狂った微笑み

【ほしい】

「火の番は2人にした方がいいな。」
「場所も移そう。」
花井と浜田の言葉に、全員が同意した。
そして崖とは反対側の浜が、新たな火の場所とされた。

三橋に続いて、阿部までもが姿を消してしまったのは昨晩のことだ。
崖の上には三橋と同じように靴が揃えられていた。
そして地面には木の枝で「オレもいくことにした」と書かれていた。
発見したのは栄口で、未だに蒼白な顔で震えている。
カップルの片割れを失った水谷は、表情が抜け落ちてしまったように呆然としていた。

阿部も三橋も、1人で夜の火の番をしていて消えた。
部員たちはもう2人は海に飛び込んだのだと信じて、疑わなかった。
そして「なぜ?」と考えて、1つの仮説に行き着いた。
崖の上という場所、夜という時間。
そこに何か、2人を駆り立てたものがあったのではないだろうか?

昼の火の番をしていても、夜を過していても、他の部員たちは海に飛び込もうとは思わない。
だから「夜」「崖」「1人」という条件を疑わざるを得なかった。
結局2人に何があったのか、正確なところはわからないのだ。
とにかく危険な状況を減らした方がいいと、部員たちは決断した。

火の番だけじゃなくて、1人で行動するのもやめた方がいい。
そんな意見も出されて、作業の当番も、火の番も、カップル毎に割り振られることになった。
1人残った水谷はいずれかのカップルと一緒に過すことになった。
「7組」は閉鎖されて「1組」「3組」「9組」「部室」を毎日移動するのだ。


この頃には部員たちは、別の食料源を発見していた。
石を削って、簡単なナイフのようなものを作ることに成功した彼らは、真っ先に蔓草で魚捕り用の網を作った。
地面を掘って、ミミズなど餌になりそうな生物を仕込んだ網を海中に投下し、しばらく待つ。
そうすれば浅瀬に生息する小魚を捕ることができた。

そして控えとはいえ投手である花井や沖も、三橋を真似て、動物に石を投げることもあった。
こちらは百発百中の成果を誇った三橋ほどの収穫はなかった。
運がよければ当るといった感じで、花井がトカゲを2匹仕留めただけ。
沖に至っては成果がなかった。
それでも花井も沖も、時間があれば石を投げることを続けていた。
食料は少しでも多い方がいいのだし、腕を上げておくに越したことはない。
それに何となく三橋への弔意のようなものもあったかもしれない。

だが食料は三橋がいた頃より減ったし、部員たちは少しずつだが確実に痩せ細っていった。
それに何よりも衛生状態が悪い。
何か病気を発症したら、もう手の打ちようもないのだ。
そして筏作りの方は、遅々として進んでいなかった。
まずは試作品を作ったものの、部員たちが半分も乗り切らないうちに沈んでしまったのだ。

このまま死ぬのか。ここで。
部員たちの焦燥は、日に日に色濃いものになっていく。
一時期の衝突や口論などによるギスギスした雰囲気さえ、次第に消えようとしていた。
彼らは死の恐怖や飢えに苦しみながら、次第に無気力になっていったのだ。

ほしいのは「希望」だ。
明日もまた生きていられるのだという希望。
そしていつか生きて戻れるのだという希望。
そんな部員たちの願望を嘲笑うように、今日も無人島の夜は明ける。


「ナイピッチ!」
阿部がマウンドの三橋に叫んだ。
三橋は阿部からの返球を受け取ると、また阿部からのサインを確認し、投球モーションに入る。
そして阿部の構えたミット、寸分違わぬ場所に白球が投げられる。
そのたびに巻き起こる歓声、涌き返る応援団。
ベンチや味方の野手たちからも「いい球」「バッター手が出ないよ!」などと声が飛ぶ。
三橋は今、夢にまで見た甲子園のマウンドに立っているのだった。

無人島からの奇跡の生還を遂げた三橋と阿部は、今や有名人だ。
マスコミなどでも、飛行機の墜落から数ヶ月もたって戻ってきた2人のことは大々的に取り上げられた。
責任教師の志賀とマネージャーの篠岡は、事故の直後に無事に救助されている。
だが肝心の選手は全員行方不明で、全員死亡したとされていた。
悲観に暮れ、存続が危ぶまれた野球部にひょっこりと帰ってきたエース。
そして彼とバッテリーを組む捕手は、さらに遅れて同じ場所から戻ってきたのだ。

それと同じくらい周りを驚かせたのは、生還後に変わった三橋のピッチングだった。
コントロールは、以前よりも正確さを増した。
球威は落ちておらず、事故前とほとんど変わらない。
決定的に違うのは投球の「間」だった。
投球フォームの見た目はまったく変わらないのだが、リリースまでの時間が違う。
三橋は打者の打ち気のタイミングをうまく計って、打者の「間」を微妙に外すのだ。
打者は見事に打ち取られ、しかもその理由がわからない。
まるで狐につままれたようだと思っているだろう。

阿部にはその理由がわかっていた。
あの無人島での石を使った猟のせいだ。
反射神経が鋭い野生の動物を仕留めていくうちに、三橋は学んだ。
それは相手の「気」や「呼吸」を読んで、その隙をつくことを。
野生動物相手にそれをしていた三橋にとって、人間の高校生のそれはわかりやすいものだった。
三橋は相手打者が狙う球種やコースを、ほとんど本能的に察知し、その動きすら予測できた。
そのおかげで西浦高校野球部は、2年目にして甲子園に出場。
2年生バッテリー以外、全員1年生のチームは、快進撃を続けている。


三橋はあの夜、火の番をしているときに、遠くの海上に灯りを見つけた。
船の灯りなのだろうか。
でもそれならエンジンの音などがするものではないだろうか。
灯りは近くもならず、遠くもならず、ずっと視界の先で揺れている。
三橋は思い切って、ありったけの枯れ木を火に放り込んだ。
するとどうやら向こうも気がついたらしい。
灯りはゆっくりとこちらに近づいてきたのだった。

灯りの正体は、海上保安庁の巡視船だった。
どこかわからない南の異国だと思っていた無人島は、なんと日本の中だったのだ。
巡視船から降り立った人々は、三橋を見つけて、ひどく驚いていた。
部員たちにとって不運だったのは、巡視船は不法投棄の取締りのためのものだったことだ。
犯罪者に見つからないようにと、彼らは極力音を潜めて、気配もなく上陸してきた。
だから部員たちは、気がつかなかったのだ。
他に誰かいるかと問われて、三橋は首を振った。
三橋にとって、もうここにいる部員たちはチームメイトではない。
三橋は部員たちとの決別を選択したのだった。

しばらくして同じ方法で、阿部が生還したときには、三橋は驚いた。
後で聞いた話だが、巡視船は定期的に、あの辺りの海を見回っているという。
だから同じ手段で脱出してくる者がいても、不思議はない。
阿部は事情を聞かれたときに、島ではずっと1人でいたので三橋がいたことを知らなかったと答えた。
1人だけ先に脱出した三橋をかばった発言だった。
そしてまた阿部は、三橋の前に戻ってきたのだった。

いまさら水谷とカップルになった阿部に用はない。
そう思っていた三橋だったが、阿部は言った。
三橋がいなくなってから、ずっと後悔していた。
三橋が何を思っていたか知りたくて、夜の火の番をしていた。
そしてあの灯りを見つけて、また三橋に逢えたのだと。
それならばきっと運命なのだろう。
三橋はあの時断った阿部の告白を、今度は受け入れた。


試合は9回裏ツーアウト。
この打者を抑えれば、また勝ちだ。
三橋はすぅっと大きく息を吸い込んで、一瞬だけ空を見上げた。
この青い空は、あの島へも繋がっている。

彼らはまだ生きているのだろうか?
あの島で、筏を作りながら、動物や魚を捕って。
脱出を夢見ながら、今も生きているのだろうか?

三橋も阿部も死んだものだと思っているのだろうか?
だとしたら、愚かしいことだ。
2人が消えた理由を考え、正しい答えに辿りつければ、彼らにも生還のチャンスがある。
巡視船の灯りは、あの崖の上からしか見えない。
あの場所で夜に火の番をするのは危険だと移動しようものなら、もう望みはないだろう。

結局あの無人島で、三橋は大事に思っていたものを失った。
自分をエースと認めてくれるチームメイトからの友情。
食料を争い、些細なことで口論を繰り返し、チームはあっけなくバラバラに砕けた。
もしかして「ほしい」と願い、手に入れたと思っていたそれは、最初から幻だったのかもしれない。

三橋は阿部のサインに頷いて、振りかぶった。
とりあえず自分だけの捕手は、まだ三橋の前にいる。
それだけでも充分なのだろう。
そして三橋は薄く笑うと、阿部のミットへとボールを投げ込んだ。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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