湯けむり温泉の仲居さん

ようこそ、お越しくださいました!
玄関で客を出迎えた仲居姿の千秋は、元気よく頭を下げた。
きっちり着付けた紺色の和服姿で、うっすらとメイクもしており、見た目は完全に女性だ。
だが千秋は正真正銘、れっきとした男だったりする。

とある観光地にある温泉旅館「吉野」。
ここが吉野千秋の実家であり、仕事場だ。
温泉で有名なこの地には、大きなホテルがたくさんある。
だが「吉野」はその中で老舗ではあるが、施設の規模は小さい。
客室数は10しかなく、しかも満室になるのは年に数えるほどだ。
でもその少ない客を、きめ細やかなサービスで暖かくもてなす。
だから一度宿泊した客のリピート率は異様に高い。

千秋が「吉野」の正式な従業員になったのは、高校を卒業したときだ。
だがまだ学生の頃から、学校が終わった後や休みの日には家の手伝いをしていた。
とにかく慢性的な人手不足なのだ。
その中でも特に足りないのが、仲居だった。
ひたすら旅館の中を駆けずり回る仕事なのだ。
料理やら布団やら客の荷物やら、重いものを運ぶことも多い。
そんな重労働のせいか、なかなか人も集まらなかった。

千秋が女装して、仲居を始めたのはそのせいだった。
顔立ちが中性的な童顔なので、いっそ女装してみたらと言い出したのは、妹の千夏だ。
最初は冗談じゃないと思った。
この旅館の女将こと母の頼子が、止めてくれるものと信じてもいた。
でもあろうことか、頼子は「千夏、ナイスアイディア!」とその案に乗っかった。
かくしてかわいい仲居、千秋が誕生したのだった。

最初のうちは大変だった。
割った食器や壊した備品は数知れず、慣れない着物で転んだ回数はさらに多い。
それでも高校を卒業して、早10年。
今では自分で着付けもメイクもできるし、女将仕込みの立ち居振る舞いは完璧だ。

ようこそ、お越しくださいました!
今日も千秋は元気よく仲居の仕事に励んでいた。
この日の客は3組だ。
前日からの連泊で、毎年この時期に泊りに来てくれる熟年夫婦が2組。
そして今出迎えた長身の青年と小柄な青年の若い2人組だった。
おそらく「吉野」を利用するのは初めてだろう。
何しろ2人とも一度会ったら絶対に忘れないだろう美形だったのだから。

お部屋にご案内します。お先に届いていたお荷物はお部屋に運んでありますので。
千秋は頭を下げると、先に立って歩き出そうとする。
だがふと足を止めて「大丈夫ですか?」と小柄な青年に声をかけた。
何だかひどく具合が悪そうに見えたのだ。

若い青年2人を部屋に案内した千秋は、調理場に向かった。
基本的には客が少ないので、調理担当は板長1人だ。
予約が多いときだけ、助っ人の料理人を頼んだり、時には千秋たち仲居も手伝うこともある。
今日は板長だけで、十分にこなせる。
今も1人で包丁を使い、次々と料理を作り上げていた。

楓の間のお客様、風邪気味で熱があるので、お粥にして下さい。
そういう事情だから、もう1人のお客様も簡単なものにしてほしいって。
千秋は板長に業務連絡をする。
すると板長の羽鳥が「わかった」と短く応じた。
千秋は調理台に並べられた作りかけの料理を見ながら「もったいないけど」と付け加える。

嘘つけ。お前、食う気でいるだろ。
羽鳥はお造りを盛り付けながら、淡々とそう言った。
幼なじみで幼稚園から高校まで一緒だった羽鳥には、千秋の心なんかお見通しだ。
千秋は悪びれることもなく「とっといてね」と笑った。

そのとき、調理場の勝手口の扉が開いた。
旅館内ではなく、外につながる扉で、仕入れた食材などはここから搬入する。
そこから顔をのぞかせたのは、これまた高校の同級生。
「吉野」が仕入れに使っている酒屋の1人息子だ。

配達に来た。ビールを2ケースと日本酒と焼酎を1ケースずつ。
今はしっかり酒屋が板についている柳瀬が、羽鳥に伝票を差し出した。
千秋は「ご苦労様です」と頭を下げた。
いくら友人でも、仕事のときはきちんと挨拶。
女将兼母親の厳しい教育の賜物だ。

楓の間の男2人のお客様、多分カップルだと思うんだよな。
千秋はポツリとそう呟いた。
最初は友人同士なのだと思った。
だが千秋が小柄な青年に「大丈夫ですか?」と声をかけた後、長身の青年が露骨に狼狽えたのだ。
心配でたまらないという様子でオロオロしていた。
あれはどう見てもラブラブの恋人同士なのだと思う。

まぁいろいろあるだろうけど、うちに滞在する間は気を使わずに過ごして欲しいな。
千秋がそう続けると、羽鳥が冷やかに「だったら詮索するな」と釘を差した。
すると柳瀬が「別に聞こえないところで言う分にはいいんじゃないの?」と蒸し返した。
羽鳥と柳瀬の視線が一瞬だけからみ、バチッと音を立てたような気がした。

まぁ確かに失礼だよな。俺が悪い!
千秋は慌てて叫んで、会話をぶち切った。
この2人は昔から相性が悪いのか、ケンカ腰の会話になるのだ。
もっと仲良くすればいいのに。
千秋はこっそりため息をつくと「館内を見回ってくる!」と告げて、調理場を出た。

もう1度楓の間に顔を出して、様子を見よう。
医師を往診させようかと申し出たのだが、そこまでは必要ないと言われた。
だけど夜になって熱が上がるようなら、やはり病院まで送るか、医者を呼ぶべきだろう。
他の部屋も見回って、不具合がないか確認だ。あとは。。。

千秋は頭の中でしなければならないことをチェックしながら、笑みは絶やさず廊下を進む。
かわいい仲居さんは、今日も大忙しだ。
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