懐かしいキス

「もしかして律っちゃん、妊娠した?」
隣の席に座る先輩が、密やかに律の耳に口を寄せてそう言った。
律は思わず口に含んだばかりのコーヒーを吐き出しそうになった。

「木佐さん!俺、男ですよ!」
むせて咳き込んでしまった律は、荒い呼吸をしながら抗議する。
でも木佐は「そうだよね~」と言いながら、今は席を外している編集長の机を見た。
フロアは全面禁煙なのに置かれている灰皿には、ガムの包み紙が大量に丸めて捨てられている。

『だから重版、5000だって言ってるだろ?』
律のため息に、廊下から聞こえる怒鳴り声が重なった。
それは間違いなく今話題に上っている鬼編集長の声だ。
相手をしているのはこちらも御存知、営業の暴れグマの声。
切れ切れに『だから!』とか『お前、馬鹿か?』などと聞こえる。
つまり我らが編集長様は、暴れグマよりもはるかに大音量で怒鳴り散らしているのだ。

「小野寺、何があったかは聞かん。だけど何とかしろ。」
この職場では一番常識人と思われている羽鳥がポツリと呟くと、律はまたため息をつくしかない。
確かに編集長-高野は荒れている。

ちなみにその直接的な理由は、タバコだ。
高野は現在禁煙をしており、そのせいでイライラしているのだろう。
元々好戦的な物言いをする人間ではあるが、輪をかけて当たりがきつい。
仕事で特に問題は発生していないが、周りの人間は正直言って疲れる。
律本人はタバコを吸わないので、まさかここまで禁煙がつらいものとは思わなかった。

そこまでして禁煙を貫く高野に、木佐は「律妊娠説」を繰り出すし、羽鳥も「何とかしろ」と言う。
高野と律は今やすっかり「公認カップル」となっており、エメ編の面々はそのネタで律をいじる。
職場ではきちんと仕事と恋愛を切り分けたいが、今回は仕方がない。
この騒動の原因は、間違いなく律にあるのだから。
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