アイシ×おお振り×セカコイ【お題:春5題 夏5題 秋5題 冬5題】
【春/花満開気持ち全開】
「それは大変でしたね。」
小野寺律はションボリと肩を落とす吉野千秋にそう言った。
発端は月刊エメラルドの人気作家、吉川千春こと吉野千秋宅で仕事中のこと。
何か食事をしようということになり、律はたまたま近所の知り合いの店に配達を頼んだ。
全員が美味い食事に満足してくれただけではなく、羽鳥と吉野は頻繁に通っているらしい。
結果的に店を紹介した形になった律は大いにホッとしていた。
律が羽鳥から一連の話を聞いたのはつい最近だ。
吉野と常連客の1人がトラブルになったこと。
オーナーのヒル魔が吉野の漫画のモデルになる代わりに条件を出したこと。
そもそもカフェ「デビルバッツ」は律が常連だったから、羽鳥も気を使って教えてくれたのだろう。
何となく気になって、会社帰りに立ち寄ってみた。
すると吉野が先に来店していて、テーブル席で1人、ビールを飲んでいた。
心なしか元気がないように見える。
律は吉野の席にそっと近づくと「今日はお1人ですか?」と声をかけていた。
「正直言って、俺の親よりトリの親の方が大変だと思ってたんです。でも実際は逆で」
「吉野さんの親御さんが、反対なさってるんですか?」
「トリのことは子供の頃から知ってるし、いいヤツだってわかってるのに。」
「それはそうでしょうけど」
「男同士ってだけで、何であんなに反対するんだろう。。。」
吉野はヒル魔との約束の1つ「羽鳥と吉野の親兄弟に2人の関係を話す」を果たした。
その結果は、予想通りというべきなのか。
どうやら最初のアプローチはさんざんだったようだ。
律はションボリと肩を落とす吉野に「大変でしたね」と言った。
そうとしか言いようがない。
律にできることは、こうして話を聞くくらいしかないのだから。
「でも俺、頑張ります。もう後戻りはできないですし。」
吉野はそう言って、グラスに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干す。
律はいくらか元気を取り戻した吉野を見て、ホッとした。
今吉野と羽鳥が直面している問題は、律も越えなければならない壁だった。
律の場合は家を継ぐとか余計な問題があるから、なおさら難しいだろう。
けどなぜか吉野を見ていると、大丈夫だという気になるから不思議だ。
いつか羽鳥と吉野も、律と恋人である高野も、堂々と幸せになる。
何の根拠もなくそんな浮かれた気分になるのも、春が成せる技なのかもしれない。
「新連載、楽しみです。」
律の言葉に、吉野も笑顔で「ありがとうございます」と答えてくれた。
嬉しくなった律は、注文を取りに来たセナに「俺もビール下さい」と頼んだ。
明日も仕事だから、今日は飲まないつもりだったけど何だか飲みたくなったのだ。
春なのだから、それくらいの贅沢は許させるだろう。
*****
「千秋のことをちゃんと幸せにしろよ。」
柳瀬の猫目が、羽鳥のことを睨みつけている。
羽鳥はその視線を受け止めると「わかってる」と答えた。
羽鳥芳雪はカフェ「デビルバッツ」で、柳瀬優と向かい合っていた。
もう長いこと黙ったまま、窓際の一番広い席を陣取っている。
しかも頼んだのは2人ともコーヒーだけだ。
いくら混んでいない時間帯とはいえ、さすがに申し訳ない気持ちになる。
だがセナも阿部もときどきカップに新しいコーヒーを注ぎに来てくれるだけだ。
大事な話をするのだという雰囲気を察して、気を使ってくれているのがありがたかった。
「この前、千秋に言われた。俺とは永遠に親友だって。」
最初に口を開いたのは、柳瀬だった。
吉野はヒル魔との約束を果たすために、柳瀬に告げたのだろう。
羽鳥は「そうか」と短く答えただけで、表情を変えることもなかった。
永遠に親友。
本当に親友だと思っている人間に言われたなら、これほど嬉しい言葉はないだろう。
だが恋心を抱いている相手に言われて、これほど残酷な言葉はない。
もし羽鳥が吉野から告げられたら、立ち直れないだろう。
だから下手に感想を言うことも、迂闊に慰めることもできない。
「千秋とは当分会わない。アシもやらない。」
柳瀬の意外な言葉に、羽鳥は「え?」と思わず驚きの声を上げた。
だが柳瀬は涼しい顔で、先程阿部が注ぎ足してくれたばかりのコーヒーを口に運ぶ。
「今まではまだ微かに希望を持ってた。でもそれもないのにそばにいられるほど大人じゃない。」
「だが。。。」
「千秋が正直な気持ちをぶつけてくれたんだ。俺もちゃんと考えなくちゃいけないから。」
「そのために千秋から離れるのか。」
羽鳥は複雑な気持ちだった。
恋敵の柳瀬が遠ざかるのは、正直言って安堵するところも多い。
吉川千春の担当編集としては、有能なアシスタントを辞めるのは痛い。
何よりも吉野は、柳瀬と会えないと寂しがるだろう。
「千秋のことを友人だと思えるようになったら、戻るよ。」
「そうしてくれ。千秋も待ってるだろう。一応、俺もだが」
「そりゃ、どうも。千秋のことをちゃんと幸せにしろよ。」
柳瀬の猫目が、羽鳥のことを睨みつけている。
羽鳥はその視線を受け止めると「わかってる」と答えた。
*****
「ねぇ十文字くん。一応言うけど吉野さんは僕たちより年上だからね。」
十文字が「マジかよ?」と大声で驚くと、吉野が困ったように笑った。
「この前は申し訳なかった。」
顔に十字傷、短く刈り込んだ金髪、がっしりした体躯。
見るからに凄みのある男が、童顔で細身でかわいらしい吉野に頭を下げている様子は異様だ。
だがその男、十文字はほぼ直角に身体を曲げて、動かない。
そして当の吉野はあやまられているというのに、男から漂う威圧感で固まっている。
「2人とも座ったら?」
セナは苦笑しながら促すと、2人ともぎこちない表情で席に座った。
場を和ませるために用意したのは、三橋特製の野菜クッキーとハーブティーだ。
砂糖をほとんど使わないこのスイーツは、甘いものが苦手な十文字には好評だった。
先日吉野を怒鳴りつけてしまった十文字は、彼なりに後悔していたようだ。
吉野に謝罪するなら機会を作ると言ったセナの提案に、あっさり乗ってきた。
だからセナはこうして定休日に十文字と吉野を店に呼び出したのだった。
「こちらこそすみませんでした。俺が無神経だったから不愉快な思いをさせて。」
席に座るなり、今度は吉野があやまっている。
この2人は容貌こそ正反対だが、性格は似ている部分が多いとセナは思う。
一本気で、嘘やごまかしが嫌いで、基本的には生き方は不器用な方だ。
そんな真っ直ぐなところが、友人たちには好かれているのだと思う。
「優、いやこの前の友人に永遠に親友だって言いました。そうしたら当分会わないって言われて。」
「そうだったのか。俺のせいだな。」
「いえ、寂しいですけど、これでよかったんだと思います。」
「そうか。」
吉野と十文字の会話が聞こえてきて、セナは少なからず驚いていた。
当分会わないと言ったという柳瀬優の潔さに。
そう言えば最近、柳瀬が来店しないことが気になってはいたのだ。
それはきっと吉野と顔を合わせないためなのだろう。
ひょっとして十文字くんも、消えたいと思ったことはないのかな。
セナはぼんやりとそんなことを考えた。
だがセナは知らないことだが、十文字は柳瀬と違って消えることなどしない。
それはヒル魔のせいだった。
自分の余命が長くないヒル魔は、自分がいなくなった後のセナを支えて欲しいと頼んでいる。
だから十文字は注意深く友人のラインを守りながら、セナのそばにいるのだ。
「ねぇ十文字くん。一応言うけど吉野さんは僕たちより年上だからね。」
セナは苦笑しながら、口を挟んだ。
十文字が「マジかよ?」と大声で驚くと、吉野が困ったように笑う。
セナも実は自分がかなり童顔であることは自覚しているが、吉野にはかなわないと思っている。
「どうも、その、すんません。」
何だかんだで礼儀正しい十文字は、ワタワタとあやまっている。
その様子が何だか微笑ましくて、セナは吉野と顔を見合わせて笑った。
*****
「花満開、気持ち全開でどうかな?今の俺の気分なんだ。」
吉野はそう言いながら、一心不乱にペンを走らせた。
吉川千春の新連載は、カフェ「デビルバッツ」オーナーの協力の元にさくさくと進んだ。
ヒル魔いわく「面倒なことはさっさと片付けてしまう」とのこと。
頼めば長時間でもポーズを取ってくれるし、聞けば大抵の事は答えてくれる。
容姿の美しさだけではなく、その人生観も恋愛観も大いに参考になった。
ヒル魔が出した条件は1つ、ヒル魔がモデルであることを明かさないことだけだ。
確かにそれを公表すれば、カフェ「デビルバッツ」にはファンが押しかけるかもしれない。
あの落ち着いたあの店の雰囲気が壊されてしまうくらいなら、吉野としても秘密の方がいい。
かくして構想はつつがなくまとまり、担当編集の羽鳥と、編集長の高野のOKも出た。
そして記念すべき初回掲載の雑誌の表紙は、吉野が描くことになった。
もちろん新連載の主役のキャラ、つまりヒル魔の画だ。
吉野は初めてカフェ「デビルバッツ」に来店した時に見たヒル魔を描くことに決めていた。
店前の満開の桜の下で、背筋をピンと伸ばして、桜を見上げていた。
あの美しい立ち姿を描きたいと思った。
その案も難なくOKが出て、吉野は今その表紙を描いている。
「アシスタントなしで描くとは、身の程知らずだな。」
羽鳥はほとんど不眠不休で描き続ける吉野に、呆れた声でそう言った。
通常吉野クラスの漫画家は、背景や色付けなどはアシスタントに任せることも多い。
漫画家自身が描いた部分の方がはるかに少ないなんてことも当たり前にあったりする。
だが吉野はいろいろな意味で、この表紙だけは自分1人の力で仕上げたかったのだ。
「俺にしてみれば新しいスタートなんだ。最初の1歩は自分の力でやり遂げたい。」
「わからないではないが」
「それにもう優はいないんだ。これくらい自分でできなきゃこの先やっていけないよ。」
「そうだな。」
とにかく吉野は新しい道へと踏み出したのだ。
あらゆる意味で記念すべき作品となるのだから、吉野にとっては特別なのだ。
そんな意気込みが伝わったのだろう。
普段の吉野なら無謀な1人きりの作業なのに、羽鳥はそれ以上は何も言わなかった。
家事など一切の雑用を引き受け、吉野が作画に専念できるようにした。
「キャッチコピーは『花満開、気持ち全開』でどうかな?今の俺の気分なんだ。」
吉野はそう言いながら、一心不乱にペンを走らせる。
羽鳥は苦笑しながら「ストレート過ぎる気もするが、逆にいいかもな」と答えた。
描き上げた表紙は、吉野の漫画家人生の中でも最高傑作となった。
そして返却された原画は、モデルであるヒル魔へと贈られることになった。
*****
「俺が死んだら、これを俺の遺影にしてくれ。」
ヒル魔はセナの髪をなでながら、静かにそう言った。
ヒル魔とセナはカフェ「デビルバッツ」の2階で暮らしている。
2階には部屋が5つあり、ヒル魔、セナ、阿部、三橋がそれぞれ1部屋ずつ使っている。
残りの1部屋はカフェのアルバイトたちが着替えたり休んだりするスタッフルームに当てている。
もっともNFLで活動するヒル魔とセナは、ほとんどここにいることはない。
カフェで過ごすのは、1年のうちのシーズンオフのごく短い間だけだ。
本当はその期間だけホテル住まいでもいいとヒル魔は思っていた。
この店は阿部と三橋に明け渡したつもりでいるので、ぶっちゃけ邪魔だろう。
だが阿部には「ホテルなんて、お金がもったいない」と説教された。
さらに三橋には「ここがヒル魔さんとセナさんの家なのに」と涙目で訴えられた。
だから2人の気持ちに感謝して、日本にいるときにはカフェの2階に寝泊りしている。
「吉野さんの作品、すごくステキですね。」
ヒル魔とセナは、ヒル魔の部屋のベットで抱き合っていた。
ヒル魔はもうほとんどセナと身体をつなげるようなことはしない。
体力がすっかり落ちてしまったせいで、できないのだ。
だけどセナは「ただ抱きしめあってるだけでも幸せですよ」と笑う。
額に入れられた吉野作の原画は、ヒル魔の部屋の壁にかけられている。
セナはヒル魔の腕の中で、それをずっとウットリと見上げていた。
「俺が死んだら、これを俺の遺影にしてくれ。」
ヒル魔はセナの髪をなでながら、静かにそう言った。
セナは一瞬ギクリと身体を震わせると、一瞬ヒル魔を見た。
だがすぐに「わかりました」と短く答えた。
セナは「そんなことを言わないでくれ」などということは言わない。
多分そう遠からずやってくる別れの前に、1秒たりとも無駄な気休めに時間を使いたくないのだ。
「吉野さんの作品、最終回までちゃんと読んでくださいね。」
さりげないセナの口調には、切実な願いが込められている。
吉野は多分長期連載で何年も続く予定だと言っていた。
そこまでは絶対に生きて欲しいという願いだ。
ヒル魔は「そうだな」と短く答えると、セナを深く抱きしめた。
花満開、気持ち全開。
そんなキャッチコピーの月刊エメラルドが発売されたのは、それからすぐのこと。
目玉はもちろん吉川千春の新連載で、表紙はヒル魔の画だ。
カフェ「デビルバッツ」の面々は、ワクワクしながらその作品を読みふけった。
【続く】
「それは大変でしたね。」
小野寺律はションボリと肩を落とす吉野千秋にそう言った。
発端は月刊エメラルドの人気作家、吉川千春こと吉野千秋宅で仕事中のこと。
何か食事をしようということになり、律はたまたま近所の知り合いの店に配達を頼んだ。
全員が美味い食事に満足してくれただけではなく、羽鳥と吉野は頻繁に通っているらしい。
結果的に店を紹介した形になった律は大いにホッとしていた。
律が羽鳥から一連の話を聞いたのはつい最近だ。
吉野と常連客の1人がトラブルになったこと。
オーナーのヒル魔が吉野の漫画のモデルになる代わりに条件を出したこと。
そもそもカフェ「デビルバッツ」は律が常連だったから、羽鳥も気を使って教えてくれたのだろう。
何となく気になって、会社帰りに立ち寄ってみた。
すると吉野が先に来店していて、テーブル席で1人、ビールを飲んでいた。
心なしか元気がないように見える。
律は吉野の席にそっと近づくと「今日はお1人ですか?」と声をかけていた。
「正直言って、俺の親よりトリの親の方が大変だと思ってたんです。でも実際は逆で」
「吉野さんの親御さんが、反対なさってるんですか?」
「トリのことは子供の頃から知ってるし、いいヤツだってわかってるのに。」
「それはそうでしょうけど」
「男同士ってだけで、何であんなに反対するんだろう。。。」
吉野はヒル魔との約束の1つ「羽鳥と吉野の親兄弟に2人の関係を話す」を果たした。
その結果は、予想通りというべきなのか。
どうやら最初のアプローチはさんざんだったようだ。
律はションボリと肩を落とす吉野に「大変でしたね」と言った。
そうとしか言いようがない。
律にできることは、こうして話を聞くくらいしかないのだから。
「でも俺、頑張ります。もう後戻りはできないですし。」
吉野はそう言って、グラスに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干す。
律はいくらか元気を取り戻した吉野を見て、ホッとした。
今吉野と羽鳥が直面している問題は、律も越えなければならない壁だった。
律の場合は家を継ぐとか余計な問題があるから、なおさら難しいだろう。
けどなぜか吉野を見ていると、大丈夫だという気になるから不思議だ。
いつか羽鳥と吉野も、律と恋人である高野も、堂々と幸せになる。
何の根拠もなくそんな浮かれた気分になるのも、春が成せる技なのかもしれない。
「新連載、楽しみです。」
律の言葉に、吉野も笑顔で「ありがとうございます」と答えてくれた。
嬉しくなった律は、注文を取りに来たセナに「俺もビール下さい」と頼んだ。
明日も仕事だから、今日は飲まないつもりだったけど何だか飲みたくなったのだ。
春なのだから、それくらいの贅沢は許させるだろう。
*****
「千秋のことをちゃんと幸せにしろよ。」
柳瀬の猫目が、羽鳥のことを睨みつけている。
羽鳥はその視線を受け止めると「わかってる」と答えた。
羽鳥芳雪はカフェ「デビルバッツ」で、柳瀬優と向かい合っていた。
もう長いこと黙ったまま、窓際の一番広い席を陣取っている。
しかも頼んだのは2人ともコーヒーだけだ。
いくら混んでいない時間帯とはいえ、さすがに申し訳ない気持ちになる。
だがセナも阿部もときどきカップに新しいコーヒーを注ぎに来てくれるだけだ。
大事な話をするのだという雰囲気を察して、気を使ってくれているのがありがたかった。
「この前、千秋に言われた。俺とは永遠に親友だって。」
最初に口を開いたのは、柳瀬だった。
吉野はヒル魔との約束を果たすために、柳瀬に告げたのだろう。
羽鳥は「そうか」と短く答えただけで、表情を変えることもなかった。
永遠に親友。
本当に親友だと思っている人間に言われたなら、これほど嬉しい言葉はないだろう。
だが恋心を抱いている相手に言われて、これほど残酷な言葉はない。
もし羽鳥が吉野から告げられたら、立ち直れないだろう。
だから下手に感想を言うことも、迂闊に慰めることもできない。
「千秋とは当分会わない。アシもやらない。」
柳瀬の意外な言葉に、羽鳥は「え?」と思わず驚きの声を上げた。
だが柳瀬は涼しい顔で、先程阿部が注ぎ足してくれたばかりのコーヒーを口に運ぶ。
「今まではまだ微かに希望を持ってた。でもそれもないのにそばにいられるほど大人じゃない。」
「だが。。。」
「千秋が正直な気持ちをぶつけてくれたんだ。俺もちゃんと考えなくちゃいけないから。」
「そのために千秋から離れるのか。」
羽鳥は複雑な気持ちだった。
恋敵の柳瀬が遠ざかるのは、正直言って安堵するところも多い。
吉川千春の担当編集としては、有能なアシスタントを辞めるのは痛い。
何よりも吉野は、柳瀬と会えないと寂しがるだろう。
「千秋のことを友人だと思えるようになったら、戻るよ。」
「そうしてくれ。千秋も待ってるだろう。一応、俺もだが」
「そりゃ、どうも。千秋のことをちゃんと幸せにしろよ。」
柳瀬の猫目が、羽鳥のことを睨みつけている。
羽鳥はその視線を受け止めると「わかってる」と答えた。
*****
「ねぇ十文字くん。一応言うけど吉野さんは僕たちより年上だからね。」
十文字が「マジかよ?」と大声で驚くと、吉野が困ったように笑った。
「この前は申し訳なかった。」
顔に十字傷、短く刈り込んだ金髪、がっしりした体躯。
見るからに凄みのある男が、童顔で細身でかわいらしい吉野に頭を下げている様子は異様だ。
だがその男、十文字はほぼ直角に身体を曲げて、動かない。
そして当の吉野はあやまられているというのに、男から漂う威圧感で固まっている。
「2人とも座ったら?」
セナは苦笑しながら促すと、2人ともぎこちない表情で席に座った。
場を和ませるために用意したのは、三橋特製の野菜クッキーとハーブティーだ。
砂糖をほとんど使わないこのスイーツは、甘いものが苦手な十文字には好評だった。
先日吉野を怒鳴りつけてしまった十文字は、彼なりに後悔していたようだ。
吉野に謝罪するなら機会を作ると言ったセナの提案に、あっさり乗ってきた。
だからセナはこうして定休日に十文字と吉野を店に呼び出したのだった。
「こちらこそすみませんでした。俺が無神経だったから不愉快な思いをさせて。」
席に座るなり、今度は吉野があやまっている。
この2人は容貌こそ正反対だが、性格は似ている部分が多いとセナは思う。
一本気で、嘘やごまかしが嫌いで、基本的には生き方は不器用な方だ。
そんな真っ直ぐなところが、友人たちには好かれているのだと思う。
「優、いやこの前の友人に永遠に親友だって言いました。そうしたら当分会わないって言われて。」
「そうだったのか。俺のせいだな。」
「いえ、寂しいですけど、これでよかったんだと思います。」
「そうか。」
吉野と十文字の会話が聞こえてきて、セナは少なからず驚いていた。
当分会わないと言ったという柳瀬優の潔さに。
そう言えば最近、柳瀬が来店しないことが気になってはいたのだ。
それはきっと吉野と顔を合わせないためなのだろう。
ひょっとして十文字くんも、消えたいと思ったことはないのかな。
セナはぼんやりとそんなことを考えた。
だがセナは知らないことだが、十文字は柳瀬と違って消えることなどしない。
それはヒル魔のせいだった。
自分の余命が長くないヒル魔は、自分がいなくなった後のセナを支えて欲しいと頼んでいる。
だから十文字は注意深く友人のラインを守りながら、セナのそばにいるのだ。
「ねぇ十文字くん。一応言うけど吉野さんは僕たちより年上だからね。」
セナは苦笑しながら、口を挟んだ。
十文字が「マジかよ?」と大声で驚くと、吉野が困ったように笑う。
セナも実は自分がかなり童顔であることは自覚しているが、吉野にはかなわないと思っている。
「どうも、その、すんません。」
何だかんだで礼儀正しい十文字は、ワタワタとあやまっている。
その様子が何だか微笑ましくて、セナは吉野と顔を見合わせて笑った。
*****
「花満開、気持ち全開でどうかな?今の俺の気分なんだ。」
吉野はそう言いながら、一心不乱にペンを走らせた。
吉川千春の新連載は、カフェ「デビルバッツ」オーナーの協力の元にさくさくと進んだ。
ヒル魔いわく「面倒なことはさっさと片付けてしまう」とのこと。
頼めば長時間でもポーズを取ってくれるし、聞けば大抵の事は答えてくれる。
容姿の美しさだけではなく、その人生観も恋愛観も大いに参考になった。
ヒル魔が出した条件は1つ、ヒル魔がモデルであることを明かさないことだけだ。
確かにそれを公表すれば、カフェ「デビルバッツ」にはファンが押しかけるかもしれない。
あの落ち着いたあの店の雰囲気が壊されてしまうくらいなら、吉野としても秘密の方がいい。
かくして構想はつつがなくまとまり、担当編集の羽鳥と、編集長の高野のOKも出た。
そして記念すべき初回掲載の雑誌の表紙は、吉野が描くことになった。
もちろん新連載の主役のキャラ、つまりヒル魔の画だ。
吉野は初めてカフェ「デビルバッツ」に来店した時に見たヒル魔を描くことに決めていた。
店前の満開の桜の下で、背筋をピンと伸ばして、桜を見上げていた。
あの美しい立ち姿を描きたいと思った。
その案も難なくOKが出て、吉野は今その表紙を描いている。
「アシスタントなしで描くとは、身の程知らずだな。」
羽鳥はほとんど不眠不休で描き続ける吉野に、呆れた声でそう言った。
通常吉野クラスの漫画家は、背景や色付けなどはアシスタントに任せることも多い。
漫画家自身が描いた部分の方がはるかに少ないなんてことも当たり前にあったりする。
だが吉野はいろいろな意味で、この表紙だけは自分1人の力で仕上げたかったのだ。
「俺にしてみれば新しいスタートなんだ。最初の1歩は自分の力でやり遂げたい。」
「わからないではないが」
「それにもう優はいないんだ。これくらい自分でできなきゃこの先やっていけないよ。」
「そうだな。」
とにかく吉野は新しい道へと踏み出したのだ。
あらゆる意味で記念すべき作品となるのだから、吉野にとっては特別なのだ。
そんな意気込みが伝わったのだろう。
普段の吉野なら無謀な1人きりの作業なのに、羽鳥はそれ以上は何も言わなかった。
家事など一切の雑用を引き受け、吉野が作画に専念できるようにした。
「キャッチコピーは『花満開、気持ち全開』でどうかな?今の俺の気分なんだ。」
吉野はそう言いながら、一心不乱にペンを走らせる。
羽鳥は苦笑しながら「ストレート過ぎる気もするが、逆にいいかもな」と答えた。
描き上げた表紙は、吉野の漫画家人生の中でも最高傑作となった。
そして返却された原画は、モデルであるヒル魔へと贈られることになった。
*****
「俺が死んだら、これを俺の遺影にしてくれ。」
ヒル魔はセナの髪をなでながら、静かにそう言った。
ヒル魔とセナはカフェ「デビルバッツ」の2階で暮らしている。
2階には部屋が5つあり、ヒル魔、セナ、阿部、三橋がそれぞれ1部屋ずつ使っている。
残りの1部屋はカフェのアルバイトたちが着替えたり休んだりするスタッフルームに当てている。
もっともNFLで活動するヒル魔とセナは、ほとんどここにいることはない。
カフェで過ごすのは、1年のうちのシーズンオフのごく短い間だけだ。
本当はその期間だけホテル住まいでもいいとヒル魔は思っていた。
この店は阿部と三橋に明け渡したつもりでいるので、ぶっちゃけ邪魔だろう。
だが阿部には「ホテルなんて、お金がもったいない」と説教された。
さらに三橋には「ここがヒル魔さんとセナさんの家なのに」と涙目で訴えられた。
だから2人の気持ちに感謝して、日本にいるときにはカフェの2階に寝泊りしている。
「吉野さんの作品、すごくステキですね。」
ヒル魔とセナは、ヒル魔の部屋のベットで抱き合っていた。
ヒル魔はもうほとんどセナと身体をつなげるようなことはしない。
体力がすっかり落ちてしまったせいで、できないのだ。
だけどセナは「ただ抱きしめあってるだけでも幸せですよ」と笑う。
額に入れられた吉野作の原画は、ヒル魔の部屋の壁にかけられている。
セナはヒル魔の腕の中で、それをずっとウットリと見上げていた。
「俺が死んだら、これを俺の遺影にしてくれ。」
ヒル魔はセナの髪をなでながら、静かにそう言った。
セナは一瞬ギクリと身体を震わせると、一瞬ヒル魔を見た。
だがすぐに「わかりました」と短く答えた。
セナは「そんなことを言わないでくれ」などということは言わない。
多分そう遠からずやってくる別れの前に、1秒たりとも無駄な気休めに時間を使いたくないのだ。
「吉野さんの作品、最終回までちゃんと読んでくださいね。」
さりげないセナの口調には、切実な願いが込められている。
吉野は多分長期連載で何年も続く予定だと言っていた。
そこまでは絶対に生きて欲しいという願いだ。
ヒル魔は「そうだな」と短く答えると、セナを深く抱きしめた。
花満開、気持ち全開。
そんなキャッチコピーの月刊エメラルドが発売されたのは、それからすぐのこと。
目玉はもちろん吉川千春の新連載で、表紙はヒル魔の画だ。
カフェ「デビルバッツ」の面々は、ワクワクしながらその作品を読みふけった。
【続く】