BARTER

やっぱり今日はツイてない。
吉野はガックリと肩を落とすと、諦めて座り心地のいいシートに身を沈めた。

吉野千秋の本日のスタートは、最悪だった。
朝に独り暮らしのアパートのドアをガンガンと叩かれて、起こされたのだ。
眠い目をこすりながらドアを開けてみれば、そこにいたのは大家さんの老婦人。
そして用向きは、数か月貯まった家賃を払うこと。
1週間以内にそれが果たされないのであれば、早急に立ち退くことだった。

実はこんなことは初めてではない。
吉野はいわゆるフリーター、つまり定職を持たない身だった。
派遣会社に登録はしている。
だが、小柄で細身な上に体力もないので、肉体労働には向かないのだ。
結局単純労働ばかりなので、回って来る仕事は多くないし、賃金も安い。

どうしても金に困ると、吉野は別の派遣会社に連絡をする。
こちらの仕事は、楽な割りに賃金が高い。
その代わり、ひどく怪しいのだ。
ちなみに前回は、他人の預金通帳を使って携帯電話の契約をするというものだった。
顔写真は張られていないのだから、本人の振りをしていればバレない。
そう説明されたが、何だかひどく悪いことをしている気がする。

今回もまた怪しい仕事だった。
行けと言われたのは、一流ホテルの一室だった。
その部屋では見知らぬ男が待っており、スポーツバックと新幹線の往復チケットを渡された。
今からこれを持って新幹線に乗り、新大阪でスポーツバックをコインロッカーに入れる。
その後すぐに引き返して、帰りの新幹線で隣に座る男に、ロッカーの鍵を渡すというものだった。
チケットは指定席で、すでに座席番号が書かれている。

直接その男にバックを渡せばいいのに、ひどくまどろっこしい方法を取る。
何度その理由を想像しても、少しもいい答えを思いつけなかった。
絶対にバックの中身を見るなと言われれば、なおさらだ。
これだけのことで、報酬は50万円。
家賃を払うためだと、吉野は深く考えることを放棄した。

それに思わぬ幸運もあった。
バックとチケットを受け取り、ホテルの部屋を出たとき、2つ隣の部屋の客も出るところだった。
ちょうどそこに居合わせた客室清掃員に「これ捨てておいて」と紙袋を渡している。
客室清掃員は「かしこまりました」とそれを受け取ると、清掃用具を積んだワゴンにそれを乗せた。
吉野はそのワゴンとすれ違いざまに、その紙袋をスリ取ったのだ。
紙袋は高級ブランドのものだし、何か金目のものでもないかと思ったのだ。
どうせ捨てるものならば、窃盗にもならないだろう。

ホテルのトイレに駆け込み、紙袋を開けた吉野は思わず「ラッキー!」と声を上げた。
中身は高級そうな鳶色のスーツと白いワイシャツ、渋い柄のネクタイ、それに革靴だった。
その紙袋のブランドのものだろうか?
その上、これまた高級そうな皮のトートバックもある。
おそらく吉野が普段着ている服とは、値段が2桁違う。

吉野は自分の年季の入ったヨレヨレのセーターとスラックスを見下ろした。
これから新幹線に乗るにしては、かなりみすぼらしい格好だ。
これはきっと天の助けに違いない!
吉野は素早く自分の服を脱いで、鳶色のスーツに着替えた。
どうやらこのスーツの持ち主は、吉野とかなり近い体型だったようだ。
誂えたようにピッタリと身体に馴染む、綺麗なスーツ。
やった、実は今日はツイているのかもしれない!

ほとんど底が抜けかけているスニーカーは、紙袋に入れる。
自分の脱いだ服は、少し考えたがトートバックに押し込んで、トイレを出た。
廊下に先程のワゴンがいたので、スニーカー入りの紙袋を戻す。
そしてトートバックとスポーツバックを抱えて、ホテルを出た。

まずは東京駅に向かわなくてはいけない。
吉野は地下鉄の駅に向かって、足を踏み出した。
だが数歩歩いたところで、耳障りな急ブレーキの音が響いた。
吉野の真横に黒塗りの高級車が横付けされたのだ。
バタバタと乱暴にドアが開き、黒いスーツの2人の男が飛び出して来る。
2人とも美形だが眼光が鋭く、どうも普通の勤め人の雰囲気ではない。

律さん、申し訳ありませんが、一緒に来てもらいます。
2人のうち、年長に見える男がそう言って頭を下げた。
吉野は慌てて「人違いです!」と首を振る。
何だかわからないが、どうやら「りつ」という人物と間違えられている。
2人の男は口調こそ丁寧だが、かなり強引だった。
必死に人違いだと訴えるが、聞く耳を持たないようだ。
両側から腕を掴まれ、かなり強引に後部座席に押し込まれ、すぐに車は走り出してしまう。

せっかく新しいスーツをゲットできたのに、拉致されるなんて。
見知らぬ男2人に両側を固められ、吉野はため息をつく。
だが次の瞬間、ある可能性に気付いた。
彼らが用事があるのは、このスーツの元々の持ち主なのではないか。
いやそれより切実な問題がある。
このままじゃ引き受けたバイトもすっぽかすことになり、金も貰えない。

やっぱり今日はツイてない。
吉野はガックリと肩を落とすと、諦めて座り心地のいいシートに身を沈めた。
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