アイシ×おお振り×セカコイ【お題:春5題 夏5題 秋5題 冬5題】
【秋/コスモス恋歌】
ヒル魔妖一はノートパソコンを操作しながら、穏やかに微笑んだ。
画面の中では、最愛の青年がタッチダウンを決めていた。
夏の終わりに、セナはアメリカに旅立った。
セナは現役のNFLプレイヤーであり、秋にはシーズンが始まるからだ。
去年までは蛭魔も必ず同行し、セナが出場する試合はいつもスタジアムで観戦していた。
だが今年はついに一緒に渡米することを断念した。
体調が悪く、長い距離の旅行も長時間の試合観戦もきついからだった。
日本に残った蛭魔は、試合をアメリカのインターネットのサイトで観戦する。
セナの試合の映像はアメリカでテレビ放送したものを取り寄せている。
それに最近では日本のテレビでも見ることはできる。
だが蛭魔は試合をリアルタイムで見たいし、日本のテレビ放送は好きではなかった。
日本人が出場する海外リーグの試合放送は、どうしても実況や解説は日本人選手寄りになるからだ。
野球やサッカーなどの中継などを見ていると、怒りすら沸いてくる。
日本人選手が海外でどんなプレーをしても、褒め称える傾向が強いのだ。
凡打でアウトになっても、シュートを外しても、日本の放送では「素晴らしい動き」などと言う。
一番肝心な試合の流れが二の次になってしまうのだ。
セナがタッチダウンを決めたことにホッとした蛭魔は、コーヒーのポットに手を伸ばした。
カフェ「デビルバッツ」の2階にあるヒル魔の居室のテーブルには様々なものが置かれている。
コーヒーのポットとカップ、ヒル魔が好きな無糖のガム、三橋特製のサンドウィッチ。
サンドウィッチの具はヒル魔の好物ばかりで、食べやすいようにあっさりとした味付けだ。
卓上タイプの小さな冷蔵庫もあり、ミネラルウォーターとコーラが入っている。
全て試合観戦しながら飲み食いできるようにと、阿部と三橋が用意してくれたものだ。
こんな風にみんながいつもヒル魔に気を使ってくれる。
例えば窓辺に置かれた小さな花瓶には、コスモスが生けられている。
母校の校庭に咲いていたものを、今ではそこで教師をしているまもりが摘んできたものだ。
それを阿部がヒル魔の窓辺に飾ってくれた。
最初は「花なんていらない」とヒル魔は断固、拒否した。
だが「セナが好きな花なのよ」などと言われたら、もう断れない。
渋々ながら部屋の住人として受け入れられたコスモスは、実は意外にヒル魔の心を和ませている。
こういう何気ない気遣いが嬉しいものだと、ヒル魔は今さらのように痛感する。
不治の病を患ったと知った時には、自分の運命を呪った。
だがこうして人の優しさや思いやりに触れて、これもまた悪くないと思えるようになった。
残された時間、セナを精一杯愛して、三橋や阿部や仲間たちへの思いに応えて生きていればいい。
ヒル魔はコーヒーを口に運ぶと、窓辺のコスモスにチラリと目をやる。
だがすぐに試合再開となったパソコンの画面に視線を戻した。
*****
今日も綺麗だな。
木佐は彼の立ち姿を目で追いながら、そう思った。
木佐翔太はカフェ「デビルバッツ」に来ていた。
ここは元々後輩である小野寺律が昔から行きつけにしていたというカフェだ。
ちなみに律の母親も常連という大口顧客だ。
その縁で、丸川書店エメラルド編集部の面々も大いに世話になっている。
締め切り間近の修羅場の時期に、食事の配達もしてくれる。
営業時間外でも、清掃時間以外なら入れてくれるので打ち合わせにも使える。
ちなみに値段の割りに美味いし、量も多い。
それでいて野菜が多くて胃に優しいメニューは、三十路を過ぎた身にはすごくありがたい。
スタッフが客の空気を読んでくれるのもありがたい。
楽しい気分のときには、時間が許す限りおしゃべりの相手をしてくれる。
だが話しかけて欲しくないときには、見事にほっておいてくれるのだ。
2人以上で来て会話が弾んでいるときはもちろん、1人で静かにしていたいときも察してくれる。
エメラルド編集部の面々に大好評のこのカフェで、木佐にはもう1つ、秘かな楽しみがある。
時々一番奥のテーブルでノートパソコンを叩いている青年だ。
最初はテーブルに足を乗せ上げている姿に驚いた。
律から彼こそがこのカフェのオーナーなのだと聞いて、さらに驚く。
そして彼の容姿を観察して、実に自分好みであることに気付いた。
綺麗な顔や、スラリとした長身であるだけではない。
雰囲気というか身にまとうオーラのようなものに、ひどく惹かれる。
雪名が王子様なら、彼は王様だ。
懐が深く誰でも受け止められるような包容力もあるが、心の奥にある信念は誰にも曲げられない。
ほとんど話したことがない木佐でさえ、そんな強さを感じるのだ。
そんな彼の恋人が小柄で可愛らしい顔立ちのギャルソンだと知った時には、少々ショックだった。
もちろん彼と恋愛をしようなどとは思っているわけでもない。
木佐には雪名という恋人がいるのだし、彼への思いは憧れのようなものだ。
例えるなら大好きなアイドルの熱愛発覚の報道を聞くようなものだ。
自分と結ばれるなど恐れ多いが、他人のモノになってしまうのは割り切れない。
今日の木佐は、カフェ「デビルバッツ」で雪名と待ち合わせをしていた。
木佐は休日だが、雪名はアルバイトの日だ。
雪名のバイト終わりに一緒に食事という、ごくごく真っ当なデートプランだ。
約束の時間より早めに来た木佐は、コーヒーを飲みながら店内を見回すが、オーナーの姿はない。
彼の恋人である可愛い青年もおらず、背の高い黒髪のギャルソンだけだ。
確か律と一緒に来たとき、律が「阿部さん」と呼んでいた。
精悍でオーナーとは違うタイプのイケメンで、、妙に声が羽鳥と似ている。
今日は会えないか。
木佐は秘かにため息をついた。
だが次の瞬間「Staff Only」と書かれた扉が開き、彼が顔を出した。
阿部が「どうでした?」と声をかけると「勝った。セナも得点してた」と静かに答えている。
何のことだかわからないが、いい知らせのようだ。
今日も綺麗だな。
木佐は彼の立ち姿を目で追いながら、そう思った。
ちなみに人気漫画家、吉川千春が彼をモデルにしたキャラクターを描いた作品は、大ヒット連載中。
さすが1千万部作家は目の付け所が違うと、今さらながら尊敬してしまう。
木佐は雪名が来るまで、彼を鑑賞しながら時間を過ごした。
いい男はいくら見てもいいなと思い、これではまるでイケメン好きオネエのようだと苦笑した。
*****
「「隣を、買った~?」」
三橋と阿部は頓狂な声を上げると、顔を見合わせた。
あまりにも唐突で、突拍子もない話だった。
セナがNFLで今シーズン初勝利を飾ったその夜。
閉店後のカフェ「デビルバッツ」の店内で、三橋と阿部とヒル魔は遅い夕飯を食べている。
いわゆる賄い飯というやつだ。
三橋はヒル魔の食事にはすごく気を使っている。
賄い飯はだいたいヒル魔の好物を入れるようにしているし、味付けも店のメニューとは違う。
甘いものが苦手なヒル魔に合わせて、甘味を抑えたあっさりした味だ。
最近ますます食が細いヒル魔に、何とかたくさん食べさせたい。
セナが渡米している間に、ヒル魔がやつれるような事態だけは避けたかった。
今日もそんな三橋の心づくしの料理が並ぶ。
ヒル魔は三橋の気持ちがわかっているようで、いつも「美味い」と言ってくれる。
だがいつもの穏やかな時間が、ヒル魔の一言で一変した。
「隣の空き家と土地を買った。」
それまでセナの試合の話をしていたヒル魔が、ポツリと告げた。
余りにもどうでもよさ気な口調で、ヒル魔にとっては本当に大したことではないのかもしれない。
「「隣を、買った~?」」
だが三橋と阿部は頓狂な声を上げると、顔を見合わせた。
あまりにも唐突で、突拍子もない話だった。
カフェ「デビルバッツ」の隣は、高い塀に囲まれた大きな邸宅だった。
少し前に空き家になり、売りに出ていたのも知っている。
だが曲がりなりにも家付きの土地を、そんなにあっさり買っていいのか?
しかもここは東京、日本の中でも地価などは高い場所のはずだ。
コンビニで菓子でも買ったような口調で報告されても、返す言葉に困ってしまう。
「まぁ店舗にしてもいいし、物置にしてもいいだろ?」
事もなげにそう付け加えられて、三橋はますます混乱した。
もしかしてこんなに動揺する自分がおかしいのかと、隣を見る。
そして阿部が同じように混乱しているのを見て、少しだけホッとした。
「まぁ好きに使え。武蔵に言ったら、改築は安くしてくれるそうだ。」
親友であり実家は工務店を営む武蔵厳に、すでに話までつけているらしい。
ここまでで充分驚いている三橋と阿部に、ヒル魔はさらに驚きの言葉を告げる。
「それと。ここと隣の名義は、お前たち2人に変更したから」
ヒル魔はそう言い放つと、黙々と食事を続けている。
阿部は「はぁ?ちょっと!」と声を上げて立ち上がったものの言葉が出ないようだ。
呆然とした三橋は思わず手に持っていたフォークを取り落とした。
人間って本当に驚くと、声が出ないんだ。
三橋はまるで他人事のようにそんなことを思った。
*****
「じゃあ隣も店舗にするのか?」
武蔵にそう聞かれた阿部は「はい」と頷いた。
ヒル魔がカフェ「デビルバッツ」の隣の家を買ってから、阿部と三橋の平穏な日常は変わった。
とにかく忙しくなってしまったのだ。
通常の営業のほかに、店の改装という一大イベントが発生してしまったのだ。
しかもちょうど時を同じくして、アルバイトの水谷千代が当面の間休むことになってしまった。
新しい命を授かったというめでたい理由だった。
「それにしても、店なんか押し付けられて迷惑じゃないか?嫌なら俺からヒル魔に言ってやるが」
改装の打ち合わせに来た武蔵がそう言ってくれる。
こんなものを譲り受けたら、阿部と三橋はもうカフェ「デビルバッツ」から離れられなくなる。
ヒル魔の親友であり、阿部とももう10年来の付き合いの男はそんな心配してくれているようだ。
最初はもちろん、阿部も三橋も店など貰うわけにはいかないと固辞した。
簡単にもらうには高価すぎるし「形見分け」などという言葉を連想して不吉な気分になる。
それにそもそも自分たちより、セナが貰うべきだろう。
だがすでに名義は書き換えられており、ヒル魔は戻すことには同意しなかった。
そしてセナには「別のもの」を譲るから、気にしないようにと念を押された。
その上「セナが帰る場所を守って欲しい」と懇願されて、阿部と三橋はついに折れた。
「大丈夫です。もうこうなったらやるしかないかと思ってますんで。」
阿部はきっぱりとそう言い切った。
そもそも貰う側の承諾も得ずに名義を変えるなんて、違法ではないだろうか。
だがそうでもしなければ阿部も三橋も、店なんて受け取らなかった。
裏を返せば、ヒル魔は何が何でも阿部と三橋に店を譲るつもりだったのだ。
「それならいい。で、具体的にプランはあるのか?」
「ええ。母屋をカフェにして、離れをカジノ部屋にしようかと」
阿部は考えていた改装案を口にした。
隣の敷地内には、2つの家屋が立っている。
母屋として使用している大きな家と、離れの小さな家だ。
2つの家は小さな渡り廊下で繋がっている。
阿部は三橋と相談した結果、母屋をカフェに、離れにはカジノ部屋にすることにしたのだ。
今の店にあるルーレット台やスロットマシンなどのゲーム機は、味はあるが場所ふさぎだ。
その上昨今の節電とかエコとかの風潮で、電源を入れることもしなくなった。
それに順調に客足は伸びており、最近では入店を待つために行列ができるほどなのだ。
それならばゲーム機などは撤去して、席を増やすのが正解だ。
だがそれではあまりにも寂しいので、常連のためのカジノ部屋を作るという計画だった。
「だいたいわかった。よければこちらで図面を引こうか?」
「お願いできるとありがたいです。」
「わかった。それはすぐにできる。で工事も急いだ方がいいよな」
「いえ、それは。。。バイトを増やしてからでもいいですか?」
「そうか。篠岡が産休だったな。」
頼りになるスタッフが減った上に、改装で営業以外にも時間が取られるのだから、まず増員だ。
察しがいい武蔵に感謝しながら、バイトを募集しなければと思った矢先。
たまたま来ていた客の1人が、つかつかと阿部たちが話をしているテーブルへと歩いてきた。
ひょっとして相談している声がうるさかったかと心配になる。
だが何度か来店したことがある若い男性の客は、意外なことを言い出した。
「あの、アルバイト、させてもらえませんか?」
阿部は思わず「は?」と間抜けな声を出してしまう。
だがその青年は至極真面目な顔で「お話が聞こえちゃって」と苦笑する。
気を利かせた武蔵が「じゃあ俺は」と席を立った。
阿部は入れ替わるように青年と向かい合うことになってしまった。
*****
「え?カフェ『デビルバッツ』でバイト?」
木佐が驚いた様子で聞き返してくる。
雪名は「はい!」と元気いっぱいの笑顔で答えた。
それは偶然だった。
雪名皇は、恋人に教えてもらったカフェで1人コーヒーを飲んできた。
ランチタイムが終わったばかりの店は空いており、雪名はのんびりと午後の時間を過ごしていた。
ここは木佐に教わった店だが、1人でも時々足を運ぶ。
店の雰囲気も、豊富で美味しいメニューも気に入っていた。
美大を卒業して画家を目指す雪名だったが、今の現状はいわゆるフリーターと同じだ。
書店のバイトは続けているが、それだけでは生活できない。
だから時々書店の他に短いバイトをこなしながら、絵を描く毎日を続けている。
今もそろそろ新しいバイトを捜さなくてはと思っていた矢先に、店のスタッフの声が聞こえたのだ。
店は改装を計画しているようで、その前にバイトを増やそうとしている。
それを知った瞬間、ほとんど衝動的に「アルバイトさせてもらえませんか?」と声をかけていた。
見覚えのあるスタッフの青年は少し驚いていたが、話を聞いてくれた。
「へぇぇ、美大出身なんだ。」
咄嗟のことで履歴書などは持っていない。
雪名は問われるままに、自分の名前やプロフィールを話した。
阿部という店のスタッフは、うんうんと頷きながら雪名の話を聞いてくれた。
そのときちょうど店のスタッフルームの扉が開いて、別の店員が顔を出した。
その顔を見て、雪名はギクリとする。
金色に染めた髪と端整な美貌。
彼は確かこの店のオーナーで、木佐が気にかけている人だと思う。
ウットリと彼を見つめる木佐に、雪名は少なからず嫉妬していた。
「ヒル魔さん、彼、うちでアルバイト希望なんですよ」
雪名たちのテーブルにやって来た青年に、阿部が声をかける。
だが次の青年が「雪名皇、だよな?」と聞いてきた。
実はヒル魔は独自の調査網を持っており、店に来ている客の素性はほぼ全て把握している。
だが雪名は到底知る由もなく、名字はともかく下の名前までバレていることに驚いた。
「いいんじゃねーの?イケメンだし、女性客が喜ぶだろ」
ヒル魔は不敵な笑顔でそう言うと、さっさと奥のテーブルに向かう。
そしてノートパソコンを取り出すと、凄まじい速さでキーを叩き始めた。
とにかくヒル魔の鶴の一声で、雪名は無事にアルバイトとして採用されることとなったのだ、
勤務は翌日からということになり、雪名は帰宅した木佐に真っ先にそれを報告した。
「え?カフェ『デビルバッツ』でバイト?」
木佐が驚いた様子で聞き返してくる。
雪名は「はい!」と元気いっぱいの笑顔で答えた。
だが木佐はなんだが困ったような表情で「そっか」と答えた。
もし木佐が雪名と出逢う前にヒル魔と出逢っていたら、どうなっていたのだろう。
今さら木佐がヒル魔と浮気云々なんて事態になることがないのはわかっている。
だが木佐がヒル魔を見つめる瞳を見ていると、不安になるのだ。
今、木佐と恋人でいられるのは、単に雪名が先に出逢っただけだからではないだろうか。
咄嗟にアルバイトを志願したのは、木佐を魅了するヒル魔という人物への好奇心が大きい。
だが雪名はひとまずネガティブな気持ちを振り払い、前向きに考えることにした。
とにかくバイトも見つかったし、あのカフェなら料理の腕も上がるかもしれない。
【続く】
ヒル魔妖一はノートパソコンを操作しながら、穏やかに微笑んだ。
画面の中では、最愛の青年がタッチダウンを決めていた。
夏の終わりに、セナはアメリカに旅立った。
セナは現役のNFLプレイヤーであり、秋にはシーズンが始まるからだ。
去年までは蛭魔も必ず同行し、セナが出場する試合はいつもスタジアムで観戦していた。
だが今年はついに一緒に渡米することを断念した。
体調が悪く、長い距離の旅行も長時間の試合観戦もきついからだった。
日本に残った蛭魔は、試合をアメリカのインターネットのサイトで観戦する。
セナの試合の映像はアメリカでテレビ放送したものを取り寄せている。
それに最近では日本のテレビでも見ることはできる。
だが蛭魔は試合をリアルタイムで見たいし、日本のテレビ放送は好きではなかった。
日本人が出場する海外リーグの試合放送は、どうしても実況や解説は日本人選手寄りになるからだ。
野球やサッカーなどの中継などを見ていると、怒りすら沸いてくる。
日本人選手が海外でどんなプレーをしても、褒め称える傾向が強いのだ。
凡打でアウトになっても、シュートを外しても、日本の放送では「素晴らしい動き」などと言う。
一番肝心な試合の流れが二の次になってしまうのだ。
セナがタッチダウンを決めたことにホッとした蛭魔は、コーヒーのポットに手を伸ばした。
カフェ「デビルバッツ」の2階にあるヒル魔の居室のテーブルには様々なものが置かれている。
コーヒーのポットとカップ、ヒル魔が好きな無糖のガム、三橋特製のサンドウィッチ。
サンドウィッチの具はヒル魔の好物ばかりで、食べやすいようにあっさりとした味付けだ。
卓上タイプの小さな冷蔵庫もあり、ミネラルウォーターとコーラが入っている。
全て試合観戦しながら飲み食いできるようにと、阿部と三橋が用意してくれたものだ。
こんな風にみんながいつもヒル魔に気を使ってくれる。
例えば窓辺に置かれた小さな花瓶には、コスモスが生けられている。
母校の校庭に咲いていたものを、今ではそこで教師をしているまもりが摘んできたものだ。
それを阿部がヒル魔の窓辺に飾ってくれた。
最初は「花なんていらない」とヒル魔は断固、拒否した。
だが「セナが好きな花なのよ」などと言われたら、もう断れない。
渋々ながら部屋の住人として受け入れられたコスモスは、実は意外にヒル魔の心を和ませている。
こういう何気ない気遣いが嬉しいものだと、ヒル魔は今さらのように痛感する。
不治の病を患ったと知った時には、自分の運命を呪った。
だがこうして人の優しさや思いやりに触れて、これもまた悪くないと思えるようになった。
残された時間、セナを精一杯愛して、三橋や阿部や仲間たちへの思いに応えて生きていればいい。
ヒル魔はコーヒーを口に運ぶと、窓辺のコスモスにチラリと目をやる。
だがすぐに試合再開となったパソコンの画面に視線を戻した。
*****
今日も綺麗だな。
木佐は彼の立ち姿を目で追いながら、そう思った。
木佐翔太はカフェ「デビルバッツ」に来ていた。
ここは元々後輩である小野寺律が昔から行きつけにしていたというカフェだ。
ちなみに律の母親も常連という大口顧客だ。
その縁で、丸川書店エメラルド編集部の面々も大いに世話になっている。
締め切り間近の修羅場の時期に、食事の配達もしてくれる。
営業時間外でも、清掃時間以外なら入れてくれるので打ち合わせにも使える。
ちなみに値段の割りに美味いし、量も多い。
それでいて野菜が多くて胃に優しいメニューは、三十路を過ぎた身にはすごくありがたい。
スタッフが客の空気を読んでくれるのもありがたい。
楽しい気分のときには、時間が許す限りおしゃべりの相手をしてくれる。
だが話しかけて欲しくないときには、見事にほっておいてくれるのだ。
2人以上で来て会話が弾んでいるときはもちろん、1人で静かにしていたいときも察してくれる。
エメラルド編集部の面々に大好評のこのカフェで、木佐にはもう1つ、秘かな楽しみがある。
時々一番奥のテーブルでノートパソコンを叩いている青年だ。
最初はテーブルに足を乗せ上げている姿に驚いた。
律から彼こそがこのカフェのオーナーなのだと聞いて、さらに驚く。
そして彼の容姿を観察して、実に自分好みであることに気付いた。
綺麗な顔や、スラリとした長身であるだけではない。
雰囲気というか身にまとうオーラのようなものに、ひどく惹かれる。
雪名が王子様なら、彼は王様だ。
懐が深く誰でも受け止められるような包容力もあるが、心の奥にある信念は誰にも曲げられない。
ほとんど話したことがない木佐でさえ、そんな強さを感じるのだ。
そんな彼の恋人が小柄で可愛らしい顔立ちのギャルソンだと知った時には、少々ショックだった。
もちろん彼と恋愛をしようなどとは思っているわけでもない。
木佐には雪名という恋人がいるのだし、彼への思いは憧れのようなものだ。
例えるなら大好きなアイドルの熱愛発覚の報道を聞くようなものだ。
自分と結ばれるなど恐れ多いが、他人のモノになってしまうのは割り切れない。
今日の木佐は、カフェ「デビルバッツ」で雪名と待ち合わせをしていた。
木佐は休日だが、雪名はアルバイトの日だ。
雪名のバイト終わりに一緒に食事という、ごくごく真っ当なデートプランだ。
約束の時間より早めに来た木佐は、コーヒーを飲みながら店内を見回すが、オーナーの姿はない。
彼の恋人である可愛い青年もおらず、背の高い黒髪のギャルソンだけだ。
確か律と一緒に来たとき、律が「阿部さん」と呼んでいた。
精悍でオーナーとは違うタイプのイケメンで、、妙に声が羽鳥と似ている。
今日は会えないか。
木佐は秘かにため息をついた。
だが次の瞬間「Staff Only」と書かれた扉が開き、彼が顔を出した。
阿部が「どうでした?」と声をかけると「勝った。セナも得点してた」と静かに答えている。
何のことだかわからないが、いい知らせのようだ。
今日も綺麗だな。
木佐は彼の立ち姿を目で追いながら、そう思った。
ちなみに人気漫画家、吉川千春が彼をモデルにしたキャラクターを描いた作品は、大ヒット連載中。
さすが1千万部作家は目の付け所が違うと、今さらながら尊敬してしまう。
木佐は雪名が来るまで、彼を鑑賞しながら時間を過ごした。
いい男はいくら見てもいいなと思い、これではまるでイケメン好きオネエのようだと苦笑した。
*****
「「隣を、買った~?」」
三橋と阿部は頓狂な声を上げると、顔を見合わせた。
あまりにも唐突で、突拍子もない話だった。
セナがNFLで今シーズン初勝利を飾ったその夜。
閉店後のカフェ「デビルバッツ」の店内で、三橋と阿部とヒル魔は遅い夕飯を食べている。
いわゆる賄い飯というやつだ。
三橋はヒル魔の食事にはすごく気を使っている。
賄い飯はだいたいヒル魔の好物を入れるようにしているし、味付けも店のメニューとは違う。
甘いものが苦手なヒル魔に合わせて、甘味を抑えたあっさりした味だ。
最近ますます食が細いヒル魔に、何とかたくさん食べさせたい。
セナが渡米している間に、ヒル魔がやつれるような事態だけは避けたかった。
今日もそんな三橋の心づくしの料理が並ぶ。
ヒル魔は三橋の気持ちがわかっているようで、いつも「美味い」と言ってくれる。
だがいつもの穏やかな時間が、ヒル魔の一言で一変した。
「隣の空き家と土地を買った。」
それまでセナの試合の話をしていたヒル魔が、ポツリと告げた。
余りにもどうでもよさ気な口調で、ヒル魔にとっては本当に大したことではないのかもしれない。
「「隣を、買った~?」」
だが三橋と阿部は頓狂な声を上げると、顔を見合わせた。
あまりにも唐突で、突拍子もない話だった。
カフェ「デビルバッツ」の隣は、高い塀に囲まれた大きな邸宅だった。
少し前に空き家になり、売りに出ていたのも知っている。
だが曲がりなりにも家付きの土地を、そんなにあっさり買っていいのか?
しかもここは東京、日本の中でも地価などは高い場所のはずだ。
コンビニで菓子でも買ったような口調で報告されても、返す言葉に困ってしまう。
「まぁ店舗にしてもいいし、物置にしてもいいだろ?」
事もなげにそう付け加えられて、三橋はますます混乱した。
もしかしてこんなに動揺する自分がおかしいのかと、隣を見る。
そして阿部が同じように混乱しているのを見て、少しだけホッとした。
「まぁ好きに使え。武蔵に言ったら、改築は安くしてくれるそうだ。」
親友であり実家は工務店を営む武蔵厳に、すでに話までつけているらしい。
ここまでで充分驚いている三橋と阿部に、ヒル魔はさらに驚きの言葉を告げる。
「それと。ここと隣の名義は、お前たち2人に変更したから」
ヒル魔はそう言い放つと、黙々と食事を続けている。
阿部は「はぁ?ちょっと!」と声を上げて立ち上がったものの言葉が出ないようだ。
呆然とした三橋は思わず手に持っていたフォークを取り落とした。
人間って本当に驚くと、声が出ないんだ。
三橋はまるで他人事のようにそんなことを思った。
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「じゃあ隣も店舗にするのか?」
武蔵にそう聞かれた阿部は「はい」と頷いた。
ヒル魔がカフェ「デビルバッツ」の隣の家を買ってから、阿部と三橋の平穏な日常は変わった。
とにかく忙しくなってしまったのだ。
通常の営業のほかに、店の改装という一大イベントが発生してしまったのだ。
しかもちょうど時を同じくして、アルバイトの水谷千代が当面の間休むことになってしまった。
新しい命を授かったというめでたい理由だった。
「それにしても、店なんか押し付けられて迷惑じゃないか?嫌なら俺からヒル魔に言ってやるが」
改装の打ち合わせに来た武蔵がそう言ってくれる。
こんなものを譲り受けたら、阿部と三橋はもうカフェ「デビルバッツ」から離れられなくなる。
ヒル魔の親友であり、阿部とももう10年来の付き合いの男はそんな心配してくれているようだ。
最初はもちろん、阿部も三橋も店など貰うわけにはいかないと固辞した。
簡単にもらうには高価すぎるし「形見分け」などという言葉を連想して不吉な気分になる。
それにそもそも自分たちより、セナが貰うべきだろう。
だがすでに名義は書き換えられており、ヒル魔は戻すことには同意しなかった。
そしてセナには「別のもの」を譲るから、気にしないようにと念を押された。
その上「セナが帰る場所を守って欲しい」と懇願されて、阿部と三橋はついに折れた。
「大丈夫です。もうこうなったらやるしかないかと思ってますんで。」
阿部はきっぱりとそう言い切った。
そもそも貰う側の承諾も得ずに名義を変えるなんて、違法ではないだろうか。
だがそうでもしなければ阿部も三橋も、店なんて受け取らなかった。
裏を返せば、ヒル魔は何が何でも阿部と三橋に店を譲るつもりだったのだ。
「それならいい。で、具体的にプランはあるのか?」
「ええ。母屋をカフェにして、離れをカジノ部屋にしようかと」
阿部は考えていた改装案を口にした。
隣の敷地内には、2つの家屋が立っている。
母屋として使用している大きな家と、離れの小さな家だ。
2つの家は小さな渡り廊下で繋がっている。
阿部は三橋と相談した結果、母屋をカフェに、離れにはカジノ部屋にすることにしたのだ。
今の店にあるルーレット台やスロットマシンなどのゲーム機は、味はあるが場所ふさぎだ。
その上昨今の節電とかエコとかの風潮で、電源を入れることもしなくなった。
それに順調に客足は伸びており、最近では入店を待つために行列ができるほどなのだ。
それならばゲーム機などは撤去して、席を増やすのが正解だ。
だがそれではあまりにも寂しいので、常連のためのカジノ部屋を作るという計画だった。
「だいたいわかった。よければこちらで図面を引こうか?」
「お願いできるとありがたいです。」
「わかった。それはすぐにできる。で工事も急いだ方がいいよな」
「いえ、それは。。。バイトを増やしてからでもいいですか?」
「そうか。篠岡が産休だったな。」
頼りになるスタッフが減った上に、改装で営業以外にも時間が取られるのだから、まず増員だ。
察しがいい武蔵に感謝しながら、バイトを募集しなければと思った矢先。
たまたま来ていた客の1人が、つかつかと阿部たちが話をしているテーブルへと歩いてきた。
ひょっとして相談している声がうるさかったかと心配になる。
だが何度か来店したことがある若い男性の客は、意外なことを言い出した。
「あの、アルバイト、させてもらえませんか?」
阿部は思わず「は?」と間抜けな声を出してしまう。
だがその青年は至極真面目な顔で「お話が聞こえちゃって」と苦笑する。
気を利かせた武蔵が「じゃあ俺は」と席を立った。
阿部は入れ替わるように青年と向かい合うことになってしまった。
*****
「え?カフェ『デビルバッツ』でバイト?」
木佐が驚いた様子で聞き返してくる。
雪名は「はい!」と元気いっぱいの笑顔で答えた。
それは偶然だった。
雪名皇は、恋人に教えてもらったカフェで1人コーヒーを飲んできた。
ランチタイムが終わったばかりの店は空いており、雪名はのんびりと午後の時間を過ごしていた。
ここは木佐に教わった店だが、1人でも時々足を運ぶ。
店の雰囲気も、豊富で美味しいメニューも気に入っていた。
美大を卒業して画家を目指す雪名だったが、今の現状はいわゆるフリーターと同じだ。
書店のバイトは続けているが、それだけでは生活できない。
だから時々書店の他に短いバイトをこなしながら、絵を描く毎日を続けている。
今もそろそろ新しいバイトを捜さなくてはと思っていた矢先に、店のスタッフの声が聞こえたのだ。
店は改装を計画しているようで、その前にバイトを増やそうとしている。
それを知った瞬間、ほとんど衝動的に「アルバイトさせてもらえませんか?」と声をかけていた。
見覚えのあるスタッフの青年は少し驚いていたが、話を聞いてくれた。
「へぇぇ、美大出身なんだ。」
咄嗟のことで履歴書などは持っていない。
雪名は問われるままに、自分の名前やプロフィールを話した。
阿部という店のスタッフは、うんうんと頷きながら雪名の話を聞いてくれた。
そのときちょうど店のスタッフルームの扉が開いて、別の店員が顔を出した。
その顔を見て、雪名はギクリとする。
金色に染めた髪と端整な美貌。
彼は確かこの店のオーナーで、木佐が気にかけている人だと思う。
ウットリと彼を見つめる木佐に、雪名は少なからず嫉妬していた。
「ヒル魔さん、彼、うちでアルバイト希望なんですよ」
雪名たちのテーブルにやって来た青年に、阿部が声をかける。
だが次の青年が「雪名皇、だよな?」と聞いてきた。
実はヒル魔は独自の調査網を持っており、店に来ている客の素性はほぼ全て把握している。
だが雪名は到底知る由もなく、名字はともかく下の名前までバレていることに驚いた。
「いいんじゃねーの?イケメンだし、女性客が喜ぶだろ」
ヒル魔は不敵な笑顔でそう言うと、さっさと奥のテーブルに向かう。
そしてノートパソコンを取り出すと、凄まじい速さでキーを叩き始めた。
とにかくヒル魔の鶴の一声で、雪名は無事にアルバイトとして採用されることとなったのだ、
勤務は翌日からということになり、雪名は帰宅した木佐に真っ先にそれを報告した。
「え?カフェ『デビルバッツ』でバイト?」
木佐が驚いた様子で聞き返してくる。
雪名は「はい!」と元気いっぱいの笑顔で答えた。
だが木佐はなんだが困ったような表情で「そっか」と答えた。
もし木佐が雪名と出逢う前にヒル魔と出逢っていたら、どうなっていたのだろう。
今さら木佐がヒル魔と浮気云々なんて事態になることがないのはわかっている。
だが木佐がヒル魔を見つめる瞳を見ていると、不安になるのだ。
今、木佐と恋人でいられるのは、単に雪名が先に出逢っただけだからではないだろうか。
咄嗟にアルバイトを志願したのは、木佐を魅了するヒル魔という人物への好奇心が大きい。
だが雪名はひとまずネガティブな気持ちを振り払い、前向きに考えることにした。
とにかくバイトも見つかったし、あのカフェなら料理の腕も上がるかもしれない。
【続く】