アイシ×おお振り【お題:思い出15】
【泣きたい思い出】
百枝まりあは「カフェ・デビルバッツ」を目指して歩いていた。
初めて行く場所だが、住所と道順は花井に聞いてある。
花井は「カジノみたいな外見で、目立つ店だからすぐわかります」と言っていた。
今年の夏の大会は不本意な結果に終わった。
硬式野球部の創設メンバーの最後の公式戦がこんな結果になって、申し訳ないと思う。
他の学年の部員の手前、口に出しては言えないが、百枝にとって花井たちの学年はやはり特別だ。
何もないところからスタートした10人の部員たち。
文句一つ言わず、よくついて来てくれた。
百枝はこの先、いつまで監督を続けるかはわからない。
だが多分、野球部の生徒といったらまず「彼ら10人」を思い出すだろう。
百枝は三橋が部を去った「事件」を知らない。
だが三橋と阿部が男同士でありながら、お互いに恋愛感情を抱いていることには気がついていた。
そして傍で見ていて、いつもハラハラさせられたものだった。
はっきりとお互いの目が相手を好きだといっている。
バッテリーという絆と、その相手に抱く恋心。
危ういバランスで成り立っている関係は、1つ間違えれば簡単に壊れそうだった。
三橋が百枝に退部届を持ってきたとき、当然百枝は止めた。
理由を話せ、考え直せ、と何度も言った。
だが三橋はついに何も語ることはなかった。
おそらくは阿部とのことで、ついにバランスが崩れたのだろう。
泣きもせず、俯きながら「辞めさせてください」と繰り返す三橋。
百枝にとっては、泣きたい思い出だった。
*****
百枝は「カフェ・デビルバッツ」の窓側のテーブルに座っていた。
ランチタイムが終わった店には、他に客はいない。
三橋と同じくらい身体が小さな店員が、食事を勧めてくれたが断わった。
すると三橋が照れくさそうに笑いながら、百枝の前にオレンジジュースのグラスを置いた。
「俺が、絞ったんです。素手、じゃないけど」
「懐かしいわね」
百枝も笑いながら答えた。
入部初日、素手で甘夏を絞った百枝の記憶は鮮烈なのだろう。
三橋に座るようにと促すと、三橋は「失礼します」と言って百枝の向かいに座る。
そんな心遣いは、野球部時代の三橋にはなかったものだ。
「元気にしてた?」
「はい」
百枝はかつての教え子の顔を真っ直ぐに見た。
三橋もまた百枝の顔をしっかりと見返してくる。
百枝は他の部員たちと違い、部を辞めた三橋と顔を合わせることはなかった。
だから三橋の顔を見るのは1年ぶりだ。
久しぶりに見る三橋の顔は少し大人びていた。
オドオドした態度も見えないし、落ち着いている。
野球部の部員たちが練習に明け暮れる中、三橋もまた成長したのだろう。
そのことが、百枝の心を明るくする。
*****
「三橋くんと阿部くんをバッテリーで欲しいっていう大学があるの。」
百枝はとある大学の名前を挙げた。
三橋にはその名に覚えがある。
「そう。榛名くんのところ」
三橋が目で問うた質問に、百枝は答えた。
シニア時代に阿部とバッテリーを組んでいた榛名元希が進んだ大学だった。
黙ってしまった三橋に、無理もないことだと思う。
榛名のいる大学に、阿部と三橋。
話を聞いたときには何とも皮肉なことだと、百枝も思った。
「あと三橋くんには、他にも誘いがあるの。」
百枝はまた別の大学の名前を挙げた。
「ここには、桐青の高瀬くんがいるわ。」
かつて対決した桐青高校のエース、高瀬準太は現在その大学の野球部で活躍している。
百枝は言葉を切って、三橋の反応を待った。
「それで、阿部、くんは。。。」
「阿部くんにもいくつか誘いが来てる。とりあえず三橋くんの意思を確認したいそうよ。」
それはそうだろう。
バッテリーで欲しいということは、両方の同意が必要な話だ。
「でも俺は。。。」
「もう投げられない?」
そう問われて、三橋は押し黙る。
試合勘はなくなってしまっているだろうが、多分投げられないことはない。
「カフェ・デビルバッツ」に住み込む前は、自宅で毎日投げ込んでいた。
それ以降も暇があれば、店の前の駐車スペースで壁に向かって投げたりもしている。
ジョギングやストレッチなども欠かさずしていた。
三橋は特に何も考えずにこなしてきた自分の習慣に、今さらながら困惑する。
それは野球に対する未練だったのだろうか?と。
*****
「それからね。9月に3年生の引退試合があります。」
百枝は三橋の反応を待たずに、さらに続けた。
「3年生対1、2年生よ。これが3年生の最後の試合ね。」
「引退、試合。。。」
最後に見に行こうか。でも皆がきっと嫌がるだろうな。
ぼんやりとそんなことを考えていた三橋は、次の百枝の言葉に驚く。
「そこで投げない?」
「へ?」
「最後にその試合で投げない?」
「!」
百枝はじっと三橋の反応を見ていた。
無言だが、百枝の目が「嘘は許さない」と三橋に訴えてくる。
「もう、俺は、野球部じゃ、ない、んで」
三橋はきっぱりと言った。
今さら西浦でマウンドに上がるなど、許されることではないと思う。
「そう。」
百枝は、ため息と共にそう答えた。
「でも進路の話も、引退試合の話もよく考えてね。特に進路の方はあなたの将来にとって大事よ。」
「は、い。」
「夏休み中によく考えて、9月になったら学校で返事を聞かせて。いいわね。」
「はい。」
ここまで事務的な口調で話していた百枝は、不意に優しい笑みを浮かべて言う。
「私にとっても、野球部の皆にとっても、三橋くんは今でも大事なエースだよ。」
「エース」
「そう。じゃあ9月に学校で。待ってるから」
百枝はそう言うと、席を立った。
三橋は、店を出て行く頼もしい監督の後ろ姿を見送った。
*****
百枝が帰った後、三橋は突然のことに動揺していた。
まさか2年で部を辞めた自分に、大学からの誘いがくるなどとは考えてもみなかったからだ。
阿部と同じ大学に進む。それは甘い誘惑だった。
ただあの榛名がいる大学だと考えると、一気に心が沈む。
阿部は榛名のことを「最低の投手」と言い放っていたが、阿部の心の奥底には榛名は常にいたと思う。
ちょっとした阿部の言動に、三橋はそのことを認識して人知れず落ち込んだ。
阿部への恋心が大きくなるたびに、榛名の存在は三橋を苦しめた。
榛名と阿部の関係に常に嫉妬していた。
今考えても、泣きたい思い出だ。
「よかったら、どう?」
セナが三橋の前に、グラスを置いた。
三橋が好きな、甘いアイスカフェオレだ。
それを見て、三橋が急に我に返った。
百枝が帰った後、仕事もしないで考え込んでしまっていたのだ。
慌てて立ち上がろうとした三橋を、セナは手で制した。
そして目で笑いながら「気にするな」と伝えてくる。
久しぶりに百枝の顔を見て、あのキビキビとした口調を聞いたせいだろう。
何だか懐かしくて、切なくて、泣きたいと思う。
でも三橋は懸命に涙を堪えていた。
皆に恥じない未来を、選び取らなくていけない。
百枝もセナも、三橋を優しく見守ってくれている。
泣いている場合ではない。夏はもうすぐ終わる。
【続く】
百枝まりあは「カフェ・デビルバッツ」を目指して歩いていた。
初めて行く場所だが、住所と道順は花井に聞いてある。
花井は「カジノみたいな外見で、目立つ店だからすぐわかります」と言っていた。
今年の夏の大会は不本意な結果に終わった。
硬式野球部の創設メンバーの最後の公式戦がこんな結果になって、申し訳ないと思う。
他の学年の部員の手前、口に出しては言えないが、百枝にとって花井たちの学年はやはり特別だ。
何もないところからスタートした10人の部員たち。
文句一つ言わず、よくついて来てくれた。
百枝はこの先、いつまで監督を続けるかはわからない。
だが多分、野球部の生徒といったらまず「彼ら10人」を思い出すだろう。
百枝は三橋が部を去った「事件」を知らない。
だが三橋と阿部が男同士でありながら、お互いに恋愛感情を抱いていることには気がついていた。
そして傍で見ていて、いつもハラハラさせられたものだった。
はっきりとお互いの目が相手を好きだといっている。
バッテリーという絆と、その相手に抱く恋心。
危ういバランスで成り立っている関係は、1つ間違えれば簡単に壊れそうだった。
三橋が百枝に退部届を持ってきたとき、当然百枝は止めた。
理由を話せ、考え直せ、と何度も言った。
だが三橋はついに何も語ることはなかった。
おそらくは阿部とのことで、ついにバランスが崩れたのだろう。
泣きもせず、俯きながら「辞めさせてください」と繰り返す三橋。
百枝にとっては、泣きたい思い出だった。
*****
百枝は「カフェ・デビルバッツ」の窓側のテーブルに座っていた。
ランチタイムが終わった店には、他に客はいない。
三橋と同じくらい身体が小さな店員が、食事を勧めてくれたが断わった。
すると三橋が照れくさそうに笑いながら、百枝の前にオレンジジュースのグラスを置いた。
「俺が、絞ったんです。素手、じゃないけど」
「懐かしいわね」
百枝も笑いながら答えた。
入部初日、素手で甘夏を絞った百枝の記憶は鮮烈なのだろう。
三橋に座るようにと促すと、三橋は「失礼します」と言って百枝の向かいに座る。
そんな心遣いは、野球部時代の三橋にはなかったものだ。
「元気にしてた?」
「はい」
百枝はかつての教え子の顔を真っ直ぐに見た。
三橋もまた百枝の顔をしっかりと見返してくる。
百枝は他の部員たちと違い、部を辞めた三橋と顔を合わせることはなかった。
だから三橋の顔を見るのは1年ぶりだ。
久しぶりに見る三橋の顔は少し大人びていた。
オドオドした態度も見えないし、落ち着いている。
野球部の部員たちが練習に明け暮れる中、三橋もまた成長したのだろう。
そのことが、百枝の心を明るくする。
*****
「三橋くんと阿部くんをバッテリーで欲しいっていう大学があるの。」
百枝はとある大学の名前を挙げた。
三橋にはその名に覚えがある。
「そう。榛名くんのところ」
三橋が目で問うた質問に、百枝は答えた。
シニア時代に阿部とバッテリーを組んでいた榛名元希が進んだ大学だった。
黙ってしまった三橋に、無理もないことだと思う。
榛名のいる大学に、阿部と三橋。
話を聞いたときには何とも皮肉なことだと、百枝も思った。
「あと三橋くんには、他にも誘いがあるの。」
百枝はまた別の大学の名前を挙げた。
「ここには、桐青の高瀬くんがいるわ。」
かつて対決した桐青高校のエース、高瀬準太は現在その大学の野球部で活躍している。
百枝は言葉を切って、三橋の反応を待った。
「それで、阿部、くんは。。。」
「阿部くんにもいくつか誘いが来てる。とりあえず三橋くんの意思を確認したいそうよ。」
それはそうだろう。
バッテリーで欲しいということは、両方の同意が必要な話だ。
「でも俺は。。。」
「もう投げられない?」
そう問われて、三橋は押し黙る。
試合勘はなくなってしまっているだろうが、多分投げられないことはない。
「カフェ・デビルバッツ」に住み込む前は、自宅で毎日投げ込んでいた。
それ以降も暇があれば、店の前の駐車スペースで壁に向かって投げたりもしている。
ジョギングやストレッチなども欠かさずしていた。
三橋は特に何も考えずにこなしてきた自分の習慣に、今さらながら困惑する。
それは野球に対する未練だったのだろうか?と。
*****
「それからね。9月に3年生の引退試合があります。」
百枝は三橋の反応を待たずに、さらに続けた。
「3年生対1、2年生よ。これが3年生の最後の試合ね。」
「引退、試合。。。」
最後に見に行こうか。でも皆がきっと嫌がるだろうな。
ぼんやりとそんなことを考えていた三橋は、次の百枝の言葉に驚く。
「そこで投げない?」
「へ?」
「最後にその試合で投げない?」
「!」
百枝はじっと三橋の反応を見ていた。
無言だが、百枝の目が「嘘は許さない」と三橋に訴えてくる。
「もう、俺は、野球部じゃ、ない、んで」
三橋はきっぱりと言った。
今さら西浦でマウンドに上がるなど、許されることではないと思う。
「そう。」
百枝は、ため息と共にそう答えた。
「でも進路の話も、引退試合の話もよく考えてね。特に進路の方はあなたの将来にとって大事よ。」
「は、い。」
「夏休み中によく考えて、9月になったら学校で返事を聞かせて。いいわね。」
「はい。」
ここまで事務的な口調で話していた百枝は、不意に優しい笑みを浮かべて言う。
「私にとっても、野球部の皆にとっても、三橋くんは今でも大事なエースだよ。」
「エース」
「そう。じゃあ9月に学校で。待ってるから」
百枝はそう言うと、席を立った。
三橋は、店を出て行く頼もしい監督の後ろ姿を見送った。
*****
百枝が帰った後、三橋は突然のことに動揺していた。
まさか2年で部を辞めた自分に、大学からの誘いがくるなどとは考えてもみなかったからだ。
阿部と同じ大学に進む。それは甘い誘惑だった。
ただあの榛名がいる大学だと考えると、一気に心が沈む。
阿部は榛名のことを「最低の投手」と言い放っていたが、阿部の心の奥底には榛名は常にいたと思う。
ちょっとした阿部の言動に、三橋はそのことを認識して人知れず落ち込んだ。
阿部への恋心が大きくなるたびに、榛名の存在は三橋を苦しめた。
榛名と阿部の関係に常に嫉妬していた。
今考えても、泣きたい思い出だ。
「よかったら、どう?」
セナが三橋の前に、グラスを置いた。
三橋が好きな、甘いアイスカフェオレだ。
それを見て、三橋が急に我に返った。
百枝が帰った後、仕事もしないで考え込んでしまっていたのだ。
慌てて立ち上がろうとした三橋を、セナは手で制した。
そして目で笑いながら「気にするな」と伝えてくる。
久しぶりに百枝の顔を見て、あのキビキビとした口調を聞いたせいだろう。
何だか懐かしくて、切なくて、泣きたいと思う。
でも三橋は懸命に涙を堪えていた。
皆に恥じない未来を、選び取らなくていけない。
百枝もセナも、三橋を優しく見守ってくれている。
泣いている場合ではない。夏はもうすぐ終わる。
【続く】