柳瀬君のヒトリゴト

面白くない。
本来なら喜ぶべきこの状況が、まったく面白くない。
俺はイライラをまぎらわせるように、ひたすら目の前の原稿に集中した。

俺は漫画家のアシスタントを生業にしている。
メインの仕事は友人である人気少女漫画家、吉川千春こと吉野千秋の作画補助。
今も締切間近の千秋の原稿を必死に仕上げている最中、いわゆる修羅場だ。
千秋本人はゾンビみたいにやつれてるし、アシの女の子たちもメイクが剥げて目が血走っている。
かく言う俺もきっとひどい状態だろう。

でもそれでも、いつもの修羅場よりは随分マシだ。
千秋はデット入稿常習者、毎回ギリギリのギリギリ、本当に危ないところの綱渡りを繰り返している。
だが今回は、普通の締切破り程度だ。
理由は簡単。千秋がいつになく張り切っているから。
千秋は入稿を終えたらすぐ2泊3日の取材旅行に出る予定なのだ。
担当編集である羽鳥芳雪も仕事として同行する。
羽鳥には他にも仕事もあるから、入稿が遅れると日程が短くなるか中止になる。
だから千秋は必死にペンを動かしているわけだ。

気に入らないのは、千秋の表情だ。
いつもより必死になっているのに、どこか口元が笑ってる。
心の何割かはもう旅行に飛んでるみたいだ。
それなのにいつもよりも早く手が動くのは、早く羽鳥と出かけたいため。
面白くない。本当に面白くなかった。
せっかくいつもより余裕があるペースで進んでいるというのに。
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