アイシ×おお振り×セカコイ×黒バス×図書戦【お題:仄かに暗い15題-2】

【犠牲】

「笠原っ!」
男は憤怒の形相で、郁に詰め寄って来た。
だが当の郁はのんびりと「旧姓で呼ばれるの、久しぶり」などと考えていた。

郁は新しい職場を満喫していた。
カジノ風の風変わりなコインランドリーでは、かなり自由にさせてくれる。
子供たちに本の読み聞かせをしたり、話好きな客がいれば相手をする。
時折呼ばれるカフェの仕事も、楽しい。
美味しいごはんも従業員は無料だし、頼めば三橋がレシピを教えてくれる。
おかげで料理の腕も上達したし、言うことなしだ。

そんなある日のことだった。
コインランドリーの待合スペースの掃除をしていた郁は旧姓で呼ばれた。
郁の目の前で憤怒の形相で立つのは、図書隊員の防衛員の男性だ。
確か郁よりは2年か3年上で、何度か喋ったことはあると思う。
だが名前は思い出せない。

「いらっしゃいませ。」
郁は接客用の笑顔を作りながら、内心ため息をついた。
図書隊を辞める時に、何人かの隊員から非難の言葉を浴びせられたのだ。

堂上夫妻が除隊するのはもっと給料が良い職場にしようと、郁が堂上を唆したから。
そのために堂上は敵だった元良化隊員と仕事をしなければならない。
つまり堂上は郁の我儘の犠牲になったのだ。

図書隊内にはそういう悪意の噂が出回ったのだ。
そのために堂上はあちこちから呼び出しを受け、思いとどまるように言われた。
郁は郁で名前も知らない隊員に堂上と別れろ、解放しろと詰め寄られたのだ。

でもまさかここまで押しかけて来て、文句を言われるとは。
郁は内心、ウンザリだ。しかも相手は男。
これは堂上に憧れていて、嫁である郁が許せないパターンか。

ふと見ると、黒子が気配もなく待合スペースの入口に立っていた。
器用に男の死角に立ち、郁と視線を合わせる。
自分が助けた方がいいのかと聞いているのだろう。
郁はかすかに首を横に振ると、男と相対した。
この程度のことで、わざわざ黒子の手を煩わせることもない。

「ええと。何か御用でしょうか?」
郁は呼び止めたものの何も言わない男に声をかけた。
男はブルブルと震えている。
感情が高ぶって、声も出ないらしい。

「あの」
「笠原っ!俺と付き合ってくれ!」
「・・・は?付き合ってって、どこへ?」

安定のボケに、黒子が「ブハ!」と吹き出した。
郁はキョトンとした顔で、首を傾げている。
堂上と郁が結婚して10年近く、しかも図書隊も辞めている。
まさか今になって自分が恋愛の対象になるとは、郁には考え付きもしないのだ。

「大きなお世話とは思いますが、脈はないのは明白ですよ。」
噛み合わない2人の会話に、ついに黒子が口を挟んだ。
そして名もないモブ男の恋心は、何とも間抜けな形でピリオドが打たれたのであった。

*****

「なんなのよ、あいつ~!」
郁は声をあげながら、目の前に座るヒル魔を見据えた。
ヒル魔は「まぁ落ち着け」と宥めながら、こっそりとため息をついていた。

ヒル魔はコインランドリーの2階、カジノスペースにいた。
つい先程まで郁に見当違いな告白をした図書隊員がいたが、肩を落として帰ったばかりだ。
ヒル魔はその場にいなかったが、事の顛末はリアルタイムで見ていた。
コインランドリー内はいくつものWebカメラが設置されているからだ。
ネット回線を通じて、店内はいつでもリアルタイムで監視できる。

間抜けなモブ男は郁に撃沈され、黒子がとどめを刺した。
そしてヒル魔はカメラ映像から、男の身元を洗い出していた。
特技はハッキング、情報収集なら東京どころか日本でもヒル魔の右に出る者はそうそういない。
ものの数分で、男が武蔵野第一図書館勤務の防衛員だとわかった。
しかも未だに郁に片想いしており、堂上を目の敵にしていたことも。

おそらく郁のストーカーになるほどの度胸もない小物だろう。
一応注意だけはしておくか。
ヒル魔はそんなことを思いながら、またパソコンを叩く。
そしてすっかりその件を忘れかけていた頃、郁がヒル魔の前に座ったのだ。

「聞いて下さい。ヒル魔さぁ~ん!」
「何だ。ダンナをほっといていいのか?」
「いいんです。まだ帰って来ないし。ヒル魔さんに聞いて欲しいんです!」
「わかった。聞く。」

ヒル魔はノートパソコンを閉じると、郁と向かいあった。
郁が待ってましたとばかりに話し出したのは、予想通り昼間の件だった。
勘違い男が的外れな事を考えて、郁に言い寄った。
ヒル魔にしてみれば取るに足らない話と思ったが、郁にすればそうではなかったらしい。

「あいつ、あたしが篤さんに命令されて、除隊した思ってたんですよ!」
「そのようだな。」
「そんなの許せないんです!」
「なるほど。そういうことか。」

ヒル魔はしばらく話を聞いて、ようやく郁の怒りのポイントを理解した。
堂上夫妻が図書隊を辞めた理由は、ごく一部の人間しか知らない。
そのせいで隊内では勝手な憶測が飛び交っていた。
郁が図書隊より給料が良い警備会社が良いと、堂上を唆した。
その噂なら、郁は別に「言わせておけ」というスタンスだったのだ。
だが今日現れた男は堂上が自分の好きな道を選び、郁を巻き込んだと思っていた。
そっちの話は、郁としては我慢できなかった。
自分が悪く言われるならいいが、堂上が悪く言われるのは絶対に許せない。

「あたしが篤さんの犠牲になったなんて!何でそうなるの!?」
「バカの妄言だ。サクッと無視しとけ。」
「そうですけど。でも!」
「少なくてもうちの連中は堂上夫妻が今幸せだって知っている。」
「え?」
「こんなラブラブバカップルに犠牲だなんて、どこを見たら言えるんだか。」

ヒル魔がそう言ってやると、郁はようやく「ですよね!」と笑顔になった。
そして席を立つと「ありがとうございます!」と頭を下げる。
意外と単純な一言で、気が晴れたらしい。
体育会系の礼儀正しさに、ヒル魔は「やめろ。恥ずかしい」と手を振って追い払う仕草をした。

「さっさと戻って、ダンナのメシでも作ってやれ。」
「そうします!お疲れ様でした!」
郁はもう1度頭を下げると、身を翻して出て行った。
まったく機嫌が直れば、変わり身も早い。
ヒル魔は苦笑と共にその後ろ姿を見送ると、再びノートパソコンを開いたのだった。

*****

「あなた、うちに来ない?」
三橋は思いもよらない申し出に「へ?」と間抜けな声を上げる。
相手の女は異様に近い場所に立っており、香水の強い香りに思わず顔をしかめた。

三橋と阿部は珍しく、店外での仕事に出ていた。
場所は小野寺出版社長宅、ホームパーティだ。
そこで三橋は出張料理を、阿部が給仕を担当することになった。

「そんな大事なパーティ、俺らでいいんですか?」
最初に話をされたとき、阿部は思わずそう言った。
依頼主は小野寺律、家族ぐるみでの常連客だ。
今までに小野寺家からは、何度かホームパーティの依頼があった。
いずれも親しい友人が集まるというもの。
だが今回は同業者、つまり出版業界の社長クラスが集まるパーティなのだという。

それを聞いた阿部と三橋は、思わず顔を見合わせた。
下手な料理を出したら、小野寺出版の顔を潰すことになる。
だが律は「だから『カフェ・デビルバッツ』に頼むんじゃん!」となぜかドヤ顔だ。
そこへヒル魔の「そこまで言われたら、引けねぇだろ!」と鶴の一声。
かくして三橋と阿部の出張料理となったのだった。

「緊張するなよ。いつも通りにな!」
阿部が声をかけてくれて、三橋は「おぉ!」と声を上げる。
三橋が全力を尽くし、阿部がフォローする。
かつて野球部でバッテリーを組んでいた頃のようだ。

サードランナー。
調理開始直前、三橋は目を閉じると短い瞑想をした。
高校時代、部でやっていたメンタルトレーニングだ。
試合中のグラウンド、サードにランナーがいるシーンを想像する。
野球でサードにランナーがいるときは、概ね大ピンチか大チャンス。
そんな場面でも平常心を保てるようにという、リラックス法だった。

その甲斐あってか、パーティは大盛況だった。
おそらくは舌が肥えているパーティの出席者たちはみな「美味しい」と笑顔だった。
出席者の中には、丸川書店の井坂もいた。
律ほどではないが、時折「カフェ・デビルバッツ」に来てくれる大事な客だ。
井坂は「ここでこの料理が食べられるなんて、ラッキーだったな」と上機嫌だ。

「廉君、ホントにありがと。おかげで良いパーティになったよ!」
デザートまで出し終わったところで、律が三橋に礼を言ってくれた。
このパーティは検閲撤廃に伴い、今後の出版業界について語り合うというのが主目的だ。
だから敢えて堅苦しい料理ではなく、気軽に楽しめるが味は絶品という「カフェ・デビルバッツ」が選ばれた。
三橋としても、そんな重要なパーティの手助けになったと思うと嬉しかったのだが。

「ちょっと、あなた。」
三橋が片付け作業に取りかかろうとしていたところで、声をかけられた。
上品だが妙に押しの強い老婦人で、おそらくどこかの出版社の社長夫人だ。
なにか、料理がまずかった?
思わず身構えた三橋に、老婦人はグイッと距離を詰めてきた。

「あなた、うちに来ない?」
「へ?」
「うちの料理人にならない?そこらの街のカフェでやってるなんてもったいないわ!」
「いえ、オレ、いやボクは、今の店が」
「お金なら払うわ。あなたほどの腕があるなら、小さな店で犠牲になることないのよ!」

どうやらスカウトされているらしい。
三橋がそう気付いた時には、もう老婦人はマシンガンのように勧誘の言葉を撃ちまくっていた。
もちろん三橋に引き受けるという選択肢はないが、ことわるにも口が挟めない。
それどころか彼女から強く香る香水に、クラクラと眩暈さえ感じていた。

*****

「なかなか実りのあるパーティだな。」
井坂が律に声をかけてくれる。
律は「ありがとうございます」と微笑むと、多くの客たちが楽しむリビングを見渡した。

今日は出版業界の有力者たちが集まるパーティだ。
これは毎年持ち回りで行なわれており、今年は小野寺出版が幹事。
どんな趣向でやるのかは、律に一任された。

検閲撤廃に伴い、出版業界はにわかに盛り上がりつつある。
ここで存在感を示すにはと考えた律は、ホームパーティを選んだ。
社長は代々世襲である小野寺出版は、無駄に財力がある。
都内に構える豪邸を見せつければ、ハッタリになるだろう。
別に家が立派なのは律の手柄でも何でもないが、使える武器は使う。

料理は「カフェ・デビルバッツ」に出張を依頼した。
口の肥えた社長連中は、フレンチだのイタリアンはだのは食べつくしている。
そんな連中に、シンプルに素材を生かした三橋の料理は新鮮なはずだ。
野菜たっぷりだし、年配のヘルシー志向も満たすだろう。

そして律の企画は、見事に当たった。
出席者たちは小野寺家の豪邸に驚き、三橋の料理を堪能した。
今後の出版業界についても、さまざまな意見交換ができた。

「良いパーティですね。」
「律さんの企画だそうで」
「小野寺出版も安泰ですね。優秀な次期社長で」

オジサンもとい社長連中が、そんな風に話しかけてきた。
律はにこやかに「ありがとうございます」と頭を下げる。
だが内心はウンザリだ。
律が社会人になったばかりの頃には、悪評ばかり叩かれた。
七光りとか、無駄に美人とか。
だけどただの七光りで終わるつもりはないし、綺麗な顔も大いに利用してやる。

「俺もお前も昔は家の犠牲になったなんて、言われたけどな。」
すかさず声をかけてきたのは、古巣である丸川書店の社長の井坂龍一郎だ。
彼も父親が社長であり、律同様七光りと言われ続けてきた。
出版社社長の家に生まれたばかりに、家業を継がされた犠牲者とも。
その頃は検閲は今よりも数多く行なわれており、出版業界の未来は暗かったのだ。
だが今、井坂はすっかり貫禄十分の敏腕社長だ。

「ええ。でも検閲撤廃後の出版業界は俺たちが引っ張りますから。」
律もまた今や有能な幹部候補生だ。
つまらない噂や中傷に心を揺らしている場合ではない。
律と井坂が顔を見合わせてニヤリと笑っていると、リビングの奥から声が聞こえてきた。

「あなたほどの腕があるなら、小さな店で犠牲になることないのよ!」
甲高い耳障りな声に、律と井坂は顔をしかめる。
そして声のする方を見ると、某大手出版社の社長夫人が三橋に声をかけていた。

「うわ。廉君の料理を絶賛する舌は評価するけど」
「言葉のチョイスは最悪ですね。出版社の社長夫人なのに残念な人です。」
井坂と律は言葉を交わすと、三橋たちの方へ向かった。
三橋としては依頼主の律の手前もあり、はっきりとことわりにくいだろう。

「すみません。彼はうちで贔屓にしている店のシェフなので、引き抜かれては困ります。」
律は鮮やかな笑顔で、割って入った。
無駄に綺麗な顔もこういうときは役に立つ。
律は心の中で悪態をつきながら、見事にホスト役を務めたのだった。

*****

「本当に来てくれるの?まもり姉ちゃん!」
セナは明るい声で、そう言った。
アラフォーになってもセナにとって、まもりは大事な姉貴分なのだ。

従業員を増やす。
それは3号店の計画が進んだ頃から、考えていたことだった。
実質的に店が一軒増えるのに、従業員の数はほぼ同じ。
黒子と郁の加入は力強いが、十文字の離脱は店にとっては痛かった。
今はバイトを増やすことで何とかやっているが、やはり頼りになる人材は欲しい。

そんなときここで働きたいと言ってくれたのは、まさかの姉崎まもりだった。
まもりはついこの間まで、母校である泥門高校で教鞭を取っていた。
だが結婚が決まったことで退職したばかりだった。

「やっぱり教師は、主婦と兼業で出来る仕事じゃないから。」
まもりはさっぱりとした口調でそう言った。
面倒見の良いまもりにとって、教師は天職なのだと思う。
だからこそ中途半端な気持ちでは続けられないのだ。
ヒル魔やセナからすれば、もったいないと思う。
だがまもりのなかでは、しっかりと決着がついているのだろう。

「これで廉君が楽になるね!」
セナは笑顔でそう言った。
まもりは三橋の前任で「カフェ・デビルバッツ」のキッチンに立っていたのだ。
三橋に料理の基礎を叩き込んだのも、まもりだ。
復帰すれば一番負担が減るのは、間違いなく三橋だろう。

そのまもりはこの日は客として「カフェ・デビルバッツ」に来店していた。
今は結婚準備で忙しくしており、その合間に立ち寄ったのだ。
ちなみに本格的に働き始めるのは、結婚後。
主婦業との両立なので、昼間だけのパート勤務を希望している。

「あの邪魔くさいルーレットとかスロットマシンとかがなくなってすっきりしたわ。」
まもりは店内を見回しながら、身も蓋もないことを言う。
まもりが働いていた頃には、それらのものはメインダイニングの店内にあったのだ。
ヒル魔が「ケッ」と忌々し気な声を上げ、セナと鈴音が苦笑する。
ちなみに今は三橋と阿部は、小野寺邸に出張中。
厨房には黒子が立ち、コインランドリーは郁が店番だ。

「あ、いらっしゃいませ。」
そこへ常連客が来店し、セナがすばやく接客に向かう。
するとまもりは声のトーンを落として「ヒル魔君」と声をかけた。
ヒル魔は相変わらずパソコンを叩きながら「何だ」と応じた。

「セナのこと、ちゃんとしてよね。」
「あ?」
「あなたがいなくなっても、あの子がちゃんと前を向いていけるようにして。」
「どうしろってんだ。」
「自分で考えて。あの子があなたの犠牲になったとあたしが思わないようにしてくれればいいの。」

まもりはそれだけ告げると、黙り込んでしまった。
ヒル魔はしばらくまもりの顔を凝視していたが、まもりは涼しい顔でコーヒーを飲んでいる。
悪魔の申し子とまで呼ばれたヒル魔の睨みも、まもりには通じないのだ。
ヒル魔にはまもりの言いたいことがよくわかった。

ヒル魔が余命宣告をされてから、もう20年近く経つ。
それは奇跡的なことだが、もういつ逝ってもおかしくない。
そのときセナが大丈夫なように、最大限の努力をして欲しい。
間違っても後を追うなんて、考えないように。
まもりはそう言いたいのだ。

「犠牲になんて、ぜったいにしない。」
ヒル魔は静かに、だがきっぱりとそう言った。
自分がいなくなっても、絶対に守る。
それはヒル魔に課せられた最後の仕事だった。

【続く】
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