アイシ×おお振り×セカコイ×黒バス×図書戦【お題:仄かに暗い15題-1】
【崩壊】
「働きたいんです。できれば住み込みでお願いします。」
影の薄い男が、抑揚のない声でそう言った。
セナは「え!?」と声を上げ、阿部も言葉に詰まる。
だがヒル魔はニンマリと笑い「いつから来られる?」と聞いた。
とある日の「カフェ・デビルバッツ」でのこと。
午後にはティルーム、そして夕方にはダイニングの方に移動してきた客がいた。
つまりその客は数時間に渡って「カフェ・デビルバッツ」にいたことになる。
だが不思議なことに、誰も違和感を持たなかった。
普通、それだけ長時間店にいれば、怪しいヤツがいるという話が上がってくる。
だがその客はまったく自然に店に溶け込み、居続けたのである。
さらにその客は、ただでは帰らなかった。
ディナータイムの混雑が終わり、やや落ち着き始めた頃を見計らって声をかけてきたのだ。
しかもまさかの従業員志望だ。
そこで閉店時間まで待ってもらい、ヒル魔、セナ、阿部の3人で面接となった。
実は「カフェ・デビルバッツ」は、従業員のなり手にはさほど困っていない。
気心が知れた昔馴染みの多くが、長く働いてくれているからだ。
それでもずっと「店員募集、住み込み可」という貼り紙を出している。
それはヒル魔のやり方であり、採用基準はずばりヒル魔の趣味だ。
そしてその採用基準は「俺が面白いかどうか」という極めてわかりにくいものだった。
セナや阿部がいいと思っても、ヒル魔がダメと言えば不採用になる。
「黒子テツヤです。」
影の薄い男はそう名乗って、履歴書を差し出した。
そして「働きたいんです。できれば住み込みでお願いします」と告げる。
いやいや客商売をするには、影が薄すぎるでしょ?
セナと阿部は、こっそりとそんなことを考えた。
だがヒル魔はニンマリと笑い「いつから来られる?」と聞いた。
「いや、その前にいきなり住み込みで大丈夫?」
セナが慌てて割って入った。
すると黒子は「事情があって、至急仕事と住むところを確保したいんです」と答える。
今度は阿部が「事情って?話せることかな?」と聞いた。
黒子は「はい」と頷くと、意外な事情をぶちまけた。
「ボク、今までヒモやってたんですけど。」
「ヒモって」
「恋人と一緒に住んで、恋人の稼ぎで生活してました。」
「・・・それで?」
「その恋人に浮気されたんで、仕事と住処が必要になりました。」
黒子が醸し出す地味で平凡な世界感を崩壊させるような、ヘビーな身の上だ。
セナと阿部は思わず黙り込んだ。
あのヒル魔でさえ、一瞬だがキョトンとした顔になる。
だがすぐに「ケケケ」と爆笑した。
そして「いつでもいいから、引っ越して来い!」と宣言したのだった。
かくして異様に影が薄い男が「カフェ・デビルバッツ」に加わった。
こうして店にはまた新たな風が吹くことになったのだった。
*****
「いらっしゃいませ」
メニューを差し出された郁は「うわわ!」と声を上げていた。
目の前に来るまで、その店員の気配をまったく感じなかったからだ。
たまたま偶然見つけた店「カフェ・デビルバッツ」。
郁はこの店を気に入り、公休日の度に訪れるようになった。
たっぷりとボリュームがあって、しかも野菜たっぷりの健康的なメニューが気に入った。
それに店員たちもみな愉快で、楽しい店の雰囲気もよかった。
「黒子君、お客様を驚かしたらダメだよ。」
セナが笑いながら、黒子と呼ばれた影の薄い店員を嗜める。
黒子は表情も変えずに「そんなつもりはないんですが」と答えた。
「黒子君?初めまして!」
「常連さんの堂上郁さんだよ。ここでは郁さんね。」
郁が挨拶すると、セナがすかさず紹介する。
そして郁には「郁さん、彼は新人の黒子テツヤ君」と教えてくれたのだが。
「黒子テツヤ。。。どこかで聞いたような」
郁は首を傾げた。
すると黒子は無表情なまま「昔、バスケ選手でした」と告げる。
そこで郁は「キセキの世代、幻のシックスマン!」と声を上げた。
そのリアクションを見たセナが「さすが、知ってるんだ」と驚いている。
「黒子君も有名人だったんだね~!」
「アイシールド21には、言われたくないです。」
セナと黒子の絶妙な掛け合いに、郁はクスリと笑った。
そして「日替わりランチ、大盛りで!」とオーダーする。
黒子とセナは「かしこまりました」と一礼し、テーブルを離れていった。
「何かこの店、お得感があるかも!」
郁はセナと黒子が話しているのを見ながら、ひとりごちた。
アイシールド21とキセキの世代、幻のシックスマンがウエイターを務める店。
興味がない人には「だから?」って感じなのかもしれないが、アスリート好きにはたまらないはずだ。
程なくしてランチが運ばれてきた。
郁は「よぉし、食べるぞ!」と気合いを入れると、箸を取った。
この店ではナイフフォークか、箸かを自由に選ぶことができる。
そんな気取らない感じも、この店の人気の1つだったりする。
ちなみに郁は断然、箸派だ。
いつも通りにがっつりと食べ終わったところで、お茶とケーキが運ばれてきた。
これはメニュー外なのだが、三橋がいつもサービスしてくれる。
香りのいいミルクティと、野菜を使ったシフォンケーキだ。
こんなにサービスして、この店の経営大丈夫なのかしら。
郁がそんなことを考えた時、店のドアが開いた。
入ってきたのは、お腹の大きな女性だった。
セナが「千代ちゃん、いらっしゃい」と声をかけた。
阿部も「篠岡、出歩いてて大丈夫なのかよ」と説教がましい口調になる。
女性は「予定は来月だし、大丈夫だよ~」と笑顔で答えた。
赤ちゃん、生まれるんだ。
そう思った途端、郁の涙腺が唐突に崩壊した。
妊娠は郁の現在の悩みと関わりがあるからだ。
ああ、ダメだ。こんなところで泣いちゃ。
そう思うのだが、涙が後から後からこぼれて、とまらない。
「大丈夫ですか」
黒子がまた気配なくやって来ると、テーブルにそっとティッシュの箱を置いてくれた。
そしてさりげなく、郁に背を向けて立つ。
他の客や従業員から郁が見えないように、衝立代わりになってくれているのだ。
郁は涙声で「ありがとう」と告げると、ティッシュで涙を拭いた。
*****
「千代ちゃん、いらっしゃい」
「篠岡、出歩いてて大丈夫なのかよ」
セナと阿部が交互に声をかけてくれる。
千代は「予定は来月だし、大丈夫だよ~」と笑顔で答えた。
旧姓、篠岡千代は「カフェ・デビルバッツ」の従業員だ。
元々は阿部や三橋と同じ高校であり、野球部のマネージャーを務めていた。
それが縁で「カフェ・デビルバッツ」に顔を出すようになったのだ。
今では同じ野球部のチームメイトと結婚し、水谷千代となっている。
主婦であり、すでに子供が1人いる千代はパートタイムで働いている。
結婚生活や子育てに無理がない範囲で、家計を助けたい千代。
そして千代の誠実で丁寧な接客を知る「カフェ・デビルバッツ」としても得難い。
双方の希望が叶った雇用契約である。
だがその千代も現在2人目を妊娠して、産休中だ。
千代は産むギリギリまで働くつもりだった。
1人目の出産のときは大事を取って、早い時期から産休を取っていた。
でも2人目は気持ちにも余裕があるし、大丈夫だと。
とはいえ立ちっぱなしだし、運ぶ料理だって地味に重いし、身体には負担がかかる。
だからしっかり子供を産んでから復帰しろと、ヒル魔の鶴の一声がかかり、結局長い産休になっている。
「何か、食べる~?」
キッチンから、三橋が声をかけてきた。
気楽な客として来店した千代に、店のスタッフたちは優しい。
だが千代は「ううん。食事はしたからティルームに行くね」と答えた。
最初にダイニングの方に来たのは、挨拶がてらみんなの顔を見るためだ。
「あ、千代ちゃん。いらっしゃい~!」
ティルームの方に移るなり、声をかけてきたのはスタッフの鈴音だった。
かつてセナやヒル魔が高校時代、アメフト部でチアリーダーをしていた女性だ。
「鈴音さん、こんにちは。」
「モンジ~!千代ちゃんが来たよ~!」
鈴音がすかさず、ティルームのキッチンを仕切る十文字に声をかける。
十文字は阿部同様「出歩いてて大丈夫なのか?」とぶっきらぼうに心配してくれた。
テーブルにつくなり、出されたのはホットミルクだった。
妊婦にカフェインはよくないからという気遣いだ。
そして千代の好きなミックスベリーのパフェ。
鈴音はそれをテーブルに置きながら「モンジから。元気な子が生まれるようにだって」と笑う。
まったく気前がいい店だ。
千代は「ありがとうございます」と手を合わせて、スプーンでパフェを崩し始めた。
綺麗に作ったパフェを崩壊させるのは忍びないが、やはり食欲優先だ。
「お向かいって空き家になったの?」
パフェを制圧した千代は、ホットミルクのお代わりを持ってきてくれた鈴音にそう聞いた。
ティルームの向かいは、確か雑貨店だったはずだ。
だが今は看板も外されており、外には「売家」の札が出ていた。
「うん。3か月前かな。閉店しちゃった。さっそく妖ー兄が買おうとしているみたい。」
鈴音は未だに高校時代の独自の呼び名を使っている。
例えば「妖ー兄」はヒル魔、「モンジ」は十文字のことだ。
「え?ヒル魔さんが買うの?」
「2号店のここも繁盛したし、3号店やるつもりなんじゃない?」
「お金って、あるところにはあるのね。」
千代はポツリとそう呟くと、通り越しに件の空き家を見た。
その「3号店」がちょっとした騒動の元となるのは、もう少し先の話だった。
*****
「やってられっかぁぁぁ~!」
悪酔いした律は、盛大に管を巻いた。
高野は「オイコラ、世間の迷惑だ!」と頭を叩く。
すると律はそのままの勢いでテーブルに突っ伏し、スヤスヤと寝息を立て始めた。
深夜の「カフェ・デビルバッツ」。
常連の小野寺律と高野政宗が、窓際の席で飲んでいる。
すでに閉店時間は過ぎており、他の客はもういない。
だがその辺り、この店は実におおらかだ。
店はすでに片づけに入っているので、凝った料理は出せないし、掃除や洗い物の音もする。
それさえ気にならないなら別にいてくれても、かまわないというノリだ。
たまに電車がなくなったから始発まで寝かせてくれなんて客もいるが、そういうのも基本OKだったりする。
てなわけで高野と律は、片づけの物音が響く中、2人で絶賛飲み会中だ。
この2人は特にそれが多い。
かつては少女漫画誌「エメラルド」の編集長と新人編集だった2人。
だが今、高野は全然ジャンルの違うビジネス誌で編集長をしている。
ちなみに現在、売り上げ好調な「エメラルド」の編集長を務めるのは、律である。
初めて郁が酔い潰れていたのを見た時には、店のスタッフ一同が驚愕した。
いつも礼儀正しい美貌の青年の顔が崩壊し、見事な酔っ払いになったのだから。
高野は平然と「こいつ、からみ酒グチ派の最悪なヤツなんだよ」と言い放つ。
それでもそんな様子もどこか可愛らしいのだから、美人はやはり得ということだろう。
職場も別々になり、お互いに編集長になった今。
高野と律にとって、2人でこんな風にハメを外して飲む機会は貴重だった。
未だにマンションの隣同士に住む2人は、部屋飲みをすることだってある。
だがやはりお気に入りの店で、飲んで食べるのは格別なのだ。
美味い料理と酒と、愉快なスタッフの笑顔。
何より2人が恋人同士であることを知っていて、暖かい目で見てくれる。
それが無性に心地よくて、気分よく楽しめるのだ。
「も~、そろそろぉ、年齢的にぃ、少女漫画はキツいだろってぇぇ!」
「まぁな。40男が乙女な雑誌作るのは、無理あるもんな。」
「井坂さんがぁ、そろそろぉ、小野寺出版にぃ、戻る頃だろってぇぇ!」
「まぁ言うだろうな。あの人なら。」
井坂龍一郎は、高野や律が勤務する丸川書店の社長だ。
小野寺出版を経営する律の父親とも、ゴルフ仲間である。
律の両親が、律を後継者にするつもりであることも知っている。
だから年齢的な問題で「エメラルド」の編集長を退き、戻ったらどうかと打診してきたのだ。
そして律は荒れているのである。
「俺、丸川にはいらない人材、なんれすかぁ~!?」
「そうじゃないだろ。だけど優秀な編集者はたくさんいるが、小野寺の御曹司はお前だけだからなぁ。」
「高野さんまで、そんなこと言うんれすかぁぁ~!?やってられっかぁぁぁ~!」
「オイコラ、世間の迷惑だ!」
高野が律の頭を叩くと、律はそのままの勢いでテーブルに突っ伏し、スヤスヤと寝息を立て始めた。
言うだけ言って、見事な寝落ちである。
高野はガックリと肩を落とすと、ため息をついた。
いつか律が小野寺出版に戻り、社長を継ぐ。
それは高野と律の関係の終わりを意味していた。
なぜなら小野寺出版は典型的な同族企業であり、一人息子の律は嫁を娶って後継ぎを作ることを求められているからだ。
「高野さん、よかったら車を出しましょうか?」
律が寝てしまったタイミングを見て、阿部が声をかけてきた。
もう電車も終わってしまったので、家まで送ろうかと言ってくれているのだ。
高野は「悪いけど、頼める?」と告げると、阿部は「喜んで」と笑った。
まったくサービスが行き届いている。
高野は会計を済ませると、完全に熟睡モードに入った律を背負った。
背中で「ふざけんなよ~」と寝言を放つ律に「お前だ、バカ」と言い返した。
*****
「妊娠はしてないみたいだぞ。」
ヒル魔は事もなげにそう告げた。
阿部は「個人情報って言葉、知ってます?」と聞き返し、セナも「プライバシーの侵害ですね」と苦笑する。
だがヒル魔が楽しんでやっていることではないとわかっていた。
阿部が車を出し、高野と律を自宅まで送り届けてから戻ってきた。
その頃には店の片付けも終わり、通いの従業員たちは引き上げている。
ホールに残っているのはヒル魔とセナ、阿部と三橋、そして黒子だった。
彼らが懸念していたのは、最近常連になった女性客、堂上郁だった。
同じく常連の小野寺律から、図書隊員であり既婚者であると聞いた。
事実、郁の左手薬指には結婚指輪がはめられている。
だが当の郁は、家のことを話題にされるのを嫌がっている節がある。
他愛もない雑談でも、話題が家族に向きそうになると逸らせようとするのだ。
そんな郁が、今日たまたま来店した千代を見た途端、泣き出した。
黒子が咄嗟に機転を利かせ、阿部やセナは気付かない振りをした。
だがそんな中、心配は残った。
千代は来月出産予定であり、誰が見てもはっきりわかる妊婦だ。
それを見て泣き出したということは、郁も妊娠しているのではないか?
もしかして望まない妊娠で、家族の話に触れたくないとか?
無駄に想像力が働く「カフェ・デビルバッツ」のスタッフは、考え込んでしまった。
別に郁が妊娠していようと、関係ないと言えば関係ない。
だが妊婦なら、食材だって気を付けなければならない。
万が一にも店内で転倒事故でもあったらと思うと、やはり気にかかるのだ。
そんなときに役に立つのが、ヒル魔の情報網だった。
ハッキング技術にも長けており、あちこちに情報屋も持っている。
だから大抵の情報なら、居ながらにしてわかってしまうのだ。
そして今回も、ものの数時間で調べ上げてしまった。
堂上郁が産婦人科で受診していないこと、そして関東図書基地では通常勤務に就いていることもだ。
「何か、勝手に調べるのってものすごい罪悪感だよね。」
「でもまぁ妊娠してるかもって、余計な心配するのも疲れますから」
「本人、に、聞き、にくい、雰囲気、だし」
セナと阿部、三橋が顔を見合わせて口々にそう言った。
黒子は「何か余計なお世話って気もしますけど」と身も蓋もないことを言う。
だがヒル魔が「これですっきりしただろ」と告げれば、おしまいだ。
個人情報だのプライバシーだのの理論武装は、一瞬で崩壊である。
「それより問題が出たぞ。」
ヒル魔はさもついでと言わんばかりの口調で、そう言った。
セナが「郁さんがですか?」と聞き返すと、ヒル魔が「違う。篠岡の方だ」と答える。
未だに多くのスタッフに旧姓で呼ばれる、現在産休中の水谷千代。
ヒル魔は郁の情報収集の過程で、違う問題を拾ってしまったらしい。
「まぁ、杞憂に終わるといいけどな。」
ヒル魔は思わせぶりにそう言い放つと、さっさと自室に引き上げてしまった。
残された面々は顔を見合わせるとため息をつき、誰からともなく「まぁなるようになるよね」と呟いた。
【続く】
「働きたいんです。できれば住み込みでお願いします。」
影の薄い男が、抑揚のない声でそう言った。
セナは「え!?」と声を上げ、阿部も言葉に詰まる。
だがヒル魔はニンマリと笑い「いつから来られる?」と聞いた。
とある日の「カフェ・デビルバッツ」でのこと。
午後にはティルーム、そして夕方にはダイニングの方に移動してきた客がいた。
つまりその客は数時間に渡って「カフェ・デビルバッツ」にいたことになる。
だが不思議なことに、誰も違和感を持たなかった。
普通、それだけ長時間店にいれば、怪しいヤツがいるという話が上がってくる。
だがその客はまったく自然に店に溶け込み、居続けたのである。
さらにその客は、ただでは帰らなかった。
ディナータイムの混雑が終わり、やや落ち着き始めた頃を見計らって声をかけてきたのだ。
しかもまさかの従業員志望だ。
そこで閉店時間まで待ってもらい、ヒル魔、セナ、阿部の3人で面接となった。
実は「カフェ・デビルバッツ」は、従業員のなり手にはさほど困っていない。
気心が知れた昔馴染みの多くが、長く働いてくれているからだ。
それでもずっと「店員募集、住み込み可」という貼り紙を出している。
それはヒル魔のやり方であり、採用基準はずばりヒル魔の趣味だ。
そしてその採用基準は「俺が面白いかどうか」という極めてわかりにくいものだった。
セナや阿部がいいと思っても、ヒル魔がダメと言えば不採用になる。
「黒子テツヤです。」
影の薄い男はそう名乗って、履歴書を差し出した。
そして「働きたいんです。できれば住み込みでお願いします」と告げる。
いやいや客商売をするには、影が薄すぎるでしょ?
セナと阿部は、こっそりとそんなことを考えた。
だがヒル魔はニンマリと笑い「いつから来られる?」と聞いた。
「いや、その前にいきなり住み込みで大丈夫?」
セナが慌てて割って入った。
すると黒子は「事情があって、至急仕事と住むところを確保したいんです」と答える。
今度は阿部が「事情って?話せることかな?」と聞いた。
黒子は「はい」と頷くと、意外な事情をぶちまけた。
「ボク、今までヒモやってたんですけど。」
「ヒモって」
「恋人と一緒に住んで、恋人の稼ぎで生活してました。」
「・・・それで?」
「その恋人に浮気されたんで、仕事と住処が必要になりました。」
黒子が醸し出す地味で平凡な世界感を崩壊させるような、ヘビーな身の上だ。
セナと阿部は思わず黙り込んだ。
あのヒル魔でさえ、一瞬だがキョトンとした顔になる。
だがすぐに「ケケケ」と爆笑した。
そして「いつでもいいから、引っ越して来い!」と宣言したのだった。
かくして異様に影が薄い男が「カフェ・デビルバッツ」に加わった。
こうして店にはまた新たな風が吹くことになったのだった。
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「いらっしゃいませ」
メニューを差し出された郁は「うわわ!」と声を上げていた。
目の前に来るまで、その店員の気配をまったく感じなかったからだ。
たまたま偶然見つけた店「カフェ・デビルバッツ」。
郁はこの店を気に入り、公休日の度に訪れるようになった。
たっぷりとボリュームがあって、しかも野菜たっぷりの健康的なメニューが気に入った。
それに店員たちもみな愉快で、楽しい店の雰囲気もよかった。
「黒子君、お客様を驚かしたらダメだよ。」
セナが笑いながら、黒子と呼ばれた影の薄い店員を嗜める。
黒子は表情も変えずに「そんなつもりはないんですが」と答えた。
「黒子君?初めまして!」
「常連さんの堂上郁さんだよ。ここでは郁さんね。」
郁が挨拶すると、セナがすかさず紹介する。
そして郁には「郁さん、彼は新人の黒子テツヤ君」と教えてくれたのだが。
「黒子テツヤ。。。どこかで聞いたような」
郁は首を傾げた。
すると黒子は無表情なまま「昔、バスケ選手でした」と告げる。
そこで郁は「キセキの世代、幻のシックスマン!」と声を上げた。
そのリアクションを見たセナが「さすが、知ってるんだ」と驚いている。
「黒子君も有名人だったんだね~!」
「アイシールド21には、言われたくないです。」
セナと黒子の絶妙な掛け合いに、郁はクスリと笑った。
そして「日替わりランチ、大盛りで!」とオーダーする。
黒子とセナは「かしこまりました」と一礼し、テーブルを離れていった。
「何かこの店、お得感があるかも!」
郁はセナと黒子が話しているのを見ながら、ひとりごちた。
アイシールド21とキセキの世代、幻のシックスマンがウエイターを務める店。
興味がない人には「だから?」って感じなのかもしれないが、アスリート好きにはたまらないはずだ。
程なくしてランチが運ばれてきた。
郁は「よぉし、食べるぞ!」と気合いを入れると、箸を取った。
この店ではナイフフォークか、箸かを自由に選ぶことができる。
そんな気取らない感じも、この店の人気の1つだったりする。
ちなみに郁は断然、箸派だ。
いつも通りにがっつりと食べ終わったところで、お茶とケーキが運ばれてきた。
これはメニュー外なのだが、三橋がいつもサービスしてくれる。
香りのいいミルクティと、野菜を使ったシフォンケーキだ。
こんなにサービスして、この店の経営大丈夫なのかしら。
郁がそんなことを考えた時、店のドアが開いた。
入ってきたのは、お腹の大きな女性だった。
セナが「千代ちゃん、いらっしゃい」と声をかけた。
阿部も「篠岡、出歩いてて大丈夫なのかよ」と説教がましい口調になる。
女性は「予定は来月だし、大丈夫だよ~」と笑顔で答えた。
赤ちゃん、生まれるんだ。
そう思った途端、郁の涙腺が唐突に崩壊した。
妊娠は郁の現在の悩みと関わりがあるからだ。
ああ、ダメだ。こんなところで泣いちゃ。
そう思うのだが、涙が後から後からこぼれて、とまらない。
「大丈夫ですか」
黒子がまた気配なくやって来ると、テーブルにそっとティッシュの箱を置いてくれた。
そしてさりげなく、郁に背を向けて立つ。
他の客や従業員から郁が見えないように、衝立代わりになってくれているのだ。
郁は涙声で「ありがとう」と告げると、ティッシュで涙を拭いた。
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「千代ちゃん、いらっしゃい」
「篠岡、出歩いてて大丈夫なのかよ」
セナと阿部が交互に声をかけてくれる。
千代は「予定は来月だし、大丈夫だよ~」と笑顔で答えた。
旧姓、篠岡千代は「カフェ・デビルバッツ」の従業員だ。
元々は阿部や三橋と同じ高校であり、野球部のマネージャーを務めていた。
それが縁で「カフェ・デビルバッツ」に顔を出すようになったのだ。
今では同じ野球部のチームメイトと結婚し、水谷千代となっている。
主婦であり、すでに子供が1人いる千代はパートタイムで働いている。
結婚生活や子育てに無理がない範囲で、家計を助けたい千代。
そして千代の誠実で丁寧な接客を知る「カフェ・デビルバッツ」としても得難い。
双方の希望が叶った雇用契約である。
だがその千代も現在2人目を妊娠して、産休中だ。
千代は産むギリギリまで働くつもりだった。
1人目の出産のときは大事を取って、早い時期から産休を取っていた。
でも2人目は気持ちにも余裕があるし、大丈夫だと。
とはいえ立ちっぱなしだし、運ぶ料理だって地味に重いし、身体には負担がかかる。
だからしっかり子供を産んでから復帰しろと、ヒル魔の鶴の一声がかかり、結局長い産休になっている。
「何か、食べる~?」
キッチンから、三橋が声をかけてきた。
気楽な客として来店した千代に、店のスタッフたちは優しい。
だが千代は「ううん。食事はしたからティルームに行くね」と答えた。
最初にダイニングの方に来たのは、挨拶がてらみんなの顔を見るためだ。
「あ、千代ちゃん。いらっしゃい~!」
ティルームの方に移るなり、声をかけてきたのはスタッフの鈴音だった。
かつてセナやヒル魔が高校時代、アメフト部でチアリーダーをしていた女性だ。
「鈴音さん、こんにちは。」
「モンジ~!千代ちゃんが来たよ~!」
鈴音がすかさず、ティルームのキッチンを仕切る十文字に声をかける。
十文字は阿部同様「出歩いてて大丈夫なのか?」とぶっきらぼうに心配してくれた。
テーブルにつくなり、出されたのはホットミルクだった。
妊婦にカフェインはよくないからという気遣いだ。
そして千代の好きなミックスベリーのパフェ。
鈴音はそれをテーブルに置きながら「モンジから。元気な子が生まれるようにだって」と笑う。
まったく気前がいい店だ。
千代は「ありがとうございます」と手を合わせて、スプーンでパフェを崩し始めた。
綺麗に作ったパフェを崩壊させるのは忍びないが、やはり食欲優先だ。
「お向かいって空き家になったの?」
パフェを制圧した千代は、ホットミルクのお代わりを持ってきてくれた鈴音にそう聞いた。
ティルームの向かいは、確か雑貨店だったはずだ。
だが今は看板も外されており、外には「売家」の札が出ていた。
「うん。3か月前かな。閉店しちゃった。さっそく妖ー兄が買おうとしているみたい。」
鈴音は未だに高校時代の独自の呼び名を使っている。
例えば「妖ー兄」はヒル魔、「モンジ」は十文字のことだ。
「え?ヒル魔さんが買うの?」
「2号店のここも繁盛したし、3号店やるつもりなんじゃない?」
「お金って、あるところにはあるのね。」
千代はポツリとそう呟くと、通り越しに件の空き家を見た。
その「3号店」がちょっとした騒動の元となるのは、もう少し先の話だった。
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「やってられっかぁぁぁ~!」
悪酔いした律は、盛大に管を巻いた。
高野は「オイコラ、世間の迷惑だ!」と頭を叩く。
すると律はそのままの勢いでテーブルに突っ伏し、スヤスヤと寝息を立て始めた。
深夜の「カフェ・デビルバッツ」。
常連の小野寺律と高野政宗が、窓際の席で飲んでいる。
すでに閉店時間は過ぎており、他の客はもういない。
だがその辺り、この店は実におおらかだ。
店はすでに片づけに入っているので、凝った料理は出せないし、掃除や洗い物の音もする。
それさえ気にならないなら別にいてくれても、かまわないというノリだ。
たまに電車がなくなったから始発まで寝かせてくれなんて客もいるが、そういうのも基本OKだったりする。
てなわけで高野と律は、片づけの物音が響く中、2人で絶賛飲み会中だ。
この2人は特にそれが多い。
かつては少女漫画誌「エメラルド」の編集長と新人編集だった2人。
だが今、高野は全然ジャンルの違うビジネス誌で編集長をしている。
ちなみに現在、売り上げ好調な「エメラルド」の編集長を務めるのは、律である。
初めて郁が酔い潰れていたのを見た時には、店のスタッフ一同が驚愕した。
いつも礼儀正しい美貌の青年の顔が崩壊し、見事な酔っ払いになったのだから。
高野は平然と「こいつ、からみ酒グチ派の最悪なヤツなんだよ」と言い放つ。
それでもそんな様子もどこか可愛らしいのだから、美人はやはり得ということだろう。
職場も別々になり、お互いに編集長になった今。
高野と律にとって、2人でこんな風にハメを外して飲む機会は貴重だった。
未だにマンションの隣同士に住む2人は、部屋飲みをすることだってある。
だがやはりお気に入りの店で、飲んで食べるのは格別なのだ。
美味い料理と酒と、愉快なスタッフの笑顔。
何より2人が恋人同士であることを知っていて、暖かい目で見てくれる。
それが無性に心地よくて、気分よく楽しめるのだ。
「も~、そろそろぉ、年齢的にぃ、少女漫画はキツいだろってぇぇ!」
「まぁな。40男が乙女な雑誌作るのは、無理あるもんな。」
「井坂さんがぁ、そろそろぉ、小野寺出版にぃ、戻る頃だろってぇぇ!」
「まぁ言うだろうな。あの人なら。」
井坂龍一郎は、高野や律が勤務する丸川書店の社長だ。
小野寺出版を経営する律の父親とも、ゴルフ仲間である。
律の両親が、律を後継者にするつもりであることも知っている。
だから年齢的な問題で「エメラルド」の編集長を退き、戻ったらどうかと打診してきたのだ。
そして律は荒れているのである。
「俺、丸川にはいらない人材、なんれすかぁ~!?」
「そうじゃないだろ。だけど優秀な編集者はたくさんいるが、小野寺の御曹司はお前だけだからなぁ。」
「高野さんまで、そんなこと言うんれすかぁぁ~!?やってられっかぁぁぁ~!」
「オイコラ、世間の迷惑だ!」
高野が律の頭を叩くと、律はそのままの勢いでテーブルに突っ伏し、スヤスヤと寝息を立て始めた。
言うだけ言って、見事な寝落ちである。
高野はガックリと肩を落とすと、ため息をついた。
いつか律が小野寺出版に戻り、社長を継ぐ。
それは高野と律の関係の終わりを意味していた。
なぜなら小野寺出版は典型的な同族企業であり、一人息子の律は嫁を娶って後継ぎを作ることを求められているからだ。
「高野さん、よかったら車を出しましょうか?」
律が寝てしまったタイミングを見て、阿部が声をかけてきた。
もう電車も終わってしまったので、家まで送ろうかと言ってくれているのだ。
高野は「悪いけど、頼める?」と告げると、阿部は「喜んで」と笑った。
まったくサービスが行き届いている。
高野は会計を済ませると、完全に熟睡モードに入った律を背負った。
背中で「ふざけんなよ~」と寝言を放つ律に「お前だ、バカ」と言い返した。
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「妊娠はしてないみたいだぞ。」
ヒル魔は事もなげにそう告げた。
阿部は「個人情報って言葉、知ってます?」と聞き返し、セナも「プライバシーの侵害ですね」と苦笑する。
だがヒル魔が楽しんでやっていることではないとわかっていた。
阿部が車を出し、高野と律を自宅まで送り届けてから戻ってきた。
その頃には店の片付けも終わり、通いの従業員たちは引き上げている。
ホールに残っているのはヒル魔とセナ、阿部と三橋、そして黒子だった。
彼らが懸念していたのは、最近常連になった女性客、堂上郁だった。
同じく常連の小野寺律から、図書隊員であり既婚者であると聞いた。
事実、郁の左手薬指には結婚指輪がはめられている。
だが当の郁は、家のことを話題にされるのを嫌がっている節がある。
他愛もない雑談でも、話題が家族に向きそうになると逸らせようとするのだ。
そんな郁が、今日たまたま来店した千代を見た途端、泣き出した。
黒子が咄嗟に機転を利かせ、阿部やセナは気付かない振りをした。
だがそんな中、心配は残った。
千代は来月出産予定であり、誰が見てもはっきりわかる妊婦だ。
それを見て泣き出したということは、郁も妊娠しているのではないか?
もしかして望まない妊娠で、家族の話に触れたくないとか?
無駄に想像力が働く「カフェ・デビルバッツ」のスタッフは、考え込んでしまった。
別に郁が妊娠していようと、関係ないと言えば関係ない。
だが妊婦なら、食材だって気を付けなければならない。
万が一にも店内で転倒事故でもあったらと思うと、やはり気にかかるのだ。
そんなときに役に立つのが、ヒル魔の情報網だった。
ハッキング技術にも長けており、あちこちに情報屋も持っている。
だから大抵の情報なら、居ながらにしてわかってしまうのだ。
そして今回も、ものの数時間で調べ上げてしまった。
堂上郁が産婦人科で受診していないこと、そして関東図書基地では通常勤務に就いていることもだ。
「何か、勝手に調べるのってものすごい罪悪感だよね。」
「でもまぁ妊娠してるかもって、余計な心配するのも疲れますから」
「本人、に、聞き、にくい、雰囲気、だし」
セナと阿部、三橋が顔を見合わせて口々にそう言った。
黒子は「何か余計なお世話って気もしますけど」と身も蓋もないことを言う。
だがヒル魔が「これですっきりしただろ」と告げれば、おしまいだ。
個人情報だのプライバシーだのの理論武装は、一瞬で崩壊である。
「それより問題が出たぞ。」
ヒル魔はさもついでと言わんばかりの口調で、そう言った。
セナが「郁さんがですか?」と聞き返すと、ヒル魔が「違う。篠岡の方だ」と答える。
未だに多くのスタッフに旧姓で呼ばれる、現在産休中の水谷千代。
ヒル魔は郁の情報収集の過程で、違う問題を拾ってしまったらしい。
「まぁ、杞憂に終わるといいけどな。」
ヒル魔は思わせぶりにそう言い放つと、さっさと自室に引き上げてしまった。
残された面々は顔を見合わせるとため息をつき、誰からともなく「まぁなるようになるよね」と呟いた。
【続く】