アイシ×おお振り×セカコイ×黒バス×図書戦【お題:仄かに暗い15題-1】
【存在価値】
「今日は調子がいいんですか?」
久しぶりに店に出てきたヒル魔に、阿部は声をかけた。
ヒル魔は穏やかな笑顔で「そうだな」と答えた。
東京某所にある「カフェ・デビルバッツ」は、開店20周年を迎えた。
ボリュームがありながらも、野菜を多く使ったヘルシーなメニュー。
しかも値段はリーズナブルで、味も美味。
雑誌やネットのランキングなどでも、常に上位にランクされる有名店だ。
店を切り盛りするのは、店長の阿部隆也とシェフの三橋廉だ。
かつて高校球児でありバッテリーを組んでいた2人は、実は恋人同士である。
2人がこの店で働き始めたのはほとんど成り行きであり、決して最初から目指した道ではない。
それでも2人とも意外なほど、この仕事に適性があった。
食べることが大好きな三橋の料理は、絶品と評価が高い。
それに高校時代、捕手として相手選手の分析を得意とした阿部は、客との距離の取り方が上手いのだ。
店内は基本的には、アメリカンテイストだ。
開店当初はカジノ仕様であり、ルーレットテーブルやらピンボールのマシンがあったりした。
だが今は壁にダーツボードが掛かっているだけだ。
これに関して、オーナーのヒル魔は最後まで地味に抵抗していた。
当初のインテリアは、完全にヒル魔の趣味だからだ。
だがオーナーの恋人であり、今ではこの店の従業員であるセナに一喝された。
曰く「お客様が増えてるんです!ヒル魔さんの趣味より、客席を増やすのが優先ですよ」と。
そのヒル魔は長く体調を崩している。
だから住居にしている2階の部屋で、寝ていることが多い。
それでも体調が良いときは、こうして店に降りてくる。
常連客の小野寺律などは心得ていて「今日はヒル魔さんがいる。ラッキー♪」などと喜ぶ。
ヒル魔は「俺はレアキャラか」と文句を言いつつ、そんなやりとりを楽しんでいた。
世捨て人のように生きる蛭魔だが、そんな形で自分の存在価値を見出しているのかもしれない。
朝10時になると、阿部は店の表の札を「営業中」に変えた。
公式な開店時間は10時だが、それより前に「朝ごはん食べさせて」とやって来る常連客も多い。
7時くらいから仕込みを始めており、その間ドアはもう開けているからだ。
そして「おまかせでよければ」という条件付きで、食事を出したりする。
だがこの日はレアキャラのヒル魔以外、時間前の客はいなかった。
「いらっしゃいませ」
程なくして現れた朝一番の客に、阿部は声をかけた。
おそらく30代前半の女性客が1人。
阿部は見覚えがないし、店に入るなりキョロキョロしているところを見ると、初めての客だろう。
「お食事ですか?それとも喫茶ですか?」
阿部はにこやかに声をかけた。
高校時代タレ目のくせに目付きが悪いと評された顔も、客商売が長ければ温和になる。
女性客はその笑顔にホッとした様子で「食事します」と告げた。
*****
「いらっしゃいませ」
男性店員に声をかけられ、郁はキョロキョロと店内を見回した。
郁がこの店に入ったのは、ほとんど偶然だった。
「お食事ですか?それとも喫茶ですか?」
店員が親し気だが馴れ馴れしくない、絶妙の距離感で聞いてきた。
郁は「食事します」と即答した。
自分の存在価値に悩んでいるときでさえ、お腹はすく。
店員は「かしこまりました」と告げると、窓際の席に誘導してくれた。
「メニューをどうぞ」
席に着くなり、同じ店員が水を入れたグラスとメニューをテーブルに置く。
郁は「日替わりランチを1つ」と注文した。
初めての店では無難なものを頼むとしたものだろう。
いつものくせで「大盛り」と付け加えようとしたが、これまた初めての店なので控えた。
店員は「かしこまりました」と一礼すると、メニューを持って下がっていく。
丁寧だが押しつけがましくない接客に、郁の中で点数が上がった。
この店は郁が勤務する関東図書基地から、徒歩で30分程の距離だ。
しかも図書基地から駅やコンビニ、スーパーなど繁華街へ行く方角とは逆なのだ。
つまり近所ではあるけれど、微妙に不便な場所だ。
だから郁のみならず、多くの図書隊員からはノーマーク。
正直なところ、郁は今の今までこの店の存在さえ知らなかった。
「お待たせいたしました。失礼いたします。」
程なくして運ばれてきたランチを見て、郁はギョッとした。
かなり盛りがいいのだ。
郁は思わず「あたし、大盛りって言いましたっけ?」と聞いてしまうほどだ。
だが店員は「いえ、当店ではこれが普通の盛りですので」と笑った。
ランチは問題なく、美味だった。
ポークチョップと、白身魚のソテーという贅沢な組み合わせ。
脂っぽさはなく、素材の味を生かした絶妙の味付けだ。
圧巻は付け合わせの野菜で、たっぷりとしかも多くの種類のものが使われている。
健康的でかつ、しっかりと腹持ちのいいランチだった。
「美味しかった!もっと早く来るんだった!」
思わずダダ漏れた郁に、店員が「ありがとうございます」と笑った。
そしてすぐにデザートが運ばれてくる。
季節の野菜を使った、シェフ渾身のオリジナルケーキと紅茶のセットだ。
「え?これランチに付くんですか?」
「いえ、シェフからのサービスです。褒めていただけて嬉しいそうで。」
店員は笑いながら、そう言った。
おかげで最近下降していたテンションも、わかりやすく上がる。
我ながら単純だと思いながら、郁はケーキに取りかかったのだった。
*****
「こんにちは~!」
律は明るく声を上げながら「カフェ・デビルバッツ」のドアを開けた。
そろそろランチタイムの客で込み合い始める店内は、活気があふれていた。
小野寺律が「カフェ・デビルバッツ」に通い始めてから、もう10年以上にもなる。
この店のメニューは、どれも美味い。
それに野菜を多く使っているので、食べた後は健康になった気分になれるのだ。
何より従業員の暖かい態度がいい。
こちらが話をしたい気分のときや、逆に1人でいたいとき。
それをきちんと察して、距離を保ってくれるのだ。
通勤途中にあれば毎日通いたいところだが、なかなかそうもいかないのが悔しいところだ。
「あ、律君。いらっしゃいませ。」
すっかり顔馴染みの店員が、笑顔で迎え入れてくれる。
律は「どうも、阿部君」と軽く手を上げてから、店内を見回した。
残念ながらお気に入りの窓際の席は、先客がいるかな。
ふとそんなことを思った時、その席に座っていた女性客が「御馳走さまでした」と立ち上がった。
「ありがとうございました!」
阿部が女性客にそう告げた後、律に目配せをした。
律がその席を気に入っていることを知っており「どうぞ」という合図だ。
その席に向かう律は、すれ違い様に女性客の顔を見て「あ!」と声を上げた。
彼女も律を見て「あ!」と声を上げる。
遠目ではわからないが、至近距離で顔を合わせればわかる。
2人はそんな程度の知り合いだった。
「そっか。ここ図書館から近いよな。」
律は納得したように笑う。
阿部が「お知り合いだったんですね」と笑顔のまま、驚いている。
すると女性客が「堂上と申します。武蔵野第一図書館勤務です」と告げた。
「ああ、図書隊員さんですか。ここからだと地味に遠いでしょ」
阿部が徒歩30分という微妙な立地条件を、そう評した。
堂上と名乗った女性客は「ええ。だから今まで知りませんでした」と白状した。
「でもこのお店、気に入りました。絶対また来ます!」
「ぜひお待ちしてます。」
「隣のお店も、こちらの?」
「ええ、あっちは喫茶だけですけどね。」
10年ほど前、隣の土地家屋が売りに出たので、オーナーのヒル魔が買い上げたのだ。
そして店舗として改装し、ティールームとして営業している。
ケーキやパンケーキ、パフェなどのスイーツとコーヒーや紅茶など、女子の好みそうなものがメインだ。
「ええと、お隣はハーブティとか置いてます?」
「はい。ジャスミンとレモングラス、ロースヒップとカモミール。和風の甜茶や玄米茶、ソバ茶なんかも」
「ステキですね!!」
すっかり意気投合したらしい阿部と女性客を見て、律は笑った。
他人事のはずなのに、何となく嬉しい。
それはきっと「カフェ・デビルバッツ」の楽しい雰囲気のせいだ。
自分の存在価値という重い悩みを抱えていた律だったが、今は忘れて久しぶりのこの空気を楽しむことにした。
*****
「レン君!日替わりランチ2つね!」
オーダーを伝えるセナの声に、三橋は「ランチ、2つ!」と復唱する。
するとセナは声を落として「さっきの女の人、指輪してたよ」と教えてくれた。
三橋廉は「カフェ・デビルバッツ」で、調理全般を担当している。
親しい客は「三橋君」とか「レン君」なんて呼んでくれるが、時折「シェフ」と呼ぶ者もいる。
三橋本人はそれをくすぐったい思いで聞いていた。
「シェフ」なんて呼ばれると、何だかすごい巨匠になったようなイメージだ。
だが実際、三橋は自分のことを単なる食いしん坊だと思っている。
美味しいものが大好きで、それを自分で作るのも好き。
それが高じて、こうして料理を仕事にするようになっただけのことだ。
今日もいつも通り「カフェ・デビルバッツ」は開店した。
朝1番に来店したのは、女性客だ。
キッチンからその客を覗き見た三橋は、綺麗な人だなと思う。
はっきりとわかる美人というわけではない。
だがほとんどノーメイクなのに、目鼻立ちはくっきりとしているし、肌も綺麗だ。
何よりもモデルみたいなスレンダー体型で、立ち姿が美しい。
そしてその女性客は、食いっぷりも見事だった。
そこそこ盛りがいいのもこの店の売りなのだが、彼女は旺盛な食欲でパクパクと食べている。
あまりの見事な食いっぷりに、思わずデザートをサービスしてしまったほどだ。
女性客でここまで勢いよく食べる客は、そうそういない。
それでいて食べ方も綺麗なので、少しも下品に見えないのもいい。
だが帰り際に、阿部と親し気に話しているのが気になった。
この店のホールを仕切る阿部は、女性客に人気があるのだ。
告白してくる女性客は後を絶たず、三橋は未だにヒヤヒヤしている。
あんな綺麗な女性がアプローチをしたら、阿部は心が揺れないだろうか?
男である自分に、恋人としての存在価値はあるのか?
だがそんな三橋の動揺は、一蹴された。
ランチタイムに合わせてホールに出てきたセナが、ちょうどあの女性客が帰るところに出くわしたのだ。
別の客のオーダーを取ったセナはセナは声を落として「さっきの女の人、指輪してたよ」と教えてくれた。
「指輪?」
「うん。左手の薬指。石が入ってないから、結婚指輪じゃないかな」
セナの言葉に、三橋はホッと胸を撫で下ろした。
彼女は既婚者。それなら心配はないだろう。
阿部と三橋はもう20年も恋人同士、もはや熟年夫婦の域である。
それでもやはり気になるし、嫉妬だってするのだ。
そしてこの日もランチタイムが終わり、午後の穏やかな時間に入った。
セナは「それじゃ隣に行くね」と三橋と阿部に声をかける。
この時間からは隣のティールームの方が混み始めるので、そちらの接客をするのだ。
ちなみにティールームの方を仕切っているのは、十文字一輝。
セナの高校時代のチームメイトだった男は、アメフト選手を引退し「カフェ・デビルバッツ」で働いている。
「よろ、しく~」
三橋はセナに手を振って見送ると「よし!」と気合いを入れた。
ここからはディナータイムの仕込みが始まる。
美味しいものを作るために、三橋は今日も頑張るのだ。
*****
「戻りました~!」
ティールームから戻ってきたセナは「あれ?」と首を傾げた。
午後にはティールームにいた客が、今度は「カフェ・デビルバッツ」の客席にちょこんと座っていたからだ。
小早川セナはかつて「アイシールド21」の名で活躍したアメフト選手だった。
しかもアメフトの最高峰、アメリカのNFLで。
今までNFLのチームと契約した日本人はいたが、フルシーズン活躍したのはセナが初めてだ。
その頃は人気もあり、街を歩けばすぐに声をかけられた。
すぐにファンに取り囲まれてしまい、1人で外を歩けない時期もあった。
だが数年前に引退した。
体力が低下し、NFLで契約してくれるチームがなくなったところで、すっぱりと辞めたのだ。
まだやれると声をかけてくれる日本のチームもあった。
今でもコーチをしないかと誘ってくれるチームもある。
だがセナはもうアメフトはしないと決めていた。
ヒル魔と2人、夢だったNFLでプレイできたのだ。
だからここから先は、2人で穏やかな時間を過ごしたい。
そして今では「カフェ・デビルバッツ」のホールスタッフだ。
とはいえ、実際は阿部や三橋、十文字に任せきりである。
忙しい時間帯にホールに出てきて、ちょこちょこと手伝うだけだ。
あれだけ華やかな世界にいたのに、今の生活で満足できるのかと聞く者もいる。
だが今のセナは、ヒル魔と一緒にいられるだけで幸せなのだ。
この日、ヒル魔はいつになく体調がよかった。
体力は衰えており、起きている時間より寝ている時間の方が長い。
目覚めているときでも、ベットから起き上がれないことが多かった。
だがたまに調子が良い日は、かつてのようにホールに出てくる。
一番奥の席にどっかりと座り、ただ静かに時間を過ごすのだ。
かつてはその席で両足をテーブルに乗せ上げて、ノートパソコンを叩いていた。
だがもうパソコンを叩く作業さえ、しんどいようだ。
「無理しないで下さいね。」
セナはホールで、静かにお茶を啜るヒル魔に声をかけた。
かつてはコーヒーやコーラなど刺激が強い飲み物を好んだが、今は胃が受け付けないらしい。
三橋が念入りに研究してブレンドしたハーブティ「ヒル魔スペシャル」が、今のヒル魔のお気に入りだ。
ランチタイムに「カフェ・デビルバッツ」で働いたセナは、午後にはティルームに移動した。
十文字が「よぉ!」と手を上げて、迎え入れてくれる。
そして客席を見回したセナは「不思議なお客さんがいるね」と言った。
十文字が「お前もそう思うか?」と苦笑した。
その客はセナや十文字と同年代の男だった。
カップルか女性グループが圧倒的に多い中で、男性1人の客は珍しい。
そしてまるで存在価値を否定するように、気配が感じられないのだ。
十文字は「さっきオーダー取りに行ったら『やっと来てくれましたね』って言われたよ」と白状した。
どうやらあまりの影の薄さに、入店してもすぐに気付けなかったらしい。
そして夕方、セナは再び「カフェ・デビルバッツ」に戻った。
ディナータイムはまた混み合うからだ。
ドアを開けて「戻りました~!」と声をかけたセナは「あれ?」と首を傾げた。
午後にはティールームにいた客が、今度は「カフェ・デビルバッツ」の客席にちょこんと座っていたからだ。
「面白いなヤツが来たな。」
いつの間にかセナの背後に来ていたヒル魔が、耳元でそう言った。
その声色がかつての愉快な口調であることに気付いたセナは「それはよかったですね」と答えた。
【続く】
「今日は調子がいいんですか?」
久しぶりに店に出てきたヒル魔に、阿部は声をかけた。
ヒル魔は穏やかな笑顔で「そうだな」と答えた。
東京某所にある「カフェ・デビルバッツ」は、開店20周年を迎えた。
ボリュームがありながらも、野菜を多く使ったヘルシーなメニュー。
しかも値段はリーズナブルで、味も美味。
雑誌やネットのランキングなどでも、常に上位にランクされる有名店だ。
店を切り盛りするのは、店長の阿部隆也とシェフの三橋廉だ。
かつて高校球児でありバッテリーを組んでいた2人は、実は恋人同士である。
2人がこの店で働き始めたのはほとんど成り行きであり、決して最初から目指した道ではない。
それでも2人とも意外なほど、この仕事に適性があった。
食べることが大好きな三橋の料理は、絶品と評価が高い。
それに高校時代、捕手として相手選手の分析を得意とした阿部は、客との距離の取り方が上手いのだ。
店内は基本的には、アメリカンテイストだ。
開店当初はカジノ仕様であり、ルーレットテーブルやらピンボールのマシンがあったりした。
だが今は壁にダーツボードが掛かっているだけだ。
これに関して、オーナーのヒル魔は最後まで地味に抵抗していた。
当初のインテリアは、完全にヒル魔の趣味だからだ。
だがオーナーの恋人であり、今ではこの店の従業員であるセナに一喝された。
曰く「お客様が増えてるんです!ヒル魔さんの趣味より、客席を増やすのが優先ですよ」と。
そのヒル魔は長く体調を崩している。
だから住居にしている2階の部屋で、寝ていることが多い。
それでも体調が良いときは、こうして店に降りてくる。
常連客の小野寺律などは心得ていて「今日はヒル魔さんがいる。ラッキー♪」などと喜ぶ。
ヒル魔は「俺はレアキャラか」と文句を言いつつ、そんなやりとりを楽しんでいた。
世捨て人のように生きる蛭魔だが、そんな形で自分の存在価値を見出しているのかもしれない。
朝10時になると、阿部は店の表の札を「営業中」に変えた。
公式な開店時間は10時だが、それより前に「朝ごはん食べさせて」とやって来る常連客も多い。
7時くらいから仕込みを始めており、その間ドアはもう開けているからだ。
そして「おまかせでよければ」という条件付きで、食事を出したりする。
だがこの日はレアキャラのヒル魔以外、時間前の客はいなかった。
「いらっしゃいませ」
程なくして現れた朝一番の客に、阿部は声をかけた。
おそらく30代前半の女性客が1人。
阿部は見覚えがないし、店に入るなりキョロキョロしているところを見ると、初めての客だろう。
「お食事ですか?それとも喫茶ですか?」
阿部はにこやかに声をかけた。
高校時代タレ目のくせに目付きが悪いと評された顔も、客商売が長ければ温和になる。
女性客はその笑顔にホッとした様子で「食事します」と告げた。
*****
「いらっしゃいませ」
男性店員に声をかけられ、郁はキョロキョロと店内を見回した。
郁がこの店に入ったのは、ほとんど偶然だった。
「お食事ですか?それとも喫茶ですか?」
店員が親し気だが馴れ馴れしくない、絶妙の距離感で聞いてきた。
郁は「食事します」と即答した。
自分の存在価値に悩んでいるときでさえ、お腹はすく。
店員は「かしこまりました」と告げると、窓際の席に誘導してくれた。
「メニューをどうぞ」
席に着くなり、同じ店員が水を入れたグラスとメニューをテーブルに置く。
郁は「日替わりランチを1つ」と注文した。
初めての店では無難なものを頼むとしたものだろう。
いつものくせで「大盛り」と付け加えようとしたが、これまた初めての店なので控えた。
店員は「かしこまりました」と一礼すると、メニューを持って下がっていく。
丁寧だが押しつけがましくない接客に、郁の中で点数が上がった。
この店は郁が勤務する関東図書基地から、徒歩で30分程の距離だ。
しかも図書基地から駅やコンビニ、スーパーなど繁華街へ行く方角とは逆なのだ。
つまり近所ではあるけれど、微妙に不便な場所だ。
だから郁のみならず、多くの図書隊員からはノーマーク。
正直なところ、郁は今の今までこの店の存在さえ知らなかった。
「お待たせいたしました。失礼いたします。」
程なくして運ばれてきたランチを見て、郁はギョッとした。
かなり盛りがいいのだ。
郁は思わず「あたし、大盛りって言いましたっけ?」と聞いてしまうほどだ。
だが店員は「いえ、当店ではこれが普通の盛りですので」と笑った。
ランチは問題なく、美味だった。
ポークチョップと、白身魚のソテーという贅沢な組み合わせ。
脂っぽさはなく、素材の味を生かした絶妙の味付けだ。
圧巻は付け合わせの野菜で、たっぷりとしかも多くの種類のものが使われている。
健康的でかつ、しっかりと腹持ちのいいランチだった。
「美味しかった!もっと早く来るんだった!」
思わずダダ漏れた郁に、店員が「ありがとうございます」と笑った。
そしてすぐにデザートが運ばれてくる。
季節の野菜を使った、シェフ渾身のオリジナルケーキと紅茶のセットだ。
「え?これランチに付くんですか?」
「いえ、シェフからのサービスです。褒めていただけて嬉しいそうで。」
店員は笑いながら、そう言った。
おかげで最近下降していたテンションも、わかりやすく上がる。
我ながら単純だと思いながら、郁はケーキに取りかかったのだった。
*****
「こんにちは~!」
律は明るく声を上げながら「カフェ・デビルバッツ」のドアを開けた。
そろそろランチタイムの客で込み合い始める店内は、活気があふれていた。
小野寺律が「カフェ・デビルバッツ」に通い始めてから、もう10年以上にもなる。
この店のメニューは、どれも美味い。
それに野菜を多く使っているので、食べた後は健康になった気分になれるのだ。
何より従業員の暖かい態度がいい。
こちらが話をしたい気分のときや、逆に1人でいたいとき。
それをきちんと察して、距離を保ってくれるのだ。
通勤途中にあれば毎日通いたいところだが、なかなかそうもいかないのが悔しいところだ。
「あ、律君。いらっしゃいませ。」
すっかり顔馴染みの店員が、笑顔で迎え入れてくれる。
律は「どうも、阿部君」と軽く手を上げてから、店内を見回した。
残念ながらお気に入りの窓際の席は、先客がいるかな。
ふとそんなことを思った時、その席に座っていた女性客が「御馳走さまでした」と立ち上がった。
「ありがとうございました!」
阿部が女性客にそう告げた後、律に目配せをした。
律がその席を気に入っていることを知っており「どうぞ」という合図だ。
その席に向かう律は、すれ違い様に女性客の顔を見て「あ!」と声を上げた。
彼女も律を見て「あ!」と声を上げる。
遠目ではわからないが、至近距離で顔を合わせればわかる。
2人はそんな程度の知り合いだった。
「そっか。ここ図書館から近いよな。」
律は納得したように笑う。
阿部が「お知り合いだったんですね」と笑顔のまま、驚いている。
すると女性客が「堂上と申します。武蔵野第一図書館勤務です」と告げた。
「ああ、図書隊員さんですか。ここからだと地味に遠いでしょ」
阿部が徒歩30分という微妙な立地条件を、そう評した。
堂上と名乗った女性客は「ええ。だから今まで知りませんでした」と白状した。
「でもこのお店、気に入りました。絶対また来ます!」
「ぜひお待ちしてます。」
「隣のお店も、こちらの?」
「ええ、あっちは喫茶だけですけどね。」
10年ほど前、隣の土地家屋が売りに出たので、オーナーのヒル魔が買い上げたのだ。
そして店舗として改装し、ティールームとして営業している。
ケーキやパンケーキ、パフェなどのスイーツとコーヒーや紅茶など、女子の好みそうなものがメインだ。
「ええと、お隣はハーブティとか置いてます?」
「はい。ジャスミンとレモングラス、ロースヒップとカモミール。和風の甜茶や玄米茶、ソバ茶なんかも」
「ステキですね!!」
すっかり意気投合したらしい阿部と女性客を見て、律は笑った。
他人事のはずなのに、何となく嬉しい。
それはきっと「カフェ・デビルバッツ」の楽しい雰囲気のせいだ。
自分の存在価値という重い悩みを抱えていた律だったが、今は忘れて久しぶりのこの空気を楽しむことにした。
*****
「レン君!日替わりランチ2つね!」
オーダーを伝えるセナの声に、三橋は「ランチ、2つ!」と復唱する。
するとセナは声を落として「さっきの女の人、指輪してたよ」と教えてくれた。
三橋廉は「カフェ・デビルバッツ」で、調理全般を担当している。
親しい客は「三橋君」とか「レン君」なんて呼んでくれるが、時折「シェフ」と呼ぶ者もいる。
三橋本人はそれをくすぐったい思いで聞いていた。
「シェフ」なんて呼ばれると、何だかすごい巨匠になったようなイメージだ。
だが実際、三橋は自分のことを単なる食いしん坊だと思っている。
美味しいものが大好きで、それを自分で作るのも好き。
それが高じて、こうして料理を仕事にするようになっただけのことだ。
今日もいつも通り「カフェ・デビルバッツ」は開店した。
朝1番に来店したのは、女性客だ。
キッチンからその客を覗き見た三橋は、綺麗な人だなと思う。
はっきりとわかる美人というわけではない。
だがほとんどノーメイクなのに、目鼻立ちはくっきりとしているし、肌も綺麗だ。
何よりもモデルみたいなスレンダー体型で、立ち姿が美しい。
そしてその女性客は、食いっぷりも見事だった。
そこそこ盛りがいいのもこの店の売りなのだが、彼女は旺盛な食欲でパクパクと食べている。
あまりの見事な食いっぷりに、思わずデザートをサービスしてしまったほどだ。
女性客でここまで勢いよく食べる客は、そうそういない。
それでいて食べ方も綺麗なので、少しも下品に見えないのもいい。
だが帰り際に、阿部と親し気に話しているのが気になった。
この店のホールを仕切る阿部は、女性客に人気があるのだ。
告白してくる女性客は後を絶たず、三橋は未だにヒヤヒヤしている。
あんな綺麗な女性がアプローチをしたら、阿部は心が揺れないだろうか?
男である自分に、恋人としての存在価値はあるのか?
だがそんな三橋の動揺は、一蹴された。
ランチタイムに合わせてホールに出てきたセナが、ちょうどあの女性客が帰るところに出くわしたのだ。
別の客のオーダーを取ったセナはセナは声を落として「さっきの女の人、指輪してたよ」と教えてくれた。
「指輪?」
「うん。左手の薬指。石が入ってないから、結婚指輪じゃないかな」
セナの言葉に、三橋はホッと胸を撫で下ろした。
彼女は既婚者。それなら心配はないだろう。
阿部と三橋はもう20年も恋人同士、もはや熟年夫婦の域である。
それでもやはり気になるし、嫉妬だってするのだ。
そしてこの日もランチタイムが終わり、午後の穏やかな時間に入った。
セナは「それじゃ隣に行くね」と三橋と阿部に声をかける。
この時間からは隣のティールームの方が混み始めるので、そちらの接客をするのだ。
ちなみにティールームの方を仕切っているのは、十文字一輝。
セナの高校時代のチームメイトだった男は、アメフト選手を引退し「カフェ・デビルバッツ」で働いている。
「よろ、しく~」
三橋はセナに手を振って見送ると「よし!」と気合いを入れた。
ここからはディナータイムの仕込みが始まる。
美味しいものを作るために、三橋は今日も頑張るのだ。
*****
「戻りました~!」
ティールームから戻ってきたセナは「あれ?」と首を傾げた。
午後にはティールームにいた客が、今度は「カフェ・デビルバッツ」の客席にちょこんと座っていたからだ。
小早川セナはかつて「アイシールド21」の名で活躍したアメフト選手だった。
しかもアメフトの最高峰、アメリカのNFLで。
今までNFLのチームと契約した日本人はいたが、フルシーズン活躍したのはセナが初めてだ。
その頃は人気もあり、街を歩けばすぐに声をかけられた。
すぐにファンに取り囲まれてしまい、1人で外を歩けない時期もあった。
だが数年前に引退した。
体力が低下し、NFLで契約してくれるチームがなくなったところで、すっぱりと辞めたのだ。
まだやれると声をかけてくれる日本のチームもあった。
今でもコーチをしないかと誘ってくれるチームもある。
だがセナはもうアメフトはしないと決めていた。
ヒル魔と2人、夢だったNFLでプレイできたのだ。
だからここから先は、2人で穏やかな時間を過ごしたい。
そして今では「カフェ・デビルバッツ」のホールスタッフだ。
とはいえ、実際は阿部や三橋、十文字に任せきりである。
忙しい時間帯にホールに出てきて、ちょこちょこと手伝うだけだ。
あれだけ華やかな世界にいたのに、今の生活で満足できるのかと聞く者もいる。
だが今のセナは、ヒル魔と一緒にいられるだけで幸せなのだ。
この日、ヒル魔はいつになく体調がよかった。
体力は衰えており、起きている時間より寝ている時間の方が長い。
目覚めているときでも、ベットから起き上がれないことが多かった。
だがたまに調子が良い日は、かつてのようにホールに出てくる。
一番奥の席にどっかりと座り、ただ静かに時間を過ごすのだ。
かつてはその席で両足をテーブルに乗せ上げて、ノートパソコンを叩いていた。
だがもうパソコンを叩く作業さえ、しんどいようだ。
「無理しないで下さいね。」
セナはホールで、静かにお茶を啜るヒル魔に声をかけた。
かつてはコーヒーやコーラなど刺激が強い飲み物を好んだが、今は胃が受け付けないらしい。
三橋が念入りに研究してブレンドしたハーブティ「ヒル魔スペシャル」が、今のヒル魔のお気に入りだ。
ランチタイムに「カフェ・デビルバッツ」で働いたセナは、午後にはティルームに移動した。
十文字が「よぉ!」と手を上げて、迎え入れてくれる。
そして客席を見回したセナは「不思議なお客さんがいるね」と言った。
十文字が「お前もそう思うか?」と苦笑した。
その客はセナや十文字と同年代の男だった。
カップルか女性グループが圧倒的に多い中で、男性1人の客は珍しい。
そしてまるで存在価値を否定するように、気配が感じられないのだ。
十文字は「さっきオーダー取りに行ったら『やっと来てくれましたね』って言われたよ」と白状した。
どうやらあまりの影の薄さに、入店してもすぐに気付けなかったらしい。
そして夕方、セナは再び「カフェ・デビルバッツ」に戻った。
ディナータイムはまた混み合うからだ。
ドアを開けて「戻りました~!」と声をかけたセナは「あれ?」と首を傾げた。
午後にはティールームにいた客が、今度は「カフェ・デビルバッツ」の客席にちょこんと座っていたからだ。
「面白いなヤツが来たな。」
いつの間にかセナの背後に来ていたヒル魔が、耳元でそう言った。
その声色がかつての愉快な口調であることに気付いたセナは「それはよかったですね」と答えた。
【続く】
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