アイシ×おお振り×セカコイ×黒バス×図書戦【お題:仄かに暗い15題-1】
【現実】
「いらっしゃいませ。珍しいですね。」
セナは笑顔で客を出迎えた。
来店したのは最近常連になった堂上郁だ。
だがランチタイムにしか来なかった郁が夜に来たのも、夫と一緒であるのも初めてだった。
「いや、先日はお騒がせして」
堂上が申し訳なさそうに、頭を下げる。
先日、妻を尾行し、他の常連客と親し気な様子を見て嫉妬までした。
そのことを指しているのだろう。
セナは笑顔で「いえ、全然」と応じた。
日々いろいろなことが起こる「カフェ・デビルバッツ」では、あんなものは騒ぎのうちには入らない。
「あ、堂上さ~ん!」
ふと先に来ていて、すでに程よく酔っている客から声がかかった。
騒ぎの関係者でもある小野寺律だ。
例によって高野と2人で食事を楽しんでいたところだった。
「あ、小野寺さん!」
「先日はありがとうございました。」
郁と堂上がすかさず律たちのテーブルに向かうと、頭を下げる。
ここで知り合ったことが縁で、律が武蔵野第一図書館に本を寄贈したのだ。
セナはにこやかに挨拶する2組の客を見て、笑顔になった。
この店を気に入ってくれた客たちが、こんな風に親しくなるのを見るのは嬉しいものだ。
「い、いらっしゃい、ませ」
その時、テーブルを片づけていた三橋が、堂上夫妻に声をかけた。
それを見た郁が「え!?」と声を上げる。
律が「俺も驚いたんだ」と笑い、高野も頷く。
来店2回目の堂上だけが、意味がわからず首を傾げた。
「彼は普段キッチンで調理を担当してるんで、滅多にホールに出ないんですよ。」
セナが笑いながら、堂上に説明した。
もう10年以上、三橋の定位置はずっとキッチンだ。
だからホールで働く三橋に、常連客はことごとく驚いている。
ちなみにこれはヒル魔の采配だった。
調理担当は基本的に三橋がメイン、三橋が休む時には篠岡がメインでやっていた。
だが篠岡が産休に入ったことで、ずっと三橋が続けている。
篠岡の復帰まではまだ時間もかかるし、このままでは三橋に負担がかかり過ぎる。
そんな現実的な事情で、三橋はホールにいる。
だが結果的に常連客をことごとく驚かす、プチサプライズ状態になっていた。
「じゃあキッチンは?」
郁がキッチンを覗き込むと、律が「俺もそれやった」と笑う。
そのキッチンで忙しく動き回っていたのは、黒子である。
郁がまた「黒子君!?」と声をあげ、律が「俺も驚いた」と笑った。
*****
「黒子って、料理上手かったんだな。」
黒子は華麗にフライパンを振り、繊細な手つきで盛り付けをする。
そんな黒子をじっと見ているのは、水谷だった。
水谷文貴は、現在産休を取っている従業員、篠岡千代の夫である。
元々、三橋や阿部と高校時代、野球部のチームメイトだった。
実は篠岡は高校時代、阿部に想いを寄せていたという経緯もある。
そんな水谷はつい最近「カフェ・デビルバッツ」のスタッフに加わった。
水谷は会社員をしていたが、つい最近辞めたばかりだ。
この店で働く阿部たちがカッコいいと思って、自分も飲食店をやりたくなった。
その勉強のために、ここで使って欲しい。
水谷はそう言っているし、阿部たちはそれをまったく疑っていない。
だが現実はそうではなかった。
会社でいろいろ上手くいっていなかったからだ。
目立った業績も上げられないし、後輩が自分を追い越して出世していく。
そこで悩んだ末に、会社を辞めた。
そして今は夫婦共々「カフェ・デビルバッツ」の世話になっているのだ。
水谷には打算もあった。
阿部はともかく、人の良い三橋は「使ってくれ」と頼めば絶対にことわれない。
つまり最低限、無職という事態だけは避けられるだろう。
それに妻から「カフェ・デビルバッツ」」が3号店を出すらしいという話を聞いた。
友人のよしみでそこを任せてもらえれば、そこそこの高給になるのではなかろうか。
そんな気持ちで勤め始めた店だったが、現実は甘くない。
オーナーのヒル魔は、3号店を新入りの黒子に任せるつもりなのだと聞かされた。
さらにキッチンに立たせて、調理担当までさせている。
しかも小憎らしいことに、なかなか手際が良いのだ。
水谷は調理のサポートを任されているが、必要ないのではないかと思えるほどだ。
「なんかいつもこうだなぁ。」
水谷は思わず、そう呟いていた。
高校1年の時も、総勢10名のチームでレギュラー落ちの心配をしていた。
エースと正捕手だった三橋と阿部は、そんなこと考えたこともなかっただろう。
そして今回は、黒子である。
まったく立場が違うし、張り合っても仕方がない相手ではある。
それでも何だか負けたような気がして、悔しい。
「本当に飲食店、初めてなの?」
水谷は少々の負け惜しみを込めて、そう言った。
黒子は手際よく野菜を切りながら「はい」と答えた。
その声からも表情からも、相変わらず感情は見えない。
「長いこと、大メシ食らいのヒモをやってましたから。料理は得意になりました。」
「そう、なの!?」
「ええ。でも一番得意なのはゆで卵です。」
黒子は真面目な顔で、本気とも冗談ともつかないことを言う。
水谷はまたしてもなぜか負けたような気になり、心の中で「なんだよ」と悪態をついた。
*****
「そりゃダメだろ」
高野は容赦なくそう言った。
すると律は「高野さんまで同じことを言います~!?」と盛大に不満の声をあげたのだった。
高野と律は「カフェ・デビルバッツ」に来ていた。
名目は祝杯だ。
律が編集長を務める少女漫画誌「エメラルド」の売上部数が、最高記録を更新した。
だが実際はそれを理由にしたデートである。
今は職場が違う2人は、なかなか予定が合わない。
だからこそ時間をやりくりして、外でデートできる時間は貴重だった。
「最高記録、更新か」
「ええ。だけど立て直したのは高野さんでしょ。だから何しても評価が低いんですよ。」
「そうか?」
「そうですよ。まったく邪魔くさいったら!」
容赦ない律の毒舌に、高野は苦笑した。
律の言葉は、あながち被害妄想ではない。
落ち目だったエメラルドを立て直したのは、高野なのだ。
その後、部下だった羽鳥が編集長を引き継ぎ、さらに部数を伸ばした。
さらにその後任の律に関しては、ハードルが上がり過ぎている状態だ。
充分な実績は残しているのに、評価はおとなしめであることは否めない。
「で?次はどうするんだ?」
「文芸部への異動を希望してます。」
「そりゃダメだろ」
「高野さんまで同じことを言います~!?」
「井坂さんに言われたのか」
高野は予想外の希望に、少なからず驚いた。
少女漫画誌の編集長職を務め、そこそこの実績を上げた。
年齢的にもそろそろ漫画編集からは引くべき頃合いであり、絶妙の出世のタイミングだ。
そんな打診を社長である井坂から受けて、律は迷っていたのだ。
だが出した結論は、まさかの文芸。
ここは年齢的な縛りもないし、作家との関係性もあり異動がほぼない部署だ。
つまり管理職に空きがなく、行くならおそらく一介の編集部員になるだろう。
一見すると降格にさえ見える、現実にはありえない人事である。
「でも俺、文芸で実績上げたいんですよ。小野寺出版では七光りって言われたままだから。」
「そりゃ、わからないでもないけど。」
「文芸で親関係なく売れる本を作って、それを手土産に小野寺に戻ります。」
「戻ったら、親に結婚させられて、社長を継がされるだろ。」
「社長は継ぎます!でも結婚はしません。小野寺でも実績作って親を黙らせます!」
どうやら律は覚悟を決めたらしい。
その勢いの良い宣言を聞いて、高野は笑い出した。
世襲会社の御曹司が実家を飛び出し、少女漫画を作りながら、BLよろしく同性の恋人を作って。
王道とは真逆の道を疾走してきた律は、本来の道に戻って、しかもその世界をぶち壊そうとしているのだ
「わかった。お前が小野寺に戻る時には俺も移籍する。」
「えええ~!?」
「小野寺の社長職を乗っ取ってやるよ。でもって丸川書店を越える部数を売る!」
「俺の祝勝会に、俺よりデカイ夢を語らないで下さい!」
高野と律は大いに笑い、大いに食べて飲んだ。
酒の勢いも手伝って、2人の未来の夢はどんどん大きくなっていく。
だが少しも不安はない。
なぜなら高野も律も、不可能だと思ったことを何度もやり遂げているからだ。
*****
「俺の祝勝会に、俺よりデカイ夢を語らないで下さい!」
2つ離れたテーブルから、律の声が聞こえる。
堂上はグラスを掲げながら「あっちも祝勝会なんだな」と笑った。
堂上と郁もまた祝杯を上げに来ていた。
郁の昇任の内示が出たのだ。
もうすぐ郁は二等図書正から、一等図書正に上がる。
階級章のカミツレの数も1つ増えるのだ。
ちなみに堂上は現在、その1つ上の三等図書監である。
「おめでとう。郁」
「ありがとう。でも素直に喜べないかな。」
普段はビールと日本酒が多い堂上だが、今日はボトルでワインを頼んだ。
そしてセナが「よかったらどうぞ」と炭酸水を持ってきてくれた。
郁が酒に弱いことを事前に告げたら、用意してくれたのだ。
ワインならすぐに酔ってしまうが、炭酸水で割って薄めればじっくり味わえる。
ワイン通が見れば怒るのかもしれないが、この店では客に合わせた飲み方を推奨してくれる。
かくして堂上は赤ワイン、郁はワイン風味の炭酸水で喉を潤した。
それでも真っ赤になる郁に、堂上は苦笑する。
こと酒に関しては、妻は実に安上がりだ。
逆に食べ物に関してはいくら食べても太らない、燃費の悪い身体なのだが。
「いろいろ言われているけれど、大丈夫か?」
「うん。いつものこと。気にしてないよ。」
過保護な堂上のいたわりの言葉に、郁は「篤さん、心配しすぎ」と笑った。
郁の時期外れの昇進が決まったきっかけは、律から寄贈された本だった。
たまたま偶然に、検閲抗争で持っていかれた本が律の実家に持っていることがわかった。
そして律が連絡を取ってくれて、さっそく訪問させてもらったところで驚いた。
検閲や盗難などで紛失し、二度と手に入らない絶版本がたくさんあったのだ。
それら数十冊の本が、図書館に寄贈されることになった。
その件を評価されて、一正昇進となったのだ。
だが特殊部隊の紅一点であり、堂上というエリートの夫を持つ郁は何だかんだで妬まれる。
昇進したのは決して本の寄贈だけではなく、他の業務での実績も評価されてのことだ。
だがそれを認めず、影でコソコソと噂する輩がいるのだ。
郁もすっかり慣れており、今さら痛くも痒くもないのだが。
「そんなことより、篤さん。」
「何だ?」
「あたしっていつまで特殊部隊にいられると思う?」
「・・・正直、俺にもわからんな。」
郁の昇任には、実は裏があった。
来年度に向けて、異動の打診があったのだ。
用意されていたのは武蔵野第二の防衛部の班長と、図書基地から通える小さな図書館の館長。
どちらも肩書き的には、栄転だ。
もちろんどちらもことわり、現状維持を希望するのもありだろう。
だがこんな話が来たのは、郁の特殊部隊での役割は終わりつつあるという上の判断なのだろう。
昇任はそのご褒美とでもいったところか。
今回の異動を先送りしたところで、いずれ拒否権のない辞令が来るのは逃れようもない現実だ。
「なぁ、そろそろ子供を作らないか?」
堂上はおもむろに切り出した。
今まで漠然と「いつかは」などと言ってはきたが、真剣に話すのは初めてだ。
郁は一瞬、表情を強張らせたように見えた。
だがすぐに「異動の件が決まるまで待って」と笑った。
もしかして子供は欲しくないんだろうか?
堂上は郁の表情の変化に、ふとそんなことを思う。
だがここでそれを追求することはしなかった。
今日は祝杯だし、異動の件も含めて考えたいというのは尤もなことだ。
何より堂上は郁さえそばにいてくれれば、子供がいなくてもさほど問題はないのだった。
*****
「いい歳して、知恵熱か?」
ヒル魔は呆れたようにそう言った。
だが皮肉っぽい口調とは裏腹で、その表情は優しい。
三橋はそれが嬉しくて「ウヒ」と笑った。
黒子が初めてキッチンで、調理をメインで担当した。
何度か黒子にはキッチンでサポートもさせたが、案外手際がいい。
それに篠岡が産休を取ってから、ずっとキッチンに立ち続けた三橋は疲れが溜まっているはず。
そんなヒル魔の配慮だった。
だから三橋は休んでいいはずだった。
だが当の三橋は、そういうことならホールに出たいと言い出したのだ。
店が開いている間は、ほとんどキッチンにいるのだ。
たまにはホールの雰囲気を味わいたいと。
そしてその夜、三橋は大いに楽しんだ。
高野と律は野望を語り合っていたし、堂上夫妻は妻の昇進祝いをしていた。
黒子も三橋がいなくてもちゃんとこなせていた。
セナや阿部の接客は相変わらず見事だし、全ての客が笑顔で帰っていく。
この店で働けて、幸せだ。
三橋は「カフェ・デビルバッツ」の魅力を再認識した。。。まではよかった。
翌日、目が覚めた瞬間、三橋は異変に気付いた。
発熱している。しかもかなり高い。
一緒に寝ていた阿部も、目を覚ますなり開口一番「熱あるな」と言ったほどだ。
かくして三橋は休むことになった。
黒子にはもう1日、キッチンを任せる。
水谷がサポートしてくれるし、ホールも急遽連絡して黒木と戸叶が来てくれるそうだ。
黒子が用意してくれた朝食をたべて、解熱剤を飲んだ。
後は寝るだけとベットに潜り込んだところで、部屋のドアが開いた。
「いい歳して、知恵熱か?」
ノックもせずに入ってきたヒル魔が呆れたようにそう言った。
皮肉っぽい口調とは裏腹で、その表情は優しい。
そして部屋にある椅子をベットの横に持ってきて、どっかりと腰を下ろす。
パソコンも携えてきたところを見ると、どうやら付き添ってくれるつもりらしい。
三橋はそれが嬉しくて「ウヒ」と笑った。
実は1人で寝るのが、ちょっと寂しいと思っていたのだ。
熱のせいで、心細かったのかもしれない。
だからヒル魔がいてくれると思うだけで、妙に安心する。
それから三橋はぐっすりと眠った。
次に目を覚ましたのは夕方、黒子が夕食を持ってきてくれた時だ。
ドアがノックされる音がして、黒子が「ヒル魔さんと廉君の夕食です」と声をかける。
ヒル魔が部屋のドアを開け、テーブルの上に置かれる食器の音がした。
三橋は半分寝ぼけた状態で、その音を聞いた。
「後はいい。しばらくしたら下げに来てくれるか?」
「わかりました。」
「・・・ところで黒子、水谷に変わった様子はないか?」
「さぁ。ボクに良い感情を持っていないことしかわかりません。」
「そうか。わかった。」
ヒル魔と黒子の会話を夢うつつで聞きながら、三橋はザラリとした違和感を覚えた。
なぜヒル魔が水谷のことを気にするのか。
そして黒子に良い感情を持っていないとは、どういう意味か。
だがそれも一瞬だった。
ヒル魔に「メシ、来たぞ」と声をかけられ、完全に覚醒したところで忘れてしまったのだ。
熱は下がったし、食事も美味しい。
何となく悪いことがあったような気もするが、夢か現実かもよくわからない。
それならそれでいいと深く考えず、三橋は再び眠りに落ちたのだった。
【続く】
「いらっしゃいませ。珍しいですね。」
セナは笑顔で客を出迎えた。
来店したのは最近常連になった堂上郁だ。
だがランチタイムにしか来なかった郁が夜に来たのも、夫と一緒であるのも初めてだった。
「いや、先日はお騒がせして」
堂上が申し訳なさそうに、頭を下げる。
先日、妻を尾行し、他の常連客と親し気な様子を見て嫉妬までした。
そのことを指しているのだろう。
セナは笑顔で「いえ、全然」と応じた。
日々いろいろなことが起こる「カフェ・デビルバッツ」では、あんなものは騒ぎのうちには入らない。
「あ、堂上さ~ん!」
ふと先に来ていて、すでに程よく酔っている客から声がかかった。
騒ぎの関係者でもある小野寺律だ。
例によって高野と2人で食事を楽しんでいたところだった。
「あ、小野寺さん!」
「先日はありがとうございました。」
郁と堂上がすかさず律たちのテーブルに向かうと、頭を下げる。
ここで知り合ったことが縁で、律が武蔵野第一図書館に本を寄贈したのだ。
セナはにこやかに挨拶する2組の客を見て、笑顔になった。
この店を気に入ってくれた客たちが、こんな風に親しくなるのを見るのは嬉しいものだ。
「い、いらっしゃい、ませ」
その時、テーブルを片づけていた三橋が、堂上夫妻に声をかけた。
それを見た郁が「え!?」と声を上げる。
律が「俺も驚いたんだ」と笑い、高野も頷く。
来店2回目の堂上だけが、意味がわからず首を傾げた。
「彼は普段キッチンで調理を担当してるんで、滅多にホールに出ないんですよ。」
セナが笑いながら、堂上に説明した。
もう10年以上、三橋の定位置はずっとキッチンだ。
だからホールで働く三橋に、常連客はことごとく驚いている。
ちなみにこれはヒル魔の采配だった。
調理担当は基本的に三橋がメイン、三橋が休む時には篠岡がメインでやっていた。
だが篠岡が産休に入ったことで、ずっと三橋が続けている。
篠岡の復帰まではまだ時間もかかるし、このままでは三橋に負担がかかり過ぎる。
そんな現実的な事情で、三橋はホールにいる。
だが結果的に常連客をことごとく驚かす、プチサプライズ状態になっていた。
「じゃあキッチンは?」
郁がキッチンを覗き込むと、律が「俺もそれやった」と笑う。
そのキッチンで忙しく動き回っていたのは、黒子である。
郁がまた「黒子君!?」と声をあげ、律が「俺も驚いた」と笑った。
*****
「黒子って、料理上手かったんだな。」
黒子は華麗にフライパンを振り、繊細な手つきで盛り付けをする。
そんな黒子をじっと見ているのは、水谷だった。
水谷文貴は、現在産休を取っている従業員、篠岡千代の夫である。
元々、三橋や阿部と高校時代、野球部のチームメイトだった。
実は篠岡は高校時代、阿部に想いを寄せていたという経緯もある。
そんな水谷はつい最近「カフェ・デビルバッツ」のスタッフに加わった。
水谷は会社員をしていたが、つい最近辞めたばかりだ。
この店で働く阿部たちがカッコいいと思って、自分も飲食店をやりたくなった。
その勉強のために、ここで使って欲しい。
水谷はそう言っているし、阿部たちはそれをまったく疑っていない。
だが現実はそうではなかった。
会社でいろいろ上手くいっていなかったからだ。
目立った業績も上げられないし、後輩が自分を追い越して出世していく。
そこで悩んだ末に、会社を辞めた。
そして今は夫婦共々「カフェ・デビルバッツ」の世話になっているのだ。
水谷には打算もあった。
阿部はともかく、人の良い三橋は「使ってくれ」と頼めば絶対にことわれない。
つまり最低限、無職という事態だけは避けられるだろう。
それに妻から「カフェ・デビルバッツ」」が3号店を出すらしいという話を聞いた。
友人のよしみでそこを任せてもらえれば、そこそこの高給になるのではなかろうか。
そんな気持ちで勤め始めた店だったが、現実は甘くない。
オーナーのヒル魔は、3号店を新入りの黒子に任せるつもりなのだと聞かされた。
さらにキッチンに立たせて、調理担当までさせている。
しかも小憎らしいことに、なかなか手際が良いのだ。
水谷は調理のサポートを任されているが、必要ないのではないかと思えるほどだ。
「なんかいつもこうだなぁ。」
水谷は思わず、そう呟いていた。
高校1年の時も、総勢10名のチームでレギュラー落ちの心配をしていた。
エースと正捕手だった三橋と阿部は、そんなこと考えたこともなかっただろう。
そして今回は、黒子である。
まったく立場が違うし、張り合っても仕方がない相手ではある。
それでも何だか負けたような気がして、悔しい。
「本当に飲食店、初めてなの?」
水谷は少々の負け惜しみを込めて、そう言った。
黒子は手際よく野菜を切りながら「はい」と答えた。
その声からも表情からも、相変わらず感情は見えない。
「長いこと、大メシ食らいのヒモをやってましたから。料理は得意になりました。」
「そう、なの!?」
「ええ。でも一番得意なのはゆで卵です。」
黒子は真面目な顔で、本気とも冗談ともつかないことを言う。
水谷はまたしてもなぜか負けたような気になり、心の中で「なんだよ」と悪態をついた。
*****
「そりゃダメだろ」
高野は容赦なくそう言った。
すると律は「高野さんまで同じことを言います~!?」と盛大に不満の声をあげたのだった。
高野と律は「カフェ・デビルバッツ」に来ていた。
名目は祝杯だ。
律が編集長を務める少女漫画誌「エメラルド」の売上部数が、最高記録を更新した。
だが実際はそれを理由にしたデートである。
今は職場が違う2人は、なかなか予定が合わない。
だからこそ時間をやりくりして、外でデートできる時間は貴重だった。
「最高記録、更新か」
「ええ。だけど立て直したのは高野さんでしょ。だから何しても評価が低いんですよ。」
「そうか?」
「そうですよ。まったく邪魔くさいったら!」
容赦ない律の毒舌に、高野は苦笑した。
律の言葉は、あながち被害妄想ではない。
落ち目だったエメラルドを立て直したのは、高野なのだ。
その後、部下だった羽鳥が編集長を引き継ぎ、さらに部数を伸ばした。
さらにその後任の律に関しては、ハードルが上がり過ぎている状態だ。
充分な実績は残しているのに、評価はおとなしめであることは否めない。
「で?次はどうするんだ?」
「文芸部への異動を希望してます。」
「そりゃダメだろ」
「高野さんまで同じことを言います~!?」
「井坂さんに言われたのか」
高野は予想外の希望に、少なからず驚いた。
少女漫画誌の編集長職を務め、そこそこの実績を上げた。
年齢的にもそろそろ漫画編集からは引くべき頃合いであり、絶妙の出世のタイミングだ。
そんな打診を社長である井坂から受けて、律は迷っていたのだ。
だが出した結論は、まさかの文芸。
ここは年齢的な縛りもないし、作家との関係性もあり異動がほぼない部署だ。
つまり管理職に空きがなく、行くならおそらく一介の編集部員になるだろう。
一見すると降格にさえ見える、現実にはありえない人事である。
「でも俺、文芸で実績上げたいんですよ。小野寺出版では七光りって言われたままだから。」
「そりゃ、わからないでもないけど。」
「文芸で親関係なく売れる本を作って、それを手土産に小野寺に戻ります。」
「戻ったら、親に結婚させられて、社長を継がされるだろ。」
「社長は継ぎます!でも結婚はしません。小野寺でも実績作って親を黙らせます!」
どうやら律は覚悟を決めたらしい。
その勢いの良い宣言を聞いて、高野は笑い出した。
世襲会社の御曹司が実家を飛び出し、少女漫画を作りながら、BLよろしく同性の恋人を作って。
王道とは真逆の道を疾走してきた律は、本来の道に戻って、しかもその世界をぶち壊そうとしているのだ
「わかった。お前が小野寺に戻る時には俺も移籍する。」
「えええ~!?」
「小野寺の社長職を乗っ取ってやるよ。でもって丸川書店を越える部数を売る!」
「俺の祝勝会に、俺よりデカイ夢を語らないで下さい!」
高野と律は大いに笑い、大いに食べて飲んだ。
酒の勢いも手伝って、2人の未来の夢はどんどん大きくなっていく。
だが少しも不安はない。
なぜなら高野も律も、不可能だと思ったことを何度もやり遂げているからだ。
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「俺の祝勝会に、俺よりデカイ夢を語らないで下さい!」
2つ離れたテーブルから、律の声が聞こえる。
堂上はグラスを掲げながら「あっちも祝勝会なんだな」と笑った。
堂上と郁もまた祝杯を上げに来ていた。
郁の昇任の内示が出たのだ。
もうすぐ郁は二等図書正から、一等図書正に上がる。
階級章のカミツレの数も1つ増えるのだ。
ちなみに堂上は現在、その1つ上の三等図書監である。
「おめでとう。郁」
「ありがとう。でも素直に喜べないかな。」
普段はビールと日本酒が多い堂上だが、今日はボトルでワインを頼んだ。
そしてセナが「よかったらどうぞ」と炭酸水を持ってきてくれた。
郁が酒に弱いことを事前に告げたら、用意してくれたのだ。
ワインならすぐに酔ってしまうが、炭酸水で割って薄めればじっくり味わえる。
ワイン通が見れば怒るのかもしれないが、この店では客に合わせた飲み方を推奨してくれる。
かくして堂上は赤ワイン、郁はワイン風味の炭酸水で喉を潤した。
それでも真っ赤になる郁に、堂上は苦笑する。
こと酒に関しては、妻は実に安上がりだ。
逆に食べ物に関してはいくら食べても太らない、燃費の悪い身体なのだが。
「いろいろ言われているけれど、大丈夫か?」
「うん。いつものこと。気にしてないよ。」
過保護な堂上のいたわりの言葉に、郁は「篤さん、心配しすぎ」と笑った。
郁の時期外れの昇進が決まったきっかけは、律から寄贈された本だった。
たまたま偶然に、検閲抗争で持っていかれた本が律の実家に持っていることがわかった。
そして律が連絡を取ってくれて、さっそく訪問させてもらったところで驚いた。
検閲や盗難などで紛失し、二度と手に入らない絶版本がたくさんあったのだ。
それら数十冊の本が、図書館に寄贈されることになった。
その件を評価されて、一正昇進となったのだ。
だが特殊部隊の紅一点であり、堂上というエリートの夫を持つ郁は何だかんだで妬まれる。
昇進したのは決して本の寄贈だけではなく、他の業務での実績も評価されてのことだ。
だがそれを認めず、影でコソコソと噂する輩がいるのだ。
郁もすっかり慣れており、今さら痛くも痒くもないのだが。
「そんなことより、篤さん。」
「何だ?」
「あたしっていつまで特殊部隊にいられると思う?」
「・・・正直、俺にもわからんな。」
郁の昇任には、実は裏があった。
来年度に向けて、異動の打診があったのだ。
用意されていたのは武蔵野第二の防衛部の班長と、図書基地から通える小さな図書館の館長。
どちらも肩書き的には、栄転だ。
もちろんどちらもことわり、現状維持を希望するのもありだろう。
だがこんな話が来たのは、郁の特殊部隊での役割は終わりつつあるという上の判断なのだろう。
昇任はそのご褒美とでもいったところか。
今回の異動を先送りしたところで、いずれ拒否権のない辞令が来るのは逃れようもない現実だ。
「なぁ、そろそろ子供を作らないか?」
堂上はおもむろに切り出した。
今まで漠然と「いつかは」などと言ってはきたが、真剣に話すのは初めてだ。
郁は一瞬、表情を強張らせたように見えた。
だがすぐに「異動の件が決まるまで待って」と笑った。
もしかして子供は欲しくないんだろうか?
堂上は郁の表情の変化に、ふとそんなことを思う。
だがここでそれを追求することはしなかった。
今日は祝杯だし、異動の件も含めて考えたいというのは尤もなことだ。
何より堂上は郁さえそばにいてくれれば、子供がいなくてもさほど問題はないのだった。
*****
「いい歳して、知恵熱か?」
ヒル魔は呆れたようにそう言った。
だが皮肉っぽい口調とは裏腹で、その表情は優しい。
三橋はそれが嬉しくて「ウヒ」と笑った。
黒子が初めてキッチンで、調理をメインで担当した。
何度か黒子にはキッチンでサポートもさせたが、案外手際がいい。
それに篠岡が産休を取ってから、ずっとキッチンに立ち続けた三橋は疲れが溜まっているはず。
そんなヒル魔の配慮だった。
だから三橋は休んでいいはずだった。
だが当の三橋は、そういうことならホールに出たいと言い出したのだ。
店が開いている間は、ほとんどキッチンにいるのだ。
たまにはホールの雰囲気を味わいたいと。
そしてその夜、三橋は大いに楽しんだ。
高野と律は野望を語り合っていたし、堂上夫妻は妻の昇進祝いをしていた。
黒子も三橋がいなくてもちゃんとこなせていた。
セナや阿部の接客は相変わらず見事だし、全ての客が笑顔で帰っていく。
この店で働けて、幸せだ。
三橋は「カフェ・デビルバッツ」の魅力を再認識した。。。まではよかった。
翌日、目が覚めた瞬間、三橋は異変に気付いた。
発熱している。しかもかなり高い。
一緒に寝ていた阿部も、目を覚ますなり開口一番「熱あるな」と言ったほどだ。
かくして三橋は休むことになった。
黒子にはもう1日、キッチンを任せる。
水谷がサポートしてくれるし、ホールも急遽連絡して黒木と戸叶が来てくれるそうだ。
黒子が用意してくれた朝食をたべて、解熱剤を飲んだ。
後は寝るだけとベットに潜り込んだところで、部屋のドアが開いた。
「いい歳して、知恵熱か?」
ノックもせずに入ってきたヒル魔が呆れたようにそう言った。
皮肉っぽい口調とは裏腹で、その表情は優しい。
そして部屋にある椅子をベットの横に持ってきて、どっかりと腰を下ろす。
パソコンも携えてきたところを見ると、どうやら付き添ってくれるつもりらしい。
三橋はそれが嬉しくて「ウヒ」と笑った。
実は1人で寝るのが、ちょっと寂しいと思っていたのだ。
熱のせいで、心細かったのかもしれない。
だからヒル魔がいてくれると思うだけで、妙に安心する。
それから三橋はぐっすりと眠った。
次に目を覚ましたのは夕方、黒子が夕食を持ってきてくれた時だ。
ドアがノックされる音がして、黒子が「ヒル魔さんと廉君の夕食です」と声をかける。
ヒル魔が部屋のドアを開け、テーブルの上に置かれる食器の音がした。
三橋は半分寝ぼけた状態で、その音を聞いた。
「後はいい。しばらくしたら下げに来てくれるか?」
「わかりました。」
「・・・ところで黒子、水谷に変わった様子はないか?」
「さぁ。ボクに良い感情を持っていないことしかわかりません。」
「そうか。わかった。」
ヒル魔と黒子の会話を夢うつつで聞きながら、三橋はザラリとした違和感を覚えた。
なぜヒル魔が水谷のことを気にするのか。
そして黒子に良い感情を持っていないとは、どういう意味か。
だがそれも一瞬だった。
ヒル魔に「メシ、来たぞ」と声をかけられ、完全に覚醒したところで忘れてしまったのだ。
熱は下がったし、食事も美味しい。
何となく悪いことがあったような気もするが、夢か現実かもよくわからない。
それならそれでいいと深く考えず、三橋は再び眠りに落ちたのだった。
【続く】