐青高校の文化祭に行った帰り道、泉や田島と別れた後。
三橋は阿部に電話をかけた。
今から会いに行ってもいいかと。

今日はまっすぐ帰る予定だった。
阿部に会いに行くのは、急に思いついたことだ。
受け取って欲しい物があった。
それに今日は今まで知らなかったものを見て、いろいろなことを考えた。
だが三橋は、今日の出来事を特に阿部に話したいと考えたわけではない。
とにかく無性に阿部に会いたいと思ったのだ。

「何も、なくて、いいです。」
『じゃあ待ってるから来いよ。どーせ暇だし。』
電話の向こうで、阿部がそう言った。
三橋は元気よく「すぐ、行く!」と答えて、電話を切る。
そして1日歩き回っていたとは思えないほどの軽い足取りで、歩き出した。


阿部は自宅の前で、三橋が来るのを待っていた。
すぐに来ないのはわかっている。
三橋は自転車ではないようだし、そもそも電話を切ってさほど時間が経っていない。
だがどうしても落ち着かなかったのだ。

今日、三橋が田島や泉と桐青高校の文化祭に行ったことは知っていた。
というか本当は阿部もついて行くつもりでいたのだ。
別に文化祭が見たかったわけではない。
三橋が田島らと一緒に終日遊び回るのが不安だったのだ。
そもそも普段、部活帰りに田島が三橋を連れ回すことだって感心しない。
三橋は大事なエースで怪我でもされたら困るのだから。

だが田島たちについて来るなと言われた。
招待してくれた桐青の仲沢利央が2、3人でと言っていたというのが表向きの理由。
だが本音はきっと何かするたびに口を出してくるであろう阿部が鬱陶しいのだろう。
阿部は面白くない気分で、今日一日を過ごしたのだった。

電話の様子では、三橋は怪我などはしていないようだ。
そのことには大いにホッとしている。
それに声の様子からして、楽しかったようだ。
それなのに今、急に阿部に会いたいという。
いったい何があったのだろう。

どうにも気になった阿部はもう何も手につかなくなってしまった。
だから自宅前に出て、三橋を待つことにしたのだった。


「阿部、君!待ってて、くれた、のか?」
阿部の家までやって来た三橋は、喜びに顔をほころばせた。
だがすぐに申し訳なさそうな表情に変わる。
時間はもう夜、気温も下がっている。
家の前まで来てから電話をすればよかったのかもしれない。

「勝手に待ってただけだから。気にすんな。」
阿部はそんな三橋の顔色を読んで、そう言った。
そして中に入るようにと促した
だが三橋は首を振った。
いきなり来ておいて、上がりこむのは気が引ける。
用件は短いのだから、ここでいい。

「あの、ね。今日、桐青の、文化祭」
「おお。楽しかったか?」
「うん。すごく楽しかった!で、これ!」
三橋は思い切り手を差し出した。
その手のひらには、小さな人形が乗せられていた。

フェルト生地で作られたそれは練習着姿の野球少年を模している。
左手にはグローブをはめており、その中には小さなボールが納まっていた。
とにかく芸が細かく作りこまれたそれは、桐青高校野球部マネージャーの手によるものだ。
9分割の的当てゲームでパーフェクトを達成した三橋が、もらい受けたのだ。

そもそも夏の大会のお守りとして、マネージャーが部員たちに人形を作った。
これはその試作品で、部室の中で埋もれていたものだった。
クッキーだけでは申し訳ないからと、この人形が急遽、副賞として三橋に贈られたのだ。
どうやらパーフェクト達成者が出ることは想定されておらず、賞品も適当に決められていたようだ。

三橋はそんないきさつを、何度も言葉に詰まりながら、説明した。
一生懸命説明するあまり、阿部の表情が次第に険しくなっていくことに気がつかなかった。


「桐青の的当てゲームで投げた、だと?」
阿部は思わず大声で叫んでいた。
慌てて周囲を見回して、戸や窓を開けて確認するような家がないことにホッとする。
声が大きいので、よく母親に「近所迷惑!」と怒られるのだ。
だが両親はいないし、他に咎め立てする人間もいないし、問題ない。
目の前で、ビクりと身体を震わせた三橋以外には。

「勝手に何やってるんだよ!桐青で投げるって!球数!」
「9球、しか。投げて、な、い。」
「データ取られちまうだろ!?」
「試合、以上、の、データは、取られ、てない!・・・はず」
小さな声で付け加えられた「はず」に、阿部は呆れてため息をつく。
そして三橋を見て、唖然とした。
驚いたように大きく見開かれた瞳は潤んでいて、今にも涙が零れて落ちそうだ。

「パーフェクト、の、記念。阿部、君に、もらって、欲しかった、んだ。」
「阿部、君、が、いなかったら、オレは、野球、してなかった、から。」
「投手、楽しいのも、阿部、君、教えて、くれた!」
「野球部、入って、田島、君や、泉、君と、も、仲良く、なれた。」
「みんな、阿部、君、のおかげ。パーフェクト、も、取れた。だから。」

三橋の思いも寄らない告白に、阿部の胸も熱くなる。
パーフェクトを取れたこと、そして今日楽しい1日を過ごせたこと。
それを阿部のおかげだと言い、その感謝のしるしとして。
三橋は記念である賞品の人形を、阿部にくれようとしているのだ。

しかもわざわざもらったその日にだ。
明日学校ででもいいだろうに、わざわざ阿部の家までやって来たのだ。


「怒鳴って悪かった。お前の気持ち、嬉しいよ。」
「阿部、君」
三橋はトーンが落ちて、穏やかな口調になった阿部にホッとする。
だが阿部が「でも」と言うので、また不安になる。

「これはもらえない。お前が頑張った賞品だろ?」
「だから、もらってほしいんだ。」
「でも。。。」
「これ、からも。よろしく、お願い、します!」
三橋は人形を阿部の手に押し付けながら、頭を下げた。
そして顔を上げて、阿部の顔を見た三橋は「え?」と小さく声を上げた。

「阿部、君、涙が、零れて、る?」
時間はもう夕方から夜に変わっており、辺りは暗い。
そして門灯に照らされた阿部の横顔に、涙が光ったように見えたのだ。

「バカ。誰が泣くか。」
阿部はそう言いながら、手のひらで頬を拭った。
そして「ありがと、な」と言いながら、両手で大事そうに人形を包んだ。

この後阿部はこれをお守りとして長い間、カバンに入れていた。
何も知らない他の部員たちからは「似合わないモン持ってるなぁ」と散々言われた。
水谷は「彼女からなの?ねぇねぇ」としつこく突っ込んだ。
事情を知っている田島と泉は、ニヤニヤと意味ありげな視線を送ってきた。

そして時が流れて、2人が恋人同士になり、社会人になっても。
ボロボロになった人形は、今も阿部のカバンの中だ。
しっかりとお守りの役目を果たしている。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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