アイシ×おお振り×セカコイ×黒バス×図書戦【お題:仄かに暗い15題-1】
【愛】
「本当に美味しそうに食べるなぁ。」
豪快な郁の食べっぷりに、阿部もセナも感心している。
だが当の郁は「美味しそうじゃなくて、美味しいんです!」と言い返した。
郁が「カフェ・デビルバッツ」で働くようになって、数日が過ぎた。
高校大学は陸上に打ち込み、卒業後はすぐに図書隊入り。
つまり郁には飲食店でのアルバイト経験がない。
だがここでの仕事は思いのほか、性に合った。
何よりも嬉しいのは、賄い飯が美味いことだ。
郁がここで働くことを決めたのは、半ば勢いだった。
図書隊にもう自分の居場所はない。
異動の打診をされた時、郁はそれを痛感していた。
本当は検閲撤廃の瞬間まで、最前線にいたい。
だがいくら鍛えても、身体能力は年齢と共に下降していく。
もうとっくに限界を過ぎていることは理解していた。
防衛部の班長か、業務部か。
示された選択肢を、郁はどちらも受け入れなかった。
理由は自分の身体のことだ。
半年以上生理がなかった郁は産婦人科を受診して、子供はもうできないだろうと宣告された。
10代の早い時点からアスリートとしてのトレーニングや食事を心がけてきた。
そういう女性は往々にして、月経に影響が出ることがあるそうだ。
女性にとって生理はうっとうしいものである。
だがなくなってしまえば、女として終わったような気になり、落ち込んだ。
郁が除隊を決意したのは、落ち込んだからだけではない。
図書隊にいれば、子供というのがプレッシャーになるのだ。
特殊部隊の先輩隊員たちは「子供でも作れよ」と軽く言う。
また同年代の女性隊員には、母親になっている者も多い。
その中にはあからさまに「子供作れないの?」と蔑むように言い放つ者もいる。
だが一番つらいのは、毬江や柴崎の反応だった。
彼女たちには、郁の身体の事情を打ち明けた。
すると妊娠中の毬江は、郁に会うのを避けるようになったのだ。
大きなお腹を見せることで、郁を傷つけると考えたようだ。
また柴崎は意図的に、妊娠や子供の話題を避ける。
そんな風に気を使わせることに、郁は耐えられなくなった。
だからほとんど勢いで除隊届を出した。
唖然とする緒形や進藤たちを尻目に、郁はさっさと荷物をまとめた。
夫である堂上は、郁の除隊や「カフェ・デビルバッツ」で働くことには理解を示してくれた。
だけど住み込みはさすがにダメと言われ、今は通いのパートとして働いている。
「でも郁さん。こんなに遅くまで働いてて大丈夫なんですか?」
「そうですよ。家事とかもあるし、大変じゃないすか?」
「まぁうちとしては、ありがたいけどね。」
黒子と阿部、セナは、新人スタッフである郁に声をかけてくれる。
だが郁は賄い飯を口いっぱいに頬張りながら「大丈夫」と答えた。
実際、特殊部隊の訓練をこなしていた郁にとっては、大した労働ではないのだ。
「すみません。失礼します。」
そうこうしているうちに、店のドアが開いた。
現れたのは、郁の夫の堂上だ。
閉店まで働く郁を、堂上は必ず迎えに来る。
「堂上、さん、の、分も、あります、よ!」
三橋がすかさずキッチンに向かい、すぐに一食分の賄い飯を出してきた。
これまた毎晩のことだ。
最初は恐縮していた堂上だが、今ではすんなりと「御馳走になります」とテーブルにつく。
そして2人で仲良く食事をして、帰っていくのだ。
「な~んか、愛を感じるねぇ」
寄り添いながら帰っていく堂上夫妻を、セナは笑顔で見送る。
阿部と三橋が「うんうん」と頷き、黒子が「砂、吐きそうです」とため息をついた。
*****
「無事、入稿できたことを祝して~!」
律がグラスを掲げると、目の前の男もそれに倣う。
2つのグラスが合わさる涼やかな音さえ、まるで2人を祝福しているかのようだった。
黛千尋の小説の原稿が書き上がった。
そこで律と黛は2人揃って「カフェ・デビルバッツ」にやって来た。
文字通り、祝杯を上げに来たのである。
今だから言えることだが、律は初めて黛と対面したとき不安だった。
黒子に言われて作品は読んだし、力量がある作家だとは思った。
だがその物言いや態度は、かなりアクが強いのだ。
どこかあの宇佐見秋彦を彷彿とさせる。
他人のことなどお構いなし、人と合わせようとする気持ちは皆無。
だが人の心を動かす小説を書く力は、他の追随を許さない。
実は黛も律を見た瞬間、不安だった。
それを打ち明けられたのは、つい最近だ。
小野寺出版の社長の御曹司で、類まれなる美貌の持ち主。
こんなお坊ちゃまに何ができるのかと思ったそうだ。
だがそんな2人は、仕事では案外うまくいった。
黛の小説の作り方は、実に繊細だ。
登場人物を丁寧に設定し、しっかりとプロットを作る。
時にキャラが想定通りに動かないと、頭を抱えていたりする。
そして律はそんな黛に誠実に付き合った。
自分の意見はしっかり言うが、折れるところはきちんと折れる。
時に譲らないこともあるが、それは作品への愛ゆえだ。
黛もそれを理解し、律の意見を尊重する。
こうして原稿が仕上がる頃には、2人の間にはしっかりと信頼関係ができてきた。
「原稿ができたんですか。よかったですね。」
2人の乾杯の音頭を聞いた黒子が、声をかけてきた。
律は「黒子君のおかげだよ~」と笑った。
黒子の紹介がなければ、律は黛と出逢うことはなかっただろう。
「いらっしゃいませ。律さ~ん!」
「ええ?堂上さん!?」
今度は別のスタッフに声をかけられ、律は驚いた。
客としてなら、何度もここで顔を合わせていた堂上郁。
その彼女がなんと店のエプロンをつけて、働いているのだ。
「どうして?図書隊、辞めたの!?」
「はい。いろいろあって、こうなりました!」
余りにも予想外の転身に驚き冷めやらぬ律だが、郁はニコニコと笑顔だ。
そして黛に「作家さんですか」と声をかけた。
「黛千尋です。昔は木島ジンってペンネームで書いてました。」
「え~~!?」
郁は鍛え上げられた見事な腹筋から、思いっきり声を上げた。
店中がそれに驚き、静まり返る。
セナが慌てて「郁さん、声、デカい!」と注意し、郁が「失礼しました!」と頭を下げた。
「昔図書館で木島ジンの本が検閲対象になって、大変でした。」
「そうなの?」
「はい。無事に守りましたよ!あたしもあの頃は最前線で戦ってまして。」
「・・・そりゃすごい。」
郁の武勇伝に、黛も律も目を丸くする。
黒子だけではない。
ここにも本への愛が溢れている人物が、また1人。
こうして律と黛の祝杯は、この上なく美味で楽しいものになった。
*****
「おはようございます~!」
開店前の「カフェ・デビルバッツ」に客が現れた。
とっさに「いらっしゃいませ」と応じた黒子は、慌てて拳で口元を押さえる。
すると後ろから近付いてきた阿部が「笑ったら殺す」とツッコミを入れた。
朝の「カフェ・デビルバッツ」は穏やかだ。
三橋と黒子が仕込みをし、セナと阿部が開店準備を整える。
その間に営業中の札は出していないが、客が来れば簡単な食事や飲み物を出す。
それを知っているから、常連客はおかまいなしに来店する。
そんな朝8時過ぎ、店のドアを開錠するなり現れたのは、阿部の弟、旬だった。
話があるからと連絡してきたので、阿部がこの時間を指定した。
のんびりと話すには、一番いい時間帯だ。
ちなみに最初に出迎えた黒子が口を押さえたのは、笑い出すのを堪えたからだ。
黒子は旬を知らなかったが、一目見て阿部の弟だとわかるほど似ていた。
そこで阿部のツッコミが入ったのである。
「何か食うか?」
「いや。コーヒーだけもらえる?」
「わかった。」
「いいよ。阿部君。コーヒー2つね。」
向かい合って座る兄弟に、セナが気を利かせた。
すぐに三橋が淹れたコーヒーが運ばれる。
2人ともブラックのまま口に運び、程なくして旬が口を開いた。
「兄ちゃん、元気そうだな。」
「でもないぞ。今日は筋肉痛がひどい。」
「そうなの?なんで?」
「昨日、アメフトの試合に出たんだ。」
そう、昨日「カフェ・デビルバッツ」は珍しく休みだった。
そしてセナや三橋、黒子と共にアメフトの試合に出たのだ。
もちろん正式なものではなく、趣味のものだ。
阿部はワイドレシーバーとして出場したが、未だに疲れが取れていない。
その原因は主に黒子だった。
今までも何度かアメフトの試合はしたが、こんなに疲れたことはない。
クォーターバックの三橋は正確な投球で、それをキャッチするのはさほど難しくない。
だが途中にカットの黒子が入ると、ボールはいきなり方向に変わる。
それをサインとアイコンタクトで察知して走り回らなければならず、疲れは普段の数倍だった。
「アメフトかぁ。楽しい?」
「ああ。だけど若くないのを思い知るよ。で、今日はどうしたんだ?」
「父さん、会社をそろそろ畳むつもりらしい。」
「・・・そうなのか?」
「もう身体がきついんだって。」
それは予想できたことだった。
阿部の実家は会社を営んでいるが、阿部も旬も継ぐつもりはない。
阿部の父もそれは納得していて、いずれ会社はなくなることになっていた。
だがそれが現実のものになったと知り、阿部は思いのほか動揺した。
もう20年近く実家を離れている。
そのうち半分以上は、三橋との恋人関係がバレて反対されて勘当状態だ。
つまりその20年の間に父とは数えるほどしか会っていない。
記憶の中の父はいつも強く、身体がきつくて会社を畳むなど想像もつかない。
「一度、実家に顔出してよ。父さんも兄ちゃんとしっかり話したいと思うよ。」
「わかった。わざわざ悪かったな。」
「いいよ。俺も兄ちゃんの顔を見て、話したかったし。」
そこでちょうどコーヒーを飲み終わった旬が、立ち上がった。
そして「ごちそうさま」と笑って、ドアへと向かう。
だがその途中で足を止め、振り返った。
「昔、兄ちゃんのせいで彼女と別れたけど、今は感謝してる。嫁さんに会えたからね。」
旬の言葉に、阿部はハッとした。
10年以上前、旬は恋人と別れた。
阿部の恋人が同性の三橋であることで、当時の恋人に気味悪がられたのだ。
だが今は別の女性と出逢い、結婚した。
「そりゃよかった。」
阿部は涙が零れそうになり、目に力を込めて堪えた。
一時は疎遠になり、険悪になった家族だったが、何だかんだで愛情は消えていない。
それが確かに感じられたからだ。
*****
「こんにちは。郁さん、来たよ~!」
「あ、大河。いらっしゃいませ~!」
昔なじみの来店に、郁が笑顔で応じた。
図書館で出逢い、今では立派な青年に成長した吉川大河だ。
このところ「カフェ・デビルバッツ」には、新規の客が増えている。
郁がここで働き始めたことを知って、図書館の常連が会いに来るのだ。
店としては、大いに喜ばしいことだ。
元々ヒル魔の趣味で始めた店ではあり、赤字でなければいいという方針ではある。
だがやはり新しい出逢いがあるのは、楽しいものだ。
この日のディナータイムに来店したのは、吉川大河。
郁と知り合ったときはまだ中学生だったが、今ではもうアラサーと呼ばれる年齢だ。
実は郁は秘かに「あのかわいかった大河がオッサンになっちゃって」などと思っていたりする。
「こんなところに、こんなイイ感じの店があったんすね~!」
「イイ感じじゃなくて、イイお店なの!美味しいんだから!」
2人の楽し気な会話が、店内に響く。
だが残念ながら、現在店内は満席だ。
「でもゴメン。今、満席だなぁ。」
「あ、郁さん、あたし相席でもいいですよ。」
郁と大河の会話を聞き、声をかけたのは常連客の桐嶋日和だ。
以前、この店でプロポーズを受けたものの、その後に破談。
だがその後も定期的に来店してくれる。
「ありがとうございます。大河もいい?」
「もちろんです。それじゃお邪魔します。」
「こちらこそ。1人で4人席独占してて申し訳なく思ってたところなので。」
初対面の2人はこうして相席になった。
そしてこの店では先輩になる日和が、メニューの説明役まで買って出てくれる。
その後、大河の注文を受けたまま、郁はすっかり忘れていた。
この日は週末であり、のんびりと話し込むような余裕はなかったのである。
「ねぇねぇ、郁さん。」
セナがキッチンから上がってくる料理をトレイに乗せながら、郁に声をかけた。
皿を下げて来た郁が「なんですか?」と首を傾げる。
ちなみに今日は混んでいるので、三橋だけでなく黒子もキッチンに入っている。
ホールも黒木と戸叶ほか数名がヘルプに入っており、大忙しだ。
「郁さんの知り合いのあの男性って、ちゃんとしてる人?」
「え?大河ですか?」
「そうそう。今日和ちゃんと相席している彼。」
「もちろんですよ。中学生の頃から知ってますけど、真面目で熱いヤツです。」
「・・・なら、よかった。」
「へ?」
「いや、余計なお世話だとは思うんだけど。」
セナは悪戯っぽい微笑で、大河と日和のテーブルをチラリと見た。
つられてそちらを見た郁は「ははぁ」と笑う。
初めて会ったははずの2人は、どうやら話が弾んだらしい。
2人はスマートフォンを取り出し、連絡先を交換していたのだ。
「ひよ、ちゃん。幸せに、なる、と、いいな。」
フライパンを揺すりながら、三橋がポツリとそう呟いた。
この出逢いが愛に変わるかどうかは、わからない。
だが今は2人が楽しそうに笑っているだけでいい。
日和の婚約破棄を知っているスタッフ一同は、彼女の幸せを祈らずにはいられなかった。
*****
「すみません。失礼します。」
堂上が今夜も郁を迎えに来た。
そして三橋がいつものように賄い飯の用意をする。
だが堂上は「食べる前にお願いがあります」と切り出した。
郁が「カフェ・デビルバッツ」で働き出してから、2週間が過ぎた。
ランチタイムが始まる前に出勤し、閉店まで働く。
そして迎えに来た堂上と共に、賄い飯を食べる。
これが堂上夫妻のルーティーンとなりつつあった。
だが今日は違った。
堂上が「食べる前にお願いがあります」と言い出したのだ。
そして「ヒル魔さんは?」と聞いてくる。
どうやら郁も「お願い」の中身は知らないらしく、キョトンとした顔をしている。
「ヒル魔さんはもうずっと店に出てきてないよ?」
堂上にそう教えたのは郁だった。
ここ最近、ヒル魔は体調がすぐれず、ずっと自室に引きこもっている。
郁もここで働き始めてから、ほとんど顔を見ていない状況だ。
「ちょっと見てきます。出て来られるかどうか。」
セナが堂上にそう告げて、二階の居室に向かう。
そして阿部が「待っている間に食べてください」と堂上の前に賄い飯を置いた。
「ヒル魔さんは具合が悪いんですか?」
「まぁ持病があるんで。時々寝込むんですよ。無理なら出て来ないんでお気遣いなく。」
阿部は堂上にそう告げる。
そして堂上が賄い飯を食べ終わる頃、ヒル魔がホールに降りて来た。
「俺に話があると聞いたが。2人きりの方がいいのか?」
ヒル魔は堂上を見ながら、そう言った。
堂上は「別にここでかまいません」と答える。
するとセナが笑って「タメ口でいいと思いますよ」と割り込んだ。
阿部も「堂上さんの方が年上ですよね」と苦笑する。
「いや、お願いする立場なので。」
堂上はまずそうことわりを入れる。
ヒル魔は「わかった」と堂上の向かいの席に腰を下ろした。
すると堂上はヒル魔の目を真っ直ぐに見ながら、口を開いた。
「俺もこの店で働かせてください。」
「はいぃ~!?」
ヒル魔に対して告げられた言葉に、一番盛大に驚いたのは郁だった。
スタッフたちは堂上のセリフに驚き、郁の声に驚かされる。
ヒル魔も実は驚いていたのだが、何とかトレードマークのポーカーフェイスを保った。
「あんたも除隊したのか?」
「除隊届は出しました。まだ正式な受理はされていませんが。」
「そりゃ図書隊が篤さんを離すわけないじゃん!」
またしても郁が口を挟むので、話が進まない。
堂上が「郁、ちょっと黙ってろ」と注意するが、郁は「だって」と不満そうな表情だ。
そして「どうしてあたしに先に言ってくれないの?」と拗ねている。
傍若無人に甘い空気をまき散らかす堂上夫妻に、ヒル魔もスタッフもややげんなりだ。
だがヒル魔は気を取り直すと、堂上に向き直った。
「除隊届が受理されたら使ってやる。だけどできればここではないところで働いてもらいたい。」
ヒル魔はあっさりと決断を下した。
さらに郁を見て「愛する嫁と一緒でもかまわない」と付け加える。
そして顔を見合わせて首を傾げる堂上夫妻を見て、笑った。
【続く】
「本当に美味しそうに食べるなぁ。」
豪快な郁の食べっぷりに、阿部もセナも感心している。
だが当の郁は「美味しそうじゃなくて、美味しいんです!」と言い返した。
郁が「カフェ・デビルバッツ」で働くようになって、数日が過ぎた。
高校大学は陸上に打ち込み、卒業後はすぐに図書隊入り。
つまり郁には飲食店でのアルバイト経験がない。
だがここでの仕事は思いのほか、性に合った。
何よりも嬉しいのは、賄い飯が美味いことだ。
郁がここで働くことを決めたのは、半ば勢いだった。
図書隊にもう自分の居場所はない。
異動の打診をされた時、郁はそれを痛感していた。
本当は検閲撤廃の瞬間まで、最前線にいたい。
だがいくら鍛えても、身体能力は年齢と共に下降していく。
もうとっくに限界を過ぎていることは理解していた。
防衛部の班長か、業務部か。
示された選択肢を、郁はどちらも受け入れなかった。
理由は自分の身体のことだ。
半年以上生理がなかった郁は産婦人科を受診して、子供はもうできないだろうと宣告された。
10代の早い時点からアスリートとしてのトレーニングや食事を心がけてきた。
そういう女性は往々にして、月経に影響が出ることがあるそうだ。
女性にとって生理はうっとうしいものである。
だがなくなってしまえば、女として終わったような気になり、落ち込んだ。
郁が除隊を決意したのは、落ち込んだからだけではない。
図書隊にいれば、子供というのがプレッシャーになるのだ。
特殊部隊の先輩隊員たちは「子供でも作れよ」と軽く言う。
また同年代の女性隊員には、母親になっている者も多い。
その中にはあからさまに「子供作れないの?」と蔑むように言い放つ者もいる。
だが一番つらいのは、毬江や柴崎の反応だった。
彼女たちには、郁の身体の事情を打ち明けた。
すると妊娠中の毬江は、郁に会うのを避けるようになったのだ。
大きなお腹を見せることで、郁を傷つけると考えたようだ。
また柴崎は意図的に、妊娠や子供の話題を避ける。
そんな風に気を使わせることに、郁は耐えられなくなった。
だからほとんど勢いで除隊届を出した。
唖然とする緒形や進藤たちを尻目に、郁はさっさと荷物をまとめた。
夫である堂上は、郁の除隊や「カフェ・デビルバッツ」で働くことには理解を示してくれた。
だけど住み込みはさすがにダメと言われ、今は通いのパートとして働いている。
「でも郁さん。こんなに遅くまで働いてて大丈夫なんですか?」
「そうですよ。家事とかもあるし、大変じゃないすか?」
「まぁうちとしては、ありがたいけどね。」
黒子と阿部、セナは、新人スタッフである郁に声をかけてくれる。
だが郁は賄い飯を口いっぱいに頬張りながら「大丈夫」と答えた。
実際、特殊部隊の訓練をこなしていた郁にとっては、大した労働ではないのだ。
「すみません。失礼します。」
そうこうしているうちに、店のドアが開いた。
現れたのは、郁の夫の堂上だ。
閉店まで働く郁を、堂上は必ず迎えに来る。
「堂上、さん、の、分も、あります、よ!」
三橋がすかさずキッチンに向かい、すぐに一食分の賄い飯を出してきた。
これまた毎晩のことだ。
最初は恐縮していた堂上だが、今ではすんなりと「御馳走になります」とテーブルにつく。
そして2人で仲良く食事をして、帰っていくのだ。
「な~んか、愛を感じるねぇ」
寄り添いながら帰っていく堂上夫妻を、セナは笑顔で見送る。
阿部と三橋が「うんうん」と頷き、黒子が「砂、吐きそうです」とため息をついた。
*****
「無事、入稿できたことを祝して~!」
律がグラスを掲げると、目の前の男もそれに倣う。
2つのグラスが合わさる涼やかな音さえ、まるで2人を祝福しているかのようだった。
黛千尋の小説の原稿が書き上がった。
そこで律と黛は2人揃って「カフェ・デビルバッツ」にやって来た。
文字通り、祝杯を上げに来たのである。
今だから言えることだが、律は初めて黛と対面したとき不安だった。
黒子に言われて作品は読んだし、力量がある作家だとは思った。
だがその物言いや態度は、かなりアクが強いのだ。
どこかあの宇佐見秋彦を彷彿とさせる。
他人のことなどお構いなし、人と合わせようとする気持ちは皆無。
だが人の心を動かす小説を書く力は、他の追随を許さない。
実は黛も律を見た瞬間、不安だった。
それを打ち明けられたのは、つい最近だ。
小野寺出版の社長の御曹司で、類まれなる美貌の持ち主。
こんなお坊ちゃまに何ができるのかと思ったそうだ。
だがそんな2人は、仕事では案外うまくいった。
黛の小説の作り方は、実に繊細だ。
登場人物を丁寧に設定し、しっかりとプロットを作る。
時にキャラが想定通りに動かないと、頭を抱えていたりする。
そして律はそんな黛に誠実に付き合った。
自分の意見はしっかり言うが、折れるところはきちんと折れる。
時に譲らないこともあるが、それは作品への愛ゆえだ。
黛もそれを理解し、律の意見を尊重する。
こうして原稿が仕上がる頃には、2人の間にはしっかりと信頼関係ができてきた。
「原稿ができたんですか。よかったですね。」
2人の乾杯の音頭を聞いた黒子が、声をかけてきた。
律は「黒子君のおかげだよ~」と笑った。
黒子の紹介がなければ、律は黛と出逢うことはなかっただろう。
「いらっしゃいませ。律さ~ん!」
「ええ?堂上さん!?」
今度は別のスタッフに声をかけられ、律は驚いた。
客としてなら、何度もここで顔を合わせていた堂上郁。
その彼女がなんと店のエプロンをつけて、働いているのだ。
「どうして?図書隊、辞めたの!?」
「はい。いろいろあって、こうなりました!」
余りにも予想外の転身に驚き冷めやらぬ律だが、郁はニコニコと笑顔だ。
そして黛に「作家さんですか」と声をかけた。
「黛千尋です。昔は木島ジンってペンネームで書いてました。」
「え~~!?」
郁は鍛え上げられた見事な腹筋から、思いっきり声を上げた。
店中がそれに驚き、静まり返る。
セナが慌てて「郁さん、声、デカい!」と注意し、郁が「失礼しました!」と頭を下げた。
「昔図書館で木島ジンの本が検閲対象になって、大変でした。」
「そうなの?」
「はい。無事に守りましたよ!あたしもあの頃は最前線で戦ってまして。」
「・・・そりゃすごい。」
郁の武勇伝に、黛も律も目を丸くする。
黒子だけではない。
ここにも本への愛が溢れている人物が、また1人。
こうして律と黛の祝杯は、この上なく美味で楽しいものになった。
*****
「おはようございます~!」
開店前の「カフェ・デビルバッツ」に客が現れた。
とっさに「いらっしゃいませ」と応じた黒子は、慌てて拳で口元を押さえる。
すると後ろから近付いてきた阿部が「笑ったら殺す」とツッコミを入れた。
朝の「カフェ・デビルバッツ」は穏やかだ。
三橋と黒子が仕込みをし、セナと阿部が開店準備を整える。
その間に営業中の札は出していないが、客が来れば簡単な食事や飲み物を出す。
それを知っているから、常連客はおかまいなしに来店する。
そんな朝8時過ぎ、店のドアを開錠するなり現れたのは、阿部の弟、旬だった。
話があるからと連絡してきたので、阿部がこの時間を指定した。
のんびりと話すには、一番いい時間帯だ。
ちなみに最初に出迎えた黒子が口を押さえたのは、笑い出すのを堪えたからだ。
黒子は旬を知らなかったが、一目見て阿部の弟だとわかるほど似ていた。
そこで阿部のツッコミが入ったのである。
「何か食うか?」
「いや。コーヒーだけもらえる?」
「わかった。」
「いいよ。阿部君。コーヒー2つね。」
向かい合って座る兄弟に、セナが気を利かせた。
すぐに三橋が淹れたコーヒーが運ばれる。
2人ともブラックのまま口に運び、程なくして旬が口を開いた。
「兄ちゃん、元気そうだな。」
「でもないぞ。今日は筋肉痛がひどい。」
「そうなの?なんで?」
「昨日、アメフトの試合に出たんだ。」
そう、昨日「カフェ・デビルバッツ」は珍しく休みだった。
そしてセナや三橋、黒子と共にアメフトの試合に出たのだ。
もちろん正式なものではなく、趣味のものだ。
阿部はワイドレシーバーとして出場したが、未だに疲れが取れていない。
その原因は主に黒子だった。
今までも何度かアメフトの試合はしたが、こんなに疲れたことはない。
クォーターバックの三橋は正確な投球で、それをキャッチするのはさほど難しくない。
だが途中にカットの黒子が入ると、ボールはいきなり方向に変わる。
それをサインとアイコンタクトで察知して走り回らなければならず、疲れは普段の数倍だった。
「アメフトかぁ。楽しい?」
「ああ。だけど若くないのを思い知るよ。で、今日はどうしたんだ?」
「父さん、会社をそろそろ畳むつもりらしい。」
「・・・そうなのか?」
「もう身体がきついんだって。」
それは予想できたことだった。
阿部の実家は会社を営んでいるが、阿部も旬も継ぐつもりはない。
阿部の父もそれは納得していて、いずれ会社はなくなることになっていた。
だがそれが現実のものになったと知り、阿部は思いのほか動揺した。
もう20年近く実家を離れている。
そのうち半分以上は、三橋との恋人関係がバレて反対されて勘当状態だ。
つまりその20年の間に父とは数えるほどしか会っていない。
記憶の中の父はいつも強く、身体がきつくて会社を畳むなど想像もつかない。
「一度、実家に顔出してよ。父さんも兄ちゃんとしっかり話したいと思うよ。」
「わかった。わざわざ悪かったな。」
「いいよ。俺も兄ちゃんの顔を見て、話したかったし。」
そこでちょうどコーヒーを飲み終わった旬が、立ち上がった。
そして「ごちそうさま」と笑って、ドアへと向かう。
だがその途中で足を止め、振り返った。
「昔、兄ちゃんのせいで彼女と別れたけど、今は感謝してる。嫁さんに会えたからね。」
旬の言葉に、阿部はハッとした。
10年以上前、旬は恋人と別れた。
阿部の恋人が同性の三橋であることで、当時の恋人に気味悪がられたのだ。
だが今は別の女性と出逢い、結婚した。
「そりゃよかった。」
阿部は涙が零れそうになり、目に力を込めて堪えた。
一時は疎遠になり、険悪になった家族だったが、何だかんだで愛情は消えていない。
それが確かに感じられたからだ。
*****
「こんにちは。郁さん、来たよ~!」
「あ、大河。いらっしゃいませ~!」
昔なじみの来店に、郁が笑顔で応じた。
図書館で出逢い、今では立派な青年に成長した吉川大河だ。
このところ「カフェ・デビルバッツ」には、新規の客が増えている。
郁がここで働き始めたことを知って、図書館の常連が会いに来るのだ。
店としては、大いに喜ばしいことだ。
元々ヒル魔の趣味で始めた店ではあり、赤字でなければいいという方針ではある。
だがやはり新しい出逢いがあるのは、楽しいものだ。
この日のディナータイムに来店したのは、吉川大河。
郁と知り合ったときはまだ中学生だったが、今ではもうアラサーと呼ばれる年齢だ。
実は郁は秘かに「あのかわいかった大河がオッサンになっちゃって」などと思っていたりする。
「こんなところに、こんなイイ感じの店があったんすね~!」
「イイ感じじゃなくて、イイお店なの!美味しいんだから!」
2人の楽し気な会話が、店内に響く。
だが残念ながら、現在店内は満席だ。
「でもゴメン。今、満席だなぁ。」
「あ、郁さん、あたし相席でもいいですよ。」
郁と大河の会話を聞き、声をかけたのは常連客の桐嶋日和だ。
以前、この店でプロポーズを受けたものの、その後に破談。
だがその後も定期的に来店してくれる。
「ありがとうございます。大河もいい?」
「もちろんです。それじゃお邪魔します。」
「こちらこそ。1人で4人席独占してて申し訳なく思ってたところなので。」
初対面の2人はこうして相席になった。
そしてこの店では先輩になる日和が、メニューの説明役まで買って出てくれる。
その後、大河の注文を受けたまま、郁はすっかり忘れていた。
この日は週末であり、のんびりと話し込むような余裕はなかったのである。
「ねぇねぇ、郁さん。」
セナがキッチンから上がってくる料理をトレイに乗せながら、郁に声をかけた。
皿を下げて来た郁が「なんですか?」と首を傾げる。
ちなみに今日は混んでいるので、三橋だけでなく黒子もキッチンに入っている。
ホールも黒木と戸叶ほか数名がヘルプに入っており、大忙しだ。
「郁さんの知り合いのあの男性って、ちゃんとしてる人?」
「え?大河ですか?」
「そうそう。今日和ちゃんと相席している彼。」
「もちろんですよ。中学生の頃から知ってますけど、真面目で熱いヤツです。」
「・・・なら、よかった。」
「へ?」
「いや、余計なお世話だとは思うんだけど。」
セナは悪戯っぽい微笑で、大河と日和のテーブルをチラリと見た。
つられてそちらを見た郁は「ははぁ」と笑う。
初めて会ったははずの2人は、どうやら話が弾んだらしい。
2人はスマートフォンを取り出し、連絡先を交換していたのだ。
「ひよ、ちゃん。幸せに、なる、と、いいな。」
フライパンを揺すりながら、三橋がポツリとそう呟いた。
この出逢いが愛に変わるかどうかは、わからない。
だが今は2人が楽しそうに笑っているだけでいい。
日和の婚約破棄を知っているスタッフ一同は、彼女の幸せを祈らずにはいられなかった。
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「すみません。失礼します。」
堂上が今夜も郁を迎えに来た。
そして三橋がいつものように賄い飯の用意をする。
だが堂上は「食べる前にお願いがあります」と切り出した。
郁が「カフェ・デビルバッツ」で働き出してから、2週間が過ぎた。
ランチタイムが始まる前に出勤し、閉店まで働く。
そして迎えに来た堂上と共に、賄い飯を食べる。
これが堂上夫妻のルーティーンとなりつつあった。
だが今日は違った。
堂上が「食べる前にお願いがあります」と言い出したのだ。
そして「ヒル魔さんは?」と聞いてくる。
どうやら郁も「お願い」の中身は知らないらしく、キョトンとした顔をしている。
「ヒル魔さんはもうずっと店に出てきてないよ?」
堂上にそう教えたのは郁だった。
ここ最近、ヒル魔は体調がすぐれず、ずっと自室に引きこもっている。
郁もここで働き始めてから、ほとんど顔を見ていない状況だ。
「ちょっと見てきます。出て来られるかどうか。」
セナが堂上にそう告げて、二階の居室に向かう。
そして阿部が「待っている間に食べてください」と堂上の前に賄い飯を置いた。
「ヒル魔さんは具合が悪いんですか?」
「まぁ持病があるんで。時々寝込むんですよ。無理なら出て来ないんでお気遣いなく。」
阿部は堂上にそう告げる。
そして堂上が賄い飯を食べ終わる頃、ヒル魔がホールに降りて来た。
「俺に話があると聞いたが。2人きりの方がいいのか?」
ヒル魔は堂上を見ながら、そう言った。
堂上は「別にここでかまいません」と答える。
するとセナが笑って「タメ口でいいと思いますよ」と割り込んだ。
阿部も「堂上さんの方が年上ですよね」と苦笑する。
「いや、お願いする立場なので。」
堂上はまずそうことわりを入れる。
ヒル魔は「わかった」と堂上の向かいの席に腰を下ろした。
すると堂上はヒル魔の目を真っ直ぐに見ながら、口を開いた。
「俺もこの店で働かせてください。」
「はいぃ~!?」
ヒル魔に対して告げられた言葉に、一番盛大に驚いたのは郁だった。
スタッフたちは堂上のセリフに驚き、郁の声に驚かされる。
ヒル魔も実は驚いていたのだが、何とかトレードマークのポーカーフェイスを保った。
「あんたも除隊したのか?」
「除隊届は出しました。まだ正式な受理はされていませんが。」
「そりゃ図書隊が篤さんを離すわけないじゃん!」
またしても郁が口を挟むので、話が進まない。
堂上が「郁、ちょっと黙ってろ」と注意するが、郁は「だって」と不満そうな表情だ。
そして「どうしてあたしに先に言ってくれないの?」と拗ねている。
傍若無人に甘い空気をまき散らかす堂上夫妻に、ヒル魔もスタッフもややげんなりだ。
だがヒル魔は気を取り直すと、堂上に向き直った。
「除隊届が受理されたら使ってやる。だけどできればここではないところで働いてもらいたい。」
ヒル魔はあっさりと決断を下した。
さらに郁を見て「愛する嫁と一緒でもかまわない」と付け加える。
そして顔を見合わせて首を傾げる堂上夫妻を見て、笑った。
【続く】