狂ったモノ

【無限有限】

「友井、流産したんだとさ。」
泉はこの部屋の家主よりも寛いだ様子だ。
だが家主はたった今聞かされた事実に驚き、それを指摘するどころではなかった。

日曜日の午後、泉はフラリと一人暮らしの浜田の部屋に現れた。
こんなことは珍しくない。
高校時代のアパートよりは少しだけリッチだが、よく見ると代わり映えしない部屋。
泉は案外そんな浜田の部屋が気に入っているらしい。
しっかりと合鍵もゲットしていて、家主がいなくても勝手に寛いでいる。
今日も浜田がコンビニに行っている間に上り込んで、コーヒーを飲んでいた。

「流産って!」
「でも元気みたいだぜ。篠岡がそう言ってた。」
「そ、そうか。よかった。」

一瞬目を剥いた浜田だったが、元気だと聞いて安堵した。
浜田は高校時代、応援団で紋乃や美亜と一緒に行動することも多かった。
だから泉たち野球部員よりは、彼女たちと親しいと思っている。
学年は同じだが年上ということもあり、兄貴的存在という自負もあった。

「っていうか、そもそも妊娠してたかどうか、微妙だけど。」
「え!ええ??どういうこと?」
「まぁ三橋が幸せなら、俺はどうでもいいんだけど。」

泉は用は済んだと言わんばかりに立ち上がった。
そして空になったコーヒーのカップを浜田に押し付けると、そのまま帰ろうとしている。
まるで謎かけのような言葉に納得いかず、浜田は泉の腕を掴んで引き留めた。

「ちょっと待ってよ。全然わからないよ!」
「俺もわからない。でも三橋も元気みたいだからいいと思うしかねーだろ。」
泉はまったくさり気なく、自然な様子だ。
だが浜田には、少しだけ寂しそうに見えた。
泉はそっと浜田の手を振りほどくと、今度こそ部屋を出て行った。


「え?紋乃、本当は妊娠してなかったの?」
「うん。騒がせてごめんね。」
紋乃は明るく元気に、自分の秘密を暴露した。
篠岡は呆然と旧知の友人の顔を、見つめていた。

篠岡は美亜と紋乃と一緒に食事をしていた。
だが呼び出される時から変だと思っていたのだ。
だって妊娠しているはずの紋乃との食事が、居酒屋だったのだから。
その上、居酒屋に入るなり、ゴクゴクとビールを飲んでいるのだ。

「偽装、結婚?紋乃も、美亜も?」
「うん。私、実はずっと阿部君が好きだったんだ。」
「知らなかった。。。」
「言えるわけないじゃん。千代だって好きだったでしょ?」

図星を刺されて、篠岡は言葉もない。
確かに高校時代、篠岡はずっと阿部が好きだった。
だが阿部はいつも三橋ばかり見ており、入り込む隙間などなかったのだ。
高校を卒業して、さすがに恋心は徐々に消えて行った。
それでもあの合同結婚式のときには、心の奥底が少しだけ疼いた。

「それで結婚したら少しは近づけると思ったの。三橋君の次でもいいと思った。」
「それで擬装結婚を受け入れたの?」
「うん。どうしても無理って思ったら、離婚してもいいって言われてたし。」

阿部はとりえあず1回でも結婚したという事実が欲しかったようだ。
仮に離婚したら、結婚を進める親類縁者も少しの間は黙っていてくれる。
その後は「女はもうコリゴリ」とでも言うのか。
それとも「自分は結婚不適合者だ」と言い訳するつもりか。

「でも私たちも恋愛関係だって、嘘言って擬装結婚をしたから、もう大変で」
「そうそう。紋乃の気持ちが三橋君にバレて、ねぇ」
紋乃と美亜が声を立てて、笑う。
そして一気にジョッキのビールを飲み干すと「おかわりしよ!」とはしゃいでいる。

美亜と紋乃の勢いに圧倒された篠岡のビールは、ほとんど減っていない。
他の野球部員たちと違い、篠岡はたった今、偽装結婚の事実を知ったのだ。
その上あまりにも明るく語られて、頭がクラクラしていた。


「美亜はどうして?三橋君が好きだったの?」
「まさか。お金が欲しかったのよ。」
ようやく気を取り直して、篠岡は今度は美亜に向き直る。
だが美亜の理由は、紋乃以上に身も蓋もないものだった。

「そしたら三橋君ったら、自分の財産を一切合財、会社の名義にしちゃって。」
「会社って、三星学園。」
「うん。生命保険まで名義を変える徹底ぶり。」

そもそもは阿部と美亜の間で取り決めた偽装結婚だった。
三橋はそれも悪くないかと思って、その策略に乗った。
だが美亜と紋乃の下心を看破し、徹底的に距離を置くようになった。

「とにかくこのままじゃと思って、妊娠したって嘘ついたの。」
「何で?」
「三橋君を焦らせたかったのよ。阿部君がこっそり浮気したって思わせようとして」
「浮気って。紋乃は阿部君の奥さんなのに。」

篠岡は呆れながら、ジョッキのビールを一気に半分ほど飲んだ。
まったく酒でも飲まなければ、やり切れない。
邪な気持ちで偽装結婚などした美亜と紋乃にも、もちろん非はある。
だがそれ以上に阿部と三橋に腹が立った。
やりたい放題、これでは2人がかわいそうだ。

「これからどうするの?やっぱり。。。離婚?」
筱岡は恐る恐るそう聞いた。
だが2人は笑顔で首を振り、篠岡を驚かせた。

「続けるわよ。負けてられないし。」
「そうそう。これはこれで面白いもの。」
2人は偽装結婚を辞めるつもりはない。
それどころかむしろノリノリで続けるつもりらしい。

「この前対決して、言いたいことは言ってやったし」
美亜の言葉に、紋乃も意味あり気に笑う。
こんな状況なのにまるで楽しんでいるような2人に、篠岡はますます困惑した。


「三橋君は楽しい?」
紋乃は三橋にそう聞いた。
阿部はそこには皮肉も揶揄もない、ごく普通にわからないことを聞いている口調。

紋乃が妊娠したと嘘をついた後、阿部と三橋は美亜、紋乃と対峙した。
4人揃って向かい合ったのは、あの合同の結婚式以来のことだった。
同性愛者の阿部と三橋、金目当ての美亜と、阿部に横恋慕する紋乃。
特に阿部に近づこうとする紋乃に、三橋は容赦なかった。

阿部はこの時初めて、紋乃の気持ちを知った。
紋乃も美亜同様、金目当てと思っていたのだ。
そして三橋が紋乃の気持ちに気づいていたことに、驚いていた。

「そうやって阿部君の周辺に目を光らせて。それが一生続くのよ。」
「わかってる。」
「私は今も阿部君を諦めてない。これから先、阿部君を好きになる女の子もいるかも。」
「わかってる。」
「これからもずっと、そうやって阿部君の周囲を警戒し続けて生きるの?一生?」

畳み掛けるように続く美亜の言葉を、三橋は静かに聞き、相槌を打っている。
美亜や紋乃には、揺るがない表情に見えるだろう。
だけど阿部には、三橋が動揺しているように見えた。
元々誰かを嫌うことがない三橋は、この偽装結婚に踏み切った時点で変わった。
変わらざるを得なかったのだ。

「覚悟の、上、だよ。」
三橋は紋乃の話を全て受け止めると、凛とした表情でそう答えた。
覚悟を決めた三橋は強い。
こういうところが阿部が愛してやまない三橋だった。

「三橋君。妻には財産の遺留分っていうのがあるのよ。」
今度は美亜が三橋に告げた。
三橋はできる限りの資産を、三星学園名義や親戚名義にしている。
それは財産目当ての美亜に対する牽制だ。
それでも美亜が戸籍上の妻である限り、最低限保証される権利がある。

「私たちには元々何もなかった。それを妻の座を得た。それだけでもう負けはないの。」
美亜もまた冷静にそう告げた。
美亜と紋乃は働かなくても生活は保障されているし、いつでも離婚していいという条件だ。
新しい恋を見つけたら出て行けばいいし、このまま策略を続けてもいい。
つまり今のこの状況は、劣勢ではあるが負けてはいないということなのだ。

「それも、わかってる。でも、それでも、結婚してれば、ライバルは減る。」
三橋はやはり冷静にそう答えた。
無限の恋敵と戦うより、有限-美亜と紋乃2人を相手にしている方が楽。
それが三橋の結論だった。

阿部は2人と話す三橋の横顔をずっと見ていた。
彼女たちの言い分を受け止め、それでも動じない強い意志に光る瞳。
三橋はそれだけの覚悟で、偽装結婚に踏み切ったのだ。

それにしても、この2人の女を侮っていた。
簡単に屈服させられると思っていたのに。
女たちは強かに、阿部と三橋を打ち負かすチャンスを伺っている。

オレも覚悟を決めるしかない。三橋を守るために。
阿部は美亜と紋乃を交互に見ながら、決意を新たにしていた。


「三橋君は楽しい?」
「三橋君。妻には財産の遺留分っていうのがあるのよ。」
女たちの覚悟を、三橋は冷静に聞いていた。

美亜と紋乃が強かであることなどわかっていた。
何しろ偽装結婚に、偽装妊娠をシレッとやってのけるのだ。
この先もきっとこの関係を解消などしない。
同じマンションの上と下、この奇妙な関係が続くだろう。

彼女たちは今日、宣戦布告をしたつもりかもしれない。
自分たちが負けではないことを主張して、いい気分になったかもしれない。
だが三橋は自分の得たものの方が大きいことに気づいていない。

それは阿部の気持ちだ。
阿部は女たちが自分が思っているより強かであることを知って、警戒したはずだ。
覚悟を決めなくてはならないと思ったことだろう。
もし「三橋を守る」なんて、思ってくれたらしめたものだ。
ますます阿部の心は、三橋のものになるのだから。

唯一の誤算は、たった1つ。
三橋は実は少しずつ、2人の女との戦いが楽しくなっている。
彼女たちとの攻防は、高校時代に青春をかけた野球の試合を思い出す。
阿部と一緒に相手チームの打線を打ち取るあの興奮が蘇るのだ。

「もっと、高校のとき、話せば、よかった。」
美亜と紋乃の部屋を出て、自室に戻った三橋はそう呟いた。
意外と面白い友人になれたかもしれない。
だがもしそうなったら、偽装結婚のパートナーには選ばなかっただろう。

「とりあえず、流産したことにするか。」
阿部はしばらく考えた後に、そう言った。
野球部員たちに広まってしまった紋乃の妊娠話のことだ。
阿部が三橋と同じように、彼女たちを好敵手と見ているかどうかはわからない。
だが嫌っていないことは間違いない。
嘘の妊娠話を穏便に片づける方法を考えているのだから。

「そ、だね!」
三橋は阿部の提案に笑顔で同意した。
いろいろ面倒ではあるが、この生活を壊したくない。
阿部と2人きりでいられる幸せな時間なのだ。

彼女たちはまだ無限の中に幸せを探している。
この生活を続けるか、やめるか。
自分たちの幸福の形をまだ描けていない。
だが阿部と三橋の幸せは有限の中にある。
2人一緒にいることだけが、唯一の幸福だ。

だから覚悟を決めたオレの方が強い。
三橋はチラリと2人の女がその下に住む床を見下ろしながら、微笑した。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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