アイシ×おお振り×セカコイ×黒バス×図書戦【お題:仄かに暗い15題-2】
【無償】
「うっそぉ!」
「ホ、ホント、に?」
「マジ、で?」
セナと三橋、阿部の声がテンション高く重なった。
郁は申し訳なさそうに俯き、黒子が冷静に「マジだそうです」と補足した。
体調を崩している郁が、病院で診察を受けた。
というか黒子がリコを呼び、強引に連れて行った形だ。
2つ返事で引き受けてくれたリコには、感謝するばかりだ。
いきなりの頼み事にも無償で、しかも笑顔で引き受けてくれたのだから。
実際「カフェ・デビルバッツ」はこういう人脈で支えられていると言っても過言ではない。
セナや三橋、阿部たちは何とも落ち着かない気持ちで待っていた。
単なる風邪とか、そんな程度であって欲しい。
何しろ長年闘病しているヒル魔を真横で見ているのだ。
これ以上、苦しむ誰かを見るのはたくさんだという思いがあった。
ランチタイムのピークを過ぎた頃、郁は戻って来た。
黒子に付き添われて、メインダイニングに現れた郁に一同が首を傾げる。
病気を抱えているような暗い表情にも見えず、かといっていつもの笑顔でもない。
まるで悪戯がバレた子供のような、どこかバツの悪そうな顔をしていた。
一時的に鈴音に店をまかせて、彼らは二階に上がった。
集まったのは、ヒル魔とセナの居室だ。
パソコンを叩いていたヒル魔も当然、話に加わることになる。
家主であるヒル魔とセナがベットに腰かけ、郁はソファに座る。
阿部と三橋、黒子は壁際に立ったので、2人では広い居室も狭苦しく感じた。
「実はですね」
郁がおもむろに口を開いたが、すぐに口ごもって俯いてしまう。
だが決して悲壮な感じではなく、むしろコミカルな雰囲気でさえある。
セナと阿部は怪訝な表情で、先に事情を知っている黒子を見た。
だが黒子は相変わらずの無表情で、まったく読めない。
「郁さん、みんな心配してるんですよ?」
その黒子が静かに郁を促した。
すると郁はハッとして一同を見回した。
確かに全員が心配そうな顔で郁を見ている。
郁は「ご心配おかけして申し訳ありません」と頭を下げた。
そして意を決したように「実はですね!」と声を張った。
「堂上郁、本日妊娠していることがわかりました!現在4か月だそうです!」
郁は体育会系のノリで、勢いよく声を張った。
その途端、郁と黒子以外の面々は見事に同じ表情になる。
ポカンと口を開き、間抜けな顔で郁を見た。
あのヒル魔でさえ、呆然とした顔になっている。
一瞬、静まり返った室内。
だが次の瞬間「うっそぉ!」「ホ、ホント、に?」「マジ、で?」と明るい声が重なった。
子供ができる可能性はほぼないと診断された郁なのだ。
当の郁は、恥ずかしそうに頬を赤くしている。
代わりに黒子が「マジだそうです」と答えてくれた。
「お祝いしなきゃ!」
「オ、オレ、ごちそう、作る!」
「水谷にケーキも頼まなきゃな!」
今までのどこか緊張した雰囲気はどこへやら、一同のテンションは一気に上がった。
郁はその様子に感激し、涙ぐみながら「ありがとうございます!」と再び頭を下げたのだった。
だがこの時、一同は肝心なことを忘れていた。
郁の夫であり、子供の父親である堂上にまだ知らせていなかったことだ。
この日の帰宅後に知ることになった堂上は、一番に知らされなかったことを大いに悔しがった。
それでも嬉しい知らせには間違いなく、堂上はわかりやすく浮かれた。
そして「カフェ・デビルバッツ」は一気にお祝いムードが盛り上がったのだった。
*****
「ごめん、郁。何でも1つ、言うことを聞くから!」
堂上は慌てて、そして必死に妻の御機嫌取りに躍起になった。
わかってみれば何のことはない、それどころかこの上なくおめでたい話なのだ。
その夜帰宅した堂上は、ただただ驚いた。
テーブルに並ぶのは、これでもかと言わんばかりの御馳走のオンパレードだ。
郁は申し訳なさそうに「作ったのは廉君だから」と白状した。
だが堂上としては、驚くのはそこではなかった。
三橋は残り物やら試作品やらを、しょっちゅう差し入れしてくれる。
また残った材料の肉や魚、野菜を分けてくれることもしょっちゅうだ。
それに水谷も時々ケーキやプリン、コーヒー豆や紅茶の茶葉などを持ってきてくれる。
だから堂上家の食費はほぼ無償、堂上の酒代が少々かかる程度だ。
ちなみに三橋は水谷家にも差し入れをするので、食費は同じような状態なのだという。
だがそれにしても、この日の堂上家の食卓は豪華すぎた。
たくさんの食材を使った凝った料理が、何品も並んでいる。
極めつけは一際大きな白いホールケーキだ。
郁は恥ずかしそうに「水谷君に頼んであっさり甘いチーズケーキにしてもらった」と笑っている。
いったい何事だ?
堂上は必死に頭をめぐらせて、今日は何の日だったかと考えた。
何か大事な記念日を忘れているのかと思ったのだ。
2人の出会いは10月4日、2人の誕生日でもないし、結婚記念日でもない。
昔柴崎が「10月19日は堂郁で2人の日ですね」などと冗談を言ってた。
だがそれも今日ではない。
「郁、すまん。」
堂上はついにギブアップし、今日は何の日かと聞こうとした。
だがその途端、郁の大きな瞳に涙が溜まり始める。
うわ、そんなに大事な日を忘れていたのか。
オロオロと慌てる堂上に、郁は「ごめんなさい~」と号泣モードだ。
「篤さんはもう今さら嫌なんですよね?」
「いや、まぁ」
記念日を祝うのはやぶさかではないが、無理矢理記念日を増やして騒ぐのは得意ではない。
堂上の曖昧な頷きは、そんな気持ちからだ。
だがここで郁の斜め上は発動した。
郁は堂上がこの期に及んでの妊娠を喜んでいないものと解釈してしまったのだ。
「うわぁ~ん。ごめんなさい~!」
しかも妊婦とは通常時より精神的に不安定だ。
郁は号泣しながら、部屋を飛び出して行ってしまった。
だが郁が妊娠しているとまだ知らない堂上は唖然呆然だ。
そのせいで追いかけるタイミングを完全に逸してしまった。
とりあえずこの状況下で、郁が行きそうな場所は。
それを考えた堂上は、愕然とした。
共通の知り合いはそのほとんどが図書隊関係者だ。
だが今の状況でそこを頼るとは考えにくい。
堂上の除隊で、何となく距離を取った感じになってしまっているからだ。
それなら残りはと考えれば、双方の実家か郁の学生時代の友人。
だが財布を持たずに飛び出したから、それもない。
とりあえずまずは1号店と2号店、あとはこの近所を捜すか。
コインランドリーで黒子に声をかけておけば、入れ違いになっても連絡をもらえるだろう。
素早く考えをまとめるなり、堂上は鍵と財布、スマホを持って部屋を出ようとする。
だが部屋を出たところで、意外な人物と遭遇した。
「こんばんは。堂上さん。」
1日の疲れがたまる時間なのに秀麗な美貌で今まさにドアを叩こうとしていたのは小野寺律。
小野寺出版の御曹司であり、図書館利用者の常連で堂上とも顔見知りだ。
堂上は「こんばんは」と答えたものの、言葉が続かない。
すると律は身体をすっと横にずらし、その背後にいた郁が姿を現した。
「何か泣きながら走ってたんで、とりあえず送って来たんですけど」
「わざわざすみません。助かりました。ちょっと行き違いがあったみたいで」
「行き違いじゃないもん。篤さんはあたしとの子供なんていらないんだぁぁ!」
堂上が「は?」律が「え、子供?」と驚く声が重なった。
ここでようやく堂上は、何が行き違っていたのかを理解した。
やたらと豪華な御馳走やケーキや、なぜかいつもよりエキセントリックな妻の理由を。
子供はできないものとあきらめていたところに、まさかの妊娠。
郁は堂上がそれを「今さら」と思ったと誤解したのだ。
本題である妊娠の話をまだしていないことさえ忘れるほど混乱したようだ。
「ごめん、郁。何でも1つ、言うことを聞くから!」
堂上は慌てて、そして必死に妻の御機嫌取りに躍起になった。
そうしながらも顔がニヤけるのが、止まらない。
郁が恐る恐る「子供ができたの喜んでくれる?」と聞くので「もちろんだ!」と即答する。
わかってみれば何のことはない、それどころかこの上なくおめでたい話なのだ。
「それじゃ、俺はこれで」
居たたまれなくなった律はそそくさとその場を離れていく。
この話は当然のように、堂上夫妻の伝説に加わった。
そして後日、律からお祝いの花束が届く。
そのときになってようやく、堂上はまともに礼を言っていないことに気付いた。
あの堂上がそこまで動顛するほどの衝撃だったのである。
*****
「それじゃ、俺はこれで」
居たたまれなくなった律は、そそくさと堂上家を出た。
そして思わず「何だよ、バカバカしい」と悪態をついてはみる。
だけどどこか微笑ましいと思ってしまうのは、あの夫婦のキャラクターなのだろう。
この日、律は1日社内会議に参加していた。
小野寺出版では、このところ社内会議が多い。
また書店関係者、さらに出版関係者が集まる会議も多かった。
理由は簡単、検閲撤廃だ。
検閲がなくなることで、出版業界も大きく変わる。
これを大きなビジネスチャンスと捕え、戦略を練るのは当然の流れだろう。
「本の価格を大きく下げましょう。最低でも今の10分の1以下に。」
律は事あるごとに、それを提言していた。
カードカバーの本なら1000円から2000円、文庫なら500円から1000円。
所得の低い人でも、学生の小遣いでも、気軽に本が買えるようにしたいのだ。
丸川書店の井坂もこれに賛同してくれており、印刷会社などでも概ね歓迎の雰囲気だ。
だが反対の意を唱えている書店も少なくない。
検閲に批判的な本を多く出していた世相社がその筆頭だ。
今まで検閲により多大な損害を被った書店は、ここで元を取りたいということなのだろう。
もちろんその気持ちは大いに理解できることなのだが。
「作家にとっては、死活問題なんですよ。」
「多くの作品が検閲対象になって、ほぼ無償で書き続けている作家もいるんです。」
「二代目のお坊ちゃまは、そういう事情を理解しているんですか?」
この日の会議でも持論を展開した律は、編集者たちに盛大に噛みつかれた。
彼らとしては、作家たちの思いを代弁しているつもりなのだろう。
郁は内心は腸が煮えくり返る思いだったが、笑顔で「理解しています」と答えた。
わかってないはずないじゃないか。
律だって長い間、編集者だったのだ。
本当は経営問題になんて関わらずに、編集に専念したい。
ましてやこれからは検閲を気にせずに本が作れるならなおさらだ。
だがその願いは封印して、今は誰もが自由に本が買えるようにするために頑張っている。
ったく、二代目のお坊ちゃまは関係ねーだろうが!
結局折り合いがつかずに、この日も会議が終わった。
律はブツブツと悪態をつきながら、会社を出る。
向かう先は自宅ではなく「カフェ・デビルバッツ」だ。
どうにも気分が晴れないし、あの店のスタッフたちの笑顔を肴に飲みたくなった。
だがその途中で泣きながら走っている女性を見つけたのだ。
しかも彼女は今、まさに向かおうとしている店のスタッフの堂上郁だ。
「郁さん?どうしたの?何かあったの?」
驚きながらも声をかけると、郁は足を止めて律を見た。
律は涙でグシャグシャの顔の郁に、慌ててハンカチを差し出す。
すると郁は「うわぁぁん。律さぁぁん!」と号泣し始めた。
大人がこんなに派手に泣くのを見たのは、後にも先にも初めてだ。
「とりあえず帰りましょう。送るから。堂上さんも心配してるんじゃない?」
律が慌ててそう言ったのは、郁が心配であるだけじゃない。
とにかく大の大人、しかも女性がここまで派手に泣いているのは人目を引くからだ。
しかもこのままでは律が泣かしたと誤解されそうだ。
だが郁は「帰りたくないです」とダダをこね始めた。
「篤さんは心配してないと思うし」
「いや、心配してるって。」
「帰っても話すことないし。」
「なら俺が話すよ。俺が無理矢理帰るように言ったって説明するし。」
「でも」
「大丈夫。何だかんだ言っても堂上さんは郁さんにベタ惚れなんだから」
「そう思います~!?」
「思う、思う!とにかく帰ろう!」
何とか宥めすかして、郁を堂上家まで連れていく。
だがドアは叩く前に開き、血相を変えた堂上が飛び出してきたのだ。
そして2人のやりとりから、郁の妊娠を知った。
さらにあの堂上がニヤケた顔で「何でも1つ言うことを聞く」などと言うのを聞いて、ドッと力が抜けた。
「それじゃ、俺はこれで」
居たたまれなくなった律は、そそくさとその場を離れた。
そして「カフェ・デビルバッツ」に駆け込むと、開口一番「何か強いお酒、下さい!」と叫ぶ。
まったくやってられない。
だけどどこか微笑ましいと思ってしまうのは、あの夫婦のキャラクターなのだろう。
「いらっしゃいませ。律さん。何かありました?」
セナがいつものおっとりとした笑顔で出迎えてくれる。
律は「堂上夫妻のラブラブっぷりに当てられた」と白状する。
すると今日は珍しく店内にいたヒル魔が、律を手招きした。
「今の話、全部喋ったら今夜は食べ放題、飲み放題だ!」
「でもプライバシーに関わる話だし、いいのかな。」
「いい。俺が許す!」
ヒル魔に訳がわからない断言をされた律は、今起こったばかりの出来事を語った。
こうして隠し事ができないのもまた堂上夫妻のキャラクターによるものなのだろう。
*****
「どうする?」
ヒル魔は静かにそう聞いた。
堂上は迷うこともなく「それでお願いします」と答えたのだった。
昨日はヒル魔にとって、久しぶりに盛大に笑った日だった。
出だしは微妙に暗かったはずだ。
このところ体調不良が続いていた郁が病院に行くことになったのだ。
郁本人は「ただの風邪だと思います」などと言っていた。
だが「カフェ・デビルバッツ」の面々は、何となく落ち着かない様子だった。
普段の郁が元気であるだけに、余計に心配だ。
だが診察の結果は、まさかの妊娠。
閉経して、もう子供は望めないという話だったのに。
よくよく聞いてみると、閉経後の妊娠はかなり確率が低いとはいえゼロではないらしい。
「カフェ・デビルバッツ」の面々は驚き、そして喜んだ。
何しろまさかまさかの奇跡が起こったのだから。
しかもその後、ちょっとした誤解から郁が家を飛び出した。
そしてたまたま通りかかった小野寺律が声をかけて、家まで送り届けたという。
その後「カフェ・デビルバッツ」にやって来た律は、盛大に飲んで食べた。
やってられるか!ゲロ甘夫婦!
からみ酒グチ派の律は、ヒル魔に思いっきりからんで帰って行った。
そしてその翌日の朝、開店前の「カフェ・デビルバッツ」。
開店準備中のホールで、ヒル魔と堂上は向かい合っていた。
堂上は出勤前であり、きっちりとスーツに身を包んでいる。
「朝っぱらから呼び出して悪かったな。何か食うか?」
「いえ。昨日たっぷり差し入れていただいて、今朝は残りを食ったんで。」
「ああ、さすがに廉も作り過ぎたとか言ってたな。」
「ええ。食い応えありましたよ。ケーキはまだ残ってます。」
そこへセナがコーヒーを持ってきて、会話は一時中断だ。
堂上には「カフェ・デビルバッツ」特製ブレンド、ヒル魔にはノンカフェインのもの。
そして「ごゆっくり」と微笑むと、開店準備の作業に戻った。
「で、これからのことだけどな。今ならまだ隠しておける。どうする?」
どうするとはもちろん、郁の妊娠のことだ。
今の時点で郁の妊娠を知っているのは、堂上夫婦を除けばごく一部の者たちだけだ。
ヒル魔とセナ、阿部と三橋、鈴音に黒子、水谷夫妻、そしてリコと律。
口止めをすれば喋らないであろう、信頼ができる者たちばかりである。
郁のことを考えれば、これ以上広めないのが最善と思える。
図書隊を辞めてなお、堂上夫妻は有名人だ。
未だに郁に嫌味を言いに来るヤツまでいる始末だ。
これで妊娠したなどと知れ渡れば、余計なトラブルに巻き込まれるかもしれない。
しかも郁の場合、万が一にも流産ということになればもう1度妊娠する可能性はほぼゼロだ。
「それでお願いします。」
堂上は迷うことなく、そう答えた。
ほぼ一瞬での即答に、ヒル魔は苦笑する。
郁を守るためには、それが最善と判断したのだろう。
「わかった。口止めはしておく。だが」
「わかってますよ。長くは持たないってことは。」
堂上は苦笑しながら、コーヒーを啜った。
いずれ腹が目立つようになれば、隠せなくなる。
そこまでにはいろいろとケリをつけておきたいところだ。
それにどこかのタイミングで図書隊にも知らせなけれなならないだろう。
「それじゃ、俺はそろそろ出勤しますんで。」
「ああ。どうでもいいけど敬語はいらねーぞ。俺の方が年下だ。」
「まさか。俺はあなたの作った会社で働いてるんですから。」
「律儀だな。」
「当然です。それに美味しいメシやコーヒーまで無償ですしね。」
堂上は図書隊仕込みの敬礼をすると、店を出て行く。
ヒル魔は苦笑しながら、その背中を見送った。
*****
「あたし、やれますけど!」
郁の鼻息は荒い。
だが黒子がいつも通りの無表情で「ダメです」と首を振った。
堂上がヒル魔とコーヒーを飲み、出勤していった後。
郁もまたコインランドリーに出勤していた。
黒子としては「休んでください」と言うしかない。
妊娠なんて、まったく知識がないのだ。
仕事が全然できないわけではないと思うが、とても行き届いたケアができる自信がない。
篠岡こと水谷夫人によると、妊娠4か月はつわりが少し楽になった頃だそうだ。
つまり体調不良は郁のつわりだったのだ。
個人差はあると思うが、篠岡はかなりきつかったと言っていた。
それを郁は「ただの風邪だと思うけど」などと評した。
郁は相当つらくても我慢できてしまうと考えるべきだろう。
だったらなおのこと、今働かせるのは怖すぎる。
「体調不良の原因もわかったし、もう大丈夫です。」
「大丈夫じゃありませんよ。それにバイトを頼みましたから手は足りています。」
「そんなぁ。あたし、やれますけど!」
「ダメです。」
頑として引かない郁の様子に、黒子はため息をついた。
そして「いいですか、郁さん」と声のトーンを落とした。
郁が仕事を休まないと言い張った場合も想定していた。
当然諭すべき言葉も準備してきている。
「妊娠4ヶ月まで気づかないのは少し遅いんですよ。」
「仕方ないじゃないですか。あたし子供ができないと思ってたんだから。」
「それを責めているんじゃありません。」
「じゃあ、何?」
「世間一般の赤ちゃんより、ケアする時期が遅れてるってことを言いたいんですよ。」
「え?あ、そうか」
「赤ちゃんのことを最優先に考えましょう。まだ少しつわりがあるんでしょう?」
「・・・はい。」
赤ちゃんのことを最優先。
これが黒子が郁を攻略するために考えていた殺し文句だ。
郁が肩を落としたのを見て、黒子は「大丈夫ですよ」と告げた。
「郁さんは大事な戦力ですから、元気で戻ってくれないと困るんです。」
「本当に?」
「本当ですよ。だから仕事復帰は体調を見て、無理のない形を考えましょう。」
「ありがとうございます!」
「くれぐれも無理は禁物です。・・・あ。いいところに」
ちょうどそのとき、1人の男が現れた。
黒子と良く似た雰囲気を持ったその人物に、郁は首を傾げる。
どこかで会った記憶はあるのだろうが、思い出せないようだ。
「郁さん、彼はボクの高校時代の先輩で」
「先輩じゃねーよ。同じ高校じゃねーだろ。」
「細かいところはいいじゃないですか。彼が郁さんの代わりにバイトに入ってくれる黛さんです。」
「バイト料、はずめよ。」
「何を言ってるんです。無償でもいいくらいです。どうせ小説のネタ拾いもするんでしょ。」
2人の会話を聞いた郁は「あ~!」と声を上げた。
黒子の先輩であり、現在は作家をしている黛千尋。
かつては「木島ジン」のペンネームで挑発的な小説を書いていた異色の作家だ。
黒子が編集者の小野寺律に引き合わせたことで、再ブレイクを果たした。
それ以来「カフェ・デビルバッツ」にも頻繁に来店している。
「とりあえず仕事の説明します。あ、郁さんはゆっくり休んでくださいね。」
黒子はさっさと郁を追い立てると、仕事を開始した。
郁は「はい」と頷くと、自分の部屋へと戻っていく。
その動作はやはりどこか緩慢であり、本調子でないことがわかった。
休ませるという黒子の判断は、正解だったのだ。
郁の妊娠、そして黒子とよく似た雰囲気の男の加入。
こうして「カフェ・デビルバッツ」はまたしても新しい風を迎えることになったのだった。
【続く】
「うっそぉ!」
「ホ、ホント、に?」
「マジ、で?」
セナと三橋、阿部の声がテンション高く重なった。
郁は申し訳なさそうに俯き、黒子が冷静に「マジだそうです」と補足した。
体調を崩している郁が、病院で診察を受けた。
というか黒子がリコを呼び、強引に連れて行った形だ。
2つ返事で引き受けてくれたリコには、感謝するばかりだ。
いきなりの頼み事にも無償で、しかも笑顔で引き受けてくれたのだから。
実際「カフェ・デビルバッツ」はこういう人脈で支えられていると言っても過言ではない。
セナや三橋、阿部たちは何とも落ち着かない気持ちで待っていた。
単なる風邪とか、そんな程度であって欲しい。
何しろ長年闘病しているヒル魔を真横で見ているのだ。
これ以上、苦しむ誰かを見るのはたくさんだという思いがあった。
ランチタイムのピークを過ぎた頃、郁は戻って来た。
黒子に付き添われて、メインダイニングに現れた郁に一同が首を傾げる。
病気を抱えているような暗い表情にも見えず、かといっていつもの笑顔でもない。
まるで悪戯がバレた子供のような、どこかバツの悪そうな顔をしていた。
一時的に鈴音に店をまかせて、彼らは二階に上がった。
集まったのは、ヒル魔とセナの居室だ。
パソコンを叩いていたヒル魔も当然、話に加わることになる。
家主であるヒル魔とセナがベットに腰かけ、郁はソファに座る。
阿部と三橋、黒子は壁際に立ったので、2人では広い居室も狭苦しく感じた。
「実はですね」
郁がおもむろに口を開いたが、すぐに口ごもって俯いてしまう。
だが決して悲壮な感じではなく、むしろコミカルな雰囲気でさえある。
セナと阿部は怪訝な表情で、先に事情を知っている黒子を見た。
だが黒子は相変わらずの無表情で、まったく読めない。
「郁さん、みんな心配してるんですよ?」
その黒子が静かに郁を促した。
すると郁はハッとして一同を見回した。
確かに全員が心配そうな顔で郁を見ている。
郁は「ご心配おかけして申し訳ありません」と頭を下げた。
そして意を決したように「実はですね!」と声を張った。
「堂上郁、本日妊娠していることがわかりました!現在4か月だそうです!」
郁は体育会系のノリで、勢いよく声を張った。
その途端、郁と黒子以外の面々は見事に同じ表情になる。
ポカンと口を開き、間抜けな顔で郁を見た。
あのヒル魔でさえ、呆然とした顔になっている。
一瞬、静まり返った室内。
だが次の瞬間「うっそぉ!」「ホ、ホント、に?」「マジ、で?」と明るい声が重なった。
子供ができる可能性はほぼないと診断された郁なのだ。
当の郁は、恥ずかしそうに頬を赤くしている。
代わりに黒子が「マジだそうです」と答えてくれた。
「お祝いしなきゃ!」
「オ、オレ、ごちそう、作る!」
「水谷にケーキも頼まなきゃな!」
今までのどこか緊張した雰囲気はどこへやら、一同のテンションは一気に上がった。
郁はその様子に感激し、涙ぐみながら「ありがとうございます!」と再び頭を下げたのだった。
だがこの時、一同は肝心なことを忘れていた。
郁の夫であり、子供の父親である堂上にまだ知らせていなかったことだ。
この日の帰宅後に知ることになった堂上は、一番に知らされなかったことを大いに悔しがった。
それでも嬉しい知らせには間違いなく、堂上はわかりやすく浮かれた。
そして「カフェ・デビルバッツ」は一気にお祝いムードが盛り上がったのだった。
*****
「ごめん、郁。何でも1つ、言うことを聞くから!」
堂上は慌てて、そして必死に妻の御機嫌取りに躍起になった。
わかってみれば何のことはない、それどころかこの上なくおめでたい話なのだ。
その夜帰宅した堂上は、ただただ驚いた。
テーブルに並ぶのは、これでもかと言わんばかりの御馳走のオンパレードだ。
郁は申し訳なさそうに「作ったのは廉君だから」と白状した。
だが堂上としては、驚くのはそこではなかった。
三橋は残り物やら試作品やらを、しょっちゅう差し入れしてくれる。
また残った材料の肉や魚、野菜を分けてくれることもしょっちゅうだ。
それに水谷も時々ケーキやプリン、コーヒー豆や紅茶の茶葉などを持ってきてくれる。
だから堂上家の食費はほぼ無償、堂上の酒代が少々かかる程度だ。
ちなみに三橋は水谷家にも差し入れをするので、食費は同じような状態なのだという。
だがそれにしても、この日の堂上家の食卓は豪華すぎた。
たくさんの食材を使った凝った料理が、何品も並んでいる。
極めつけは一際大きな白いホールケーキだ。
郁は恥ずかしそうに「水谷君に頼んであっさり甘いチーズケーキにしてもらった」と笑っている。
いったい何事だ?
堂上は必死に頭をめぐらせて、今日は何の日だったかと考えた。
何か大事な記念日を忘れているのかと思ったのだ。
2人の出会いは10月4日、2人の誕生日でもないし、結婚記念日でもない。
昔柴崎が「10月19日は堂郁で2人の日ですね」などと冗談を言ってた。
だがそれも今日ではない。
「郁、すまん。」
堂上はついにギブアップし、今日は何の日かと聞こうとした。
だがその途端、郁の大きな瞳に涙が溜まり始める。
うわ、そんなに大事な日を忘れていたのか。
オロオロと慌てる堂上に、郁は「ごめんなさい~」と号泣モードだ。
「篤さんはもう今さら嫌なんですよね?」
「いや、まぁ」
記念日を祝うのはやぶさかではないが、無理矢理記念日を増やして騒ぐのは得意ではない。
堂上の曖昧な頷きは、そんな気持ちからだ。
だがここで郁の斜め上は発動した。
郁は堂上がこの期に及んでの妊娠を喜んでいないものと解釈してしまったのだ。
「うわぁ~ん。ごめんなさい~!」
しかも妊婦とは通常時より精神的に不安定だ。
郁は号泣しながら、部屋を飛び出して行ってしまった。
だが郁が妊娠しているとまだ知らない堂上は唖然呆然だ。
そのせいで追いかけるタイミングを完全に逸してしまった。
とりあえずこの状況下で、郁が行きそうな場所は。
それを考えた堂上は、愕然とした。
共通の知り合いはそのほとんどが図書隊関係者だ。
だが今の状況でそこを頼るとは考えにくい。
堂上の除隊で、何となく距離を取った感じになってしまっているからだ。
それなら残りはと考えれば、双方の実家か郁の学生時代の友人。
だが財布を持たずに飛び出したから、それもない。
とりあえずまずは1号店と2号店、あとはこの近所を捜すか。
コインランドリーで黒子に声をかけておけば、入れ違いになっても連絡をもらえるだろう。
素早く考えをまとめるなり、堂上は鍵と財布、スマホを持って部屋を出ようとする。
だが部屋を出たところで、意外な人物と遭遇した。
「こんばんは。堂上さん。」
1日の疲れがたまる時間なのに秀麗な美貌で今まさにドアを叩こうとしていたのは小野寺律。
小野寺出版の御曹司であり、図書館利用者の常連で堂上とも顔見知りだ。
堂上は「こんばんは」と答えたものの、言葉が続かない。
すると律は身体をすっと横にずらし、その背後にいた郁が姿を現した。
「何か泣きながら走ってたんで、とりあえず送って来たんですけど」
「わざわざすみません。助かりました。ちょっと行き違いがあったみたいで」
「行き違いじゃないもん。篤さんはあたしとの子供なんていらないんだぁぁ!」
堂上が「は?」律が「え、子供?」と驚く声が重なった。
ここでようやく堂上は、何が行き違っていたのかを理解した。
やたらと豪華な御馳走やケーキや、なぜかいつもよりエキセントリックな妻の理由を。
子供はできないものとあきらめていたところに、まさかの妊娠。
郁は堂上がそれを「今さら」と思ったと誤解したのだ。
本題である妊娠の話をまだしていないことさえ忘れるほど混乱したようだ。
「ごめん、郁。何でも1つ、言うことを聞くから!」
堂上は慌てて、そして必死に妻の御機嫌取りに躍起になった。
そうしながらも顔がニヤけるのが、止まらない。
郁が恐る恐る「子供ができたの喜んでくれる?」と聞くので「もちろんだ!」と即答する。
わかってみれば何のことはない、それどころかこの上なくおめでたい話なのだ。
「それじゃ、俺はこれで」
居たたまれなくなった律はそそくさとその場を離れていく。
この話は当然のように、堂上夫妻の伝説に加わった。
そして後日、律からお祝いの花束が届く。
そのときになってようやく、堂上はまともに礼を言っていないことに気付いた。
あの堂上がそこまで動顛するほどの衝撃だったのである。
*****
「それじゃ、俺はこれで」
居たたまれなくなった律は、そそくさと堂上家を出た。
そして思わず「何だよ、バカバカしい」と悪態をついてはみる。
だけどどこか微笑ましいと思ってしまうのは、あの夫婦のキャラクターなのだろう。
この日、律は1日社内会議に参加していた。
小野寺出版では、このところ社内会議が多い。
また書店関係者、さらに出版関係者が集まる会議も多かった。
理由は簡単、検閲撤廃だ。
検閲がなくなることで、出版業界も大きく変わる。
これを大きなビジネスチャンスと捕え、戦略を練るのは当然の流れだろう。
「本の価格を大きく下げましょう。最低でも今の10分の1以下に。」
律は事あるごとに、それを提言していた。
カードカバーの本なら1000円から2000円、文庫なら500円から1000円。
所得の低い人でも、学生の小遣いでも、気軽に本が買えるようにしたいのだ。
丸川書店の井坂もこれに賛同してくれており、印刷会社などでも概ね歓迎の雰囲気だ。
だが反対の意を唱えている書店も少なくない。
検閲に批判的な本を多く出していた世相社がその筆頭だ。
今まで検閲により多大な損害を被った書店は、ここで元を取りたいということなのだろう。
もちろんその気持ちは大いに理解できることなのだが。
「作家にとっては、死活問題なんですよ。」
「多くの作品が検閲対象になって、ほぼ無償で書き続けている作家もいるんです。」
「二代目のお坊ちゃまは、そういう事情を理解しているんですか?」
この日の会議でも持論を展開した律は、編集者たちに盛大に噛みつかれた。
彼らとしては、作家たちの思いを代弁しているつもりなのだろう。
郁は内心は腸が煮えくり返る思いだったが、笑顔で「理解しています」と答えた。
わかってないはずないじゃないか。
律だって長い間、編集者だったのだ。
本当は経営問題になんて関わらずに、編集に専念したい。
ましてやこれからは検閲を気にせずに本が作れるならなおさらだ。
だがその願いは封印して、今は誰もが自由に本が買えるようにするために頑張っている。
ったく、二代目のお坊ちゃまは関係ねーだろうが!
結局折り合いがつかずに、この日も会議が終わった。
律はブツブツと悪態をつきながら、会社を出る。
向かう先は自宅ではなく「カフェ・デビルバッツ」だ。
どうにも気分が晴れないし、あの店のスタッフたちの笑顔を肴に飲みたくなった。
だがその途中で泣きながら走っている女性を見つけたのだ。
しかも彼女は今、まさに向かおうとしている店のスタッフの堂上郁だ。
「郁さん?どうしたの?何かあったの?」
驚きながらも声をかけると、郁は足を止めて律を見た。
律は涙でグシャグシャの顔の郁に、慌ててハンカチを差し出す。
すると郁は「うわぁぁん。律さぁぁん!」と号泣し始めた。
大人がこんなに派手に泣くのを見たのは、後にも先にも初めてだ。
「とりあえず帰りましょう。送るから。堂上さんも心配してるんじゃない?」
律が慌ててそう言ったのは、郁が心配であるだけじゃない。
とにかく大の大人、しかも女性がここまで派手に泣いているのは人目を引くからだ。
しかもこのままでは律が泣かしたと誤解されそうだ。
だが郁は「帰りたくないです」とダダをこね始めた。
「篤さんは心配してないと思うし」
「いや、心配してるって。」
「帰っても話すことないし。」
「なら俺が話すよ。俺が無理矢理帰るように言ったって説明するし。」
「でも」
「大丈夫。何だかんだ言っても堂上さんは郁さんにベタ惚れなんだから」
「そう思います~!?」
「思う、思う!とにかく帰ろう!」
何とか宥めすかして、郁を堂上家まで連れていく。
だがドアは叩く前に開き、血相を変えた堂上が飛び出してきたのだ。
そして2人のやりとりから、郁の妊娠を知った。
さらにあの堂上がニヤケた顔で「何でも1つ言うことを聞く」などと言うのを聞いて、ドッと力が抜けた。
「それじゃ、俺はこれで」
居たたまれなくなった律は、そそくさとその場を離れた。
そして「カフェ・デビルバッツ」に駆け込むと、開口一番「何か強いお酒、下さい!」と叫ぶ。
まったくやってられない。
だけどどこか微笑ましいと思ってしまうのは、あの夫婦のキャラクターなのだろう。
「いらっしゃいませ。律さん。何かありました?」
セナがいつものおっとりとした笑顔で出迎えてくれる。
律は「堂上夫妻のラブラブっぷりに当てられた」と白状する。
すると今日は珍しく店内にいたヒル魔が、律を手招きした。
「今の話、全部喋ったら今夜は食べ放題、飲み放題だ!」
「でもプライバシーに関わる話だし、いいのかな。」
「いい。俺が許す!」
ヒル魔に訳がわからない断言をされた律は、今起こったばかりの出来事を語った。
こうして隠し事ができないのもまた堂上夫妻のキャラクターによるものなのだろう。
*****
「どうする?」
ヒル魔は静かにそう聞いた。
堂上は迷うこともなく「それでお願いします」と答えたのだった。
昨日はヒル魔にとって、久しぶりに盛大に笑った日だった。
出だしは微妙に暗かったはずだ。
このところ体調不良が続いていた郁が病院に行くことになったのだ。
郁本人は「ただの風邪だと思います」などと言っていた。
だが「カフェ・デビルバッツ」の面々は、何となく落ち着かない様子だった。
普段の郁が元気であるだけに、余計に心配だ。
だが診察の結果は、まさかの妊娠。
閉経して、もう子供は望めないという話だったのに。
よくよく聞いてみると、閉経後の妊娠はかなり確率が低いとはいえゼロではないらしい。
「カフェ・デビルバッツ」の面々は驚き、そして喜んだ。
何しろまさかまさかの奇跡が起こったのだから。
しかもその後、ちょっとした誤解から郁が家を飛び出した。
そしてたまたま通りかかった小野寺律が声をかけて、家まで送り届けたという。
その後「カフェ・デビルバッツ」にやって来た律は、盛大に飲んで食べた。
やってられるか!ゲロ甘夫婦!
からみ酒グチ派の律は、ヒル魔に思いっきりからんで帰って行った。
そしてその翌日の朝、開店前の「カフェ・デビルバッツ」。
開店準備中のホールで、ヒル魔と堂上は向かい合っていた。
堂上は出勤前であり、きっちりとスーツに身を包んでいる。
「朝っぱらから呼び出して悪かったな。何か食うか?」
「いえ。昨日たっぷり差し入れていただいて、今朝は残りを食ったんで。」
「ああ、さすがに廉も作り過ぎたとか言ってたな。」
「ええ。食い応えありましたよ。ケーキはまだ残ってます。」
そこへセナがコーヒーを持ってきて、会話は一時中断だ。
堂上には「カフェ・デビルバッツ」特製ブレンド、ヒル魔にはノンカフェインのもの。
そして「ごゆっくり」と微笑むと、開店準備の作業に戻った。
「で、これからのことだけどな。今ならまだ隠しておける。どうする?」
どうするとはもちろん、郁の妊娠のことだ。
今の時点で郁の妊娠を知っているのは、堂上夫婦を除けばごく一部の者たちだけだ。
ヒル魔とセナ、阿部と三橋、鈴音に黒子、水谷夫妻、そしてリコと律。
口止めをすれば喋らないであろう、信頼ができる者たちばかりである。
郁のことを考えれば、これ以上広めないのが最善と思える。
図書隊を辞めてなお、堂上夫妻は有名人だ。
未だに郁に嫌味を言いに来るヤツまでいる始末だ。
これで妊娠したなどと知れ渡れば、余計なトラブルに巻き込まれるかもしれない。
しかも郁の場合、万が一にも流産ということになればもう1度妊娠する可能性はほぼゼロだ。
「それでお願いします。」
堂上は迷うことなく、そう答えた。
ほぼ一瞬での即答に、ヒル魔は苦笑する。
郁を守るためには、それが最善と判断したのだろう。
「わかった。口止めはしておく。だが」
「わかってますよ。長くは持たないってことは。」
堂上は苦笑しながら、コーヒーを啜った。
いずれ腹が目立つようになれば、隠せなくなる。
そこまでにはいろいろとケリをつけておきたいところだ。
それにどこかのタイミングで図書隊にも知らせなけれなならないだろう。
「それじゃ、俺はそろそろ出勤しますんで。」
「ああ。どうでもいいけど敬語はいらねーぞ。俺の方が年下だ。」
「まさか。俺はあなたの作った会社で働いてるんですから。」
「律儀だな。」
「当然です。それに美味しいメシやコーヒーまで無償ですしね。」
堂上は図書隊仕込みの敬礼をすると、店を出て行く。
ヒル魔は苦笑しながら、その背中を見送った。
*****
「あたし、やれますけど!」
郁の鼻息は荒い。
だが黒子がいつも通りの無表情で「ダメです」と首を振った。
堂上がヒル魔とコーヒーを飲み、出勤していった後。
郁もまたコインランドリーに出勤していた。
黒子としては「休んでください」と言うしかない。
妊娠なんて、まったく知識がないのだ。
仕事が全然できないわけではないと思うが、とても行き届いたケアができる自信がない。
篠岡こと水谷夫人によると、妊娠4か月はつわりが少し楽になった頃だそうだ。
つまり体調不良は郁のつわりだったのだ。
個人差はあると思うが、篠岡はかなりきつかったと言っていた。
それを郁は「ただの風邪だと思うけど」などと評した。
郁は相当つらくても我慢できてしまうと考えるべきだろう。
だったらなおのこと、今働かせるのは怖すぎる。
「体調不良の原因もわかったし、もう大丈夫です。」
「大丈夫じゃありませんよ。それにバイトを頼みましたから手は足りています。」
「そんなぁ。あたし、やれますけど!」
「ダメです。」
頑として引かない郁の様子に、黒子はため息をついた。
そして「いいですか、郁さん」と声のトーンを落とした。
郁が仕事を休まないと言い張った場合も想定していた。
当然諭すべき言葉も準備してきている。
「妊娠4ヶ月まで気づかないのは少し遅いんですよ。」
「仕方ないじゃないですか。あたし子供ができないと思ってたんだから。」
「それを責めているんじゃありません。」
「じゃあ、何?」
「世間一般の赤ちゃんより、ケアする時期が遅れてるってことを言いたいんですよ。」
「え?あ、そうか」
「赤ちゃんのことを最優先に考えましょう。まだ少しつわりがあるんでしょう?」
「・・・はい。」
赤ちゃんのことを最優先。
これが黒子が郁を攻略するために考えていた殺し文句だ。
郁が肩を落としたのを見て、黒子は「大丈夫ですよ」と告げた。
「郁さんは大事な戦力ですから、元気で戻ってくれないと困るんです。」
「本当に?」
「本当ですよ。だから仕事復帰は体調を見て、無理のない形を考えましょう。」
「ありがとうございます!」
「くれぐれも無理は禁物です。・・・あ。いいところに」
ちょうどそのとき、1人の男が現れた。
黒子と良く似た雰囲気を持ったその人物に、郁は首を傾げる。
どこかで会った記憶はあるのだろうが、思い出せないようだ。
「郁さん、彼はボクの高校時代の先輩で」
「先輩じゃねーよ。同じ高校じゃねーだろ。」
「細かいところはいいじゃないですか。彼が郁さんの代わりにバイトに入ってくれる黛さんです。」
「バイト料、はずめよ。」
「何を言ってるんです。無償でもいいくらいです。どうせ小説のネタ拾いもするんでしょ。」
2人の会話を聞いた郁は「あ~!」と声を上げた。
黒子の先輩であり、現在は作家をしている黛千尋。
かつては「木島ジン」のペンネームで挑発的な小説を書いていた異色の作家だ。
黒子が編集者の小野寺律に引き合わせたことで、再ブレイクを果たした。
それ以来「カフェ・デビルバッツ」にも頻繁に来店している。
「とりあえず仕事の説明します。あ、郁さんはゆっくり休んでくださいね。」
黒子はさっさと郁を追い立てると、仕事を開始した。
郁は「はい」と頷くと、自分の部屋へと戻っていく。
その動作はやはりどこか緩慢であり、本調子でないことがわかった。
休ませるという黒子の判断は、正解だったのだ。
郁の妊娠、そして黒子とよく似た雰囲気の男の加入。
こうして「カフェ・デビルバッツ」はまたしても新しい風を迎えることになったのだった。
【続く】