アイシ×おお振り【お題:思い出15】
【痛い思い出】
瀧鈴音は「カフェ・デビルバッツ」の前で、1組の男女が何かを話しているのを見つけた。
1人は夏休みにここで住み込みでアルバイトしている高校生の少年。
もう1人は見たこともない少女だ。
多分年齢は少年と同じくらいだろう。
少し赤茶がかかったフワリとした髪の小柄な少女。
少年と並ぶと、見ようによっては可愛らしいカップルに見える。
知らん顔をした方がいいような気もする。
だがあいにく2人は入口前にいるから、気付かれずに店に入るのは不可能だ。
今日はヒル魔に急に店のアルバイトを頼まれたのだ。
昨日セナとちょっと喧嘩をして、セナが泣きすぎて、目が腫れてしまった。
とても店に出られないから頼む、と。
急に頼まれたから、時間もギリギリで待つ余裕もない。
仕方がない。挨拶だけしてさっと店に入ろう。
鈴音がそんなことを思いながら、2人に近づいた瞬間。
少女がいきなり少年の頬を平手で打った。
少年は殴られた勢いで一瞬、顔が横に振られた。
でも特に相手を咎めることもなく、それどころか申し訳なさそうにしている。
鈴音はどうしていいかわからず、その場に立ち竦んだ。
不意に少年ではなく、殴った少女の方が泣き出した。
そして身を翻して、走り去っていく。
逃げる少女の身体が一瞬鈴音の肩に触れて、鈴音はよろめいた。
だが少女は足を止めることはなく、そのまま走っていった。
少女が横を通り過ぎる瞬間に聞こえたすすり泣く声が、鈴音の耳に残った。
*****
「レンレン、大丈夫?」
そう声をかけると、振り向いた少年、三橋は何とも微妙な顔をした。
三橋のことを店では皆「レン」か「レンくん」と呼ぶ。
鈴音だけは「レンレン」と呼んだ。
三橋の可愛らしい容姿と「レンレン」という響きが似合っていると思ったのだ。
「レンレン、って、ゆわないで、欲しいんです、けど」
当初、三橋は弱々しく抗議した。
聞けば、従姉妹にそう呼ばれていたのだという。
そしてその響きに力が抜けてしまうのだとも。
「いいじゃん、レンレンって!可愛いよ!」
そう言って、鈴音は譲らなかった。
暗い思い出があるなら変えることも考えただろうけど。
力が抜けるなどという曖昧な理由なら、別にいい。
こんなに可愛い響きの呼び名を使わない手はないだろう。
「痛くない?」
「痛い、ですよ」
三橋は鈴音の問いにそう答えながら「ウヒ」と笑う。
鈴音は三橋の頬に視線を向けた。
特に腫れてもいないし、傷もない。
そんなに大した力で叩かれたわけでもなさそうけど、一応冷しておいた方がいいかもしれない。
セナがいない上に三橋が店に出られなくなったら、1人でお客を裁くハメになる。
「とりあえず冷そうよ」
そう言って、鈴音は三橋を促して、店に入って行った。
*****
三橋と店の前で話していた少女は、かつての野球部のマネージャー、篠岡千代だった。
開店前の店の前を掃除をしていた三橋の前に、篠岡がつかつかと歩いてきた。
「三橋くん」
「し、篠岡、さん。この前は、ありがと」
いきなり現れた篠岡に、三橋は動揺しながら先日の来店の礼を言う。
「・・・・・・」
「今日は、ひとり?」
三橋はさらに言う。何か沈黙するのが怖いような雰囲気だった。
篠岡の顔が違いすぎるのだ。
野球部員を支え続けた人懐っこいあの笑顔でもない。
先日店に来たとき、阿部の隣で輝いていた笑顔でもない。
威嚇するようなきつい視線で三橋を見据えていた。
「阿部くんの好きな人って、三橋くんでしょ?」
不意に篠岡が聞いてきた。
「阿部、くんは。篠岡さん、と」
三橋は一瞬ギクリとした。
でも三橋と阿部のことは、篠岡は知らないはずだと思い直す。
「阿部くんに告白したとき、最初は断わられたの。好きな人がいるって。」
「今はもう別れたけど、その人が忘れられないって。」
「私は知ってた。阿部くんがいつも三橋くんを見てたこと。」
「でも私、頼んだの。それでもいいから付き合ってって。」
「阿部くんは、いつも遠い目をしてて。私のことなんか見てなくて。」
「でもこの前、このお店であなたにまた会ってわかった。」
「阿部くんは、まだ三橋くんが---!」
まるで堰が切れたように、篠岡は叫んだ。
そして三橋に歩み寄ると、平手で三橋の頬を打ったのだった。
*****
鈴音は三橋を客席に座らせて、水で濡らしたタオルを渡してくれた。
三橋は「すみません」と小さな声で言い、それを頬に当てる。
店内にいるのは、三橋と鈴音、そしてヒル魔とまもりだ。
相変わらずノートパソコンに向かうヒル魔が一瞬チラリと三橋を見た。
だが何も言わなかった。
ヒル魔も鈴音も厨房のまもりも、何も三橋に聞かない。
ただ黙って見守ってくれている。
「さっきの、女の子は、俺の、好きな人の、恋人、です。」
三橋はポツリと告げた。
鈴音に言った言葉だったが、まもりやヒル魔にも聞こえたはずだ。
鈴音が弾かれたように三橋を見た。
三橋の「好きな人の恋人」が女性であることに驚いたのだろう。
三橋と阿部のことを知っているのは、この店ではセナとヒル魔だけだった。
気持ち悪がられるかもしれない。
でも心配してくれた鈴音には、きちんと説明するべきだと思ったのだ。
だが三橋のその言葉を聞いた鈴音は、ふっと笑った。
「私はね、セナが好きなの」
「へ?」
鈴音の意外で唐突な告白に、三橋が驚く。
「でもセナは妖ー兄が好き。」
三橋は少し考えて「妖ー兄」がヒル魔のことだと思い至る。
「でも諦めない。まだ可能性はゼロじゃないから。」
鈴音は悪戯っぽい目でヒル魔に視線を送る。
ヒル魔がパソコンに目を落としたまま、フッと不敵に笑った。
「さっきの女の子も、レンレンも。好きなら絶対、諦めちゃダメだよ。」
鈴音が視線を三橋に戻した。三橋は鈴音の言葉に驚き、目を見開いた。
「好きなら引いちゃダメ。その人と一緒に幸せになるの!」
鈴音の真っ直ぐな言葉と視線が、三橋の胸を打った。
*****
「鈴音さんは、すごいな」
今日も一日の営業が終り、三橋は自室でひとりごちた。
結局、篠岡に叩かれた頬は何ともない。痛いのは心だ。
三橋が阿部を好きでいることで、篠岡と阿部を苦しめた。
痛い。痛い思い出が、また1つ増えた。
この夏、ここでアルバイトをして一回り成長して。
阿部にもう一度逢いに行くつもりだった。
でも思いがけず阿部が現れて、篠岡との交際宣言を聞いた。
だからもう終わったと思った。
せめて今までと違う自分になるために、一生懸命働いた。
好きなら絶対、諦めちゃダメ。
鈴音の言葉が心を締め付ける。
もう一度だけ、阿部に伝えることは許されるのだろうか。
受け入れてもらえるとは思えない。
また篠岡を傷つけるかもしれない。それでも。
鈴音の言葉が何度も何度も心を過ぎって止まらない。
とにかく今は、まだこの店で頑張るだけだ。
まだ三橋の夏は終わっていないのだから。
もう1度阿部に逢ったら、また痛い思い出が増えるだけかもしれない。
でも諦めない。まだ可能性はゼロじゃないから。
【続く】
瀧鈴音は「カフェ・デビルバッツ」の前で、1組の男女が何かを話しているのを見つけた。
1人は夏休みにここで住み込みでアルバイトしている高校生の少年。
もう1人は見たこともない少女だ。
多分年齢は少年と同じくらいだろう。
少し赤茶がかかったフワリとした髪の小柄な少女。
少年と並ぶと、見ようによっては可愛らしいカップルに見える。
知らん顔をした方がいいような気もする。
だがあいにく2人は入口前にいるから、気付かれずに店に入るのは不可能だ。
今日はヒル魔に急に店のアルバイトを頼まれたのだ。
昨日セナとちょっと喧嘩をして、セナが泣きすぎて、目が腫れてしまった。
とても店に出られないから頼む、と。
急に頼まれたから、時間もギリギリで待つ余裕もない。
仕方がない。挨拶だけしてさっと店に入ろう。
鈴音がそんなことを思いながら、2人に近づいた瞬間。
少女がいきなり少年の頬を平手で打った。
少年は殴られた勢いで一瞬、顔が横に振られた。
でも特に相手を咎めることもなく、それどころか申し訳なさそうにしている。
鈴音はどうしていいかわからず、その場に立ち竦んだ。
不意に少年ではなく、殴った少女の方が泣き出した。
そして身を翻して、走り去っていく。
逃げる少女の身体が一瞬鈴音の肩に触れて、鈴音はよろめいた。
だが少女は足を止めることはなく、そのまま走っていった。
少女が横を通り過ぎる瞬間に聞こえたすすり泣く声が、鈴音の耳に残った。
*****
「レンレン、大丈夫?」
そう声をかけると、振り向いた少年、三橋は何とも微妙な顔をした。
三橋のことを店では皆「レン」か「レンくん」と呼ぶ。
鈴音だけは「レンレン」と呼んだ。
三橋の可愛らしい容姿と「レンレン」という響きが似合っていると思ったのだ。
「レンレン、って、ゆわないで、欲しいんです、けど」
当初、三橋は弱々しく抗議した。
聞けば、従姉妹にそう呼ばれていたのだという。
そしてその響きに力が抜けてしまうのだとも。
「いいじゃん、レンレンって!可愛いよ!」
そう言って、鈴音は譲らなかった。
暗い思い出があるなら変えることも考えただろうけど。
力が抜けるなどという曖昧な理由なら、別にいい。
こんなに可愛い響きの呼び名を使わない手はないだろう。
「痛くない?」
「痛い、ですよ」
三橋は鈴音の問いにそう答えながら「ウヒ」と笑う。
鈴音は三橋の頬に視線を向けた。
特に腫れてもいないし、傷もない。
そんなに大した力で叩かれたわけでもなさそうけど、一応冷しておいた方がいいかもしれない。
セナがいない上に三橋が店に出られなくなったら、1人でお客を裁くハメになる。
「とりあえず冷そうよ」
そう言って、鈴音は三橋を促して、店に入って行った。
*****
三橋と店の前で話していた少女は、かつての野球部のマネージャー、篠岡千代だった。
開店前の店の前を掃除をしていた三橋の前に、篠岡がつかつかと歩いてきた。
「三橋くん」
「し、篠岡、さん。この前は、ありがと」
いきなり現れた篠岡に、三橋は動揺しながら先日の来店の礼を言う。
「・・・・・・」
「今日は、ひとり?」
三橋はさらに言う。何か沈黙するのが怖いような雰囲気だった。
篠岡の顔が違いすぎるのだ。
野球部員を支え続けた人懐っこいあの笑顔でもない。
先日店に来たとき、阿部の隣で輝いていた笑顔でもない。
威嚇するようなきつい視線で三橋を見据えていた。
「阿部くんの好きな人って、三橋くんでしょ?」
不意に篠岡が聞いてきた。
「阿部、くんは。篠岡さん、と」
三橋は一瞬ギクリとした。
でも三橋と阿部のことは、篠岡は知らないはずだと思い直す。
「阿部くんに告白したとき、最初は断わられたの。好きな人がいるって。」
「今はもう別れたけど、その人が忘れられないって。」
「私は知ってた。阿部くんがいつも三橋くんを見てたこと。」
「でも私、頼んだの。それでもいいから付き合ってって。」
「阿部くんは、いつも遠い目をしてて。私のことなんか見てなくて。」
「でもこの前、このお店であなたにまた会ってわかった。」
「阿部くんは、まだ三橋くんが---!」
まるで堰が切れたように、篠岡は叫んだ。
そして三橋に歩み寄ると、平手で三橋の頬を打ったのだった。
*****
鈴音は三橋を客席に座らせて、水で濡らしたタオルを渡してくれた。
三橋は「すみません」と小さな声で言い、それを頬に当てる。
店内にいるのは、三橋と鈴音、そしてヒル魔とまもりだ。
相変わらずノートパソコンに向かうヒル魔が一瞬チラリと三橋を見た。
だが何も言わなかった。
ヒル魔も鈴音も厨房のまもりも、何も三橋に聞かない。
ただ黙って見守ってくれている。
「さっきの、女の子は、俺の、好きな人の、恋人、です。」
三橋はポツリと告げた。
鈴音に言った言葉だったが、まもりやヒル魔にも聞こえたはずだ。
鈴音が弾かれたように三橋を見た。
三橋の「好きな人の恋人」が女性であることに驚いたのだろう。
三橋と阿部のことを知っているのは、この店ではセナとヒル魔だけだった。
気持ち悪がられるかもしれない。
でも心配してくれた鈴音には、きちんと説明するべきだと思ったのだ。
だが三橋のその言葉を聞いた鈴音は、ふっと笑った。
「私はね、セナが好きなの」
「へ?」
鈴音の意外で唐突な告白に、三橋が驚く。
「でもセナは妖ー兄が好き。」
三橋は少し考えて「妖ー兄」がヒル魔のことだと思い至る。
「でも諦めない。まだ可能性はゼロじゃないから。」
鈴音は悪戯っぽい目でヒル魔に視線を送る。
ヒル魔がパソコンに目を落としたまま、フッと不敵に笑った。
「さっきの女の子も、レンレンも。好きなら絶対、諦めちゃダメだよ。」
鈴音が視線を三橋に戻した。三橋は鈴音の言葉に驚き、目を見開いた。
「好きなら引いちゃダメ。その人と一緒に幸せになるの!」
鈴音の真っ直ぐな言葉と視線が、三橋の胸を打った。
*****
「鈴音さんは、すごいな」
今日も一日の営業が終り、三橋は自室でひとりごちた。
結局、篠岡に叩かれた頬は何ともない。痛いのは心だ。
三橋が阿部を好きでいることで、篠岡と阿部を苦しめた。
痛い。痛い思い出が、また1つ増えた。
この夏、ここでアルバイトをして一回り成長して。
阿部にもう一度逢いに行くつもりだった。
でも思いがけず阿部が現れて、篠岡との交際宣言を聞いた。
だからもう終わったと思った。
せめて今までと違う自分になるために、一生懸命働いた。
好きなら絶対、諦めちゃダメ。
鈴音の言葉が心を締め付ける。
もう一度だけ、阿部に伝えることは許されるのだろうか。
受け入れてもらえるとは思えない。
また篠岡を傷つけるかもしれない。それでも。
鈴音の言葉が何度も何度も心を過ぎって止まらない。
とにかく今は、まだこの店で頑張るだけだ。
まだ三橋の夏は終わっていないのだから。
もう1度阿部に逢ったら、また痛い思い出が増えるだけかもしれない。
でも諦めない。まだ可能性はゼロじゃないから。
【続く】