第33話「ちょっとツテがあるんですが」

「大丈夫ですか?」
問いかけられた高野は思わず「え?」と問い返してしまった。
いつも無表情な青年が、このときばかりは不安そうな顔をしていたからだ。

高野政宗は、仕事のために昨晩は帰宅しなかった。
アメリカで会社を立ち上げて、一応小さいながらも社長業を営んでいる。
爆発的に儲かっているとは決して言えない。
だがしっかりと黒字経営であり、この規模の会社としてはまずまず。
ましてアメリカに人脈も基盤もなく、語学だって独学の高野では、破格の成功と言える。

だが高野は焦っていた。
それは一緒に暮らす律の成功があるからだ。
律が訳した黒子の小説は、今売れに売れている。
1冊目は品切れ状態、2冊目も売れ、3冊目はもうすぐ発売で予約が殺到中だ。
律は絶好調で、4冊目の本を訳している。

黒子君の人気にうまく乗っかっただけですよ。
律は謙虚にそう言った。
たしかに元の黒子の本が素晴らしいからこその成功ではある。
だが訳本だって、きちんとしていなければ売れない。
律は自分の力で、人気脚本家の地位を得たのだ。
今では黒子の本以外でも、さまざまな仕事の依頼が舞い込んでくる。
このまま差をつけられるのは、高野としてもつらいところだった。

昨日もアメリカの大手企業に、企画を売り込みに行った。
だがどうにも相手の返事が芳しくない。
企画に興味はあるものの、実績のない高野の会社と組むという決断には至らなかったのだ。
取引ができなければ、実績は詰めない。
このジレンマをいったいどうしたらいいのか。
徹夜で企画書を練り直したりしたものの、抜本的な対策は思いつけなかった。
そして昼近い時間に、重い足取りで帰宅することになったのだ。

「高野さん、おはようございます。」
マンションのエントランスで声を掛けてきたのは、黒子だった。
トレーニングウェアに身を包んでいる。
どうやらマンション内のコースをジョギングしていたのだろう。

「おはよう。律は一緒じゃないのか?」
「律さんは出版社に出かけました。打ち合わせだそうです。」
黒子に言われて、高野は思い出した。
確かに律は新しい翻訳の依頼が来て、今日は出かけると言っていた。

「そうだったな。」
高野は黒子にバレないように、小さくため息をついた。
だが目敏い黒子は、そういう細かい仕草を見逃さない。
不思議そうに首を傾げながら、静かに口を開いた。

「大丈夫ですか?」
問いかけられた高野は思わず「え?」と問い返してしまった。
いつも無表情な青年が、このときばかりは不安そうな顔をしていたからだ。
やはりこの観察眼鋭い売れっ子作家の目は、ごまかせない。

「いや、取れると思っていた契約が取れなくて。ちょっとヘコんでるんだ。」
「大変ですね。」
「ちょっと。大手の商社を狙いすぎたかも。」
「商社」

商社と聞いた黒子は考える顔になった。
それを見た高野は、喋り過ぎてしまったと思い、また落ち込んだ。
友人に仕事の愚痴を漏らすなんて、恥ずかしい。
だが話を終わらせたい高野の心中などおかまいなしに、黒子は「あの」と話を続けた。

「大手の商社なら、ちょっとツテがあるんですが」
黒子がそう前置きしてから告げた会社名は、日系の商事会社。
高野が契約を取ろうとした会社よりも大きな会社だ。

「連絡、取ってみます。」
黒子はいきなりスマートフォンを取り出し、誰かに電話をし始めた。
あまりのことに、高野は黒子を止める暇さえなかった。
ただ呆然と「ちょっとお願いがあるんですが」と電話の相手に告げる黒子を見ていた。
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