アイシ×おお振り×セカコイ×黒バス×図書戦【お題:仄かに暗い15題-2】
【暗黙】
「あれ?手塚?」
夕方、コインランドリーで店内の清掃をしていた郁は思わず手を止めた。
店に入ってくるなり、無駄に目立っていたのは手塚光。
図書特殊部隊では郁とバディを組んでいた同期だ。
多くの隊員が赤司とヒル魔が立ち上げた警備会社に籍を移す中、手塚は図書隊に留まっている。
「あんた、柴崎を放っておいていいの?」
郁は挨拶もそこそこにそう言い放った。
洗濯物の類を一切持たない手塚は、どう見てもコインランドリーの客ではない。
そして無駄に顔立ちが整っており、スタイル抜群の身体に仕立ての良いスーツ。
はっきり言って、完全に浮いている。
「あ、いや、その」
郁の姿を認めて口ごもっている姿を見た郁は、ますます困惑する。
妻である柴崎こと手塚麻子もまた妊娠中であり、郁よりも出産が近いはずだ。
こんなところでぼんやりしているヒマはないはずである。
「愚痴りたいんじゃない?聞いてやれば?」
黛が気配もなく寄って来て、郁にだけ聞こえるように耳打ちした。
それを聞いた郁は心の中で「なるほど」と思う。
多くの先輩たちが図書隊を去った後、手塚は心細いのだろう。
妊娠中の妻には聞かせたくない愚痴もあるのかもしれない。
「よかったら、あっちで座って話そうか?」
「堂上三監は」
「このところ帰りが遅い。」
やはり堂上に何か相談がしたかったようだ。
だが雪名皇の個展が始まり、堂上は連日帰りが遅いのだ。
郁は内心「あたしじゃダメなのかい!」と思わないでもなかったが、とりあえずスルーした。
そして手塚を待合スペースへと案内する。
幸いなことに誰もおらず、どうやら落ち着いて話ができそうだ。
手塚は浮かない表情だったが、やがて重い口を開いた。
「特殊部隊の先輩方はほぼ全員、警備会社に移ることになった。」
「そうなんだ。」
「小牧三監はもう官舎を出て、警備会社の寮に移った。」
「それは寂しいね。」
「特殊部隊も防衛部ももうすぐ解体して警備部に名前を変える。俺は初代部長になるらしい。」
「え!それってすごくない?」
郁は思わず声を上げた。
はっきり言って、具体的なイメージはわかない。
だが図書隊時代に部長と呼ばれた人たちを思い出せば、みな威厳があるオジサンだった気がする。
そこに同期が入ってくるなんて、単純にすごいことだと思ったのだ。
もっともそれだけ年を取ったのだという事実に、ちょっとヘコむ気持ちもあったが。
「すごくない。本当にすごい人たちはみんな第二の人生の道を選んだんだから。」
「え?でもあんたは」
「俺も警備会社に移りたい。」
ポツリと告げられた手塚の本音に、郁は言葉を失った。
図書館協会会長を父に持つ手塚は、最後まで図書隊と運命を共にする。
それは郁を含めた全員の暗黙の了解だった。
手塚はそうするものだと、何となく思い込んでいたのだ。
「また堂上三監や小牧三監と一緒に仕事がしたい。」
手塚はそう呟いた後、そっと目を伏せた。
郁はしばらく手塚の横顔を見ていたが、やがて「あのさ」と口を開いた。
もしも堂上が話を聞いたら、違うことを言うのかもしれない。
いやそもそも手塚は愚痴りたいだけで、答えなんか求めていないのかもしれない。
だが郁はかつてのバディとして、手塚に言いたいと思ったのだ。
郁は手塚に自分の思いを伝えた。
手塚は驚いたように瞠目しながら聞いていた。
そして別れ際には「ありがとう」とレアな笑顔を見せて、帰って行ったのだった。
*****
「やった、やったよ~!聞いてます?」
律は少々呂律が怪しくなり始めていたが、元気いっぱいだ。
黒子はそんな律を見ながら、酔っ払っても美人は美人なんだと改めて思った。
夜の「カフェ・デビルバッツ」は今日も忙しい。
セナも阿部も黒子たちも、忙しなく動き回っている。
客と心地よい距離を保ち、忙しなさは感じさせないようにする。
それが「カフェ・デビルバッツ」のポリシーだ。
黒子は時に気配を消し、または敢えて存在感を主張しながら、それを守っていた。
この夜、奥のテーブルは一際盛り上がっていた。
常連客の小野寺律と高野政宗、桐嶋禅と横澤隆史の4人の席だ。
黒子は彼らのテーブルに料理を運びながら、先日の出来事を思い出す。
桐嶋の娘の日和が、元カレにストーカーもどきの付きまといをされたことだ。
バイトの雄大がストーカー男を殴るなどと言うアクシデントがあり、結構な騒ぎになった。
結局ヒル魔が男に示談金を払うという形で、丸く収まったのだ。
男には日和にもこの店にも近づかないという念書も書かせたと聞く。
だがあのヒル魔のこと、ストーカー男にはしっかりと脅しをかけたに違いない。
一見クールな毒舌家に見えて、情に篤いのがヒル魔なのだ。
あの事件には秘かに怒っており、二度とあんなことを起こさないと心に誓っていることだろう。
「黒子く~ん、ワインもう1本!」
律は笑顔でそう言った。
すでにワインを2本開けており、律はかなり酔っている。
それを高野と桐嶋、横澤が苦笑しながら見守っているという形だ。
黒子は律の注文を聞いた後、高野を見た。
律がやや酒乱気味であり、からみ酒でグチ派であることはもはや暗黙の了解。
だからまだ飲ませても大丈夫なのかと、お伺いを立てたのである。
「黒子君、今日はトコトン飲むから。お店オススメのワインを出してよ。」
「そうそう、今日はお祝いだから!」
「今日だけは仕方ないよな。」
黒子は「かしこまりました」と一礼すると、キッチンへ向かった。
何だか知らないが、今日は彼らにとっておめでたい特別な日らしい。
律が盛大にからんでも愚痴っても問題ないと言うことだろう。
ワイン保管用の冷蔵庫を開けようとした途端、蛭魔に「黒子」と呼び止められた。
「この間、入荷したワイン、店の奢りで出してやれ。」
「いいんですか?あれ、かなり高価ですよ?」
「いいだろ。結構なことを成し遂げた後だしな。」
「え?ヒル魔さん、御存知なんですか?」
「明日のニュース見とけば、わかる」
ヒル魔の意味あり気な言葉に首を傾げながら、黒子はワインを出した。
律は大いに喜び、高野は「飲みすぎるな」と諌める。
桐嶋は「ヒル魔さんは情報が早いんだな」と苦笑し、横澤は恐縮していた。
黒子は給仕を務めながら、彼らが楽しい夜を過ごせることを素直に喜んだ。
そして翌朝、黒子は「これですか」と呻いた。
その日の新聞一面ではなかったが、読書家にとってはこの上ない朗報が伝えられた。
当麻蔵人、宇佐見秋彦ら著名な作家20名程が、自身の書籍の価格を引き下げると表明したのだ。
現在の10分の1程度、学生でも手軽に買えるくらいまで一気に値下げするという。
これは検閲撤廃に伴う措置であり、将来的には全ての本の価格がこれに倣って下がるだろうと。
なるほど。これなら少々からんでも愚痴っても許せますね。
黒子はこっそりと笑みを漏らすと、メインダイニングで開店準備を始めた。
だがどんなに内心浮かれていても、あくまで普段通りに。。。とはならなかった。
セナにも阿部にも黒子の変化はしっかり伝わり、内心「何事?」と首を傾げていたのだ。
だが当の黒子は知る由もなく、終日上機嫌で仕事をこなしたのだった。
*****
「う、うそぉ!?」
三橋は意外な告白に思わず頓狂な声を上げてしまう。
だが長い付き合いとなった友人は清々しく「ホントだ!」と宣言した。
とある朝、開店前の「カフェ・デビルバッツ」の客席。
阿部と三橋はかつてのチームメイトと向かい合っていた。
店は表向きランチタイムからの営業なのだが、実際は朝の8時くらいからやっている。
特にメニューはないが、コーヒーやお茶を飲むことはできる。
それにありあわせで良ければ、簡単な食事くらいは出すようにしていた。
これは常連客のみが知っている、暗黙の了解だ。
「うまそぉ!」
西浦高校野球部伝統の掛け声とともに、食べ始めたのは田島悠一郎。
プロ野球の道に進み、昨シーズンで引退したばかりだ。
気さくなキャラクターなので、人気もあった。
おそらくテレビなどの出演依頼も多いし、コーチなどのオファーもあるだろう。
だが本人は沈黙を守り、実家の農業を手伝っていた。
開店準備が終わった阿部と三橋は、同じテーブル席に納まり、お茶を飲んでいた。
わざわざ田島がこの時間にやって来たのは、話があるから。
それがわかってるので、2人は静かに田島の食事を眺めている。
「御馳走様でした!」
あっという間に食事を平らげた田島は、二カッと笑った。
昔と変わらない笑顔に、三橋も「ウヒ」と笑う。
それを見た阿部は、思わず懐かしさに頬を緩めた。
みんなの弟分的なポジションの田島と三橋は、チームのムードメーカーだったのだ。
「オレ、結婚する。あと西浦の監督やるから!」
食後のお茶を啜りながら、田島は唐突に宣言した。
三橋は思わず「う、うそぉ!?」と声をあげてしまう。
だが田島は平然と「ホントだ!」と答えた。
「お、おめで、とう。お、お相手、は」
「中学時代の同級生。2年前にクラス会で再会したんだ!」
「そうか。よかった。おめでとう。」
阿部は内心ホッとしながら、祝意を示した。
どこぞの女子アナとかグラビアアイドルだなんて言われたら、ちょっと嫌だと思ったのだ。
どこかどう嫌なのかうまく説明はできないのだが。
「け、結婚、式、とか、は?」
「まだ全然決まってない。三橋、決まったら来てくれよ!ついでに阿部も」
「い、行く!」
「ついでかよ。」
黒子が「おめでとうございます」と頭を下げると、田島が食べ終えた食器を下げる。
さらにセナが3人のカップにお茶のお代わりを注ぐと「おめでとう。田島君」と笑った。
田島は「ありがとうっす!」と満面の笑顔で答えると、阿部と三橋に向き直った。
「で、西浦の監督も引き受けたんだけど」
「いいのかよ。プロのコーチとかの道もあるだろ?」
「何言ってんだよ。高校野球の方が全然面白いだろ!」
田島は笑顔で、プロ野球関係者が聞いたら卒倒しそうなセリフを吐いた。
そして「お前ら、コーチやんねぇ?」ととんでもないことをサラッと切り出したのだ。
阿部と三橋は顔を見合わせると、再び田島を見た。
そのタイミングがまるでコントのようにピッタリで、田島は「わはは」と豪快に笑う。
「深く考えるなよ。店が休みの時、たまに来てくれるくらいでもいいから」
「そんなんでいいのかよ?」
「百枝コーチもそんなだっただろ?」
「まぁ、なぁ」
かつて百枝の父がピッチングのコーチをしてくれたときは確かにそうだった。
仕事の合間にたまに来てくれて、質問があるときはメールや電話でやり取りしたのだ。
阿部が三橋のピッチングフォームを録画して、動画を送った回数は数知れない。
「じゃあな。考えといてくれよ!」
田島は最後まで元気よくそう告げると、笑顔で去っていく。
こうして三橋と阿部の前に、再び野球と関わる道が示されたのだ。
だが阿部と三橋はかなり迷い、悩むことになった。
野球はやりたいが、店と両立できる自信はまるでなかったのである。
*****
「うわ!もしかして大和君と鷹君?」
あまりにも予想外の客に、セナは思わず声を上げる。
体格の良い男性客の2人組はニッコリと笑って、頷いた。
店がそろそろディナータイムになろうかという時間帯。
まだ人が少ない「カフェ・デビルバッツ」には、意外な客が現れた。
大和猛と本庄鷹。
高校時代、アメフト日本一を競うクリスマスボウルで戦ったライバルだ。
大学時代はヒル魔とチームメイトになり、卒業後はプロに進んだ。
セナとは同じチームになることはなく、高校からNFLまでずっと競うことになった相手だ。
だがセナが先に選手を引退したことで、疎遠になった。
今ではメールなどでたまに近況をやり取りする程度だ。
飲み会などの集まりもあったけれど、セナはほぼ全てを欠席していた。
病気のヒル魔を置いて、飲みに出かける気になれなかったからだ。
「久しぶりだね。セナ君。」
大和は相変わらず押しが強く、そう言った。
鷹はその横で同意するように頷く。
セナは彼らをテーブルに案内すると、阿部がセナを見て頷く。
ホールは大丈夫だから、話をしたらどうですか?
アイコンタクトで告げられたセナは、笑顔で手を合わせて感謝を示した。
大和と鷹は窓際の大きなテーブルに並んで、セナとヒル魔がその正面に座った。
乾杯しようという流れになり、デビルバッツ特製カクテルが運ばれる。
テキーラをベースにした甘さの少ないオリジナルカクテルで、人気メニューの1つだ。
残念ながら、これから仕事があるセナと病身のヒル魔はノンアルコール。
そして4人はグラスを掲げて、再会を喜んだ。
「でもどうしたの?わざわざ」
「実は高校時代に作ったスペシャルユースチームを再結成しようと思ってるんだ。」
「え!?そうなの?」
あまりにも意外な計画に驚き、セナは思わずヒル魔を見た。
ヒル魔は表情を崩さず、じっと大和と鷹を見ている。
セナと大和たちは高校時代はライバル、つまり敵同士だったが、実はチームを組んだこともある。
高校の国別対抗、つまりワールドカップユースで、日本代表として集結したのだ。
大和はそのメンバーを再び集めようとしているという。
「え?何で今さら」
「N大問題は知ってるよね?」
「確か、1年間出場停止」
「うん、だけど優秀な選手が集まっているのにもったいないよね」
意外な展開だったが、ヒル魔は「なるほどな」と頷いた。
半年ほど前、名門の大学アメフト部で事件があった。
試合中、ディフェンシブラインの選手が相手校のボールを持っていないQBに突っ込んだ。
悪質なタックルが、実は監督の指示だったと騒動になったのだ。
結局監督とヘッドコーチが解任され、そのチームは1年間の出場停止となった。
大和はスペシャルチームを作って、そのチームと対戦しようというのだ。
4年生はもう公式戦に出られない。
また来年は下部リーグからスタートなので、3年生は日本一を目指せない。
一方セナや大和たちは黄金世代と呼ばれ、アメフト人気を高めたと評価されている。
再結成となれば、世間の注目を集めるだろう。
そこでスペシャルチームと件の大学チームの試合を組もうというのである。
危機を迎えた名門チームのモチベーションを上げ、アメフト人気を取り戻そうという企画だった。
「うわ。楽しそう。ボクやりたいな。」
「うん。そう言ってくれると嬉しいよ。あとヒル魔氏もぜひ」
「え?ヒル魔さんも!?」
アメリカ帰りで先輩後輩の意識が薄い大和は、先輩に対しては名前の後に「氏」をつけて呼ぶ。
アメフト関係者の中には礼儀にうるさい者もいたが、大和のそれだけは暗黙の了解だったのだ。
その呼び方が懐かしいと微笑したセナだったが、聞き返した声が裏返った。
セナとしては嬉しい限りだが、今のヒル魔が再びフィールドに立つことなどできると思えない。
「返事は今じゃなくていいよ。ただ検討してみてくれ。」
「でも。。。」
「ワンプレーだけでもいい。ヒル魔氏が投げるところ、また見たいしね。」
その後は店が混んできたので、それ以上の長話はできなかった。
大和と鷹はさらにカクテルをおかわりして、食事を楽しみ、帰っていった。
そしてヒル魔もセナも考え込むことが多くなった。
もう一度アメフトがしたい。一緒にプレイしたい。
だがそれは決して簡単ではないことを、2人ともよくわかっていたのだ。
*****
「随分思い切ったな。」
羽鳥は不機嫌を隠すことなくそう言った。
吉野は「だって~」と年甲斐もなく口を尖らせながら、不満の意を表明した。
大和と鷹が「カフェ・デビルバッツ」を出た後、そのテーブルに座ったのは羽鳥と吉野だった。
吉野は相変わらず世の女子たちに絶大な人気を誇る少女漫画家。
月刊エメラルドの稼ぎ頭であり、丸川書店の漫画部門全般でも上位にランクする売り上げを誇る。
羽鳥はすでに少女漫画編集から離れているが、丸川書店が誇る優秀な編集者であることは変わらない。
そんな2人は未だに恋人同士であり、しっかりと絆を深めていた。
彼らにとって「カフェ・デビルバッツ」は、便利であり大事な場所だった。
スタッフたちは2人の関係を知っているが、他の客の同じように接してくれる。
時に2人が楽しみやすいように雰囲気を作ってくれるが、決して他の客には口外しない。
だから人の目を気にすることなくデートできるのだ。
だがこの夜はどこかぎこちない雰囲気から始まった。
理由は最近始まった吉川千春こと吉野の新連載だ。
吉川千春の真骨頂は甘く切ないラブストーリー、つまり王道の少女漫画だ。
今回のお話ももちろんそれなのだが、少し違っていた。
作中に登場するカップルのラブシーンが多く、しかも濃厚に描かれている。
ぶっちゃけキスやセックスなどの描写が多いのだ。
「随分思い切ったな。」
羽鳥は不機嫌を隠すことなくそう評したのは、もちろんその新連載の話だ。
はっきり言って、かなり攻めていると思う。
決して過激ではないが、少し前なら検閲にかかっていた可能性がある。
子供たちも読む作品としては性的な要素が多く、不謹慎な作品であると。
多くの少女漫画家は検閲にかかることを恐れて、暗黙のうちにその手の描写を避けてきた。
「だって~」
吉野は年甲斐もなく口を尖らせながら「ずっと描きたかったんだよ」と言った。
好きな人とキスしたい、触りたいというのはごく自然な感情だ。
それを描きたいと思いながら、検閲を恐れてできなかった。
検閲撤廃が見えた今、もう我慢したくなかったのだ。
「でももう少し待てなかったのか?」
羽鳥はもっともな疑問を口にした。
確かにもう検閲に心配はしなくてもいい。
だが良化法賛同団体のいくつかは、まだ最後のあがきのように活動を続けている。
つまりある程度危険な可能性もあり得るのだ。
もしも今、羽鳥が少女漫画編集で、担当作家からあの作品を提案されたら。
おそらく一も二もなく、賛成するだろう。
もちろん作家の安全も考慮しながら、勝負したいと思ったはずだ。
だがその作家が恋人となると、話はまるで違う。
危険なことは、絶対にして欲しくない。
良化法賛同団体が完全になくなるまで待ってほしいと思うのだ。
「もしも危険なことになりそうだったら、警護をつけてくれるって」
「それエメラルドの編集長が言ってるのか?」
「ううん。社長さん。井坂さんって人」
「・・・あの人が乗り気なのか。」
羽鳥はガックリと肩を落とした。
井坂は検閲に対しては、挑戦的だ。
他社の編集者たちと積極的に連携して、動いている。
最近では検閲撤廃に伴い書籍の価格を下げようと、小野寺律や折口マキらと活動を続けていた。
「本当に身辺には注意しろよ。何かあってからでは遅いんだ。」
「わかってる。充分に注意するよ。」
吉野の迷いのない真っ直ぐな瞳を見て、羽鳥はため息をついた。
もう始まってしまったし、本人も関係者も乗り気。
つまりもう止めようがないのだ。
だとすればもう細心の注意を払う以外、出来ることはない。
「くどいようだけど」
「注意するって!・・・心配してくれてありがとう。」
明るくそう言われてしまっては、もう何も言えない。
吉野が掲げたグラスに自分のグラスをカチンと合わせる。
どうか取り越し苦労で終わってくれ。
羽鳥は祈るような思いで、冷えたカクテルを喉に流し込んだ。
【続く】
「あれ?手塚?」
夕方、コインランドリーで店内の清掃をしていた郁は思わず手を止めた。
店に入ってくるなり、無駄に目立っていたのは手塚光。
図書特殊部隊では郁とバディを組んでいた同期だ。
多くの隊員が赤司とヒル魔が立ち上げた警備会社に籍を移す中、手塚は図書隊に留まっている。
「あんた、柴崎を放っておいていいの?」
郁は挨拶もそこそこにそう言い放った。
洗濯物の類を一切持たない手塚は、どう見てもコインランドリーの客ではない。
そして無駄に顔立ちが整っており、スタイル抜群の身体に仕立ての良いスーツ。
はっきり言って、完全に浮いている。
「あ、いや、その」
郁の姿を認めて口ごもっている姿を見た郁は、ますます困惑する。
妻である柴崎こと手塚麻子もまた妊娠中であり、郁よりも出産が近いはずだ。
こんなところでぼんやりしているヒマはないはずである。
「愚痴りたいんじゃない?聞いてやれば?」
黛が気配もなく寄って来て、郁にだけ聞こえるように耳打ちした。
それを聞いた郁は心の中で「なるほど」と思う。
多くの先輩たちが図書隊を去った後、手塚は心細いのだろう。
妊娠中の妻には聞かせたくない愚痴もあるのかもしれない。
「よかったら、あっちで座って話そうか?」
「堂上三監は」
「このところ帰りが遅い。」
やはり堂上に何か相談がしたかったようだ。
だが雪名皇の個展が始まり、堂上は連日帰りが遅いのだ。
郁は内心「あたしじゃダメなのかい!」と思わないでもなかったが、とりあえずスルーした。
そして手塚を待合スペースへと案内する。
幸いなことに誰もおらず、どうやら落ち着いて話ができそうだ。
手塚は浮かない表情だったが、やがて重い口を開いた。
「特殊部隊の先輩方はほぼ全員、警備会社に移ることになった。」
「そうなんだ。」
「小牧三監はもう官舎を出て、警備会社の寮に移った。」
「それは寂しいね。」
「特殊部隊も防衛部ももうすぐ解体して警備部に名前を変える。俺は初代部長になるらしい。」
「え!それってすごくない?」
郁は思わず声を上げた。
はっきり言って、具体的なイメージはわかない。
だが図書隊時代に部長と呼ばれた人たちを思い出せば、みな威厳があるオジサンだった気がする。
そこに同期が入ってくるなんて、単純にすごいことだと思ったのだ。
もっともそれだけ年を取ったのだという事実に、ちょっとヘコむ気持ちもあったが。
「すごくない。本当にすごい人たちはみんな第二の人生の道を選んだんだから。」
「え?でもあんたは」
「俺も警備会社に移りたい。」
ポツリと告げられた手塚の本音に、郁は言葉を失った。
図書館協会会長を父に持つ手塚は、最後まで図書隊と運命を共にする。
それは郁を含めた全員の暗黙の了解だった。
手塚はそうするものだと、何となく思い込んでいたのだ。
「また堂上三監や小牧三監と一緒に仕事がしたい。」
手塚はそう呟いた後、そっと目を伏せた。
郁はしばらく手塚の横顔を見ていたが、やがて「あのさ」と口を開いた。
もしも堂上が話を聞いたら、違うことを言うのかもしれない。
いやそもそも手塚は愚痴りたいだけで、答えなんか求めていないのかもしれない。
だが郁はかつてのバディとして、手塚に言いたいと思ったのだ。
郁は手塚に自分の思いを伝えた。
手塚は驚いたように瞠目しながら聞いていた。
そして別れ際には「ありがとう」とレアな笑顔を見せて、帰って行ったのだった。
*****
「やった、やったよ~!聞いてます?」
律は少々呂律が怪しくなり始めていたが、元気いっぱいだ。
黒子はそんな律を見ながら、酔っ払っても美人は美人なんだと改めて思った。
夜の「カフェ・デビルバッツ」は今日も忙しい。
セナも阿部も黒子たちも、忙しなく動き回っている。
客と心地よい距離を保ち、忙しなさは感じさせないようにする。
それが「カフェ・デビルバッツ」のポリシーだ。
黒子は時に気配を消し、または敢えて存在感を主張しながら、それを守っていた。
この夜、奥のテーブルは一際盛り上がっていた。
常連客の小野寺律と高野政宗、桐嶋禅と横澤隆史の4人の席だ。
黒子は彼らのテーブルに料理を運びながら、先日の出来事を思い出す。
桐嶋の娘の日和が、元カレにストーカーもどきの付きまといをされたことだ。
バイトの雄大がストーカー男を殴るなどと言うアクシデントがあり、結構な騒ぎになった。
結局ヒル魔が男に示談金を払うという形で、丸く収まったのだ。
男には日和にもこの店にも近づかないという念書も書かせたと聞く。
だがあのヒル魔のこと、ストーカー男にはしっかりと脅しをかけたに違いない。
一見クールな毒舌家に見えて、情に篤いのがヒル魔なのだ。
あの事件には秘かに怒っており、二度とあんなことを起こさないと心に誓っていることだろう。
「黒子く~ん、ワインもう1本!」
律は笑顔でそう言った。
すでにワインを2本開けており、律はかなり酔っている。
それを高野と桐嶋、横澤が苦笑しながら見守っているという形だ。
黒子は律の注文を聞いた後、高野を見た。
律がやや酒乱気味であり、からみ酒でグチ派であることはもはや暗黙の了解。
だからまだ飲ませても大丈夫なのかと、お伺いを立てたのである。
「黒子君、今日はトコトン飲むから。お店オススメのワインを出してよ。」
「そうそう、今日はお祝いだから!」
「今日だけは仕方ないよな。」
黒子は「かしこまりました」と一礼すると、キッチンへ向かった。
何だか知らないが、今日は彼らにとっておめでたい特別な日らしい。
律が盛大にからんでも愚痴っても問題ないと言うことだろう。
ワイン保管用の冷蔵庫を開けようとした途端、蛭魔に「黒子」と呼び止められた。
「この間、入荷したワイン、店の奢りで出してやれ。」
「いいんですか?あれ、かなり高価ですよ?」
「いいだろ。結構なことを成し遂げた後だしな。」
「え?ヒル魔さん、御存知なんですか?」
「明日のニュース見とけば、わかる」
ヒル魔の意味あり気な言葉に首を傾げながら、黒子はワインを出した。
律は大いに喜び、高野は「飲みすぎるな」と諌める。
桐嶋は「ヒル魔さんは情報が早いんだな」と苦笑し、横澤は恐縮していた。
黒子は給仕を務めながら、彼らが楽しい夜を過ごせることを素直に喜んだ。
そして翌朝、黒子は「これですか」と呻いた。
その日の新聞一面ではなかったが、読書家にとってはこの上ない朗報が伝えられた。
当麻蔵人、宇佐見秋彦ら著名な作家20名程が、自身の書籍の価格を引き下げると表明したのだ。
現在の10分の1程度、学生でも手軽に買えるくらいまで一気に値下げするという。
これは検閲撤廃に伴う措置であり、将来的には全ての本の価格がこれに倣って下がるだろうと。
なるほど。これなら少々からんでも愚痴っても許せますね。
黒子はこっそりと笑みを漏らすと、メインダイニングで開店準備を始めた。
だがどんなに内心浮かれていても、あくまで普段通りに。。。とはならなかった。
セナにも阿部にも黒子の変化はしっかり伝わり、内心「何事?」と首を傾げていたのだ。
だが当の黒子は知る由もなく、終日上機嫌で仕事をこなしたのだった。
*****
「う、うそぉ!?」
三橋は意外な告白に思わず頓狂な声を上げてしまう。
だが長い付き合いとなった友人は清々しく「ホントだ!」と宣言した。
とある朝、開店前の「カフェ・デビルバッツ」の客席。
阿部と三橋はかつてのチームメイトと向かい合っていた。
店は表向きランチタイムからの営業なのだが、実際は朝の8時くらいからやっている。
特にメニューはないが、コーヒーやお茶を飲むことはできる。
それにありあわせで良ければ、簡単な食事くらいは出すようにしていた。
これは常連客のみが知っている、暗黙の了解だ。
「うまそぉ!」
西浦高校野球部伝統の掛け声とともに、食べ始めたのは田島悠一郎。
プロ野球の道に進み、昨シーズンで引退したばかりだ。
気さくなキャラクターなので、人気もあった。
おそらくテレビなどの出演依頼も多いし、コーチなどのオファーもあるだろう。
だが本人は沈黙を守り、実家の農業を手伝っていた。
開店準備が終わった阿部と三橋は、同じテーブル席に納まり、お茶を飲んでいた。
わざわざ田島がこの時間にやって来たのは、話があるから。
それがわかってるので、2人は静かに田島の食事を眺めている。
「御馳走様でした!」
あっという間に食事を平らげた田島は、二カッと笑った。
昔と変わらない笑顔に、三橋も「ウヒ」と笑う。
それを見た阿部は、思わず懐かしさに頬を緩めた。
みんなの弟分的なポジションの田島と三橋は、チームのムードメーカーだったのだ。
「オレ、結婚する。あと西浦の監督やるから!」
食後のお茶を啜りながら、田島は唐突に宣言した。
三橋は思わず「う、うそぉ!?」と声をあげてしまう。
だが田島は平然と「ホントだ!」と答えた。
「お、おめで、とう。お、お相手、は」
「中学時代の同級生。2年前にクラス会で再会したんだ!」
「そうか。よかった。おめでとう。」
阿部は内心ホッとしながら、祝意を示した。
どこぞの女子アナとかグラビアアイドルだなんて言われたら、ちょっと嫌だと思ったのだ。
どこかどう嫌なのかうまく説明はできないのだが。
「け、結婚、式、とか、は?」
「まだ全然決まってない。三橋、決まったら来てくれよ!ついでに阿部も」
「い、行く!」
「ついでかよ。」
黒子が「おめでとうございます」と頭を下げると、田島が食べ終えた食器を下げる。
さらにセナが3人のカップにお茶のお代わりを注ぐと「おめでとう。田島君」と笑った。
田島は「ありがとうっす!」と満面の笑顔で答えると、阿部と三橋に向き直った。
「で、西浦の監督も引き受けたんだけど」
「いいのかよ。プロのコーチとかの道もあるだろ?」
「何言ってんだよ。高校野球の方が全然面白いだろ!」
田島は笑顔で、プロ野球関係者が聞いたら卒倒しそうなセリフを吐いた。
そして「お前ら、コーチやんねぇ?」ととんでもないことをサラッと切り出したのだ。
阿部と三橋は顔を見合わせると、再び田島を見た。
そのタイミングがまるでコントのようにピッタリで、田島は「わはは」と豪快に笑う。
「深く考えるなよ。店が休みの時、たまに来てくれるくらいでもいいから」
「そんなんでいいのかよ?」
「百枝コーチもそんなだっただろ?」
「まぁ、なぁ」
かつて百枝の父がピッチングのコーチをしてくれたときは確かにそうだった。
仕事の合間にたまに来てくれて、質問があるときはメールや電話でやり取りしたのだ。
阿部が三橋のピッチングフォームを録画して、動画を送った回数は数知れない。
「じゃあな。考えといてくれよ!」
田島は最後まで元気よくそう告げると、笑顔で去っていく。
こうして三橋と阿部の前に、再び野球と関わる道が示されたのだ。
だが阿部と三橋はかなり迷い、悩むことになった。
野球はやりたいが、店と両立できる自信はまるでなかったのである。
*****
「うわ!もしかして大和君と鷹君?」
あまりにも予想外の客に、セナは思わず声を上げる。
体格の良い男性客の2人組はニッコリと笑って、頷いた。
店がそろそろディナータイムになろうかという時間帯。
まだ人が少ない「カフェ・デビルバッツ」には、意外な客が現れた。
大和猛と本庄鷹。
高校時代、アメフト日本一を競うクリスマスボウルで戦ったライバルだ。
大学時代はヒル魔とチームメイトになり、卒業後はプロに進んだ。
セナとは同じチームになることはなく、高校からNFLまでずっと競うことになった相手だ。
だがセナが先に選手を引退したことで、疎遠になった。
今ではメールなどでたまに近況をやり取りする程度だ。
飲み会などの集まりもあったけれど、セナはほぼ全てを欠席していた。
病気のヒル魔を置いて、飲みに出かける気になれなかったからだ。
「久しぶりだね。セナ君。」
大和は相変わらず押しが強く、そう言った。
鷹はその横で同意するように頷く。
セナは彼らをテーブルに案内すると、阿部がセナを見て頷く。
ホールは大丈夫だから、話をしたらどうですか?
アイコンタクトで告げられたセナは、笑顔で手を合わせて感謝を示した。
大和と鷹は窓際の大きなテーブルに並んで、セナとヒル魔がその正面に座った。
乾杯しようという流れになり、デビルバッツ特製カクテルが運ばれる。
テキーラをベースにした甘さの少ないオリジナルカクテルで、人気メニューの1つだ。
残念ながら、これから仕事があるセナと病身のヒル魔はノンアルコール。
そして4人はグラスを掲げて、再会を喜んだ。
「でもどうしたの?わざわざ」
「実は高校時代に作ったスペシャルユースチームを再結成しようと思ってるんだ。」
「え!?そうなの?」
あまりにも意外な計画に驚き、セナは思わずヒル魔を見た。
ヒル魔は表情を崩さず、じっと大和と鷹を見ている。
セナと大和たちは高校時代はライバル、つまり敵同士だったが、実はチームを組んだこともある。
高校の国別対抗、つまりワールドカップユースで、日本代表として集結したのだ。
大和はそのメンバーを再び集めようとしているという。
「え?何で今さら」
「N大問題は知ってるよね?」
「確か、1年間出場停止」
「うん、だけど優秀な選手が集まっているのにもったいないよね」
意外な展開だったが、ヒル魔は「なるほどな」と頷いた。
半年ほど前、名門の大学アメフト部で事件があった。
試合中、ディフェンシブラインの選手が相手校のボールを持っていないQBに突っ込んだ。
悪質なタックルが、実は監督の指示だったと騒動になったのだ。
結局監督とヘッドコーチが解任され、そのチームは1年間の出場停止となった。
大和はスペシャルチームを作って、そのチームと対戦しようというのだ。
4年生はもう公式戦に出られない。
また来年は下部リーグからスタートなので、3年生は日本一を目指せない。
一方セナや大和たちは黄金世代と呼ばれ、アメフト人気を高めたと評価されている。
再結成となれば、世間の注目を集めるだろう。
そこでスペシャルチームと件の大学チームの試合を組もうというのである。
危機を迎えた名門チームのモチベーションを上げ、アメフト人気を取り戻そうという企画だった。
「うわ。楽しそう。ボクやりたいな。」
「うん。そう言ってくれると嬉しいよ。あとヒル魔氏もぜひ」
「え?ヒル魔さんも!?」
アメリカ帰りで先輩後輩の意識が薄い大和は、先輩に対しては名前の後に「氏」をつけて呼ぶ。
アメフト関係者の中には礼儀にうるさい者もいたが、大和のそれだけは暗黙の了解だったのだ。
その呼び方が懐かしいと微笑したセナだったが、聞き返した声が裏返った。
セナとしては嬉しい限りだが、今のヒル魔が再びフィールドに立つことなどできると思えない。
「返事は今じゃなくていいよ。ただ検討してみてくれ。」
「でも。。。」
「ワンプレーだけでもいい。ヒル魔氏が投げるところ、また見たいしね。」
その後は店が混んできたので、それ以上の長話はできなかった。
大和と鷹はさらにカクテルをおかわりして、食事を楽しみ、帰っていった。
そしてヒル魔もセナも考え込むことが多くなった。
もう一度アメフトがしたい。一緒にプレイしたい。
だがそれは決して簡単ではないことを、2人ともよくわかっていたのだ。
*****
「随分思い切ったな。」
羽鳥は不機嫌を隠すことなくそう言った。
吉野は「だって~」と年甲斐もなく口を尖らせながら、不満の意を表明した。
大和と鷹が「カフェ・デビルバッツ」を出た後、そのテーブルに座ったのは羽鳥と吉野だった。
吉野は相変わらず世の女子たちに絶大な人気を誇る少女漫画家。
月刊エメラルドの稼ぎ頭であり、丸川書店の漫画部門全般でも上位にランクする売り上げを誇る。
羽鳥はすでに少女漫画編集から離れているが、丸川書店が誇る優秀な編集者であることは変わらない。
そんな2人は未だに恋人同士であり、しっかりと絆を深めていた。
彼らにとって「カフェ・デビルバッツ」は、便利であり大事な場所だった。
スタッフたちは2人の関係を知っているが、他の客の同じように接してくれる。
時に2人が楽しみやすいように雰囲気を作ってくれるが、決して他の客には口外しない。
だから人の目を気にすることなくデートできるのだ。
だがこの夜はどこかぎこちない雰囲気から始まった。
理由は最近始まった吉川千春こと吉野の新連載だ。
吉川千春の真骨頂は甘く切ないラブストーリー、つまり王道の少女漫画だ。
今回のお話ももちろんそれなのだが、少し違っていた。
作中に登場するカップルのラブシーンが多く、しかも濃厚に描かれている。
ぶっちゃけキスやセックスなどの描写が多いのだ。
「随分思い切ったな。」
羽鳥は不機嫌を隠すことなくそう評したのは、もちろんその新連載の話だ。
はっきり言って、かなり攻めていると思う。
決して過激ではないが、少し前なら検閲にかかっていた可能性がある。
子供たちも読む作品としては性的な要素が多く、不謹慎な作品であると。
多くの少女漫画家は検閲にかかることを恐れて、暗黙のうちにその手の描写を避けてきた。
「だって~」
吉野は年甲斐もなく口を尖らせながら「ずっと描きたかったんだよ」と言った。
好きな人とキスしたい、触りたいというのはごく自然な感情だ。
それを描きたいと思いながら、検閲を恐れてできなかった。
検閲撤廃が見えた今、もう我慢したくなかったのだ。
「でももう少し待てなかったのか?」
羽鳥はもっともな疑問を口にした。
確かにもう検閲に心配はしなくてもいい。
だが良化法賛同団体のいくつかは、まだ最後のあがきのように活動を続けている。
つまりある程度危険な可能性もあり得るのだ。
もしも今、羽鳥が少女漫画編集で、担当作家からあの作品を提案されたら。
おそらく一も二もなく、賛成するだろう。
もちろん作家の安全も考慮しながら、勝負したいと思ったはずだ。
だがその作家が恋人となると、話はまるで違う。
危険なことは、絶対にして欲しくない。
良化法賛同団体が完全になくなるまで待ってほしいと思うのだ。
「もしも危険なことになりそうだったら、警護をつけてくれるって」
「それエメラルドの編集長が言ってるのか?」
「ううん。社長さん。井坂さんって人」
「・・・あの人が乗り気なのか。」
羽鳥はガックリと肩を落とした。
井坂は検閲に対しては、挑戦的だ。
他社の編集者たちと積極的に連携して、動いている。
最近では検閲撤廃に伴い書籍の価格を下げようと、小野寺律や折口マキらと活動を続けていた。
「本当に身辺には注意しろよ。何かあってからでは遅いんだ。」
「わかってる。充分に注意するよ。」
吉野の迷いのない真っ直ぐな瞳を見て、羽鳥はため息をついた。
もう始まってしまったし、本人も関係者も乗り気。
つまりもう止めようがないのだ。
だとすればもう細心の注意を払う以外、出来ることはない。
「くどいようだけど」
「注意するって!・・・心配してくれてありがとう。」
明るくそう言われてしまっては、もう何も言えない。
吉野が掲げたグラスに自分のグラスをカチンと合わせる。
どうか取り越し苦労で終わってくれ。
羽鳥は祈るような思いで、冷えたカクテルを喉に流し込んだ。
【続く】