狂った微笑み

【一瞬だけの正気】

三橋は1人、崖の上に膝を抱えて座っている。
昼間ならば、眼下には美しい海が見渡せる。
だが残念なことに、今は夜だ。
空と海の区別もない黒い闇だけが広がっている。

部員たちが三橋に違和感を持つのと同じように、三橋もまた部員たちとは心が離れてしまったと思う。
中学時代に仲間の輪に入れなかった三橋は、今の部員たちとの出逢いは本当に嬉しかったのだ。
皆が三橋の努力を認めてくれたし、吃音気味の三橋の話をちゃんと聞いてくれた。
何よりも他の部員たちと同様に、三橋と普通に接してくれた。
そんな当たり前のことが、三橋には何よりも嬉しかった。
このメンバーならば、どんなことにだって立ち向かっていけると思ったのだ。

だが部員たちの結束は、簡単に崩れた。
今では「誰が多めに食べた」とか「誰が作業で楽をした」とか些細なことで諍いが絶えない。
今日の昼間は、筏のロープの結び方で浜田と田島が口論になった。
いつまでこの島にいなくてはいけないのか。
もしかしてここで死んでしまうことになるのか。
そんな不安の中で、苛立ってしまう気持ちは三橋にだってわかる。
だがそれは皆同じなのだ。
他の誰かに八つ当たりしたって、仕方ないじゃないかと思う。

何よりも三橋を失望させたのは、こういう諍いの後だ。
怒りやわだかまりを残した表情で片方が「悪かった」と詫び、もう片方が渇いた笑い声を応じる。
表面上だけ取り繕って、心に敵意を溜め込んでいるのは明らかだ。
これならば「お前のせいだ」とはっきり口にした三星の部員たちの方が余程マシに思える。

だから三橋はイライラしたときには笑うようにしている。
それが薄笑いのように見えて、皆が不気味に思っていることなど、三橋は知る由もない。
引きつったような表情を返す部員たちの方こそ、余程不気味だと思う。


不意に「あー」と獣とも人ともつかない声が聞こえた。
三橋は火に枯れ木をくべる手を止めて、耳をすましてみた。
だがそれはその1回だけだった。
波の音と火の爆ぜる音、そして風で木々が揺れる音しか聞こえない。

何か野生の動物の声かもしれない。
それともカップルの睦声だろうか。
この崖から一番近いのは「7組」だ。
阿部の声か、水谷か?
いやもっと遠くから聞こえる激しい情事の声か。
花井と田島、浜田と泉、巣山と栄口。
この3組なら、どちらが攻めでどちらが受けか、何となく想像できる。
だが沖と西広、阿部と水谷だとまったくわからない。
そう思って、三橋は少し笑った。

三橋には、皆が先を争ってカップルになろうとすることが理解できなかった。
孤立するのを恐れて、寂しさをまぎらわすために。
中学時代にずっと孤立していた三橋からすれば、笑える理由だ。
誰に嫌われても、1人になっても我を通すことをしてきた三橋は、孤独には存外強いのだ。

いや相手のことが好きだから、カップルになったんだ。
もし三橋が問えば、そう答える者もいるかもしれない。
だがもしそうだとしたら、それこそ理解できない。
本当に大事な相手なら、こんな場所でドサクサまぎれに告白など。
したくもないし、されたくもない。

三橋が阿部の告白を断った理由は、そういうことだった。
ずっと阿部に恋心を抱いていた三橋は、こんな場所で打算でカップルになるなど嫌だった。
結ばれるなら、本当に阿部に愛されて、望まれた上でにしたかったのだ。


火から少し離れた場所に、三橋の頭ほどもある大きなトカゲが現れた。
三橋は傍らに置いてあった石を、無造作に投げつける。
石は見事に命中し、三橋は動かなくなったトカゲを火に放り込んだ。

最初に野生の豚を捕獲してから、部員たちの食料事情は一気に変わった。
さばくなど出来ないから、こうして火に放り込んで、表面が黒く焦げるまで焼く。
そして表面の焦げた皮を手で剥いでいけば、中から白い肉が現れるのだ。
食べ残した骨などを放置しておけば、それを食べに鳥や別の動物が現れる。
それをまた三橋が石を投げて、仕留めるのだ。
さっき名前もしらない鳥を2羽捕らえて、火の中に入れてある。
このトカゲも入れれば、朝食としては充分な量になるだろう。

時に部員たちは些細な喧嘩になったり、無意味につっかかったりする
だが決して三橋に対して、からんでくるようなことはない。
それは三橋が現在、この島の食料調達の大部分をこなしているからだ。
三橋を敵にしない方がいいと思っているのだろう。
だから部員たちは、三橋のことを腫れ物にさわるように扱っている。

西浦高校野球部は、狂ってしまった。
部員たちも、チームワークも、全部おかしくなってしまった。
そして多分、自分もおかしくなっているのだろう。

そう思った瞬間、三橋の目の前で何かが光った。
まさか、これは。
でももう三橋には「それ」が現実のものなのか、幻であるのかすら、よくわからない。
とりあえず一瞬だけの正気が欲しい。
三橋はそう思いながら「それ」に向かって、走り出した。


翌朝、火の番の交代に来た泉が、それを発見した。
夜の間、火の番をしていたはずの三橋がいなくなっている。
火は相変わらず燃え続け、その中には鳥が2羽と大きなトカゲが1匹。
そしてその傍らには、汚れて底に穴があいた三橋のスニーカーがきちんと揃えて置かれていた。
さらにその横の地面には、土の上に木の枝で書かれたメッセージ。
「さきにいきます」と書かれたそれは、おそらくは三橋が書いたものだろうと思われる。

残された部員たちは、呆然とした。
三橋は周りを海で囲まれた無人島から、忽然と姿を消してしまったのだ。
部員たちは手分けをして、島中をくまなく捜したものの、ついに三橋を発見することはできなかった。

三橋はいったいどこへ消えたのか?
島にいないのだから、海としか考えようがない。
そして状況は、三橋が自分の意思で海に飛び込んだようにしか見えなかった。

自殺しちゃったってこと?
いや発作的に飛び込んだのかも。
強風とかで転落したのかもしれない。
それなら「書き置き」を残したり、靴を揃えたりするか?

そんなことを思いながら、誰もが思っていて、口に出せないことがあった。
三橋がいなくなったら、今後の食料調達はどうする?
そして三橋の「死」よりも、食欲が優先する浅ましさに、部員たちは途方にくれるしかなかった。


オレの、せいか?
三橋が消えた後、阿部は煩悶する日々を送っていた。

無人島の部員たちは、三橋の捜索を諦めた。
どうしようもないのだ。
もしかしてどこかで寝てしまっているのかとも思い、それこそくまなく捜した。
登れそうな木の上とか、大きな石の影とか、人1人が入れそうな場所は、全部見た。
だが三橋の姿はない。
海に落ちたのなら、もう捜しようがない。
それよりも自分たちが生きていくことを考えなくてはいけないのだ。

阿部は三橋がいなくなった後、夜の火の番を申し出た。
水谷は散々文句を言ったが、聞き入れなかった。
そして毎日、空と海の区別もない黒い闇を見ている。
こうしていれば三橋が何を思っていたのか、わかるかもしれないと思った。
だが夜の闇はただただ阿部の中の狂気をかき立てるだけだった。

当初、阿部は三橋は誤って海に転落したのだと思っていた。
黒い世界で、陸と空の境がわからなくなったのではないかと。
でもそれはありえない。
辺りを照らす火の灯りは充分ではないが、足場を見誤るようなことはない。

闇と自分だけの世界。
黒い海、動物の気配、波の音、火の中でくべた枯れ木がパチパチ鳴る音。
三橋はきっとここで狂気を育てていたのだ。

だから阿部は毎夜こうして、自分に狂気を満たしている。
三橋と同じだけの狂気の中にいれば、一瞬だけの正気がきっと三橋の元へと導いてくれる。
三橋が何を思い、どうなったかを知り、その後を追う。
阿部はそのためだけに、毎晩火の番をしている。

【続く】
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