Attraction of the pupil

いったい何なんだ。
高野はウンザリとため息をついた。
どうやらかなりやっかいな人物と、関わりを持ってしまったようだ。

シャトー丸川。
高野政宗が住んでいる集合住宅の名前だ。
シャトー。確かフランス語で「城」だったか。
おそらく建てた時には、しゃれたデザインの綺麗なマンションだったのだろう。
だがおそらく築40年、下手をすれば50年を超えた物件だ。
しかも見るからに手入れが行き届いておらず、廃墟感が満載だった。

高野がここで暮らすことになった理由は、単純明快だった。
付き合っていた女性と別れたのだが、その彼女がストーカー化したのだ。
電話やメールなどでの嫌がらせだけでなく、後をつけられたり、家まで押しかけられたりした。
会社を教えていなかったのが、不幸中の幸い。
とりあえず彼女から逃れるために、引っ越した先がシャトー丸川だった。
もうすぐ取り壊しが決まっているので、敷金、礼金不要。
また汚したり、壊したりしても、弁済の必要もない。
不動産屋でそう言われて、飛びつくように引っ越した。
半年以内に出なければならないが、それまでに新しい部屋を捜すつもりだった。

シャトー丸川は、2階建てだった。
各階に3部屋ずつ、合計6部屋。
そして高野以外に1部屋だけ、借主がいた。
その住人は高野と同じ若い男の一人暮らしで、1階の奥、西側の部屋を使っているという。
その他の部屋ならどこでも使っていいと言われたので、高野は一番離れた2階の東側の部屋を選んだ。
短い仮住まいだし、顔を合わせるつもりもない。
だから先住民から一番遠い部屋にしたのだ。

だがこの先住民は、かなり風変わりだった。
まず外出している気配がない。
平日だろうと土日だろうと、朝だろうと深夜だろうと、家にいる。
古いマンションなので、少々離れていても生活音が丸聞こえなのだ。
足音や壁を叩くような音、そして1人暮らしのはずなのに何かを叫ぶ声。
それが頻繁に聞こえてくるのだ。

だが高野は何も言うつもりはなかった。
気に障らないと言えばう嘘になるが、夜眠れないと言うほどでもない。
そもそも短い仮住まいなのだ。
さっさと新しい部屋を見つければいいだけの話だ。

むしろ好奇心が刺激された。
1階の住人は、いったい何者なのか。
常に家にいるということは、在宅で仕事をしているのか。
作家、デイトレーダー、それとも引きこもり。
いろいろと妄想するのは、意外に楽しかった。

高野がここに住み始めて、1ヶ月が経った頃。
日曜日、たまたま家にいた高野は、1階の部屋のドアが開く音を聞いた。
高野は窓際に立ち、出て行く男の姿を見て驚いた。
小柄で細身のその男は、茶色の髪を長くのばしていた。
後ろは肩まで届いており、前髪は目をすっぽり覆い隠していた。
その上、マスクまでしているので、人相はまるでわからない。

ありゃ、相当の面倒くさがりだな。
高野はその男を見下ろしながら、そう思った。
ポリシーで髪をのばしているのではなく、放置しっぱなしなのだろう。
しわくちゃのシャツとも相まって、すごくだらしない印象だ。

彼はものの10分程度で戻ってきた。
両手にコンビニの袋をぶら下げている。
おそらく食べる物を買ったのだろう。
家にこもりがちとはいえ、まったく出ないわけにはいかない。
一人暮らしなら、最低限の食べ物や生活用品は自分で調達しなければならないからだ。

そしてさらに1ヶ月ほど経過したある夜のこと。
会社から戻った高野は、1階の部屋のドアが開いていることに気付いた。
たまたま風が強く、全開になったドアがギシギシと耳障りな音を立てている。
いくら風変わりな男とはいえ、これはちょっとやり過ぎだろう。
高野は思い切って部屋に近づくと「誰かいますか?」と声をかけた。
すると中から苦し気なうめき声が聞こえるが、誰も出てこない。

すみません。入りますよ!
高野はそう叫ぶと、部屋に踏み込んだ。
すると前に見た茶色の長い髪の男が、部屋の真ん中に倒れていたのだった。

おい、大丈夫か?
高野が声をかけると、彼は「多分」と細い声で答えた。
だがつらそうで、全然大丈夫には見えない。
救急車を呼ぶべきか。
迷った高野はここに来てようやく、この部屋の異様さに気付いた。

部屋はとにかく散らかっていた。
ゴミ屋敷とまでは言わないが、服やコンビニ弁当の残骸、書類などが雑多に床にばら撒かれてたような状態だ。
そして元は白かったであろう汚れた壁には、油性のペンで書き殴ったらしい意味の分からない記号で埋まっていた。

いったい何なんだ。
高野はウンザリとため息をついた。
どうやらかなりやっかいな人物と、関わりを持ってしまったようだ。
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