リモートワーク

高野さん!助けて下さい!
律はスマホに向かって、半ば悲鳴のような叫びを上げた。
後から思えば、情けない事この上ない。
だけどこの時はなりふり構っている余裕はなかったのだ。

ギリシャ語で王冠という意味の名を持つ新型肺炎ウイルス。
それは東京のみならず日本を、そして世界を席巻していた。
本日の東京の新規感染者は〇〇名。
重症者は××名。
それがニュースにならない日はない。

人流を抑えましょう。
マスク会食を心がけましょう。
不要不急の外出はやめましょう。
企業は極力出社を抑えて、リモートを増やしましょう。
特段の事情がない場合は、なるべくワクチンを接種しましょう。

わかってますよ。その注意は正しい。
だけどもう件の新型肺炎が見つかってから、1年以上。
いいかげん自粛を続けるのはつらいよ。
せめていつまで我慢すればいいかわかれば、頑張れるけどさ。

それにワクチンって東京で若い世代はなかなか打てないんだよ?
しかもこちとら月に1回、修羅場を迎えなければならない仕事。
ワクチン打って副反応とやらで寝込むかもしれない。
だから修羅場の時期を避けて、ワクチン接種しなきゃって?
全然予約、取れないし!

律の中にふつふつと不満が溜まって来たある日のこと。
丸川書店全部署に、リモートワークの指令が下った。
社員は極力出社を抑えて、できる限り自宅で作業を。
それを聞いた律は正直「できるのかな?」と思った。

原稿のチェックや事務書類の作成などは、自宅でも問題ない。
打ち合わせも何とか、ネット経由でできるだろう。
問題は入稿作業だ。
所謂修羅場と呼ばれるあの時期、作家から原稿を受け取りチェックする。
間に合わない場合は、編集者だって作画に加わる。
あれをリモートでできるのか、はなはだ不安だ。
おそらく新型肺炎が流行っても1年以上リモートにならなかった理由はそこだ。

とはいえ、危険でもあった。
エメラルド編集部のみならず、ほとんどの人間が公共交通機関を使って通勤している。
コンビニにも行くし、買い物もする。
エメラルド編集部の人間は全員、課業後の外食やら休日の遠出は自粛している。
だけど他部署が全員そうとも限らないし、社内で感染が広がれば下手すれば休刊だ。
そこでようやくリモートワーク導入となったわけだ。

よし!頑張るぞ!
リモートワーク初日、律はまずノートパソコンの電源を入れた。
そしてLANケーブルを繋ぐ。
会社からはもしも可能ならなるべく無線LANではなく有線を使えと言われている。
有線の方が安定していて、ハッキングの危険も少ないらしい。
まぁ公共のものではなく、自宅ならさほど関係ない気もするけどここは従うことにした。

だけど早速躓いた。
パソコンは無事につながったものの、ネットに繋がらないのだ。
どうして?
何度も確認するものの理由はわからず、悪戦苦闘。
何度も設定を確認しているうちに、スマホが鳴った。
隣室で作業をしているであろう高野からだった。

小野寺か?今資料を送ったんだが。
高野は律が出るなり、仕事モードでそう言った。
だが律は「高野さん!助けて下さい!」と、半ば悲鳴のような叫びを上げた。
ネットに繋がらなければ、仕事にならない。

あ?どうした?
ネットに繋がらないんです!
LANケーブル、ちゃんとパソコンに刺さってるか?

高野に冷やかに返された律はムッとした。
そして「そんな初歩的なミスするわけないでしょう」と言いかけて、絶句する。
パソコン側のLANケーブルが、抜けかかっていたのだ。
律は「すみません」と肩を落とした。
LANケーブルをしっかり差し直したら、あっさりネットに繋がったからだ。

お前のことだ。
リモート会議で散らかった部屋が映らないように、パソコンを動かしただろう。

高野に電話越しにまるで見ていたように指摘され、律はもう1度肩を落とした。
大正解だ。
普段の定位置にパソコンを置けば、散らかった部屋が映ってしまう。
だからパソコンの位置を変えたのだ。
おそらくその時にLANケーブルの接続が緩んでしまったのだろう。

資料に目を通したら、折り返しな。
高野はそう言って、電話を切った。
律はその途端「ハァァ」とため息をつく。
初っ端からこれって、どうなんだ?
カッコ悪いにも、程がある。
そして先が思いやられる。

律は両手でパンパンと頬を叩くと、パソコンに向かった。
そして高野から送られた資料を開く。
とりあえず今はやるしかない。
新型肺炎に負けず、本を出すために。
いくらカッコ悪くても、頑張るしかないのだ。
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