千秋と律と暴れグマ

吉野千秋は、慣れない作業に悪戦苦闘していた。
材料をグラム単位で計るとか、バターを溶かすとか、薄力粉を振るうなどの細かい作業。
かと思えば卵を泡立てるとか、ゴムべらでひたすら混ぜるなど、力と根気が必要な作業もある。
今まで何の気なしに口にしていたケーキ。
こんなにも手間がかかるものだとは思わなかった。

ここは丸川書店近くのスイーツショップ。
美味しくて、かわいくて、値段も手頃。
若い女性に限らず、老若男女に人気が高い店だ。
吉野は今、その店の厨房で働いている。
期限は3日間だけ、忙しくない時間帯という条件だ。
もちろんアルバイトでもないし、給料も貰わない。

吉野は次回作の取材のために、ここにいた。
次の連載の主人公はパティシエを目指す女の子なのだ。
そのために実際の作業を経験したくて、羽鳥に相談した。
すると羽鳥は、この店への「体験入店」を手配してくれたのだ。
エメラルド編集部の後輩、小野寺律の知り合いの店らしい。

厨房の小窓からは店内が見える。
喫茶スペースでケーキと飲み物を楽しむ客、または土産用に持ち帰るケーキを選ぶ客。
こうやって客の反応を見られるのはいいと吉野は思う。
美味そうに食べる客や、楽しそうに選ぶ客を見れば、作業の励みになる。
自分の作品のヒロインの店も、こういう感じにしよう。
そんなことを思いながら、再び土産を選ぶ客に目を向けた吉野は「あ!」と声を上げた。

熊のようにゴツい風貌に見覚えがあったのだ。
彼とは丸川書店の新年会で挨拶をしている。
確か丸川のコミックス担当の営業だ。
買った品物は、抹茶ババロア3個。

あの人が抹茶ババロア?どう見てもスイーツ好きには見えないんだけど。
吉野は怪訝に思いながら、ゴムべらを動かし続けた。
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