狂った微笑み

【虚空を見つめて】

三橋は1人、崖の上に膝を抱えて座っている。
崖の下に広がるのはどこまでも続く海。
そして空は見事に晴れて、雲1つなく澄み渡っている。
綺麗な青で構成された、美しい世界。
これが単に夏休みに遊びに来ているのだったら、最高だろうと三橋は思う。
でも現実は休みでもなければ、遊びでもない。
西浦高校野球部のメンバーは、今無人島でいつ来るかわからない救助を待っている。

発端は、修学旅行と試合の日程が重なったことだった。
野球部員たちは、試合の後に合流することになった。
晴れて部となり、随行できることとなった応援団も同じだ。
と言っても修学旅行があるのは1年生だけであり、該当する応援団員は浜田だけなのだが。
とにかく野球部員プラス1名は修学旅行地に向かう飛行機に乗り込んだ。
だがその飛行機は、機体トラブルによる事故で墜落したのだ。

そこから後のことは、思い出しただけで疲れてしまう。
飛行機が炎上しなかったのは、幸いだった。
海上に墜ちた飛行機から、救命用の小さなゴムボートがいくつか出された。
脱出した乗客は皆、争うようにそれに乗り込んだ。
そして三橋たちが乗ったゴムボートは、野球部員10名と浜田。
とにかく死にたくない、という一念で、全員で必死にボートを漕いだ。
気がつけば波に流されて、他のボートとは完全にはぐれてしまった。

そして辿り着いたのは、この小さな島。
11名は無人島に上陸することになった。


それでも最初のうちは、まだよかったのだ。
飛行機の事故なら、空港の管制塔とか航空会社とかがすぐに気づくはずだ。
絶対に救助が来るから、それまで頑張ろう。
どうせなら夏休みはずっと練習漬けの日々だったのだから、せっかくの綺麗な海を楽しもう。
誰かがそう言って、皆で笑った。

飛行機に乗っていた他の乗客や乗員はどうなっただろう。
特に気になるのは、一緒に飛行機に乗っていた教師の志賀やマネージャーの篠岡だ。
大丈夫。きっと生きてる。だからオレたちも頑張ろう。
極めて根拠のないことではあったが、全員そう思った。
いやそう思い込もうとしていたのだ。
今にして思えば、あの時にはまだ他人を心配する余裕があった。

一応念のため、携帯電話が繋がるかを試した。
当然のように、全員「圏外」と表示されていた。
誰とはなしに、携帯電話の電源は切っておくことになった。
どうせ使えないなら、電池は温存した方がいい。
全員が腕時計などの類は持っていないのだ。
何日ここに滞在するかはわからないが、携帯電話は日付と時間を知る貴重なアイテムだ。


元気よく「島を探検しよう!」と言い出したのは、確か田島だったと思う。
そして花井が「危険じゃないか?」と反論した。
だけど危険な生き物がいるかどうか、確認した方がいいだろうということになった。
それに食料となるものがあるのか調べることも重要だ。
田島が「地図を作ろうぜ!」とまた大声で宣言する。
結局全員が、そこらに落ちている流木や石を急造武器にして、島内を歩いた。

島内探検の結果、わかったことはこの島はさほど広くないということだった。
東西に長いこの島は全長が1キロ程度しかない。
歩けば1時間もしないうちに1周することができるほどだった。
見つかったのは自生している野性のバナナやマンゴーのような果物。
動物は小さな虫と、毒のない蛇やトカゲのようなものばかり。
幸いにも自分たちが餌にされそうな肉食獣はいないようだった。
さらにラッキーなことに、島のほぼ真ん中に湧き水が出ている場所があったのだ。
花井の静止も聞かずに、それを口に含んだ田島が「うめー!」と叫んだ。
とりあえず最悪の可能性-渇き死することはなくなった。

1人年長の浜田が先頭に立って、枯れ木をこすり合わせて火を起こす。
そして11人が交代して、この火を絶やさないように見張ることになった。
常に焚いておけば、救助が来た場合には狼煙の役目を果たしてくれる。
その場所が今、三橋が座っている見晴らしのよい崖の上だ。
火の番はイコール救助の見張りも兼ねているのだった。


そんな部員たちの気持ちがおかしくなり始めたのは、いつだっただろう。
三橋はため息をつきながら考える。
そうだ、あれは確かチョコレートを食べたときだと思い至る。

最初はすぐに救助が来てくれると楽観視していたが、いつまで待ってもそれは来なかった。
1週間たっても、2週間たっても、1ヶ月が過ぎても来ない。
最初のうちは皆で助け合って、この状況を楽しんですらいた部員たち。
だが次第に焦って、疲れて、余裕を失っていった。

そんなある日のことだ。
この島へ来たばかりのとき、三橋は自分のポケットに入っていたチョコレートを皆に振舞った。
12個入りのチョコレートを11人で分けて、残りの1かけらを大事に取っておいた。
そしてある日、疲れが随分たまっていたような気がした三橋はその1かけらを食べた。
その瞬間を偶然見たらしい田島が「あ、1人だけ何食ってんだよ!」と怒鳴ったのだ。
それはいつもの明るい田島の口調ではなく、怒りと非難に満ちたものだった。

自生の果物を食べて、どうにか食いつないでいた部員たちにとって、チョコレートは貴重品だ。
だからほんの1かけらでも1人でそれを食べる三橋に、信じられないほど過敏に反応したのだ。
三橋にしてみれば、そもそもそのチョコレートは自分のものだった。
それを全員に分けたのであり、その残りの小さなかけらをいつ食べようと勝手だと思う。
そう思い、反論しようとして、三橋はハッとした。
田島だけでなく全員が、三橋に不信の目を向けていた。

育ち盛りで今まで飢えなど経験したこともない部員たちにとって食糧問題は深刻だった。
取り分けた果物を「誰の方が大きい」だの「誰は作業を楽したのに、オレと同じだけ食べてる」だの。
そんな些細なことから、部員たちの心は荒んでいった。
西浦高校野球部の鉄の結束は、こうして崩れていったのである。


ああ、野球がしたい。
こんなに長い間投げていないなんてことは、今までなかった。
三橋は焦りながらも、結局何もできることはないのだと思う。
ただこうやって虚空を見つめて、救助をじっと待つことくらいだ。

「三橋、火の番の交代に来た。」
不意に背後から声をかけられて、三橋は振り返った。
そして小さく「阿部君」と声の主の名を呼ぶ。
阿部だけではないのだが、この1ヶ月でかなり風貌が変わった。
髪や髭が伸びて、でも確実に筋肉は落ちて、痩せた。
本当にこの人にボールを投げていたのかと、疑ってしまうほどだ。
もちろん三橋だって、髭こそほとんどないが、髪は伸びている。
だが鏡がないので、自分の変貌は見ることができない。

「わかった。じゃあオレ、木の実取りに行こうかな。」
そう言って、三橋はパンパンと尻についた土を払いながら立ち上がった。
だが阿部はすれ違いざまに、歩き出した三橋の腕を掴んで、三橋をその場に押し止めた。

「話があるんだ。ちょっとだけいいか?」
阿部が三橋の目を真っ直ぐに見ながら、言う。
阿部が今から言おうとしていることを、三橋はわかっている。
無人島ではなくて、学校とかグラウンドとかで聞かされたなら、きっと嬉しいに違いない。
でもこの場所では、同じ言葉でもまったく違う意味を持つことになるのだ。

三橋は何とかその場を逃れたくて、言い訳を捜したものの、言葉が見つからなかった。
用事があるとか、約束があるとか、普段さり気なく相手をかわす嘘がこの場所では通じない。
三橋は諦めて「何?」と聞きながら、目を閉じた。

【続く】
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