無冠のキセキ

ええ~!?アンタ「キセキ」のスタッフなの?
実渕は思わず頓狂な声で叫んでしまう。
だがやたらと影が薄い男は「今はもう違います」と素っ気なかった。

繁華街の表通りを1本外れた、路地裏。
バー「無冠」は静かに営業していた。
店はこじんまりとしており、従業員も多くない。
だが美味い酒と、しっかりした接客には自信がある。

開店当初は、物珍しさもあったのだろう。
そこそこ客は入ったし、経営は順調だった。
だが表通りに派手な店構えのホストクラブができたことで事情が変わった。
女性客はまるで示し合わせたように、そちらに行ってしまうのだ。

あ~あ、今日はどうかしらね。
開店前の準備をしながら、実渕玲央はひとりごちた。
開店からそろそろ半年、最初の3ヶ月はよかった。
だが後半の3ヶ月は、客足も売り上げも落ちている。
この日もおそらく望みは薄い。

実渕は店内を見回すと、ため息をついた。
葉山と根武谷、木吉は入念にメイクをしている最中だ。
花宮はまだ来ていない。
今日も遅刻かもしれない。

ちなみに実渕はもうメイクはもう終えている。
そして着ているのは、真っ赤なドレス。
そう、この店はいわゆるオカマバー。
5人の接客スタッフは、すべて女装をしている。
実渕は一応この店のママだ。
だから店内では「レオ姉」と呼ばれている。

開店まであと1時間というところで、ドアベルが鳴った。
誰かが店に入ってきた合図だ。
実渕は「遅いわよ!」と尖った声を上げた。
まだ来ていない花宮が来たと思ったのだ。
だが「すみません」と頭を下げたのは、知らない男だった。

あら、お客様?ごめんなさい。まだ開店してないの。
実渕は慌てて口調を営業用に切り替えた。
日頃からオネエ言葉を使っている実渕だが、客相手ではやはり違う。
丁寧だし、少々媚びる色合いになるのは、無理からぬことだ。

いえ。お客さんじゃないです。
店の入口のところに、従業員募集と書いてあったので。

無表情に淡々と語る男は、ひどく影が薄い。
実渕は思わず「あんたがうちで?」と聞いてしまう。
オカマバーはキャラが命。
この能面のような男に、接客は難しい気がする。
だが男は「はい」と事もなげに頷いた。

接客がつとまるタイプではないと、わかっています。
でもボーイなら、できると思いまして。
一応、履歴書も用意してます。

男は淡々とそう告げると、実渕を見た。
実渕はこっそりため息をつくと「座って」と客席の椅子を指さした。
従業員募集のお知らせは、開店当初に店の入口近くに貼り紙をしていた。
あの頃は繁盛していて、人手が全然足りなかったからだ。
だけど今は違う。
客足も遠のき、人件費が経営を圧迫しているのだ。

とりあえず適当な理由をつけて、追い返そう。
そう決めた実渕は、男が差し出した履歴書を見る。
彼の経歴はごくごくシンプルだった。
ごく普通の高校を卒業して、就職している。
だが3ヶ月前に会社を辞めて、仕事を変えていた。
その職歴を見ていた実渕は思わず「ええ~!?」と声を上げていた。

アンタ「キセキ」のスタッフなの?
実渕は思わず頓狂な声で叫んでしまう。
なぜなら「キセキ」こそ「無冠」の客を奪ったホストクラブ。
表通りの一等地で、飛ぶ鳥を落とす勢いで絶賛営業中の店なのだ。

今はもう違います。ついさっき辞めてきたので。
男は実渕の剣幕に表情を変えずにそう答えた。
実渕は思わず男の顔をマジマジと見てしまう。
一瞬で超人気店にのし上がった「キセキ」は待遇もかなり良いと聞く。
そんな店を辞めて、冴えないオカマバ―のボーイをしたいという男に興味が湧いた。

わかったわ。まずは1ヶ月、試用期間でいいかしら?
実渕は一瞬で即決した。
好奇心だけで決めてしまった採用。
だがこの男、黒子テツヤが思いもよらない掘り出し物であることは程なくして判明することになる。
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