あの雨の日に

小早川瀬那は雨の中、ラダードリルでステップを踏んでいた。

昨日は春大会の2回戦、王城ホワイトナイツとの試合。
泥門デビルバッツは負けてしまったのだ。
もっと早くに進を抜けていたら。結果は変わっていたかもしれない。
そう思うと悔しくてたまらなかった。
そして終わってしまったのだと思った。でも。
「クリスマスボウルに行くのは秋の優勝者。」
「要は秋に勝てばいいのよ。」
2人の先輩の言葉。こみ上げて来る静かな闘志。
そして雨の中で片付け忘れたラダーを見た時、思わず足を踏み出していた。

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雷門太郎は雨の勢いが増してきた空を見上げてため息をついた。
これじゃやっぱり練習はできねぇな。
名残り惜しげに野球のボールをその身長に不似合いな大きな手の中で転がしながら、
帰宅するために学校を出ようとして、それが目に入った。
雨の中で動いている男子生徒。雷門の位置からは後姿しか見えない。何だ?
雷門がその生徒に近づくと足元にハシゴのようなものがあるのが見えた。
何かのスポーツの練習なんだろう。雨の中でも熱心だな。
雨だから練習できないなんてことはないんだ。家に帰ってイメトレでもするか。
種目は違うけど、あいつに負けないように俺も頑張るぜ。
雷門は男子生徒の後ろ姿を見ながら、手の中にあるボールをギュッと握り締めた。

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十文字一輝は雨のグラウンドで動く人影に目を凝らした。
あいつは......同じクラスの小早川瀬那。パシリにしようとして見事に逃げられた。
そしてその後「泥門の悪魔」と呼ばれる金髪の2年生に恥ずかしい写真を撮られて。
あいつには近づくなと言われた。
思い起こしても忌々しい出来事のきっかけになった人物だった。
何やってんだ?こんな雨の中でずぶ濡れになりながら。
「何立ち止まってんだよ。」
「早く帰ろうぜ。」
前を歩いていた黒木浩二と戸叶庄三が立ち止まった十文字に声をかけてきた。
そして十文字の視線の先に目をやり顔を顰める。あいつかよ。もう関わりたくねぇ。
それでも。彼のそのひたむきな目に。その真剣な表情に。3人は釘付けになった。
まだアメフトのアの字も知らない3人にとって瀬那のやっていることはわからない。
でも何故か、笑い飛ばすことも、目を背けることも、動くことすらできない。
ひたすらステップを踏んでは転び、起き上がってまたステップを踏む瀬那を見ていた。

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雪光学は急いでいた。
ホームルームが長引いてしまい、しかもその後掃除当番。塾に遅れてしまう。
そこで目に入ったのは、雨の中で何かを踏み続けている男子生徒。
博識な雪光にはそれが何なのかわかった。確かアメフトのラダードリルだったかな。
雪光は憧憬の眼差しをその男子生徒に送った。
運動は昔からあまり得意ではなくて、部活も母親に止められて。運動部なんて夢のまた夢だ。
だからうらやましい。こんな雨の日に夢中で練習できる彼が。その情熱が。
そこで目に入る。放り出されている鞄。多分彼のものなのだろう。
雪光はその鞄を拾い上げた。ハンカチを取り出して鞄の表面の雨の水滴を拭き取った。
その後雨のかからない屋根の下に持ってきて、壁に立て掛ける。
そして再び彼に熱い眼差しを向けた。

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武蔵厳はもう中退してしまった高校へ足を運んだ。
かつての悪友がもうすぐ部室の改装を頼むから時間があるときに来いと言っていたからだ。
雨で予定の工事が中止になったので、古巣へやって来たのだ。
そこで武蔵は1年生と思われる小柄な少年がラダードリルを踏んでいるのを見つけた。
ヒル魔が光速のRBを手に入れたと言っていた。でもあんな痩せっぽちのチビがRB?
栗田が可愛い主務が入ったと言っていた。その方がしっくりくる。
でも主務がわざわざ雨の中でラダーを踏んだりするのか?
ヒル魔と栗田の言っているRBと主務が同一人物とは知らない武蔵は首を傾げる。
けれども。少年の表情を見て武蔵は確信する。
必死の形相でラダーを踏んでいるこいつ。静かに伝わる闘志。ヒル魔の言う光速のRBの方だ。
武蔵は自分の手荷物の中から白いタオルを取り出した。
それを屋根の下に置かれた少年の物と思われる鞄の上に置いてやる。
そして。たどたどしいステップを踏む少年をじっと見ていた。

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小結大吉は帰宅しようとして、思いっきり何かに足を取られてつんのめった。
幸いなことに転倒は免れた。こんな雨の日に転ぶのは悲惨だろう。
彼が足を取られたものの正体は開かれて放り出された傘だった。
雨の中に置き去りにされた傘は表も裏も持ち手の部分も全体が濡れている。
誰のものか?と辺りを見回して、校庭にいる小柄な男子生徒に目がいった。
転ばされそうになった怒りで一瞬彼を睨んでしまうが、すぐにそんな思いは消える。
どこかの運動部だろう。雨の中で孤独に足を動かす男子生徒はどこか崇高な感じすらしてくる。
小結は特に部活には所属していなかった。
どちらかというと頭より身体を使う方が向いていると思い、いくつかの運動部を見学したが
自分の身長ではむずかしいことがわかったからだ。
でもその少年は小結と同じくらいの身長で、しかも細い。自分もまだ諦めなくてもいいかもしれない。
小結は傘を拾い上げて軽く振り回し、雨粒を払い落とした。
そして壁に立てかけてあるおそらくは彼のものと思われる鞄の横に置く。
こちらには気づかずひたすらステップを踏む男子生徒に敬意を込めた視線を送った。

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栗田良寛は蛭魔妖一が教室の窓からじっと校庭を見下ろしていることに気がついた。
視線を追ってみる。
そこには雨足が一段と強くなった校庭でラダードリルでステップの練習をする後輩。
心臓が鷲掴みにされたような気がした。いつのまにか目頭が熱くなっていた。
試合に出るのは怖いと泣きそうな顔をしていた1年生。
でも昨日の試合で彼は天才ラインバッカーをたった一度だけど抜いた。呆然とさせた。
彼は何かを掴んで階段を1段上がったのだ。
未だに試合が出来るほど人数もいないアメフト部だけど、あの小さな少年によって変わる。
どんどん夢に向かって進んでいける。彼を見ていると何故だかそう思えるのだ。
栗田は自分の荷物からタオルを取り出した。蛭魔が無言で自分のタオルも投げてよこした。
2枚のタオルを掴んで栗田はドスドスと教室を出て、階下に降りて行った。
小さな英雄を労わるためだ。

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蛭魔妖一は紙袋を抱えて教室に戻ってきた。
ずぶ濡れ、泥だらけになった手のかかる後輩は栗田によって全身を拭かれていた。
小さな声で「迷惑かけてすみません」と繰り返している。
まったく後先考えないにも程がある、と悪態をつきながら紙袋を放り投げた。
中に入っていたのは新しい制服だった。
どうしたんですか、これ?サイズ大丈夫ですかね?お金とかは?とかいう後輩。
ケケケと笑い、黒い手帳をちらりと見せて黙らせた。
調達方法や代金について考えることは放棄したようだ。
メンドクセーと言いながら、蛭魔の顔には楽しげな笑みが浮かんでいる。
拭いているタオルがすっかり限界まで水気を吸い込んだようだ。
栗田がタオルを交換してまた後輩をガシガシと拭く。
蛭魔はそのタオルを見て微かに目を見開いた。
タオルには「武蔵工務店」とプリントされていたからだ。
この小さな光速の足を持つ少年によって、デビルバッツはいい方向に向かっている。
蛭魔はあいかわらず「すみません」を繰り返す後輩の声を聞きながら、窓の外に目をやった。
雨足はかすかに弱まってきたようだ。

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あの雨の日に。
後に光速のエースとなる少年を起点にデビルバッツの初代メンバーが繋がったことは誰も知らない。

【終】
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