アイシ×おお振り×セカコイ【お題:春5題 夏5題 秋5題 冬5題】
【春/陽だまり笑顔】
これ全部食べられたら、嬉しいだろうな。
三橋廉は何とも風情のないことを思いながら、満開の桜を見上げた。
あと1時間でカフェ「デビルバッツ」は開店する。
三橋は時々桜の樹を見上げながら、店先を掃いていた。
この時期はどうしても掃除に時間を取られる。
掃いても掃いても舞い散る桜の花びらとの格闘だ。
三橋としては、そのままにしておきたいと思う
地面を絨毯のように飾る桜は美しい。
だが風で舞い散れば、近隣にも飛散してしまう。
近所迷惑にならないように、やはり掃除は欠かせない。
「ムッフフ~ン、ムッフフ~ン」
三橋は鼻歌を歌いながら、リズミカルに店先を掃いていく。
昔から何かしているときに、知らないうちに口ずさんでしまうのだ。
実は阿部に指摘されるまで、そのことに気付かなかった。
どうやら高校時代からのクセらしい。
そしてこの店で働くようになっても、変わらない。
セナやヒル魔に「楽しそう」とか「上機嫌だな」などとよく言われる。
「三橋さん、こんにちは。ご機嫌ですね。」
花弁をかき集めて袋に入れていると、来店した客にもそう声をかけられた。
最近よく来るようになった客の吉野千秋と、その友人の羽鳥芳雪だ。
幼なじみだというこの2人は、今は仕事仲間なのだという。
よく店内で打ち合わせをしているようだ。
色恋沙汰には疎いし、そもそも日頃厨房にいるからあまり客を観察することもない。
そんな三橋でも、この2人が恋仲だというのはすぐにわかった。
羽鳥が吉野を見る瞳は、ヒル魔がセナを見ている瞳によく似ていると思う。
それに吉野が甘えたように見上げるのは、この羽鳥だけだ。
別の友人やアシスタントだという女性を連れてきたりもしたが、こんなにかわいい表情はしない。
「いいですか?」
「ど、どうぞ。いら、しゃい、ませ。」
羽鳥はまだ営業時間前だが、入っていいのかと聞いている。
ドアにかけられた札はまだ「準備中」だが、かまわない。
陽だまりの中、三橋は2人を笑顔で迎え入れた。
*****
「あの人に頼もうと思うんだけど。」
吉野の言葉に、羽鳥は思わずそちらを見た。
奥のテーブルで金色の髪の青年が、足をテーブルに乗せ上げてノートパソコンを操作していた。
羽鳥芳雪は、人気漫画家吉川千春こと吉野千秋と共にカフェ「デビルバッツ」に来ていた。
単なる食事ではなく、打ち合わせだ。
この店は開店時間前や閉店時間後でも、店内の清掃の時間以外なら入れてくれる。
営業時間帯でなくても飲み物はオーダーできるし、食事も仕込みの状況次第で出せるものは出してくれる。
だから客のいない時間帯、大きな声で打ち合わせをできるので重宝していた。
今日も吉野の新作の構想の打ち合わせがしたくて、開店の1時間前にやって来た。
窓から美しい桜を見ながら、美味いコーヒーで打ち合わせができればありがたい。
庭先で桜の花を掃いていた三橋は、笑顔で入れてくれた。
「それで新作なんだけどさ、今回主役を男にしたいんだ。」
窓際の大きなテーブルに向かいあうなり、吉野は勢い込んでそう言った。
羽鳥は一瞬、その案を考える。
少女漫画では基本的に主役は女子であり、吉野の過去の作品もそうだ。
女の子はやはりヒロインに感情移入をしたり、自分に置き換えて読むものだからだ。
主役を男にするというのは、やはり冒険と言わざるをえない。
「モデルをあの人に頼もうと思うんだけど。」
吉野の言葉に、羽鳥は思わずそちらを見た。
奥のテーブルで金色の髪の青年が、足をテーブルに乗せ上げてノートパソコンを操作していた。
話はどうやら聞こえてはいないらしい。
こちらの方をチラりとも見ずに、すさまじい速さでキーを叩いている。
「阿部さんに聞いたんだけど、ここのオーナーさんなんだって。」
「いつ聞いた?」
「一昨日、優と一緒に来たんだ。」
羽鳥は思わず顔をしかめてしまう。
あのオーナーだという金髪の青年に惹かれるのは、仕方のないことだと思う。
美しくてどこか気高い印象の青年は、人目を引くのだ。
漫画家という商売柄、描きたくなる気持ちはよくわかる。
羽鳥が問題にしたいのは、柳瀬優と一緒に来ていて、しかもそれを今まで言わなかったことだ。
「モデルになって欲しいって言ったら、OKしてくれるかなぁ。」
羽鳥の心のうちなど知らない吉野は、陽だまりの中で無邪気な笑顔を見せる。
とにかくもっと細かいプロットを聞こうと、羽鳥は身を乗り出した。
*****
ヒル魔さんをモデルか。なかなか目が高いかも。
小早川セナは開店の準備をしながら、口元に笑みを浮かべていた。
最近よく顔を見せるようになった客、羽鳥芳雪と吉野千秋。
2人は開店前やランチタイム後など、人の少ない時間帯にやって来る。
そして今日もいろいろな資料をテーブルに広げて、打ち合わせをしていた。
吉野は吉川千春という名前で少女漫画を描いていると言われた。
そして一応女ということになっているので、その辺は内密にして欲しいと。
少女漫画はまったく読まないセナは、そのネームバリューをまったく知らない。
そこで友人である瀧鈴音に「吉川千春って知ってる?」と聞いた。
すると鈴音はこの日本でその名を知らない女子はいないと言い切った。
いくら何でも大げさではないかと思い、三橋と共に書店に出向いて、驚いた。
吉川千春の本はその書店のかなりのスペースを使って、平積みにされていた。
「モデルになって欲しいって言ったら、OKしてくれるかなぁ。」
吉野の声が聞こえてくる。
声を落としているが、まる聞こえだ。
というか、むしろ声をひそめているせいで逆に耳に障るのだ。
セナはチラリとヒル魔の方を見た。
ヒル魔は一番奥まった席に陣取り、ノートパソコンを叩いている。
吉野の声が聞こえてないはずはないのに、知らん顔だ。
「お前、主役のイメージ以外、何も決まってないじゃないか!」
「え~?でも。。。」
「もう少し、細部をつめないとダメだ。OKは出せない。」
羽鳥が声を荒げると、吉野がしょんぼりと肩を落としている。
というか、この2人はいつもこんな風だ。
羽鳥が説教口調で吉野に詰め寄り、吉野はしどろもどろになる。
セナの知り合いにも漫画家は1人いるが、彼はいつも飄々としている。
作品を作るのがこんなに大変だなんて、この2人を見るまでは知らなかった。
「レンくん。試作品のケーキ、羽鳥さんたちに味見してもらってもいい?」
セナは厨房に入ると、開店準備に慌しい三橋に声をかけた。
三橋は「お願い、します。ご意見、聞いて、ください」と笑う。
甘いものでも食べてもらって、リラックスしてもらおう。
少しでも吉野さんの作品に貢献できたらいいな。
セナは三橋に笑顔を返しながら、そう思った。
*****
「どうしていきなり、そんなこと言うんだよ!」
感情が激してしまった吉野は、思わず声を荒げてしまった。
だが羽鳥は、まったく動じることもなく黙って吉野を見つめている。
今日は最近通いつめているカフェ「デビルバッツ」で打ち合わせだ。
吉野はこのカフェのオーナーを新作のモデルにしたいと言った。
直接話したことはないが、彼の存在感は圧倒的だ。
綺麗な容姿もどこかミステリアスな雰囲気も、実に絵になると思う。
だから羽鳥のOKが出たら、彼に取材を申し込もうと思ったのだ。
だが羽鳥の答えはNOだった。
反対と言うのではない。
彼をモデルにするというだけでは全然決まっていないも同然だと言う。
彼と話をして、イメージを膨らませようと思っていた吉野は途方に暮れた。
もし彼にいろいろ話を聞いてから企画NGになったら、申し訳ない。
だから事前に彼を主役のお話を描くことに、了解だけ取っておきたかったのだ。
「そろそろお互いの親に、俺たちの関係を打ち明けないか?」
新作の話が暗礁に乗り上げ、何となく2人とも黙ってしまった後。
おもむろに羽鳥はそう切り出した。
一瞬何のことだかわからず、ポカンとしてしまった吉野もすぐにその意味を理解する。
「どうしていきなり、そんなこと言うんだよ!」
感情が激してしまった吉野は、思わず声を荒げてしまった。
できるはずがない、許されるなんてありえないと思う。
だが羽鳥は、まったく動じることもなく黙って吉野を見つめている。
それは今まで吉野だって、何度も悩んだ問題だった。
吉野もよく親から電話やメールで「いい人はいないのか」とか「はやく身を固めろ」などと言われる。
30歳を過ぎた頃からは「孫の顔が見たい」も加わった。
このままの関係を続けていていいのか、綺麗さっぱり別れた方がいいのか。
何よりも羽鳥を自由にしてあげるべきなのではないか。
だが親に打ち明けるという選択肢はなかった。
「ずっと一緒にいたい。正々堂々と。そのためには避けて通れない。」
羽鳥はあくまでも冷静、そして真剣だった。
恋人が同性であることを家族が知れば、怒られるかもしれないし、泣かれるかもしれない。
認めてもらうまでの道筋は、決して平坦ではないだろう。
だが羽鳥はあえてそれをしようというのだ。
「認めてもらいたいけど、無理に決まってる。俺んちはともかくトリは。。。」
「ちゃんとわかって許してもらう。そのためなら何度でも頭を下げる。」
吉野の迷いなど関係なく、羽鳥はもう心を決めているようだ。
だが吉野にはどうしても踏み出せる自信はなかった。
吉野は羽鳥の揺るぎない瞳の前で「無理だよ」と繰り返した。
*****
やはりどうしてもそれが壁になるのか。
ヒル魔妖一はパソコンのキーを叩きながら、目線も表情も変えない。
だが内心は秘かに大きなため息をついていた。
最近よく来るようになった2人組の客が恋仲なのは気がついていた。
だがヒル魔もこの店の従業員も、決して変な目で見ることはない。
ギャルソンの阿部とシェフの三橋も、オーナーのヒル魔とセナだって恋人同士なのだから。
気になるのはむしろ片割れが漫画家で、どうやらヒル魔をモデルにしたいらしいということだ。
ヒル魔は考えをめぐらせながらもパソコンのキーを叩いていた。
本当はそろそろ今流行のスマートフォンやタブレット端末の方が楽なのかもしれない。
だがヒル魔は昔ながらのパソコンでキーを叩くスタイルを変えるつもりはない。
それは仮に吉野がヒル魔にモデルを頼んでも引き受けない理由と同じだ。
ヒル魔に残された時間はあまり多くない。
新しい端末に慣れるとか、取材を受けるとか、余計なことに時間を使いたくなかった。
「認めてもらいたいけど、無理に決まってる。」
「ちゃんとわかって許してもらう。そのためなら何度でも頭を下げる。」
吉野と羽鳥の会話が聞こえてきて、一瞬ヒル魔の手が止まった。
やはりどうしてもそれが壁になるのか。
ヒル魔は再びパソコンのキーを叩きながら、目線も表情も変えない。
だが内心は秘かに大きなため息をついていた。
ヒル魔には父親がいるが、幼少の頃からほとんど縁を切った状態だ。
だが恋人であるセナには、ごく普通に息子に愛情を注ぐ両親がいる。
ヒル魔との仲を認めてもらうには、実に長い年月を費やした。
何度も足を運び、頭を下げ、怒鳴られ、最後には別れてくれと懇願された。
阿部と三橋はもっと大変だった。
阿部の弟に縁談があり、その相手の親族から同性愛者の兄がいる男との結婚は認めないと言われたのだ。
両親に反対されるだけでなく、弟の婚約者からまで嫌がらせを受けたりもした。
その後阿部の弟は無事に結婚したし、お互いの両親とも和解はした。
だが2人の仲を打ち明ける前に比べたら、やはりギクシャクしてしまっているようだ。
「試作品なんですが、いかがですか?」
吉野は「無理だよ」を繰り返し、微妙な空気が漂うテーブル。
そこへセナが歩み寄り、声をかけたのだ。
トレーに乗せて運んできたのは、来週からメニューに加わる新作のフルーツケーキだ。
「店からのサービスです。そのかわりご意見を聞かせてくださいね。」
セナは小さなケーキの皿を2つ、テーブルに置いた。
そして一緒に持ってきたコーヒーポットから、空のカップにコーヒーを注ぐ。
吉野が「美味しそう!」と声を上げ、羽鳥が「ありがとうございます」と丁寧に礼を言った。
雰囲気が悪くなった2人への、セナなりの心遣いなのだろう。
ヒル魔とセナが、阿部と三橋が幸せであるように、吉野と羽鳥も幸せでいてほしい。
そんなセナの思いが伝わり、ヒル魔の心も熱くなる。
「足をテーブルに乗せるのは止めて下さい!うちは食べ物を出すお店なんですよ?」
「一応、俺はオーナーだぞ。」
「オーナーならなおさらです。お行儀よくしてください」
ケーキとコーヒーを出した後、ヒル魔の横に来たセナが文句を言った。
窓際の席の陽だまりの中では、吉野は無邪気にケーキを味わい、見守る羽鳥も笑顔を見せる。
そしてカフェ「デビルバッツ」は開店の時間だ。
【続く】
これ全部食べられたら、嬉しいだろうな。
三橋廉は何とも風情のないことを思いながら、満開の桜を見上げた。
あと1時間でカフェ「デビルバッツ」は開店する。
三橋は時々桜の樹を見上げながら、店先を掃いていた。
この時期はどうしても掃除に時間を取られる。
掃いても掃いても舞い散る桜の花びらとの格闘だ。
三橋としては、そのままにしておきたいと思う
地面を絨毯のように飾る桜は美しい。
だが風で舞い散れば、近隣にも飛散してしまう。
近所迷惑にならないように、やはり掃除は欠かせない。
「ムッフフ~ン、ムッフフ~ン」
三橋は鼻歌を歌いながら、リズミカルに店先を掃いていく。
昔から何かしているときに、知らないうちに口ずさんでしまうのだ。
実は阿部に指摘されるまで、そのことに気付かなかった。
どうやら高校時代からのクセらしい。
そしてこの店で働くようになっても、変わらない。
セナやヒル魔に「楽しそう」とか「上機嫌だな」などとよく言われる。
「三橋さん、こんにちは。ご機嫌ですね。」
花弁をかき集めて袋に入れていると、来店した客にもそう声をかけられた。
最近よく来るようになった客の吉野千秋と、その友人の羽鳥芳雪だ。
幼なじみだというこの2人は、今は仕事仲間なのだという。
よく店内で打ち合わせをしているようだ。
色恋沙汰には疎いし、そもそも日頃厨房にいるからあまり客を観察することもない。
そんな三橋でも、この2人が恋仲だというのはすぐにわかった。
羽鳥が吉野を見る瞳は、ヒル魔がセナを見ている瞳によく似ていると思う。
それに吉野が甘えたように見上げるのは、この羽鳥だけだ。
別の友人やアシスタントだという女性を連れてきたりもしたが、こんなにかわいい表情はしない。
「いいですか?」
「ど、どうぞ。いら、しゃい、ませ。」
羽鳥はまだ営業時間前だが、入っていいのかと聞いている。
ドアにかけられた札はまだ「準備中」だが、かまわない。
陽だまりの中、三橋は2人を笑顔で迎え入れた。
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「あの人に頼もうと思うんだけど。」
吉野の言葉に、羽鳥は思わずそちらを見た。
奥のテーブルで金色の髪の青年が、足をテーブルに乗せ上げてノートパソコンを操作していた。
羽鳥芳雪は、人気漫画家吉川千春こと吉野千秋と共にカフェ「デビルバッツ」に来ていた。
単なる食事ではなく、打ち合わせだ。
この店は開店時間前や閉店時間後でも、店内の清掃の時間以外なら入れてくれる。
営業時間帯でなくても飲み物はオーダーできるし、食事も仕込みの状況次第で出せるものは出してくれる。
だから客のいない時間帯、大きな声で打ち合わせをできるので重宝していた。
今日も吉野の新作の構想の打ち合わせがしたくて、開店の1時間前にやって来た。
窓から美しい桜を見ながら、美味いコーヒーで打ち合わせができればありがたい。
庭先で桜の花を掃いていた三橋は、笑顔で入れてくれた。
「それで新作なんだけどさ、今回主役を男にしたいんだ。」
窓際の大きなテーブルに向かいあうなり、吉野は勢い込んでそう言った。
羽鳥は一瞬、その案を考える。
少女漫画では基本的に主役は女子であり、吉野の過去の作品もそうだ。
女の子はやはりヒロインに感情移入をしたり、自分に置き換えて読むものだからだ。
主役を男にするというのは、やはり冒険と言わざるをえない。
「モデルをあの人に頼もうと思うんだけど。」
吉野の言葉に、羽鳥は思わずそちらを見た。
奥のテーブルで金色の髪の青年が、足をテーブルに乗せ上げてノートパソコンを操作していた。
話はどうやら聞こえてはいないらしい。
こちらの方をチラりとも見ずに、すさまじい速さでキーを叩いている。
「阿部さんに聞いたんだけど、ここのオーナーさんなんだって。」
「いつ聞いた?」
「一昨日、優と一緒に来たんだ。」
羽鳥は思わず顔をしかめてしまう。
あのオーナーだという金髪の青年に惹かれるのは、仕方のないことだと思う。
美しくてどこか気高い印象の青年は、人目を引くのだ。
漫画家という商売柄、描きたくなる気持ちはよくわかる。
羽鳥が問題にしたいのは、柳瀬優と一緒に来ていて、しかもそれを今まで言わなかったことだ。
「モデルになって欲しいって言ったら、OKしてくれるかなぁ。」
羽鳥の心のうちなど知らない吉野は、陽だまりの中で無邪気な笑顔を見せる。
とにかくもっと細かいプロットを聞こうと、羽鳥は身を乗り出した。
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ヒル魔さんをモデルか。なかなか目が高いかも。
小早川セナは開店の準備をしながら、口元に笑みを浮かべていた。
最近よく顔を見せるようになった客、羽鳥芳雪と吉野千秋。
2人は開店前やランチタイム後など、人の少ない時間帯にやって来る。
そして今日もいろいろな資料をテーブルに広げて、打ち合わせをしていた。
吉野は吉川千春という名前で少女漫画を描いていると言われた。
そして一応女ということになっているので、その辺は内密にして欲しいと。
少女漫画はまったく読まないセナは、そのネームバリューをまったく知らない。
そこで友人である瀧鈴音に「吉川千春って知ってる?」と聞いた。
すると鈴音はこの日本でその名を知らない女子はいないと言い切った。
いくら何でも大げさではないかと思い、三橋と共に書店に出向いて、驚いた。
吉川千春の本はその書店のかなりのスペースを使って、平積みにされていた。
「モデルになって欲しいって言ったら、OKしてくれるかなぁ。」
吉野の声が聞こえてくる。
声を落としているが、まる聞こえだ。
というか、むしろ声をひそめているせいで逆に耳に障るのだ。
セナはチラリとヒル魔の方を見た。
ヒル魔は一番奥まった席に陣取り、ノートパソコンを叩いている。
吉野の声が聞こえてないはずはないのに、知らん顔だ。
「お前、主役のイメージ以外、何も決まってないじゃないか!」
「え~?でも。。。」
「もう少し、細部をつめないとダメだ。OKは出せない。」
羽鳥が声を荒げると、吉野がしょんぼりと肩を落としている。
というか、この2人はいつもこんな風だ。
羽鳥が説教口調で吉野に詰め寄り、吉野はしどろもどろになる。
セナの知り合いにも漫画家は1人いるが、彼はいつも飄々としている。
作品を作るのがこんなに大変だなんて、この2人を見るまでは知らなかった。
「レンくん。試作品のケーキ、羽鳥さんたちに味見してもらってもいい?」
セナは厨房に入ると、開店準備に慌しい三橋に声をかけた。
三橋は「お願い、します。ご意見、聞いて、ください」と笑う。
甘いものでも食べてもらって、リラックスしてもらおう。
少しでも吉野さんの作品に貢献できたらいいな。
セナは三橋に笑顔を返しながら、そう思った。
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「どうしていきなり、そんなこと言うんだよ!」
感情が激してしまった吉野は、思わず声を荒げてしまった。
だが羽鳥は、まったく動じることもなく黙って吉野を見つめている。
今日は最近通いつめているカフェ「デビルバッツ」で打ち合わせだ。
吉野はこのカフェのオーナーを新作のモデルにしたいと言った。
直接話したことはないが、彼の存在感は圧倒的だ。
綺麗な容姿もどこかミステリアスな雰囲気も、実に絵になると思う。
だから羽鳥のOKが出たら、彼に取材を申し込もうと思ったのだ。
だが羽鳥の答えはNOだった。
反対と言うのではない。
彼をモデルにするというだけでは全然決まっていないも同然だと言う。
彼と話をして、イメージを膨らませようと思っていた吉野は途方に暮れた。
もし彼にいろいろ話を聞いてから企画NGになったら、申し訳ない。
だから事前に彼を主役のお話を描くことに、了解だけ取っておきたかったのだ。
「そろそろお互いの親に、俺たちの関係を打ち明けないか?」
新作の話が暗礁に乗り上げ、何となく2人とも黙ってしまった後。
おもむろに羽鳥はそう切り出した。
一瞬何のことだかわからず、ポカンとしてしまった吉野もすぐにその意味を理解する。
「どうしていきなり、そんなこと言うんだよ!」
感情が激してしまった吉野は、思わず声を荒げてしまった。
できるはずがない、許されるなんてありえないと思う。
だが羽鳥は、まったく動じることもなく黙って吉野を見つめている。
それは今まで吉野だって、何度も悩んだ問題だった。
吉野もよく親から電話やメールで「いい人はいないのか」とか「はやく身を固めろ」などと言われる。
30歳を過ぎた頃からは「孫の顔が見たい」も加わった。
このままの関係を続けていていいのか、綺麗さっぱり別れた方がいいのか。
何よりも羽鳥を自由にしてあげるべきなのではないか。
だが親に打ち明けるという選択肢はなかった。
「ずっと一緒にいたい。正々堂々と。そのためには避けて通れない。」
羽鳥はあくまでも冷静、そして真剣だった。
恋人が同性であることを家族が知れば、怒られるかもしれないし、泣かれるかもしれない。
認めてもらうまでの道筋は、決して平坦ではないだろう。
だが羽鳥はあえてそれをしようというのだ。
「認めてもらいたいけど、無理に決まってる。俺んちはともかくトリは。。。」
「ちゃんとわかって許してもらう。そのためなら何度でも頭を下げる。」
吉野の迷いなど関係なく、羽鳥はもう心を決めているようだ。
だが吉野にはどうしても踏み出せる自信はなかった。
吉野は羽鳥の揺るぎない瞳の前で「無理だよ」と繰り返した。
*****
やはりどうしてもそれが壁になるのか。
ヒル魔妖一はパソコンのキーを叩きながら、目線も表情も変えない。
だが内心は秘かに大きなため息をついていた。
最近よく来るようになった2人組の客が恋仲なのは気がついていた。
だがヒル魔もこの店の従業員も、決して変な目で見ることはない。
ギャルソンの阿部とシェフの三橋も、オーナーのヒル魔とセナだって恋人同士なのだから。
気になるのはむしろ片割れが漫画家で、どうやらヒル魔をモデルにしたいらしいということだ。
ヒル魔は考えをめぐらせながらもパソコンのキーを叩いていた。
本当はそろそろ今流行のスマートフォンやタブレット端末の方が楽なのかもしれない。
だがヒル魔は昔ながらのパソコンでキーを叩くスタイルを変えるつもりはない。
それは仮に吉野がヒル魔にモデルを頼んでも引き受けない理由と同じだ。
ヒル魔に残された時間はあまり多くない。
新しい端末に慣れるとか、取材を受けるとか、余計なことに時間を使いたくなかった。
「認めてもらいたいけど、無理に決まってる。」
「ちゃんとわかって許してもらう。そのためなら何度でも頭を下げる。」
吉野と羽鳥の会話が聞こえてきて、一瞬ヒル魔の手が止まった。
やはりどうしてもそれが壁になるのか。
ヒル魔は再びパソコンのキーを叩きながら、目線も表情も変えない。
だが内心は秘かに大きなため息をついていた。
ヒル魔には父親がいるが、幼少の頃からほとんど縁を切った状態だ。
だが恋人であるセナには、ごく普通に息子に愛情を注ぐ両親がいる。
ヒル魔との仲を認めてもらうには、実に長い年月を費やした。
何度も足を運び、頭を下げ、怒鳴られ、最後には別れてくれと懇願された。
阿部と三橋はもっと大変だった。
阿部の弟に縁談があり、その相手の親族から同性愛者の兄がいる男との結婚は認めないと言われたのだ。
両親に反対されるだけでなく、弟の婚約者からまで嫌がらせを受けたりもした。
その後阿部の弟は無事に結婚したし、お互いの両親とも和解はした。
だが2人の仲を打ち明ける前に比べたら、やはりギクシャクしてしまっているようだ。
「試作品なんですが、いかがですか?」
吉野は「無理だよ」を繰り返し、微妙な空気が漂うテーブル。
そこへセナが歩み寄り、声をかけたのだ。
トレーに乗せて運んできたのは、来週からメニューに加わる新作のフルーツケーキだ。
「店からのサービスです。そのかわりご意見を聞かせてくださいね。」
セナは小さなケーキの皿を2つ、テーブルに置いた。
そして一緒に持ってきたコーヒーポットから、空のカップにコーヒーを注ぐ。
吉野が「美味しそう!」と声を上げ、羽鳥が「ありがとうございます」と丁寧に礼を言った。
雰囲気が悪くなった2人への、セナなりの心遣いなのだろう。
ヒル魔とセナが、阿部と三橋が幸せであるように、吉野と羽鳥も幸せでいてほしい。
そんなセナの思いが伝わり、ヒル魔の心も熱くなる。
「足をテーブルに乗せるのは止めて下さい!うちは食べ物を出すお店なんですよ?」
「一応、俺はオーナーだぞ。」
「オーナーならなおさらです。お行儀よくしてください」
ケーキとコーヒーを出した後、ヒル魔の横に来たセナが文句を言った。
窓際の席の陽だまりの中では、吉野は無邪気にケーキを味わい、見守る羽鳥も笑顔を見せる。
そしてカフェ「デビルバッツ」は開店の時間だ。
【続く】