アイシ×おお振り×セカコイ×黒バス×図書戦【お題:仄かに暗い15題-2】
【解釈】
「個展開催決定、おめでとう~!」
律が高らかに宣言すると、4人がグラスを掲げた。
そして主役である雪名が「ありがとうございます」と笑い、楽しい宴が始まった。
今宵も大繁盛の「カフェ・デビルバッツ」。
窓際の一番目立つテーブル席には、目立つ4人組が座っていた。
画家の雪名皇と木佐翔太、そして高野と律である。
「何、あのテーブル!」
「ビジュアル、凄すぎ~!」
「お近づきになれないかなぁ。」
居合わせていた女性客たちから、ため息まじりの声が響いた。
4人が4人とも、美貌の超イケメン。
しかも全員実年齢より若く見えることもあり、女性客たちの目はハートマークだ。
だがさすがにナンパに走る者はいない。
なぜなら彼らのビジュアルが完璧すぎて、近寄りがたいのだ。
この夜は、画家の雪名の個展の前祝いだった。
美大生の頃、大型書店の少女漫画コーナーでバイトをしていた雪名。
その縁でエメラルド編集部の面々とも親しくなった。
その最たるは木佐で、今は編集者も辞めて彼のマネージャーだ。
プライベートでは恋人として、一緒に暮らしている。
「ついに雪名君の個展か。」
「ますます有名になっちゃいますよね。俺、サイン貰っておこうかな。」
「小野寺出版の次期社長が、そんなこと言います?」
「だよねぇ。俺としては律っちゃんのサインを貰っておきたいくらいだよ。」
4人は美味しい酒と料理、そして会話を楽しんだ。
雪名が画家として有名になったのは、今から10年ほど前だ。
だが本人の顔や素性、そしてその作風すら世間にはあまり知られなかった。
なぜなら雪名の絵の何点かが検閲対象になったからだ。
雪名はよく木佐の絵を好んで描いた。
だがそのモデルが同性の恋人と知れると、メディア良化委員会が目を付けたのだ。
公序良俗に反するなどという、差別と偏見に満ちた解釈。
皮肉なことにそれで画家としての雪名の名前は有名になった。
だが雪名の画風のファンは確実にいた。
そういう一部のファンの間で、絵はそこそこ売れた。
個人所有の絵は検閲対象にならないが、無法な良化法賛同団体には関係ない。
だから絵を買った者たちは密やかに所有した。
かくして雪名は名前だけが有名で、作風はあまり知られていないという奇妙な作家になったのだ。
だが検閲撤廃を前にして、個展を開くことになった。
かつて絵を買ったオーナーたちに作品を借り受け、また新作も追加して。
賛同団体の襲撃も考えられるので、警備も依頼している。
人生初の個展を前にして、雪名も張り切っていた。
「雪名君、これ店から。個展開催のお祝いに。」
盛り上がるテーブルに、阿部がワゴンを押して現れた。
氷バケツに冷えたワイン、そしてワインに合うちょっとした料理が3種類ほど。
雪名は「そんな。ちゃんと払います」と慌てて手を振る。
すると阿部が「お祝いにお金なんか取らないよ」と笑った。
実は昔、2号店であるスイーツコーナーで雪名の絵を展示していた時期もある。
だが雪名が有名になり始めたころにやめてしまった。
ヒル魔は「賛同団体に狙われたら面倒だろ」と言ったが、それは嘘だ。
きちんと買い手を付ければそれなりに売れると思って、絵を返してくれたのだ。
「このお店にはお世話になりっぱなしだなぁ。」
「大丈夫。これからは画家の雪名皇の行きつけの店って宣伝するから。」
恐縮する雪名に、阿部は笑った。
そして雪名の個展開催祝いの宴は、楽しく過ぎていったのだった。
*****
「ふざけるなよ!?」
尖った声が聞こえて、郁は思わずそちらを見た。
だが黒子は郁に目配せをしながら首を振り、気にしなくていいと合図を送ってくれた。
コインランドリーの仕事は、思いのほか楽しい。
大型の洗濯機が並ぶ姿は、それだけで壮観だ。
それに珍しい業務用の洗濯機は、なかなかありがたい。
客が使っていないときなら自由にしていいと言われているので、重宝する。
布団など天日干しが一番と思っていたが、乾燥機を使えばふっくらと仕上がる。
新しい仕事で疲れて帰る夫のために、郁は頻繁に使わせてもらっていた。
「黒子君、定時チェックするね!」
「すみません。郁さん。お願いします。」
郁は黒子に声をかけると、バケツとトングを手に取った。
時間を決めて定期的に洗濯機の中を開けて回り、忘れ物がないかどうかの確認するのだ。
この作業は何となく、郁が担当するようになった。
洗濯機や乾燥機の中には、地味に取り忘れが多い。
その中でもスタッフを悩ませるのは、女性の下着だった。
ブラジャーやパンティーなど、男性スタッフでは扱いに困る。
そこで何となく郁がいるときには、郁がするようになったのだ。
素手で触るのもモノによって躊躇われる場合もあるので、トングを使う。
「うわ、このパターンもありかぁ。」
郁は乾燥機の1つを開けて、ハァァとため息をついた。
そしてトングでそれをつまみ出すと、バケツに放り込む。
それは男性用の下着だった。
ごくごく一般的なボクサーショーツで、堂上も同じブランドのものを持っている。
ったく、下着なんてどうしたら忘れるわけ?
郁は心の中で悪態をついた。
すると背後から「郁さん」と声がかかり、郁は「うわぁ!」と声を上げた。
黒子の影の薄さは健在であり、郁のみならずスタッフは度々驚かされる。
あの気配に敏感なヒル魔でさえ、たまに声を上げるというのだから筋金入りだ。
「忘れ物、ボクが預かります。」
男性用の下着であったのを見て、気を利かせてくれたようだ。
黒子が空のバケツと新しいトングを持ってきてくれたので、交換して残りの洗濯機を開けていく。
だが程なくして「ふざけるなよ!?」と尖った声が聞こえて、郁は思わず振り返る。
すると客らしい若い男が黒子に食ってかかるのが見えた。
止めに入った方がいいの?
郁は咄嗟に判断に迷った。
荒事処理なら、黒子より郁の方が場数を踏んでいると思う。
だが黒子は郁に目配せをしながら首を振り、気にしなくていいと合図を送ってくれた。
「人の洗濯物をゴミみたいに扱ってんじゃねーよ!」
「忘れ物をしやすい洗濯機に問題があるんじゃないかよ!」
「客を何だと思ってる!」
客は黒子に怒声を浴びせている。
どうやらあの忘れ物のボクサーショーツの持ち主らしい。
黒子はじっと黙ったまま、男が怒鳴るのを聞いていた。
どういう解釈をしたら、店側に否があると思えるんだろう?
郁は憤慨しながら、チラチラとそちらの様子をうかがった。
何度も割って入ろうと思ったが、その都度黒子が「来なくていい」と目配せする。
ヒヤヒヤしながら、郁は黒子とクレイマーと化した客を見ていたのだが。
不意に黒子が男の耳元に顔を寄せると、何事か囁いた。
すると見る見るうちに男の顔色が変わった。
そして忘れ物のボクサーショーツを掴むと、勢いよく店を飛び出していく。
あまりの変わり身に、郁はしばらくの間呆然と黒子を見ていた。
「いったい何を言ったんですか?」
我に返った郁は、慌てて黒子に駆け寄るとそう聞いた。
だが黒子は「解釈の違いを説明してあげただけですよ」と苦笑しただけだった。
*****
「わざわざご足労いただいて、申し訳ありません。」
黒子は相変わらず感情のない声で、そう言った
相手の男は仏頂面で「いえ、とんでもない」と頭を下げた。
「カフェ・デビルバッツ」の2号店は、基本は夜8時で閉店する。
その後はその日に作り、残ったケーキ類のテイクアウトのみの営業だ。
このタイミングで妻である篠岡は上がり、水谷は翌日の仕込みにかかる。
その客がいないはずの店内に、この日は2人の男が向かい合っていた。
1人は黒子、そしてもう1人は堂上や郁の同僚であった手塚だ。
堂上や郁とは違い、手塚は未だに図書特殊部隊で頑張っている。
つい先日一正に昇任し、同期どころか同年代の出世頭の地位も健在だ。
「これ、見ていただけますか?」
黒子はスマートフォンを取り出すと、動画を再生させて手塚に手渡す。
手塚はそれを見るなり「こいつ!」と悪態をついた。
そして動画を全て見終わると、らしからぬ舌打ちをしたのだった
それは先日のコインランドリーでの忘れ物の顛末だった。
男がコインランドリーで洗濯をした後、わざと下着を残した場面。
そして店の外で店内をうかがっている場面。
最後に黒子に延々と文句をいう場面の動画だ。
基本的にセルフサービスのコインランドリーには防犯カメラがたくさんある。
黒子はそこから男が映っているものを抜粋したのだ。
「おそらく郁さんへの嫌がらせだと思うんですが」
黒子は淡々とそう告げた。
動画から察するに、男は自分の下着を郁に触らせようとしていたとしか思えない。
だが郁は素手で触らなかったし、黒子がすぐに回収した。
だから目論見が外れ、腹いせとばかりに黒子に怒鳴りつけたのだ。
「この男、昔から笠原にいろいろ嫌がらせしていて」
「やっぱり。図書隊員ですね。」
黒子はウンザリとため息をついた。
郁はわからなかったようだが、黒子は男の顔に見覚えがあった。
武蔵野第一図書館で、見かけたことがあると思ったのだ。
だから手塚と連絡を取った。
正確には彼の妻に連絡したのだが、柴崎こと手塚夫人は現在妊娠中なので夫が来たのだ。
「嫌がらせって。特殊部隊隊員だった郁さんに嫉妬とかですか?」
「いや。その。惚れてたみたいで。」
「好きだったってことですか?それで嫌がらせ?」
「どうしてって聞かないでください。俺も理解不能なんで。」
黒子はまたしてもため息をつく。
郁は男を誰だかわからなかった。
つまり嫌がらせをしていたにも関わらず、郁の視界にすら入れていなかったのだ。
それがどうして今になって、ここまで来て嫌がらせをする必要があるのか。
「それがその。堂上夫妻は除隊したもののうまくいってないって隊内で噂になっていて。」
「あのバカップル全開の堂上夫妻がですか?」
「とにかく目立つ2人なんで、未だに横恋慕する隊員が後を絶たないんです。」
「そんな根も葉もない噂を信じるなんて、どれだけ都合の良い解釈をするんだか。」
黒子は3度目のため息をつくと、テーブルの上にコトンと小さな物体を置いた。
USBメモリだ。
そして「これにこの動画、入ってますから」と告げる。
あのとき男には「図書隊員の方ですよね?」と言っておいた。
こちらは男の素性を知っていると釘を刺したのだ。
だがやはり念には念を入れておいて、潰しておいた方がいい。
手塚は「ありがとうございます」と頭を下げると、USBメモリをポケットに入れた。
「あ、手塚さん。よかったらこれ奥様に」
2人の話が終わったと思えるタイミングで、白い箱を持った水谷が現れた。
そして「アルコールも使ってないし、甘さもかなり控えめですよ」と笑う。
どうやら妊婦でも大丈夫なケーキのようだ。
「まったく行き届いてますね。この店。」
手塚は苦笑すると、水谷にも「ありがとうございます」と頭を下げた。
堂上夫妻に関して酷い噂はあるようだが、わかる人はちゃんとわかっている。
手塚夫妻やかつての同僚たちは、彼らのために動いてくれるだろう。
そして程なくして、件の男性は関東の端の僻地に異動になった。
黒子はそれを手塚から聞き、ヒル魔にだけ報告した。
つまり堂上夫妻は何も知ることなく、この小さな事件は終わったのだった。
*****
「どうしてこんな大雑把なメニューなんですか?」
その客は笑うでも怒るでもなく、聞いてきた。
三橋は首を傾げると「それしか、できなくて」と答えた。
今宵も「カフェ・デビルバッツ」は程よく繁盛していた。
客席は8割ほど埋まっている。
これくらいの混み方がちょうどいい。
美味しい料理と酒、楽しい雰囲気と行き届いたサービス。
気軽に立ち寄れるし、客を待たせることもない。
並ばせるなんて以ての外だし、客に気を使わせるのは論外だ。
そんな中、食事を終えた客の1人が「すみません」と声をかけてきた。
セナがすかさず「はい。何か御用でしょうか?」と応じる。
おそらく年齢はセナと同じ30代後半くらい。
男女の2人組で、声をかけて来たのは男の方だ。
「シェフを呼んでいただけますか?」
男はそう言ってきた。
セナは一瞬言葉に詰まったが、慌てて「かしこまりました」と頭を下げた。
詰まった理由は単純明快、驚いたからだ。
この店は決して高級店ではない。
もちろん料金はファミレスなどに比べれば高いが、学生だって手が出せる価格帯だ。
それにキッチン担当をシェフなんて呼ぶほど気取った店でもない。
「な、何か、ご、御用、でしょうか?」
呼ばれた三橋はホールに出ると、件の客の前に立った。
すると客は値踏みするように三橋を見ると、かすかに眉を寄せた。
どうやらイメージと違ったらしい。
だが気を取り直したようにメニューを開くと「ご説明いただきたいんですが」と切り出した。
「どうしてこんな大雑把なメニューなんですか?」
客はメニューのあちこちを指さしながら、そう聞いてきた。
確かに「カフェ・デビルバッツ」のメニューは大雑把だ。
本日のオススメとか、季節の盛り合わせとか、パッと見てわからないものが多い。
メニューの半分以上はそういうもので占められており、初心者にはわかりにくいかもしれない。
だが三橋は首を傾げると「それしか、できなくて」と答えた。
肉や野菜、魚など、材料はすべてその時その時で安くて質の良いものを仕入れる。
だから必然的にメニューは日替わりになってしまうのだ。
そしてそれこそ「カフェ・デビルバッツ」の「安くて美味くて量がある」の秘密だ。
もしもメニューを固定してしまったら、この値段でこのレベルは保てなくなる。
「値段は少し高くても、メニューをわかりやすくした方がいいと思いますよ」
「そ、ですか?」
「ええ。その方が宣言しやすいですし、初めての客は来やすくなります。」
「・・・美味しさの方を、優先したい、ですので。」
何やら忠告らしいことをしてきた客に、三橋は「すみません」と頭を下げた。
どういうつもりなのかは知らないが、三橋には三橋なりのやり方がある。
ポリシーはたった1つ「美味いものを安く」だ。
「なるほど。それがこのシェフの解釈ですか。」
「はぁ。」
三橋は曖昧に頷きながら、内心「解釈?」と首を傾げていた。
そんな大それた思想もないし、そもそもシェフなんて呼ばれるような身分でもない。
話が聞こえていたであろうセナと阿部も、顔を見合わせている。
「まだ、仕事が、あります、ので」
三橋は頭を下げると、キッチンに戻った。
どうやらこの客の意には反してしまったようだし、もう来ないかもしれない。
三橋はそんなことを考えたが、それは外れていた。
男はまた来店し三橋を悩ませることになるのだが、この時はまだ知る由もなかった。
*****
「何か、ありました?」
黒子は何事もなかったように、聞いてくる。
セナは「ええと」と口ごもり、阿部も困ったように目を伏せた。
「カフェ・デビルバッツ」1号店、つまりメインダイニングの2階はスタッフ用のスペースだ。
住み込みスタッフの居室と、通いのスタッフの着替えや休憩スペースになっている。
ちなみに現在、ここで暮らす住み込みスタッフは5名。
部屋はヒル魔とセナで1部屋、阿部と三橋で1部屋。
そして黒子とその恋人である火神が1部屋を使っている。
ちなみに防音対策はしっかりしている。
階下の店の喧騒などは、ドアを閉めて施錠すればまったく聞こえなくなるほどだ。
各部屋での恋人同士の会話なども、外には漏れない。
だから部屋の中でイチャイチャしようが、何をしようが勝手だ。
恋人同士のことには、、敢えて踏み込まない。
それがここで暮らすための暗黙のルールだったりする。
だが最近、その平穏が破られつつあった。
原因は一番最後にここの住民になった黒子と火神だ。
元々黒子がここで働き始めたのは、2人のちょっとしたケンカが原因だった。
それが復縁を果たし、ここで再び同棲を始めた。
おそらくその結果なのだろう。
一度別れて再び結ばれた2人は、完全防音の部屋で人知れずラブラブだったのだ。
黒子は24時間営業の3号店を仕切っている。
だから阿部やセナたちとしょっちゅう顔は合わせるが、意外と生活サイクルは合わない。
それでも何となく感じてはいた。
黒子と火神のプライベートタイムは、かなり濃密であることを。
だが黒子がたまたまセナや阿部たちと同じ時間に起床した時、それが当たっていることを思い知った。
「おはようございます。」
部屋から出てきた黒子は、廊下にいたセナと阿部に頭を下げた。
寝起きの黒子は、なかなか凄まじい。
髪質が柔らかいせいで、寝ぐせが凄いのだ。
だがセナと阿部が息を飲んだのは、そんな理由ではなかった。
朝だというのに妙に疲れた様子の黒子は、妙に艶めいていた。
いつも通りの無表情なのに、どこか色っぽい。
心なしか前日より肌もツヤツヤしているように見える。
極めつけは「おはようございます」と告げた声が、掠れていた。
「ふわぁぁ。おはようっす。」
黒子の後に部屋から出てきた火神によって、セナと阿部の疑念は確信に変わった。
火神は爽快な表情で、上機嫌だったのだ。
その火神を黒子が睨んでいるのを見れば、もうため息しか出ない。
「いいなぁ。」
ちょうど部屋から出てきた三橋が思わず呟くのを聞いて、阿部は目を剥いた。
阿部と三橋の関係は、恋人同士と言うよりは熟年夫婦のような感じになっている。
身体の関係がないではないが、そんなに頻繁ではないし、時間も短くなっていると思う。
しかもそこでセナが「だよね」と頷いたのを見て、阿部は脱力した。
何だかひどく責められているような感じがするのは、気のせいか?
だが残念ながらこの解釈は、間違っていないような気がする!
「セナさん、ヒル魔さんは?」
阿部は我に返ると、慌ててセナにそう聞いた。
これは毎朝のルーティーンだった。
病を抱えるヒル魔は体調に波があるので、それに合わせて食事を用意するのだ。
「今朝はダメみたい。寝てるから朝は食べられないよ。」
セナはそう答えて、先に階下に降りていく。
阿部は「了解です」と答えながら、セナの後ろ姿を目で追う。
そしてその背中に悲しみが見えたような気がして、表情を曇らせた。
恋人同士の身体の関係。
セナとヒル魔はもう長いこと持っていないだろう。
昔、阿部と三橋に男同士の関係の持ち方を教えてくれたのは、ヒル魔だった。
つまりヒル魔とセナにも濃密に愛し合っていた時期があったはずだ。
だけどもう彼らにはきっとそういう時間は訪れない。
今のヒル魔の体力では、おそらく無理だ。
その時がきたら、どうなるんだろう。
阿部はそう遠からぬ未来、ヒル魔がここを去る日のことを思う。
だがすぐに首をブンブンと振って、考えることを放棄した。
全力でセナを支える。
それ以外にやるべきことなど、少なくても今は思いつけないからだ。
【続く】
「個展開催決定、おめでとう~!」
律が高らかに宣言すると、4人がグラスを掲げた。
そして主役である雪名が「ありがとうございます」と笑い、楽しい宴が始まった。
今宵も大繁盛の「カフェ・デビルバッツ」。
窓際の一番目立つテーブル席には、目立つ4人組が座っていた。
画家の雪名皇と木佐翔太、そして高野と律である。
「何、あのテーブル!」
「ビジュアル、凄すぎ~!」
「お近づきになれないかなぁ。」
居合わせていた女性客たちから、ため息まじりの声が響いた。
4人が4人とも、美貌の超イケメン。
しかも全員実年齢より若く見えることもあり、女性客たちの目はハートマークだ。
だがさすがにナンパに走る者はいない。
なぜなら彼らのビジュアルが完璧すぎて、近寄りがたいのだ。
この夜は、画家の雪名の個展の前祝いだった。
美大生の頃、大型書店の少女漫画コーナーでバイトをしていた雪名。
その縁でエメラルド編集部の面々とも親しくなった。
その最たるは木佐で、今は編集者も辞めて彼のマネージャーだ。
プライベートでは恋人として、一緒に暮らしている。
「ついに雪名君の個展か。」
「ますます有名になっちゃいますよね。俺、サイン貰っておこうかな。」
「小野寺出版の次期社長が、そんなこと言います?」
「だよねぇ。俺としては律っちゃんのサインを貰っておきたいくらいだよ。」
4人は美味しい酒と料理、そして会話を楽しんだ。
雪名が画家として有名になったのは、今から10年ほど前だ。
だが本人の顔や素性、そしてその作風すら世間にはあまり知られなかった。
なぜなら雪名の絵の何点かが検閲対象になったからだ。
雪名はよく木佐の絵を好んで描いた。
だがそのモデルが同性の恋人と知れると、メディア良化委員会が目を付けたのだ。
公序良俗に反するなどという、差別と偏見に満ちた解釈。
皮肉なことにそれで画家としての雪名の名前は有名になった。
だが雪名の画風のファンは確実にいた。
そういう一部のファンの間で、絵はそこそこ売れた。
個人所有の絵は検閲対象にならないが、無法な良化法賛同団体には関係ない。
だから絵を買った者たちは密やかに所有した。
かくして雪名は名前だけが有名で、作風はあまり知られていないという奇妙な作家になったのだ。
だが検閲撤廃を前にして、個展を開くことになった。
かつて絵を買ったオーナーたちに作品を借り受け、また新作も追加して。
賛同団体の襲撃も考えられるので、警備も依頼している。
人生初の個展を前にして、雪名も張り切っていた。
「雪名君、これ店から。個展開催のお祝いに。」
盛り上がるテーブルに、阿部がワゴンを押して現れた。
氷バケツに冷えたワイン、そしてワインに合うちょっとした料理が3種類ほど。
雪名は「そんな。ちゃんと払います」と慌てて手を振る。
すると阿部が「お祝いにお金なんか取らないよ」と笑った。
実は昔、2号店であるスイーツコーナーで雪名の絵を展示していた時期もある。
だが雪名が有名になり始めたころにやめてしまった。
ヒル魔は「賛同団体に狙われたら面倒だろ」と言ったが、それは嘘だ。
きちんと買い手を付ければそれなりに売れると思って、絵を返してくれたのだ。
「このお店にはお世話になりっぱなしだなぁ。」
「大丈夫。これからは画家の雪名皇の行きつけの店って宣伝するから。」
恐縮する雪名に、阿部は笑った。
そして雪名の個展開催祝いの宴は、楽しく過ぎていったのだった。
*****
「ふざけるなよ!?」
尖った声が聞こえて、郁は思わずそちらを見た。
だが黒子は郁に目配せをしながら首を振り、気にしなくていいと合図を送ってくれた。
コインランドリーの仕事は、思いのほか楽しい。
大型の洗濯機が並ぶ姿は、それだけで壮観だ。
それに珍しい業務用の洗濯機は、なかなかありがたい。
客が使っていないときなら自由にしていいと言われているので、重宝する。
布団など天日干しが一番と思っていたが、乾燥機を使えばふっくらと仕上がる。
新しい仕事で疲れて帰る夫のために、郁は頻繁に使わせてもらっていた。
「黒子君、定時チェックするね!」
「すみません。郁さん。お願いします。」
郁は黒子に声をかけると、バケツとトングを手に取った。
時間を決めて定期的に洗濯機の中を開けて回り、忘れ物がないかどうかの確認するのだ。
この作業は何となく、郁が担当するようになった。
洗濯機や乾燥機の中には、地味に取り忘れが多い。
その中でもスタッフを悩ませるのは、女性の下着だった。
ブラジャーやパンティーなど、男性スタッフでは扱いに困る。
そこで何となく郁がいるときには、郁がするようになったのだ。
素手で触るのもモノによって躊躇われる場合もあるので、トングを使う。
「うわ、このパターンもありかぁ。」
郁は乾燥機の1つを開けて、ハァァとため息をついた。
そしてトングでそれをつまみ出すと、バケツに放り込む。
それは男性用の下着だった。
ごくごく一般的なボクサーショーツで、堂上も同じブランドのものを持っている。
ったく、下着なんてどうしたら忘れるわけ?
郁は心の中で悪態をついた。
すると背後から「郁さん」と声がかかり、郁は「うわぁ!」と声を上げた。
黒子の影の薄さは健在であり、郁のみならずスタッフは度々驚かされる。
あの気配に敏感なヒル魔でさえ、たまに声を上げるというのだから筋金入りだ。
「忘れ物、ボクが預かります。」
男性用の下着であったのを見て、気を利かせてくれたようだ。
黒子が空のバケツと新しいトングを持ってきてくれたので、交換して残りの洗濯機を開けていく。
だが程なくして「ふざけるなよ!?」と尖った声が聞こえて、郁は思わず振り返る。
すると客らしい若い男が黒子に食ってかかるのが見えた。
止めに入った方がいいの?
郁は咄嗟に判断に迷った。
荒事処理なら、黒子より郁の方が場数を踏んでいると思う。
だが黒子は郁に目配せをしながら首を振り、気にしなくていいと合図を送ってくれた。
「人の洗濯物をゴミみたいに扱ってんじゃねーよ!」
「忘れ物をしやすい洗濯機に問題があるんじゃないかよ!」
「客を何だと思ってる!」
客は黒子に怒声を浴びせている。
どうやらあの忘れ物のボクサーショーツの持ち主らしい。
黒子はじっと黙ったまま、男が怒鳴るのを聞いていた。
どういう解釈をしたら、店側に否があると思えるんだろう?
郁は憤慨しながら、チラチラとそちらの様子をうかがった。
何度も割って入ろうと思ったが、その都度黒子が「来なくていい」と目配せする。
ヒヤヒヤしながら、郁は黒子とクレイマーと化した客を見ていたのだが。
不意に黒子が男の耳元に顔を寄せると、何事か囁いた。
すると見る見るうちに男の顔色が変わった。
そして忘れ物のボクサーショーツを掴むと、勢いよく店を飛び出していく。
あまりの変わり身に、郁はしばらくの間呆然と黒子を見ていた。
「いったい何を言ったんですか?」
我に返った郁は、慌てて黒子に駆け寄るとそう聞いた。
だが黒子は「解釈の違いを説明してあげただけですよ」と苦笑しただけだった。
*****
「わざわざご足労いただいて、申し訳ありません。」
黒子は相変わらず感情のない声で、そう言った
相手の男は仏頂面で「いえ、とんでもない」と頭を下げた。
「カフェ・デビルバッツ」の2号店は、基本は夜8時で閉店する。
その後はその日に作り、残ったケーキ類のテイクアウトのみの営業だ。
このタイミングで妻である篠岡は上がり、水谷は翌日の仕込みにかかる。
その客がいないはずの店内に、この日は2人の男が向かい合っていた。
1人は黒子、そしてもう1人は堂上や郁の同僚であった手塚だ。
堂上や郁とは違い、手塚は未だに図書特殊部隊で頑張っている。
つい先日一正に昇任し、同期どころか同年代の出世頭の地位も健在だ。
「これ、見ていただけますか?」
黒子はスマートフォンを取り出すと、動画を再生させて手塚に手渡す。
手塚はそれを見るなり「こいつ!」と悪態をついた。
そして動画を全て見終わると、らしからぬ舌打ちをしたのだった
それは先日のコインランドリーでの忘れ物の顛末だった。
男がコインランドリーで洗濯をした後、わざと下着を残した場面。
そして店の外で店内をうかがっている場面。
最後に黒子に延々と文句をいう場面の動画だ。
基本的にセルフサービスのコインランドリーには防犯カメラがたくさんある。
黒子はそこから男が映っているものを抜粋したのだ。
「おそらく郁さんへの嫌がらせだと思うんですが」
黒子は淡々とそう告げた。
動画から察するに、男は自分の下着を郁に触らせようとしていたとしか思えない。
だが郁は素手で触らなかったし、黒子がすぐに回収した。
だから目論見が外れ、腹いせとばかりに黒子に怒鳴りつけたのだ。
「この男、昔から笠原にいろいろ嫌がらせしていて」
「やっぱり。図書隊員ですね。」
黒子はウンザリとため息をついた。
郁はわからなかったようだが、黒子は男の顔に見覚えがあった。
武蔵野第一図書館で、見かけたことがあると思ったのだ。
だから手塚と連絡を取った。
正確には彼の妻に連絡したのだが、柴崎こと手塚夫人は現在妊娠中なので夫が来たのだ。
「嫌がらせって。特殊部隊隊員だった郁さんに嫉妬とかですか?」
「いや。その。惚れてたみたいで。」
「好きだったってことですか?それで嫌がらせ?」
「どうしてって聞かないでください。俺も理解不能なんで。」
黒子はまたしてもため息をつく。
郁は男を誰だかわからなかった。
つまり嫌がらせをしていたにも関わらず、郁の視界にすら入れていなかったのだ。
それがどうして今になって、ここまで来て嫌がらせをする必要があるのか。
「それがその。堂上夫妻は除隊したもののうまくいってないって隊内で噂になっていて。」
「あのバカップル全開の堂上夫妻がですか?」
「とにかく目立つ2人なんで、未だに横恋慕する隊員が後を絶たないんです。」
「そんな根も葉もない噂を信じるなんて、どれだけ都合の良い解釈をするんだか。」
黒子は3度目のため息をつくと、テーブルの上にコトンと小さな物体を置いた。
USBメモリだ。
そして「これにこの動画、入ってますから」と告げる。
あのとき男には「図書隊員の方ですよね?」と言っておいた。
こちらは男の素性を知っていると釘を刺したのだ。
だがやはり念には念を入れておいて、潰しておいた方がいい。
手塚は「ありがとうございます」と頭を下げると、USBメモリをポケットに入れた。
「あ、手塚さん。よかったらこれ奥様に」
2人の話が終わったと思えるタイミングで、白い箱を持った水谷が現れた。
そして「アルコールも使ってないし、甘さもかなり控えめですよ」と笑う。
どうやら妊婦でも大丈夫なケーキのようだ。
「まったく行き届いてますね。この店。」
手塚は苦笑すると、水谷にも「ありがとうございます」と頭を下げた。
堂上夫妻に関して酷い噂はあるようだが、わかる人はちゃんとわかっている。
手塚夫妻やかつての同僚たちは、彼らのために動いてくれるだろう。
そして程なくして、件の男性は関東の端の僻地に異動になった。
黒子はそれを手塚から聞き、ヒル魔にだけ報告した。
つまり堂上夫妻は何も知ることなく、この小さな事件は終わったのだった。
*****
「どうしてこんな大雑把なメニューなんですか?」
その客は笑うでも怒るでもなく、聞いてきた。
三橋は首を傾げると「それしか、できなくて」と答えた。
今宵も「カフェ・デビルバッツ」は程よく繁盛していた。
客席は8割ほど埋まっている。
これくらいの混み方がちょうどいい。
美味しい料理と酒、楽しい雰囲気と行き届いたサービス。
気軽に立ち寄れるし、客を待たせることもない。
並ばせるなんて以ての外だし、客に気を使わせるのは論外だ。
そんな中、食事を終えた客の1人が「すみません」と声をかけてきた。
セナがすかさず「はい。何か御用でしょうか?」と応じる。
おそらく年齢はセナと同じ30代後半くらい。
男女の2人組で、声をかけて来たのは男の方だ。
「シェフを呼んでいただけますか?」
男はそう言ってきた。
セナは一瞬言葉に詰まったが、慌てて「かしこまりました」と頭を下げた。
詰まった理由は単純明快、驚いたからだ。
この店は決して高級店ではない。
もちろん料金はファミレスなどに比べれば高いが、学生だって手が出せる価格帯だ。
それにキッチン担当をシェフなんて呼ぶほど気取った店でもない。
「な、何か、ご、御用、でしょうか?」
呼ばれた三橋はホールに出ると、件の客の前に立った。
すると客は値踏みするように三橋を見ると、かすかに眉を寄せた。
どうやらイメージと違ったらしい。
だが気を取り直したようにメニューを開くと「ご説明いただきたいんですが」と切り出した。
「どうしてこんな大雑把なメニューなんですか?」
客はメニューのあちこちを指さしながら、そう聞いてきた。
確かに「カフェ・デビルバッツ」のメニューは大雑把だ。
本日のオススメとか、季節の盛り合わせとか、パッと見てわからないものが多い。
メニューの半分以上はそういうもので占められており、初心者にはわかりにくいかもしれない。
だが三橋は首を傾げると「それしか、できなくて」と答えた。
肉や野菜、魚など、材料はすべてその時その時で安くて質の良いものを仕入れる。
だから必然的にメニューは日替わりになってしまうのだ。
そしてそれこそ「カフェ・デビルバッツ」の「安くて美味くて量がある」の秘密だ。
もしもメニューを固定してしまったら、この値段でこのレベルは保てなくなる。
「値段は少し高くても、メニューをわかりやすくした方がいいと思いますよ」
「そ、ですか?」
「ええ。その方が宣言しやすいですし、初めての客は来やすくなります。」
「・・・美味しさの方を、優先したい、ですので。」
何やら忠告らしいことをしてきた客に、三橋は「すみません」と頭を下げた。
どういうつもりなのかは知らないが、三橋には三橋なりのやり方がある。
ポリシーはたった1つ「美味いものを安く」だ。
「なるほど。それがこのシェフの解釈ですか。」
「はぁ。」
三橋は曖昧に頷きながら、内心「解釈?」と首を傾げていた。
そんな大それた思想もないし、そもそもシェフなんて呼ばれるような身分でもない。
話が聞こえていたであろうセナと阿部も、顔を見合わせている。
「まだ、仕事が、あります、ので」
三橋は頭を下げると、キッチンに戻った。
どうやらこの客の意には反してしまったようだし、もう来ないかもしれない。
三橋はそんなことを考えたが、それは外れていた。
男はまた来店し三橋を悩ませることになるのだが、この時はまだ知る由もなかった。
*****
「何か、ありました?」
黒子は何事もなかったように、聞いてくる。
セナは「ええと」と口ごもり、阿部も困ったように目を伏せた。
「カフェ・デビルバッツ」1号店、つまりメインダイニングの2階はスタッフ用のスペースだ。
住み込みスタッフの居室と、通いのスタッフの着替えや休憩スペースになっている。
ちなみに現在、ここで暮らす住み込みスタッフは5名。
部屋はヒル魔とセナで1部屋、阿部と三橋で1部屋。
そして黒子とその恋人である火神が1部屋を使っている。
ちなみに防音対策はしっかりしている。
階下の店の喧騒などは、ドアを閉めて施錠すればまったく聞こえなくなるほどだ。
各部屋での恋人同士の会話なども、外には漏れない。
だから部屋の中でイチャイチャしようが、何をしようが勝手だ。
恋人同士のことには、、敢えて踏み込まない。
それがここで暮らすための暗黙のルールだったりする。
だが最近、その平穏が破られつつあった。
原因は一番最後にここの住民になった黒子と火神だ。
元々黒子がここで働き始めたのは、2人のちょっとしたケンカが原因だった。
それが復縁を果たし、ここで再び同棲を始めた。
おそらくその結果なのだろう。
一度別れて再び結ばれた2人は、完全防音の部屋で人知れずラブラブだったのだ。
黒子は24時間営業の3号店を仕切っている。
だから阿部やセナたちとしょっちゅう顔は合わせるが、意外と生活サイクルは合わない。
それでも何となく感じてはいた。
黒子と火神のプライベートタイムは、かなり濃密であることを。
だが黒子がたまたまセナや阿部たちと同じ時間に起床した時、それが当たっていることを思い知った。
「おはようございます。」
部屋から出てきた黒子は、廊下にいたセナと阿部に頭を下げた。
寝起きの黒子は、なかなか凄まじい。
髪質が柔らかいせいで、寝ぐせが凄いのだ。
だがセナと阿部が息を飲んだのは、そんな理由ではなかった。
朝だというのに妙に疲れた様子の黒子は、妙に艶めいていた。
いつも通りの無表情なのに、どこか色っぽい。
心なしか前日より肌もツヤツヤしているように見える。
極めつけは「おはようございます」と告げた声が、掠れていた。
「ふわぁぁ。おはようっす。」
黒子の後に部屋から出てきた火神によって、セナと阿部の疑念は確信に変わった。
火神は爽快な表情で、上機嫌だったのだ。
その火神を黒子が睨んでいるのを見れば、もうため息しか出ない。
「いいなぁ。」
ちょうど部屋から出てきた三橋が思わず呟くのを聞いて、阿部は目を剥いた。
阿部と三橋の関係は、恋人同士と言うよりは熟年夫婦のような感じになっている。
身体の関係がないではないが、そんなに頻繁ではないし、時間も短くなっていると思う。
しかもそこでセナが「だよね」と頷いたのを見て、阿部は脱力した。
何だかひどく責められているような感じがするのは、気のせいか?
だが残念ながらこの解釈は、間違っていないような気がする!
「セナさん、ヒル魔さんは?」
阿部は我に返ると、慌ててセナにそう聞いた。
これは毎朝のルーティーンだった。
病を抱えるヒル魔は体調に波があるので、それに合わせて食事を用意するのだ。
「今朝はダメみたい。寝てるから朝は食べられないよ。」
セナはそう答えて、先に階下に降りていく。
阿部は「了解です」と答えながら、セナの後ろ姿を目で追う。
そしてその背中に悲しみが見えたような気がして、表情を曇らせた。
恋人同士の身体の関係。
セナとヒル魔はもう長いこと持っていないだろう。
昔、阿部と三橋に男同士の関係の持ち方を教えてくれたのは、ヒル魔だった。
つまりヒル魔とセナにも濃密に愛し合っていた時期があったはずだ。
だけどもう彼らにはきっとそういう時間は訪れない。
今のヒル魔の体力では、おそらく無理だ。
その時がきたら、どうなるんだろう。
阿部はそう遠からぬ未来、ヒル魔がここを去る日のことを思う。
だがすぐに首をブンブンと振って、考えることを放棄した。
全力でセナを支える。
それ以外にやるべきことなど、少なくても今は思いつけないからだ。
【続く】